黒縄地獄 10
赤い空の下、乾燥した砂塵が風に絡んで視界を奪う。等活地獄のように喧騒や悲鳴が聞こえてくることは無いが、代わりに何とも言葉にならない死臭が風に乗って運ばれてくる。そんな黒縄地獄で、朝を迎えた愛と九十九。迎賓館から外へ出た二人は早速、それぞれ手分けをして北と南へ向かうことにした。
「今日中に見つけるつもりだけど……もし見つからなかったら、夜までに一度この館に戻ってこよう」
迎賓館の入口前、打ち合わせをする九十九だが、やはりその表情はどこか焦りがあるように見える。
「ええ……わかりました」
それに対して黄昏愛、ある意味当然というべきか、ここまできても相変わらず気乗りしていない様子で。やれやれといった風に頷き、その足を北へ向かわせていた。着替えた黒いセーラー服が風に靡く後ろ姿を、九十九はぎりぎりまで見届ける。
「…………っ」
ちり。自分に『仲間』の大切さを教えてくれた、最初の親友。幻葬王などと呼ばれるようになるより前からずっと一緒だった、最初の仲間。今の九十九は王を辞めた身ではあるけれど、『仲間を守る』という最初に教えられた在り方は、この二百年、もはや立場など関係なく身に染み付いてしまっていて。
とどのつまり、『仲間が傷付く』という現象に耐えられない。そういう風に、芥川九十九は出来ている――
「ちり……!」
そして九十九は、南へ。愛とは比べ物にならないほどの駆け足で、館を後にするのだった。
◆
黒縄地獄、暗黒街、南西。
活気こそ無いものの、夜に比べればまだ幾らかヒトの気配はある。不喫茶らしの荒屋の前では、粉塵にせき込みながら地べたに這いつくばっている有象無象の姿があちこちに転がっていた。
そして此処は、工場地帯とでも言うのだろうか。街から見える遥か遠方に黒い煙をもくもくと吐き出す長い煙突が錆色の空の下、そのシルエットが霧の中からぼんやりと浮かび上がっている。
そんな街中を、芥川九十九は独り征く。彼女にとっても黒縄の町並みは新鮮だったが、黒縄の住人達にとっても芥川九十九のような少女がひとりで出歩く様子などは珍しいのだろう。痩せ細り薄汚れた男達が路地裏から遠巻きにじいっと九十九のことを不躾に見つめていた。
「あ、すまない。そこのひと」
しかしそこはやはり、浮世離れした彼女。その視線に気付くや否や、警戒心などまるで持たず一直線に向かっていき、躊躇うことなく声を掛けていた。
「……えっ。お、俺か……?」
まさか、こんな見窄らしい風体の自分達に、何の躊躇いも無い様子で声を掛けてくるとは思わなかったのか。突然駆け寄ってきた九十九――その悪魔的なまでの美貌を前にして、男は目を丸くしていた。
「ちり……赤い髪の少女を、見かけなかっただろうか?」
「……し、知らねえよ……」
真っ直ぐに見据えて放たれたその問い、男達は居心地の悪そうな表情を浮かべ後退る。黒縄地獄に居るということは、あの等活地獄を抜けてきたということでもある。それがどれほど難しいことか、この男達も正しく身を以て思い知っている。だから、それがたとえ可憐の少女の姿をしていようと。怪異を見た目で判断するような愚行を今更犯すほど、彼等も馬鹿ではない。
男達は突然現れたこの少女に対して、当然のように警戒していた。それを現すように、彼等の眼光は既に殺意が滲み始めている――
「そうか……急にすまなかった」
しかしそんな男達に頭を下げ、爽やかに踵を返す芥川九十九。無防備にも見える、その堂々たる後ろ姿に男達は思わず唖然として、やはりそれ以上、何も出来ないでいた。
永く地獄に棲めば、嫌でも身に沁みて解ってくることがある。それも色々あるが、ひとつ挙げるとすれば、自分と相手との力量差。達人は戦わずして勝つと言うが、芥川九十九、等活地獄の幻葬王と呼ばれた彼女を前にすれば、彼女の素性を知らぬ者達でさえ本能的に危険を察知出来てしまう。
ただ美しいというだけではない、強者の品格、カリスマとも言い換えられる圧倒的なそれが、芥川九十九にはあった。ある意味それこそが、芥川九十九が孤高であり孤独であった原因とも言える。それも仕方はない、常人であれば一目で身が竦み、関わろうとすら思わないだろう――
「谿コ螳ウ蜃瑚セア蠑キ蟋ヲ貅コ豁サ蝨ァ貎ー陌先ョコ」
――無論それが、常人であれば、の話だが。
◆
暗黒街の最南西、工場地帯へ近付く程に、周囲の光景は荒んでいく一方だった。もはや建築物すら無く、道ですらない剥き出しの黒い大地に転がるのは、幾つもの――死体。死体、死体、死体。
否、死体そのものは等活地獄でも見慣れた光景だが。しかし黒縄の大地に転がるそれらには、また別の異質さを芥川九十九は感じていた。
