黒縄地獄 8
鉈のような、鎌のような、大振りの刃物が一ノ瀬ちりの頭上目掛け振り下ろされる。
「ッ……――!?」
それを間一髪、ちりは天性の直感と身体能力で以て紙一重に躱し、身体を捻りながら後退して体勢を立て直していた。彼女が咄嗟に状況を把握しようと顔を上げた時、その視界に飛び込んできた光景は――あの印象的な修道服。
ちりに向かって刃物を振るう、漆黒の修道服を纏ったその女は――顔の下半分を黒いマスクで覆い、金色の長い髪を靡かせて、爬虫類を彷彿とさせるキレ目の三白眼で、ちりを正面から捉えていた。
修道女然としたその女は、攻撃を躱された次の瞬間、身体を突如ゴム毬のように上空へと跳ね上げさせる。建物の壁伝いに三角跳びし、再びちりの背後に回る女。その右手に持つ大振りの刃物で以て、再び後ろから襲い掛かっていた。
「ふ――ッ!」
しかし、伊達に二百年。等活地獄の最前線で戦い続けてきた一ノ瀬ちりではない。奇襲を受けたにも拘わらず、退いたのは初撃のみ。そこから先は異様な切り替えの速さで、ちりは瞬時に戦闘態勢へと移行する。
まるで獣の如き靭やかさで身体を捻り、一瞬で後ろを振り返る。それと同時に彼女の脚は真っ直ぐに駆け出していた。
「ッ……!?」
後退するとばかり思っていたのか、修道女は逆に此方へ突っ込んできた一ノ瀬ちりの判断、そしてその瞬発力に思わず目を見張る。
間合いが一気に詰まった。大鉈を振るうには近すぎるほど接近してきたちりに対し、修道女は咄嗟、その懐から隠し持っていた小振りのナイフを取り出す。
そのナイフを女は躊躇なく、ちりの胸元へ目掛けて飛び込ませる――がしかし、ちりは向かってくるその刃を素手のまま掴み、受け止めてみせたのだった。
「おらァッ!!」
そして放たれる、ちりの渾身の左ストレート。それは見事、女の顔面に直撃し、その勢いのまま殴り飛ばしていた。
「ぐ……ッ!」
反撃をまともに喰らった修道女の身体が中空を舞う。並の怪異であれば今ので完全に沈んでいただろう。しかしその修道女は器用に受け身を取りながら地面に着地して、すぐさま体勢を立て直し、再びその鋭い眼光をちりへと向けたのだった。
その時――ちりに殴られた衝撃で、女のマスクが顔面から引き剥がされる。
「なッ……!?」
そうして顕となった女の素顔に、ちりは愕然としていた。
女の顔は、その口の端が耳元にまで裂けていた。しかもその傷口を、ホッチキスの芯で無理やり留めているようだった。そんなあまりにも無残な傷痕が、その女の顔には深く刻まれている。
しかし、ちりが驚いたのはそこではなく――その顔に、ちりはかつて見覚えがあったのである。
「オマエ……美咲、か……!?」
ミサキ。ちりにそう呼ばれた女に、反応は無い。両手に持っていた刃物を捨て、修道服の懐から、明らかに懐に収まるサイズではない大鎌を取り出して――美咲と呼ばれた修道女は無言のまま、再び身構えるのだった。
「美咲……オマエ、やっぱり此処に居たのか――!」
ちりの言葉を無視して、美咲はその大鎌を振りかぶり真正面から飛び掛かる。そのまま距離を詰め大鎌を振り下ろしてくるものだとばかり考え、その場で身構えていたちりだったが――その予想に反し、美咲はそれを手離すように前方へ目掛けて放り投げたのだ。
「く……ッ!?」
明らかに動揺していたちり、一瞬反応に遅れるも直ぐさま右へ飛び退く。しかし次いで日本刀を振りかぶっていた美咲の攻撃を、とうとう避け切ることは出来なかった。
「いい加減に……しろッ!」
避けることは叶わない――なので、ちりは抜爪する。
赤いクレヨンという怪異。その能力の一部として、一ノ瀬ちりは長く鋭利な爪を瞬時に伸ばす事が出来る。見た目以上に頑丈なそれは、日本刀の一撃を正面から受け止め、そのまま鍔迫り合いを始めるのだった。
「美咲、オマエ……! なんだってこんな……ッ!」
