黒縄地獄 4
枯れ木の森を抜けると一転、コンクリートのような物で舗装された道に出て――鬱蒼とした暗黒街に辿り着く。黒縄地獄の暗黒街。その街並みは、あらゆる時代と文化が混在したような違法建築の連なりで。隙間だらけの壁からは、蝋燭の明かりがぽうと漏れている。
等活地獄の建造物は鉄骨の代わりに人骨で組み上げられているものが多い。地獄では人間のサイズ以上の無機物が落ちてくること自体稀で、その無機物も脆く腐り果てた物ばかりで強度に期待は出来ない。
故に等活地獄では積極的に人間を材料にして形造られたる物が多いのだが、それらは等活地獄にとってただの建造物以上に、自身の所属する勢力が、支配する区画が、強大であることを周囲に知らしめる為の儀式としての側面も強い。
それに比べると黒縄地獄の建造物は、どうやらその殆どが無機物で構成されている。指で引っ掻けば簡単に崩れる脆い煉瓦と、風が吹けば簡単に吹き飛ぶプラ板とを組み合わせた、殆ど吹き曝しのような、質素な造り。しかしそんなものでも、等活の悪趣味な人間建造物と比べれば万倍もマシで。
寒くて薄暗い、活気もなく、鬱蒼としている。しかし等活地獄のように、どこからも悲鳴や怒号は聞こえてこない。等活地獄のように勢力が分断し、領土を奪い合っている様子も無い。
地獄は、その階層ごとに特色が現れる。その階層における象徴、王の性質によってルールが決まる。等活地獄と黒縄地獄、どちらが善くてどちらが悪いという話ではない。ただ事実として、黒縄地獄の治安は等活のそれと比べ、少なくとも目に見える範囲においては、善く映る。それだけの話。
「……上に立つ者の違いか……」
暗闇の中、静謐の街並みを北上する芥川九十九。その眼差しはどこか、悔恨を滲ませているようだった。
◆
「着い、た……!」
緩やかな坂を少しずつ登っていき、街を抜け、頂に近付くにつれて。いよいよ、黒縄地獄の中央区――黄泉の坂に聳え立つ、それの全容が見え始める。辿り着いたその先で、少女達はついにそれと相対するのだった。
それは城と呼ぶのが相応しい程、豪華絢爛の大聖堂。周辺には等間隔で松明が配置されており、その荘厳なシルエットを映し出していた。黒曜石のような材質で形作られた黒塗りの壁、巨大なモスクを彷彿とさせるその神殿、その両翼は見るものを圧倒する広がりを見せ、なにもかもが決然と整理されている。
構成する全てが地獄においてはあまりにも貴重な素材の数々で、それらを贅沢に意匠として施されている時点で、この階層の王がそれ程までの力を有しているということが窺い知れるわけである。
「焦熱地獄の黄金宮殿、衆合地獄の酩帝街、そして黒縄地獄の大聖堂。今の地獄の三大世界遺産とか呼ばれてる物の一つだ」
「へえ、有名なんだ」
「オレでも知ってるくらいにはな」
目の前まで足を運ぶと、それの途方も無い巨大さを実感する。天を衝かんと伸びる黒き城を前に、さしもの黄昏愛も思わず息を呑んでいるようだった。
「……でもこれ、どうやって作ったんでしょうか」
「そりゃあ……頑張って作ったんだろうな」
「そういうことではなくて……そもそも材料はどこから仕入れたんですか、これ」
愛の疑問は尤もである。何度も説明した通り、地獄に落ちてくるのは殆どが人間。稀に落ちてくる無機物も殆どが使い物にならない。そんな地獄という環境で、ここまでの建築物を作るというのは現実味に欠ける。こんな異世界で現実味がどうというのもおかしな話ではあるが、だからこそ芽生えた真っ当な疑問であると言えよう。
「等活地獄にはな、各階層のスパイが紛れ込んでるんだよ」
そんな愛の疑問に答えるのはやはり、永くを等活地獄で過ごした一ノ瀬ちりだった。
「当然の話だ。等活地獄には毎日のようにヒトやモノが落ちてくる。それらを奪い合ってるのは、何も屑籠や十六小地獄だけじゃないってこった」
