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怪物少女の無双奇譚《フォークロア》  作者: あかなす
第二章 黒縄地獄篇
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黒縄地獄 7

「ちり?」


「外ッ! 走ってくるッ!」


「お風呂はどうするんですか」


「先に入ってろッ!」


 などという一幕があり、突然部屋から飛び出していった一ノ瀬ちり。斯くして部屋に残された愛と九十九。二人は結局、一緒に風呂に入ることにしたのだった。

 浴槽の造りは現世のそれと大きく差異は無い。その仕組みも変わりなく、二つある内の片方、左側の蛇口のハンドルを捻ると冷水が流れてくる。それもしばらく経つと、次第に温かい湯になっていく。


「先に身体を洗ってから湯船に浸かりましょう」


「うん」


 浴槽に湯を張っている間、九十九は愛に促された通りに服を脱ぎ、一緒に風呂場へ足を踏み入れたのだった。


「流石にシャンプーやリンスの類いは無いようですね……」


 などと不満そうにぼやきながら、風呂場に両膝を付き、蛇口から流れる湯を桶で掬って自分の身体にかける愛。その一連の所作を隣で観察し真似をする九十九。

 土や返り血の汚れを粗方洗い終えた後、湯が半分程度溜まった浴槽に、愛がその足を差し入れた。足の爪先で水の表面をちょんちょん、と突いて温度を確かめてみせる。

 そうしてゆっくりと、足を湯船に沈めていって――冷え切った身体にじんわりと、心地よい熱が伝わっていく。その脱力感に身を委ねるようにして、愛は浴槽の中へと収まっていった。


「ふう……」


 地獄に堕ちてから初めて、生前以来の入浴。朱に染まった愛の頬は微かに綻び、艷やかな表情を作っている。そして九十九もまた、おっかなびっくりといった風に、愛の真似をして足を湯船に差し込む。


「おぉ……」


 思わず感嘆の息を漏らしていた。想像以上の悦楽に強張っていた身体が解されていく。あっという間にその身体を湯船に沈め、愛と向かい合う形で九十九もまた浴槽に収まったのだった。

 等活地獄に居た頃、川で簡単に身体の汚れを洗うことはあった。しかし当然、川の水は冷たい。このように湯を沸かして、ましてや浴槽に溜めてそこに入るという行為を、九十九はこれまで一度もしたことがない。


「すごいな……これは……」


 本人は感動に打ち震えているのだが、その乏しい表情からは言葉以上の感情を読み取れない。そんな九十九の様子をやれやれと、半ば呆れたように眺める愛なのであった。

 しかし考えてみれば、この湯はどうやって沸かしているのだろう。灯りとしてランタンの火を用いているのを見る限り、炎熱系の異能を持つ怪異がいるのだろうか――詰め込むように入った浴槽の中、黄昏愛は漠然とそんなことを考える。


 本来この広さの浴槽であれば、一般的な女性の体格であれば二人から三人ほどの余裕はある。しかし黄昏愛と芥川九十九、一般的な女性と比べてその身長は両者平均を大きく上回っており、結果としてお互いのすらりと長く伸びた足を半ば絡ませ合うようにしてお互いの領域に侵入し合い、ようやく収まっているような状態であった。

 もしここに一ノ瀬ちりが加わっていたならば、きっと狭いどころの話ではなかった。いずれにせよ順番に入るしかなかっただろう。彼女には申し訳ないが、ちりが外に出たことは結果として正解だったのかもしれない。


「…………」


「…………」


 特に会話も無く、向き合うふたり。一度は殺し合った仲、奇妙な縁で旅を同行することになった両者。これはこれでまた、奇妙な状況。まさか地獄に落ちてまで、誰かとこうして湯船に浸かることがあろうとは、黄昏愛は夢にも思っていなかった。

 彼女の思考の大半を占有しているのは今もなお行方不明である『あの人』のことばかりで、その他のことなど眼中に無い。無いのだが、しかし。

 黄昏愛、彼女は彼女で十七年間、現世で不自由なく生きていける程度には常識というものを備えている。そんな彼女のなけなしの常識が、今のこの状況を奇妙だと捉えていた。

 思えば自分が『あの人』以外とこのように長い時間一緒に居ることなど、生前はついぞ無かったのだ。黄昏愛は地獄に落ちて今更になって、現実味の無さを実感していた。


 のぼせるにはまだ早いものの、しかしどこかふわりとした思考で、愛は目の前の少女の体をぼんやり眺める。赤い人(ちり)の話を聴く限り、芥川九十九という存在は生前、産まれてすぐに死んでいる。だというのに、彼女は今の姿のまま地獄に落ちてきたのだという。

