プロローグ 2
二〇■■年 十月
筋繊維が犬歯によって無理矢理に噛み千切られていく、小気味の良い音が聞こえてくる。布巾で食器の水滴を全て拭い終わって、結んだエプロンを後ろ手に解きながら、私は音のする方へ振り返った。
リビングでは、美しい黒髪靡かせる『あの人』が。もうほとんど身の残っていないフライドチキンの骨、指で摘んだそれを、指先で退屈そうに弄んでいる。
彼女はそれを小皿の上に放り投げると、油の付いた指の平を舐め取りながら、もう片方の空いた手を銀色のアルミ缶のもとへと伸ばしていった。
有機ELディスプレイは紅葉に覆われた色鮮やかな山々の景観を映し出していた。液晶の僅かな発光が薄暗くしたリビングの中で灯りの役割を担っている。
十月。夏の暑さも過ぎ去り、ようやく肌寒くなってきた頃。相も変わらず『あの人』は季節の移り変わりに関係無く、年がら年中その揚げた鶏肉を好んで食している。
なんでも、骨があるからこそ良いのだそうだ。骨の付いた肉を無理矢理に引き千切り、獣の如く喰らうあの感覚が好きなのだと、『あの人』は言っていた。
なので我が家では『あの人』のリクエストに答えると、週に二度はそれが食卓に並ぶ始末である。加えて『あの人』は野菜を好まないので、余計に栄養の偏りが懸念される。
毎日の献立を任されている身としては憂慮すべき事態なのであろうが、しかし惚れた弱みというのは恐ろしいもので。優しく肩を抱かれ囁かれてしまうと、満足そうに浮かべる笑みを前にすると、つい『あの人』の好きなものばかり作ってしまう。
喜んで欲しいから。褒めて欲しいから。もっと尽くしたいから。その為に私は今日も、キッチンに立つのだ。
「っ……あ~……美味い。酒が進むねえ」
「……ふふ。それは、良かったです」
三本目のアルミ缶が空になった頃、すっかり満足し切った様子の『あの人』の隣に座る私。『あの人』はそんな私の膝を枕代わりにして、ソファの上へごろんと横になった。無防備な仰向け姿を晒して、心地よさそうに伸びをする『あの人』の頭をそっと撫ぜる。
「今年のクリスマスはどうしましょうか」
「んー……? そうねえ……どうしよっかなあ……」
私よりも長く生きて、いろいろな経験も豊富なはずなのに、いつだって『あの人』は少女のように純粋で、可憐で、愛らしい。けれど時折見せる歳相当の妖艶さに、私はいつも振り回されてばかり。
「じゃあ……食べたいものはありますか?」
「フライドチキン!」
「ふふ、もう……」
それじゃあいつもと変わりませんね、などと微笑い合って。私は膝の上の愛しい黒髪、その中へと指を挿し込んでいく。梳こうと動かした指はしかし流れることなく、途中で傷んだ毛先に絡まり、引っ掛かってしまった。
私の指は、まるで蜘蛛の巣に絡め取られた蝶のように。それは私が、最早『あの人』から逃れられない現状を示しているかのよう。
こんな日がずっといつまでも続けばいい――そう、願っていたはずなのに。
「…………蝿の羽音がうるさい」
今日もまた、どこからか――それは聞こえてくるのです。