「……地獄に落ちてくるようなモノで、こんな建物が作れますか?」
「普通に考えりゃ無理だろうな。だからまあ、恐らくは何らかの異能が建造に関わってるんだろ」
「異能……どんな異能で、こんな物が?」
「知らね」
異能。怪異が一人に一つ所有する超常の能力。例えば『ぬえ』黄昏愛の異能は、理論上この世全ての生物に変身し、その能力が使える。しかしおよそ万能といえる破格の異能を持つ彼女でさえ、この大聖堂を一から作ることはほぼ不可能だろう。
それを可能としてしまえる異能とは、一体どういった能力なのだろう。どんな名前の怪異ならばそれを可能に出来るのだろう――と。どうやら自分が思っている以上に異能とは多種多様なのだと、愛が自身の認識を改めていた――その時である。
「ん……?」
ふと耳を澄ますと、大聖堂の中からパイプオルガンのような美しい音色が微かに聞こえてきていた。動物に変身できる愛だからこそ、その強化された聴覚で辛うじて聞き取れた程度の小さな音色。先頭を進む一ノ瀬ちりや芥川九十九はその音色に特別反応を示してはいなかった。
「じゃ……入るぞ」
先陣を切る一ノ瀬ちりが、恐る恐るといった風に。自分の身長の三倍はあるであろう巨大な石扉を押し拡げるようにゆっくりと――――開け放つ。
大聖堂の中は蝋燭がふんだんに使われていて、夜目になれた者にとっては少し眩しいくらいの明るさだった。アーチ型構造の吹き抜け天井の高さは、軽く目眩がする程で。石畳の上には木製の長椅子が一面広がるように配置されている。見つめているだけで呑み込まれそうになる黒色差し込むステンドグラスが壁面にびっしりと埋め込まれていた。
「ぽっぽっぽー、はとぽっぽー♪」
そして、その空間の中央。十字架の意匠施されたステンドグラスの直下。奏でるパイプオルガンの音色に乗って聞こえてきたのは、そんな間抜けな歌声だった。
パイプオルガンの周囲には幼い子供の群れで賑わって、その間抜けな歌声に合わせて皆思い思いの音を口から奏でている。此処が地獄だということを忘れてしまいそうになるほどの楽しげな雰囲気に、三人は思わず目を丸くしていた。
「まーめがほしいか、そらやるぞー……あら?」
歌の主は不意にオルガン奏でる指を止め、子供達の輪の中から愛達三人の姿を覗き込む。
「あらあら……まあまあ。皆さん、お客さまですよ。ご挨拶しましょうね」
「こんばんはー!」
地獄で久しく覚えのない無垢な笑顔の数々に、三人は面を喰らうばかりだった。そんな三人の戸惑う様子にくすりと微笑み、先程の歌の主、長い黒髪の女性が椅子から立ち上がる。
「うおっ……」
ちりが思わず後退りしたのも無理はなく、その女性の身長はあまりにも、高かった。二メートルは悠に超えているのではないだろうか。その長身をゆらりと揺らしながら、女は首の下がった向日葵のようにちり達を見下ろすのだった。
黒を基調としたベーシックな修道服を身に纏うその女は、目に毒なほど艶かしく、紅く塗られた唇を弧に描いてみせる。露出の無い服にも拘わらず、見て取れるほど凹凸はっきりとしたスタイル。
特にその大きく膨らんだ胸元は、同じ女性であっても思わず目を惹かれるほど強く主張していた。彼女の近くに居るだけで、鼻骨が痺れるほどのムスクの香りが容赦なく刺し込んでくる。
「あら……? そちらにいらっしゃるのは、もしかして……等活地獄の、幻葬王さま?」
「……今は王じゃない。ただの旅人だ」
芥川九十九は幻葬王を辞めている――しかしそれは、他階層の住人達にとっては知る由もない事だ。九十九自身がそれを否定したところで、はいそうですかとはならない。
そんな幻葬王を前にして、女は大袈裟なほど目を大きく開かせ、花のようにその表情をぱあと明るく咲かせるのだった。
