黒縄地獄 6
怪異というものは地獄に落ちてから、つまり死んでからそれ以上、肉体的に成長することはない。ただし怪異とは言えあくまでも原型はヒトのそれ。そしてヒトはどれほどの歳月を重ねても、決して変わらない部分がある。それは信念であったり、価値観であったり、罪の意識であったり、トラウマであったり、ヒトによって様々だけれど。
さて、一ノ瀬ちり。彼女が地獄に落ちてきて二百年近くが経つ。地獄に落ちてからというものの、彼女は文字通りの地獄絵図を腐るほど目の当たりにしてきた。いくら少女の見た目をしていようと、その中身は既に幾多の修羅場を潜り抜けた老獪そのもの。本来であれば酸いも甘いも噛み分けて、挙げ句噛み分ける為の歯さえも全て抜け落ちて、とっくにくたばっているはずだ。
否、もはやその次元の話ですらない。二百年も生きれば、それはもう人間とは呼べないだろう。彼女は正しく、地獄の住人に相応しい魑魅魍魎と成り果てていた。
しかしそんな彼女にさえ、変わらないものがある。否、それは何も彼女だけの特別なものという訳ではない。
結局のところ――好きな人に肌を見られるのが恥ずかしい――という感情に、歳など関係無いのだ。
「……いやガキかよオレはッ!?」
ともすれば人間という生き物は、自身が思っている以上に、その精神性はいつまでも若々しいものなのかもしれない。いくら肉体ばかり歳を重ねてもその精神年齢は未成熟なままという、見た目以上に稚拙な人間は現世においても珍しくはないだろう。地獄に落ちようと、怪物に成り果てようと、その在り方が簡単に変わることは無いのであった。
しかし一ノ瀬ちり。彼女は今日に至るまで、芥川九十九の素肌を目の当たりにする機会など、むしろ数え切れない程あった。戦いにおいても、ふとした拍子に服の隙間から。脇や二の腕、ふくらはぎ、腹などは、ちらりと垣間見えることも多い。産まれたままの姿を目の当たりにしたことは――ちりが意図的に避けてきたが故に、数える程度しか無いものの。
とは言え、それこそ初心でもあるまいし。今更になってそう大騒ぎする必要も無いはずである。だから、一ノ瀬ちりの懸念は別のところにあったのだ。
ちりから見て芥川九十九の肉体は、特別の象徴である。それは地獄においてなお、擦り傷一つ無く、玉のような柔肌を維持していて。しなやかに伸びる手脚、そして全身に薄ら浮かび上がる引き締まった筋肉は、ちりでなくとも見惚れてしまう程の造形美を誇っている。
だからこそ。そんな彼女と比べてしまうと、自分の体があまりにも貧相で、見窄らしく映ってしまう。こんなものを、芥川九十九に見せてはいけない――とさえ、考えてしまうほどに。
そういう意味で、芥川九十九と釣り合うほどの相手となると――やはり、黄昏愛を置いて他にいないのだろう。あの芥川九十九が認めた唯一の好敵手――否、恐らくはそれ以上の特別な相手。それは怪異としての強さという意味だけではなく、外見的な釣り合いという意味でもそう。
ちりの目も決して曇っているわけではない。客観的な事実として、認めるべきは認めざるを得なかった。黄昏愛の美貌は、芥川九十九に匹敵する。そんな二人が肩を並べた絵面は、やはりどう控えめに見てもお似合いだった。ちりが嫉妬を抱く隙間すら無いほどに、二人は完璧に釣り合っている。それはまるで、付き合いの長さを否定されたかのようだった。しかもそれを誰に指摘されたわけでもなく、自分自身が認めてしまっているという事実が、ちりにはどうしようもなく――
「はァ……くっそ……」
さまざまな熱の籠もった息を、ちりは肺の奥から追い出すように大きく吐き出し、黒天を仰いでいた。
地獄にも夜は来る。昼間の赤い空とは違い、地獄の夜も現世のそれと同じ、漆黒の天蓋だった。そこに違いがあるとすれば、地獄のそれは星の灯りひとつ無い、真に黒一色であるという点。そして其処に浮かび上がる紅い月は、およそこの世のものではない、ぞっとするような美しさで世界を赤く照らしていた。
そんな地獄の夜空を見上げる一ノ瀬ちり。彼女が迎賓館を飛び出して我武者羅に走ってやってきた其処は、暗黒街の路地裏だった。黒縄地獄独特の、刺すような冷たい気候。闇の中を静かに這い回るような、動く物の微かな息遣いを感じながら、一ノ瀬ちりは独り、白い息を漏らしていた。
「…………」
熱に浮かされたような、自分でも訳のわからぬほど羞恥に囚われた頭を、冷たい風が貫いていく。身体が寒さを感じ始めた頃――そうしてようやく、ちりは気付くのだった。
「あいつら……入るのか? 一緒に、風呂を……」
それはそうだろう。そういう話に落ち着いた挙句、先に入っていろと言って此処まで飛び出してきたのは他ならぬ自分自身だ。
「…………あ~~ッ! クソッ!」
突如、赤い髪をぐしゃぐしゃに掻き乱し、声を荒げる一ノ瀬ちり。
正直、帰りたくない。今更のこのこと引き返して、先程の奇行をどう言い訳したものか。しかし、それも仕方がない。このまま此処に居る訳にもいかないし、そもそも彼女達を二人きりにさせておくほうが、よっぽど問題だろう。
冷静になった途端、衝動的な自身の本性に嫌気が差したように、一ノ瀬ちりは自嘲的な溜息を漏らす。そうして重い足取りのまま、来た路を引き返そうとした――これはそんな矢先の出来事だった。
そう、この時の彼女はやはり冷静ではなかった。あの黄昏愛に向かって「闇雲に動くな」と、「等活のやり方は此処では通用しない」のだと、散々忠告しておいて――彼女は今まさに、闇雲に動いてしまっている。
一応、ちりにもその自覚はあった。にも拘らず彼女が平気な顔をしているのは、一度訪れた事があるからという油断。そして、あの等活地獄で二百年を過ごしてきたという、怪異としての経験からくる慢心があった。
それが彼女の勘を鈍らせた。だからその瞬間まで、彼女は気付くことが出来ずにいた。それはもう既に、彼女の背後にまで迫ってきていて――
「……主よ。この者に救いを齎し給え……」
その隙だらけの頭上へ目掛けて、凶刃は振り下ろされていたのだ。