黒縄地獄 3
道なりに、北へ北へと進んでいく。枯れ木が群れを成して樹海と成り、風に揺れて軋む枝々は天蓋の如く、空を覆い隠している。泥濘んだ獣道は訪れる者を拒むように旅人達の足を取る。なだらかな坂の上でありながら山中のような険しさを三人は肌で感じていた。
地獄に堕ちた者は怪異となる。怪異と成ったものを人間とはもう呼ばない。けれど怪異の肉体には、人間同然の生理機能が再現されている。暑いものは暑いし、寒いものは寒い。歩けば足も疲れるし、餓死こそしないが腹も減る。終わった者、二度と終わることの出来ない者の末路として、地獄は生の苦しみを永遠に与え続けるのだ。
泥濘を一歩踏みしめるごとに、沈んだ足を持ち上げるごとに、着実に体力を奪われる。初冬を想わせる冷たい風に、着実に体温を奪われる。もともと言葉数の多い組み合わせではない三人だが、それに拍車をかけ、会話を交わすこともすっかり無くなっていた。
「くしゅっ」
そんな中、それまでの沈黙を破るように奇妙な音が後方から聞こえてきて、先頭のちりが振り返る。 それが後方を歩く九十九の、くしゃみの音だと気が付いて、ちりはその場で立ち止まった。
無理もない。冬の山のようなこの冷気の中、薄着で軽い山登りをしているようなものなのだ。くしゃみの一つくらいするだろう。
理解してからのちりの行動は早かった。彼女は自らの赤いスカジャンを脱ぐと、おもむろに九十九へと手渡した。
「あ……いや、大丈夫……」
「いいから」
それ以上互いに言葉もなく、やがて観念したように九十九はそれを受け取ると、ゆっくりと袖を通してみせる。
「ありがとう」
「ん」
ちりは黒いタンクトップ一枚で、寒さなど物ともしないかのように振る舞い、先頭を突き進んでいく。三人の中で一番の小柄でありながら、その背中は誰よりも大きく九十九の目には映っていた。
「九十九は昔ッから、寒いのとか暑いのとか、そういうの苦手だよな」
「どうもそうらしい」
「体は丈夫なくせにな。気候の変化には敏感なのかね」
沈黙が破られたのを皮切りに、ちりが零した言葉を九十九が拾う。そうしてぽつりぽつりと、いつものように、ゆっくりと言葉が紡がれていった。
「あァそうだ、覚えてるか? オマエが初めて風邪ひいた日のこと。あン時ゃ何の冗談かと思っ――」
「――へくちっ」
しかし不意に、二人の会話を遮るように。奇妙な音は再び、今度は九十九の更に後方から聞こえてきた。九十九が音のした方へ振り返ると、其処には鼻の先をほんのりと紅潮させた黄昏愛の姿があった。
「…………」
「…………」
立ち止まり、目を見合わせる九十九と愛。しばらくそうしていると、今度は九十九がおもむろに、自身の学ランを脱ぎ始める。
「はい」
ちりのスカジャンを羽織ったまま、自身の学ランを愛に手渡そうとする九十九。それを先程の九十九の反応と同様、愛はまじまじと見つめ返して。
「どうも」
「いや待て待て待て」
何食わぬ顔でそれを受け取ろうとする愛を、ちりは咄嗟に制止した。
「九十九、オマエがそれ渡したらオレが上着貸した意味ねーだろ」
「あ、そっか」
「黄昏愛、テメーは寒さに耐性のある動物か何かに変身すりゃいいだろーが」
「……なるほど。確かにそうですね……」
愛が怪異に成ってからまだ一ヶ月も経っていない。愛が他の平凡な怪異よりも濃密な一ヶ月を過ごしていることは間違いないが、未だ愛にとって異能とは『使う』ものであり、呼吸のように意識せず自然と出来るものではない。
故に、こんな風についうっかり忘れてしまう――なんてことは愛でなくとも、怪異に成り立ての者にはよくあることである。
ちりに言われた通り、愛はその皮膚に冷気への強い耐性を持つホッキョクグマの毛皮を纏う。セーラー服の下から白い獣毛が盛り上がり、もふもふの獣人もどきが出来上がった。その変容を間近で見ていた九十九は「おー」と感嘆の声を上げつつ、ちりに促された通り再び学ランへ袖を通すのだった。
「ありがとうございます、赤いひと。その助言は私にとって、まさに目から鱗でした」
「……ちりだ。いい加減覚え……?」
苛立ちを声に乗せながら愛を睨みつける、ちりの動きが止まった。愛の両目、深淵のような黒い瞳が、突如として蠢き始めたのである。その違和感に気付いて、ちりが目を細めていると――
「あ? なんか落ち……うわッ!?」
愛の両目、二つの眼球が文字通り、地面に落ちる。眼窩には何も入っていない、完全な空洞だった。
「ばあ」
突然のホラー展開に思わず声を上げるちりだったが――愛が瞼を閉じ、再び開いた次の瞬間には、空洞だった眼窩には元の眼球が埋まっていた。
「オマエッ……マジで目から鱗落とす奴があるか! 気持ち悪ィなァ!?」
「異能を使いこなす練習も兼ねつつ、『あの人』と再会出来た時の為に、芸を幾つか身に付けておこうかと思いまして。ちなみに今のは、目だけを蛇のそれに変化させた、脱皮の応用です。これがほんとの目から鱗……なんて。どうでしょうか」
「つまんねーよ! つーか目ん玉ごと落としたらそれはもう鱗どころの話じゃねーだろ!」
そして彼女は気付く。気付き始める。いつの間にか自分が、ツッコミ役に回されつつあることを。
「愛の異能は便利だねえ」
肝心の九十九も、この有り様。先程のホラーな光景を、芸として純粋に感心しているようだった。
「……マジかよ……」
ひょっとしてコイツ等と一緒に居ると、オレの負担がとんでもないことになるのでは――などと。今更気が付いたところで、どうしようもないのである。