「ああ、やっぱり……! ええ、ええ、お待ちしておりましたわ……! さあさあ皆さん、大切なお客さまがいらっしゃったから、今晩はもうお部屋に戻っておやすみなさい」
「はぁーい」
「おやすみなさい、シスター・アグネス!」
「お客さん、またねー!」
子供達は手を振りぞろぞろと、壁に取り付けられた木製のドアの奥へ奥へと入っていく。最後の一人が見えなくなるのを見届け、改めて女は九十九達三人の方へと向き直る。依然、柔和に微笑んで。
「ええ、ええ……自己紹介がまだでしたね。皆々さま、お初にお目にかかります。わたくしのことはどうぞお気軽に、アグネスとお呼びくださいませ」
シスター・アグネスが身体を揺らすと、腰まで伸びたその長い黒髪も風に靡くカーテンのように優雅に揺蕩うのだった。
「……オレは初めましてじゃねえけどな」
親子ほどの身長差のある黒い修道女を見上げ、因縁めいた眼差しを向ける赤い少女に、けれどシスターは「はて」と首を傾げるばかり。
「あら……? そうなのですね……ごめんなさい、覚えていなくて……」
「……ふん」
そんな短い会話の後、互いに互いを露ほどの興味も失ったように、ちりは視線を落とし自身の赤い髪を指で弄り始め、シスターは再び柔和に微笑んでみせた。その視線の先には幻葬王、芥川九十九、ただひとりだけを見据えて。
「それで……彼の高名な、悪魔の如き幻葬王さまが……遠路遥々こんな所にまで、突然お越しになられて……一体どのようなご用向でしょう。今はただの旅人、と仰っておりましたが……どのような事情があって――」
「シスター・アグネス」
それを遮るのは黄昏愛だった。自分よりも一回りほど小さいその少女が力強く自分を見上げてきたことに、アグネスは面食らい目を丸くする。
「開闢王に会わせてください。会って訊きたいことがあるんです」
「……あ、あらあら?」
戸惑い向けた視線の先に「彼女の言う通りに」と促すように頷いてみせる九十九の姿を捉えたことで、目を丸くしていたアグネスもようやく合点がいったように微笑を取り戻したのだった。
「そう……うふふ。それはそうよね。でなければ、わざわざこんな所にまで足を運ぶ理由も無いものね」
口元に手を当て、くすくすと上品に微笑うアグネスに、愛はにこりともせず返答を待ち続ける。そんな愛の頑なさに、アグネスはあらゆる意味で困ったように、眉尻を下げるのだった。
「けれど、ええ……ごめんなさい。我等が王は只今不在にて、此処には居ないのです」
「……居ない? 何故ですか」
「愛。どうどう」
普段よりワントーン低く重い音を口から漏らす愛。その機微を感じ取り、愛の肩に手を回して落ち着かせようとする九十九。隣でちりが面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「神秘貪る開闢王……あの御方は王の身でありながら、未知を求め国境を超え、地獄を放浪する探求者でもあるのです」
世界中、地獄中を旅して周り、全ての謎を解き明かさんと挑む貪食なる探求者。故に、全てを知っている。故に、神秘貪る開闢王。謎在る処に彼女在り。階層を隔てた数多の地獄で、その所業はその名と共に広く知れ渡っている。
「ああ、なんて尊い……地の底に居て尚、あの御方の辞書に諦めるという文字は無いのです。現状に甘んじること無く、向上心を持ち続けるその姿勢……流石はこの階層を統べる怪異の王、高貴なる御方……信徒たる我等も鼻が高いですわ……ええ、ええ……なの、ですけれど……」
意気揚々と語りだしたアグネスだったが、次第に歯切れが悪くなっていく。
「実は、そのう……王は気紛れにて……いつもふらりと行って、ふらりと帰ってくるものですから……正確な居場所は、我々にも把握出来ておらず……先日、第七階層へ往くと言ったきり、今もまだ帰ってきてはいないのです……」