突き出された刀身をちりは右肘と右膝で器用に受け止め、左の手刀でもって叩き折る。ちりの呼びかけに美咲は反応を示すことなく、折れた刀を躊躇いなく捨て、次に懐から取り出したるは三本のクナイだった。
投擲されたクナイ、それらを難なく弾き落とすちりだったが――しかし直後、更に立て続け繰り出されたのは、長槍による一突き。明らかに懐に隠せるサイズの代物ではないそれを、美咲は懐から間髪入れず取り出したのである。
「くッそ……!」
これにはさしもの一ノ瀬ちり、後退せざるを得なかった。明らかに異常な暗器の量、それらがこの美咲という女の、怪異としての能力であることは、誰の目にも容易に見て取れる。近接戦闘において、凶器を自在に取り出せるという異能は単純に強力だ。全ての近接攻撃が高い致死性を有し、迂闊に攻め入ることもままならない。
「ッ、ぐ、あ……!?」
加えて、今の一ノ瀬ちりは冷静さを欠いていた。本来であれば避けられて然るべきだった、槍による単純な刺突でさえ、相手が知人だったというだけで一ノ瀬ちりの天性の勘も鈍り――こうして、脇腹に刃を突き立てられてしまうに至っていた。
激痛に堪え切れず膝が地に付く。肋骨の防壁が臓器への大きな損傷を防いでくれたが、浅い傷ではない。容赦なく引き抜かれた槍刃、その傷口から血が溢れ、服の上から滲み出す――
「ちり」
無言を貫いていたはずのその女が不意に、はっきりとその名を呼ぶ。その無表情に変化が訪れたのは、その時だった。
「……ンだよ。喋れんじゃねーか……」
ちりは皮肉をたっぷり込めて鼻で笑ってみせるが、それに対してはまるで反応を示さず、美咲は右手に携える長槍をちりの喉元へと突きつける。
「私は、強い」
そして、たった一言、それだけを呟いて。
「……あ?」
ちりがその言葉の真意を汲み取れぬまま――戦闘は唐突に、次の展開へと移行する。
『――――――――きぃ、きぃ』
彼女達の間を割るようにして、不意に遠くから聞こえてきたそれは――ただひたすらに不快な、金属音。
「ンもォ~~~~ッ! シスター・アガタ! 単独先行はおよしなさいとあれほど申し上げましたのにッ!」
そして、耳をつんざくような金切り声が聞こえてきて――現れたその声の主は、やはり修道服を身に纏っていた。
「ですがお手柄ですわァ~ッ! 早速一匹捕まえましたのね! 流石はシスター・アガタ! わたくしが見込んだだけのことはありますわァ~~ッ!」
「……相変わらず、騒々しいやつ……」
舌打ちする美咲――彼女をシスター・アガタと呼ぶその修道女が、赤い月明かりの下に照らされてその全貌を明らかにすると同時、それを目の当たりにしたちりは目を見開く。
騒々しい来訪者、その少女は車椅子に乗っていた。軋むような奇妙な異音の正体は、車椅子のホイールから鳴っていた。それを駆る少女の両足は修道服の長いスカートで隠されてはいるものの、あるはずの膨らみが無く、ちりの目には根本から無いように映っていた。
事実、彼女は両足の無いシスターだった。この場にはあまりにも不釣り合いな風貌のその少女は、ドリルのように捻れた栗色のツインテールをウィンプルから外に覗かせて、満面の笑みで美咲もといシスター・アガタを讃えている。それからようやく地に伏せた一ノ瀬ちりに向かって、少女は長い睫毛を蓄えた大きな瞳を移していた。
「ごきげんよう! 我々は『拷问教會』――そしてわたくしは、その幹部の第十一席、シスター・エウラリアと申しますわ!」
『拷问教會』――聞き慣れないその単語と共に、自らをその幹部と称した少女、シスター・エウラリアは、そうして高らかに笑ってみせるのだった。
「それで、ええと? あなたが報告にあった、幻……げん……ゲン……?」
「……幻葬王……」
「そうッ! 幻葬王のお連れ様ですわね! 我等が偉大なる開闢王さまが、幻葬王の身柄をご所望でございます! つきましてはあなたに人質となって頂きたく、こうして馳せ参じた次第でございますわァ~~ッ!」