 生前というものを持たない彼女は当然、体を鍛えるといった類の行為を一切してきていないはずである。したところで肉体が変化しない怪異に意味など無いのだが――しかしそれでいてこの引き締まった、無駄のないプロポーション。特に理由も無く地獄の管理者――『エンマ』がそのように設計したのか、あるいは正常に生きていればこうなっていた、という可能性の顕れか。


 無論『あの人』には劣るものの、しかし、認めるべきところは認めざるを得ない。――成る程。確かにこれは、なかなかどうして。()()()()、と言っていい部類、なのではなかろうか――


「愛」


 ――などと、不躾にも他人の身体をじっくり観察していた愛は、当の本人から発せられた一声によって、その心臓を僅かに跳ね上げさせられたのだった。


「きもちいいね、これ」


「……そうですね」


 遊ばせた短い黒髪、頬に張り付かせて。普段よりもほんの少し柔らかい表情で、九十九は呟く。今更ながら芥川九十九、この女の顔が異常な程に整っているという事実を、愛もまた気付きつつあった。

 むしろ今までよく気付かず接してこられたなという話だが、そこは文字通り『あの人』以外眼中に無かったというのもあるし、地獄という環境の中でようやく腰を落ち着けて周囲に気を配れる程度の余裕が愛の中で生まれ始めたというのもあるだろう。


 まるで人間離れした、まさに悪魔的とも言える美貌――そんな彼女の顔をよくよく見てみると、どこか日本人離れした整い方をしていることに気が付く。少なくともアジア系なのは間違いなさそうだが、純粋な日本人ではなさそうだった。

 地獄では全ての言語が統一され、誰が聞いても理解出来るものとなっている。その者が一見してどこの生まれなのか、その振る舞いのみで判別するのは難しい。特に芥川九十九は自身の出自を全く覚えていない。そうなるともうお手上げだ。この疑問が晴れることは無いのだろう。


「ありがとう」


 そんな彼女の口から不意に零れてきたのは、そんな感謝の言葉。脈絡も無く放たれたその言葉に、愛は思わず首を傾げていた。


「一緒に居ることを、許してくれて」


 愛の旅の目的は極めて個人的な理由から来ている。そんな彼女に同行したいと願ったのは九十九の方で、それ故にどこか後ろめたいような気持ちを九十九なりに感じているようだった。


「……大袈裟な。それに、お礼を言うなら私の方でしょう。この場合」


 対する愛の言葉に、今度は九十九の方が首を傾げることになる。


「私はきっと、あなたたちに助けられている。あなたたちと出会っていなければ、私ひとりでは今頃『あの人』の捜索はもっと難航していたと思います。だから……まあ。感謝をするのは……私の方です、きっと」


 認めるのは些か癪ですが――と、彼女は溜息混じりにそう呟くのだった。


「ですが、私が貴女に感謝をされる謂れは無いはずです。厄介事に巻き込まれたと謗るのならまだしも……」


「そんなことはない」


 それまでふわふわとした受け答えだった九十九が、その時ばかりははっきりとした口調で否定する。


「愛と出会ったおかげで、私は……結果として、自分の大切なものに……夢に……気付くことが出来た。だから、ありがとう」


 大切なもの。自分の本当の願い、欲望とも言い換えられるそれを、愛との出逢いがきっかけで九十九は見つけることが出来た。無論、愛にそんなつもりは微塵も無い。ただただ自分のことを、ひいては『あの人』のことだけを考えて行動を起こした末の、この奇縁。


「そして、これからもよろしく」


「……はぁ。そこが未だに解せないのですが……いつまで、どこまで付いてくるつもりなんですか、あなたたち」


 別にいいんですけど、とぼやく愛。艶かしく濡れる黒髪をかきあげて、眉間に皺を寄せたその顔に、九十九はほんの少しばかり頬を緩ませるのだった。


「うん、そうだね。私達はどこまで行けるだろう? 楽しみだな……」


「…………」


 利害の一致と呼ぶにはあまりにも歪なこの関係は、果たしていつまで続くのだろう――これまでどうでもいいと思っていた事が、他人の事が、今更になって気がかりに思えてきた黄昏愛なのであった。


「あなたと話していると疲れます。早く戻ってきませんかね、あの赤いひと……」


「……ふふっ」


 不意に微笑を漏らした九十九を怪訝そうに睨む愛。


「なんですか」


「いや……ごめん。なんだろう、自分でもよくわからない」


「はぁ……」


 天窓から覗く赤い月が二人きりの浴室を薄暗く照らす。本当なら此処にもうひとり、赤い髪のあの少女が居たはずなのだ。もしも三人揃っていたのなら、今頃もっと騒がしくなっていた事だろう。


「……でも。どこまで走りに行ったんだろうね、ちり」


「……さあ。どうでもいいです」


 ◆


 しかし、その日の夜。そして次の日の朝になっても、一ノ瀬ちりが二人のもとに帰ってくることはなかった。

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