ああ、王って奴はどいつもこいつも――そう呆れ返ってみせるのはやはり、この場において、王という存在に地獄における一生を振り回され続けてきた一ノ瀬ちり。彼女を置いて他にいない。
「では、探しに行きます」
そして相変わらず、愛の決断は早かった。
「あ、あらあら……! 大丈夫ですよ、きっと、もうすぐ帰ってくるはずです。入れ違いになってはいけませんから、不用意に出歩かず、お待ちになられることをおすすめしますわ」
足早に教会から出ていこうとする愛。その後ろ姿を、突如慌てた様子でアグネスは引き留めた。
「ああ、そうだわ……! 戻ってくるまでの間、こちらで宿を手配いたしましょう! 急ぎの旅で無いのなら、どうぞごゆっくり、寛いでいってくださいな?」
のらりくらりとしたアグネスの言動に、むすっと顔をしかめる愛。しかしその肩を今度はちりが掴む。
「嗚呼、しょうがねえな。他に手掛かりも無いんだ。待つだろ? 待つと言え。大人しくしろ。一人になるな。オーケイ?」
「…………はあ。そうですね。わかりました」
等活地獄では地獄史上稀に見る大暴走を果たした黄昏愛だったが、常識をまるで持ち合わせていないわけではない。口より先に衝動的に手が出るタイプであることは確かだが、状況を判断する能力が欠けているわけではない。子供にするようによくよく言い聞かせてやれば、ある程度の自制を強いることは可能であると、ちりは愛のことを理解しつつあった。
「ああ、よかった……! 夜も更けてまいりましたから、ええ、それでは早速……わたくしめが宿までご案内いたしますわ。付いてきてくださいな……」
曇ったように薄汚れた硝子のランタン、壁に掛けられたそれを一つ手に取り、三人が来た道を戻るように先頭を歩みだすアグネス。それに従って付いていく愛と九十九、そして。
「待てよ」
ただひとり、ちりだけがそこに立ち止まっていた。その表情はどこか、覚悟を決めたような険しさで。
「オレ達は何を差し出せばいい?」
ちりの唐突なその問いかけに、アグネスは一瞬押し黙るものの、すぐに柔和な笑みを浮かべてみせる。
「……いいえ、いいえ。何も。ええ、何も頂くつもりなどありませんわ」
文章にしてたった二行、そんな短いやり取りで、ちりの表情は一変した。生まれつき悪い目付きはより鋭く凶悪に。濁った赤い瞳は獣のように見開いて、目の前の修道女を穿つように見据える。
「……あ? 何言ってんだテメェ。此処のルールは等価交換だろ」
一方、シスター・アグネスはと言うと。やはりその柔和な微笑をほとんど崩すことも無く、妖艶さの伴う美声で、朗らかに。
「いいえ、いいえ。そんな、そんな。幻葬王さまから何かを頂くだなんて恐れの多い……ええ、気にすることはありません。ご希望であれば、いくらでも泊まっていってくださいな」
「へえ……オレが昔ひとりで此処に来た時には散々ぶんどりやがった癖に、よく言う」
「あら……そうだったのですね? すみません、本当に覚えていなくって……ええ……ですが、それは……まあ……なんと言いますか――……あなたは幻葬王さまではないので?」
赤と黒、鋭い視線が交差し合う。
「……ちり?」
その隙間、不意に割り込んできた九十九の姿に、ちりは視線を奪われた。いつもと違う気配を察してか、九十九は僅かに頬を強張らせ、ちりの顔を覗き込んでいる。その不安そうな眼差しを受けてなお緊張感を維持することは、ちりにはもう難しかった。
「……いや。わかった、行こうぜ」
「ええ、ええ。参りましょう。さあ、こちらへ――」
◆
斯くして、アグネスに促されるがまま。愛達三人は大聖堂を出、再び南下し始める。先頭を歩くアグネス、彼女が持つランタンの灯りだけを頼りに、向かう先は暗黒街。百鬼夜行の如く連れ立つ彼女達。その胸中には各々、様々な想いが渦巻いていた。