「(クソッ、増援か……しかも狙いは……やっぱり九十九……!)」
この状況で、更なる敵の出現。しかもその狙いが明らかになったことで、ちりは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「それにしてもこの黒縄地獄で不用心にも単独行動をなさるだなんて、シスター・アガタもシスター・アガタですが、あなたもあなたですわね。予定としてはあと一日ほど泳がせておいて、寝込みを襲う計画でしたのに。まあこちらとしては手間も時間も省けて大いに助かりましたけど!」
やはり、どこか甘く見ていたのだろう。どんな状況でも自分なら切り抜けられる、あの等活地獄を生き抜いてきたのだから――そんな慢心があったのは、もはや否定出来ない。
どんな状況に陥ろうと、芥川九十九さえいればきっとなんとかなる。そんな期待、甘えが、ちりの心のなかに巣食っていたのだ――
「(バカが……! 九十九に甘えてばっかかよ、オレは……!)」
エウラリアの乱入によって生じた敵の僅かな気の緩み――美咲が槍の先端を僅かばかり下げた隙を突いて、ちりは咄嗟に後ろへ飛び退き距離を取る。灼熱のように燃える紅い瞳が、美咲とエウラリア、そして周囲全体を捉え――ちりはすぐさま、退路を確認した。
そう、ここは退くべきだ。今この場において一ノ瀬ちりの敗北とは、敵に捕まることだ。捕まって、芥川九十九の足手まといになることだ。もし一ノ瀬ちりの身体がただの人間のそれであったのなら、彼女は迷わず今この場で自害を選んでいたことだろう。しかし怪異の身体に死は許されない。手負いで勝てる相手でもない。ならば逃げるしかない。全ては芥川九十九の為に。
次の瞬間、ちりはその身を翻し、目星を付けていた路地裏へ迷わず駆け出した。ちりはその昔、黒縄地獄に訪れた経験がある。かつての記憶を頼りに、パルクールさながら飛び越え潜り抜け、道なき道を突き進み、黒ずくめの追手達をみるみるうちに突き放していく。
黄昏愛や芥川九十九にはスペックで劣るとはいえ、一ノ瀬ちりもまた並の怪異ではない。二百年に渡ってあの等活地獄を生き抜いてきた猛者の一人であることに間違いは無い。それが階層を一つ跨いだ途端にまるで通用しなくなるほど、一ノ瀬ちりは弱くない。
そう、だからこの場合。
「オ~~~~~~~~ッホッホッホッホッホッホッホッ!! 逃しませんわァ~~~~~~ッ!!」
ただただ、相手が悪すぎた。
後方を確認したちりの眼前に飛び込んできたのは、シスター・エウラリア、そう名乗っていた華奢な少女が――車椅子を爆速で漕ぎ建築物に真正面から突っ込んで壁を破壊しながらそれでも構わず突き進んでくる、そんな異常な光景だったのだ。
「はッ……マジ、かよ……――!?」
もはや車椅子ならぬ車そのものと化したシスター・エウラリア、そのまま一ノ瀬ちり目掛け突進する。避けきれぬと悟ったちり、咄嗟に両腕を前に出し防御の体制を取るがほとんど意味をなさず、エウラリアの体当たりを受けた身体は宙を舞い遥か前方、行き止まりの壁まで一直線に吹っ飛んだ。
車輪から断末魔のような甲高いブレーキ音が鳴り響く。美咲もといシスター・アガタが遅れてやってきた頃には崩れた瓦礫の山の中で伸びている一ノ瀬ちりを見下ろすシスター・エウラリアの姿がそこにはあった。
「ふう! はい、いっちょあがりですわ。それではシスター・アガタ、人質の回収、よろしくお願いいたしますわね」
「……ああ……」
薄れゆく意識の中、ちりは自身を見下ろす影――阿片美咲を見た。怪異の身体は年月を経ても変化することはない。美咲もまた、一ノ瀬ちりが覚えているあの頃のまま。何一つ変わってなどいない。美咲は光を失った墨色の瞳で、一ノ瀬ちりを見下ろす。修道服から黒みがかった金髪覗かせて、耳まで裂けた口は黒いマスクで覆い隠して。どこも変わってはいない、そのはずなのに。
屑籠の一員として共に戦ったかつての面影は――どこにもない。