原則として、怪異は死なない。そんな怪異にとっての「死」の定義とは、やはり肉体的なものではなく、精神的なものだと言えるだろう。むしろ死ぬことが出来ない絶望によって、怪異は精神を病み、廃人となっていくのだ。苦痛に藻掻き苦しんだ末に廃人と化していった者達を、九十九はこれまで数え切れぬほど見送ってきた。
黒縄地獄でもそれは変わらない。階層が違っても原則は同じ。肉体的にも精神的にも、死は苦痛でしかない――
「谿コ螳ウ蜃瑚セア蠑キ蟋ヲ貅コ豁サ蝨ァ貎ー陌先ョコ」
――そのはずなのに。
狂気を肌で感じるような、身の毛もよだつ嗤い声が、荒野に響き渡る。その音が聞こえてきて、咄嗟に身構えた九十九に対し容赦無く、それは正面から飛び掛かってきた。
それは――体毛が全て抜け落ち、両目は潰れ、歯も舌も何も残っていない黒い空洞のような口を大きく開けて、満面の笑みを浮かべている。一糸まとわぬ姿で飛び掛かってきた蒼白い肌のそれは辛うじて、ヒトのカタチをしていたのだ。
考えるよりも疾く、九十九は飛び掛かってきたそれの顔に合わせ、上段蹴りを見舞う。悪魔の怪脚は横一閃、それを薙ぎ払うように放たれた。脚に肉の感触が伝わってくる。
手応えはあった――だがしかし。
「谿コ螳ウ蜃瑚セア蠑キ蟋ヲ貅コ豁サ蝨ァ貎ー陌先ョコ」
それは、嗤う。嗤い続けている。
骨の軋む音を全身から鳴らして、起き上がる。起き上がってなお、それは獣のような四つん這いで、嗤うのだ。潰れて空洞になっている両目から、まるで笑い泣きのように黒い液体をぼとりぼとり、大地に落として。蹴られた衝撃で首があらぬ方向に曲がっているのにも拘わらず。それはやはり、嗤っていた。
九十九は追撃をしない。否、出来ない。足が前に出ない。誰が相手だろうと拳を振るってきた芥川九十九が、目の前の得体のしれないそれに対して、近付くことを躊躇していた。忌避、と言ってもいい。未知は恐怖の根源である。それはあらゆる生物の本能に刻まれていて、それは芥川九十九も例外ではなかった。
ただ、いつ襲われてもいいように、カウンターを取る姿勢だけは崩さずに。九十九はそれから一定の距離を保とうとしていた。
「谿コ螳ウ蜃瑚セア蠑キ蟋ヲ貅コ豁サ蝨ァ貎ー陌先ョコ」
それが四つん這いのまま、再び動き出す――
「縺溘☆縺代※……――」
――しかし。九十九の握り締めるその拳が、それ以上振るわれることはなかった。
「豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ」
突如として、それはその場でのたうち回るように身体を跳ね上げさせる。壊れたラジオのように甲高い音を口から際限なく発しながら、それは両手両指を、自分の身体を抱き締めるように背中へ回して――ぶちり、ぶちり、と。
「豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ豁サ」
自分で自分の背中を、こじ開けるように。それは自身の皮膚を、肉を、引き裂き始めたのだ。
その間にも、それは嗤い続けていた。嗤って、嗤って、嗤って。剥き出しになった身体の内側から溢れる黒い体液を黒縄の大地が呑み干していく。ぶちり、ぶちり、ぶちり。肉が裂けていって、それの身体は見る見るうちに小さく、小さく。それの上半身と下半身が少しずつ千切れていく光景を、九十九はただじっと見つめることしか出来ずにいた。
「豁サ」
そうして、開いた背中から脊髄が露わとなった頃。それは不意に間抜けな音を口から漏らして、その次の瞬間、それの身体はもうぴくりとも動かなくなっていた。
ようやく訪れた静寂。九十九の身体はようやく思い出したかのように呼吸を再開する。恐る恐る、彼女はその足先を前へと運ぶ。動かなくなったそれの傍まで近付いて――それの死に顔がはっきりと見えた時、彼女は重く溜息を吐いた。
「……またか」
それの死に顔は、笑顔だった。そしてこの笑顔を、工場地帯に入ってからというものの、九十九は何度も遭遇してきているのだ。先程の襲撃も初めてではない。襲撃者は揃いも揃って笑顔。道に転がるその他の死体も、全て笑顔。此処には笑顔の死体が溢れている。
「なんなんだ、これは……」
あの九十九が思わず愚痴をこぼしてしまう程、九十九が今居るこの場所は特筆して異常であった。
もちろん等活地獄にも、いわゆる狂人と呼ばれる類の怪異は山程いる。しかし等活で見てきたそれらと、この異質さはやはり比べ物にならなかった。
死は苦痛のはず。そのはずなのに、まるで――幸せそうな笑顔で息絶えている死体の数々に、九十九は理解に苦しんでいた。
足元に転がるそれから目を逸らすように、九十九は勢いよく顔を上げる。そして足早に、彼女はその場から立ち去った。
前へ進むごと、周囲に漂う煙は深さを増していく。遠くにあった工場と思しき建造物は、もうすぐ其処まで見え始めていた。




