等活地獄 20
等活地獄、西の最端。川の上に石を積み上げて造られた、一際大きな水上建造物が其処にはあった。
入り口のすぐ手前には、ほとんど機能もしていない改札らしき物が設置されており、奥に進むと二股に分かれた道が続いて、階段に突き当たる。それぞれ一番乗り場、二番乗り場と掠れた文字で書かれた標識が、階段上の天井にぶら下がっている。
愛はこの駅の存在自体は知っていた。等活地獄を隅々まで歩き回ったその過程で、彼女は確かにこの建造物を目にしていた。しかしそれを初めて目にした時、およそ機能しているとは思えず、ただの廃墟だと思っていた。まさか本当に駅の役割を果たしているとは思わず、遠目に見て満足した過去の自分自身に愛は溜息を吐くのだった。
改札を潜り、一番乗り場へと続く短い階段を登っていく。階段を登り切った先、一番乗り場のホームにはベンチすら無く、塗装もされていない剥き出しの岩盤が足場としてそこに広がっているだけだった。
水中に沈む線路がそれぞれのホームを隔てている。列車はまだ来ていない。来る気配も無いが、ちり曰く、待っていれば気まぐれにやってくるという。
正直半信半疑な部分もあったが、今となっては最早その言葉を信じる他ない。愛はまるでこれから通学でもするかのように、当たり前のようにそこに立って、列車の到着を待つことにするのだった。
その胸に抱くのは、茜色のペンダント。『あの人』の形見。ただそれだけを持って、少女は更なる地獄へと向かおうとしている。
自分以外に誰もいない駅のホーム。風の音すらも聞こえない静寂の中、少女は遠く、三途の川を見据えている。
その沈黙を破るように――不意に聞こえてきた階段を登る足音へ、愛は僅かに意識を向けた。
「愛」
階段を登り切り、愛の前に現れたその人物――芥川九十九は、その赤い瞳で愛の姿を視認してすぐ、躊躇うことなくその名を呼ぶ。
「……えっ。どうかしましたか……?」
予想外の来客に愛は僅かな戸惑いを見せていた。そんな彼女の驚いたような表情を前にして、九十九は口を開く。
「君の旅に、私を同行させてほしい」
開口一番、そんな突拍子も無い提案に、愛は思わずその整った顔立ちを崩す程に大きく眉を顰めるのだった。
「はい……? それは……なぜ……?」
「花」
「え?」
「花が見たいんだ。私も」
まさに単刀直入、あまりにも実直な言葉とその整然とした様子に、愛はますます怪訝そうに表情を歪める。
「……花、ですか」
「うん」
「花がどういうものか知りたいだけなら、周りのヒトに教えてもらうのはどうですか……?」
九十九の言葉の意味を、愛は測りかねていた。
どうやらこの九十九という少女が極めて特殊な出自らしいという話は、ちりから聞き及んでいる。しかしそれも詳細を省いた簡単な説明に留まっていた。愛が九十九について知っていることは、チカラを使いすぎると死ぬかもしれない、ということくらいである。
九十九がどういった心境でこの場に現れたのか、その想いの全てを愛は当然知っているわけではない。確かに迷惑は掛けたしそれを悪いとも思っているが、愛にとってそれとこれとは話が別だ。
ともかく、今の九十九が何を考えているのか。その言葉の本質を、今の愛には計りかねていた。
「花だけじゃないんだ。もっと、色んなことが知りたい。それを、他の誰でもない……君の口から聞いて知りたい。君の姿を見て知りたい」
そして、その言葉の意味は――当の本人でさえ、正しく理解出来てはいないのである。自分の感情の正体に対して、芥川九十九はあまりにも疎かった。
芥川九十九は未知に焦がれてしまった。黄昏愛との出逢いをきっかけに、自分の夢を自覚してしまった。本当にやりたいことを見つけてしまった。初めて自分の欲望に沿った意思で、旅に出るという選択を取ることにした。
とはいえ、である。なにも黄昏愛に拘る必要は無い。ちりの言う通り、そして愛の言う通り、知りたいだけなら他に方法はある。この土地を離れてでも知りたいと願った未知の冒険は、なにも愛の旅に同行せずとも手に入る。
それでも、九十九は愛に同行する道を選んだ。それは何故か?
「君のことが、もっと知りたい」
その答え、その本質に、今の九十九はまだ気付けていない。
「……? はぁ……ええと……」
そしてそれは残念ながら、愛にとっても同様で。彼女もまた自分自身に向けられる感情に対して存外疎く、愛は九十九の言葉にいまいちピンと来ていない様子で首を傾げるばかりであった。
「どうしてだろうね。解らないんだ。それも含めて知りたくて……だから……」
「…………」
お互いがお互いの考えていることを解らぬまま――黄昏愛は静かに計算を始めていた。
短い間であったが拳を一度交えたことで、愛は九十九の気性をある程度理解しているつもりではあった。つまり少なくとも芥川九十九が、目の前のこの黒い少女が、言葉で駆け引きが出来るほど器用では無いということ。
言葉通りの意味に解釈するならば、芥川九十九は本当に、ただただ未知の冒険に憧れているのだろうと。それ以上でも以下でもないのだろうと。愛は納得していた。
「えっと……そうだ、ヒト捜し。私も手伝うよ。それも必要無いなら……ただ行き先が同じ方向というだけの他人として扱ってくれて構わない。私も邪魔にならないようにする。それで……どうだろうか……?」
ならば――恐らく、裏は無い。
むしろこの提案、愛にとっては願ってもない好機である。地獄に無知な愛にとっては渡りに船、人手は多いに越した事はない。
それに相手は全く見ず知らずの他人というわけでもない。顔見知り程度だが、しかし一度は拳と拳を交わした仲。手の内は把握している。そしてその弱点も。
「……まあ、別にいいですよ。私の邪魔をしないのなら、ですけど……」
問題は無い。もし邪魔になるようなら、その時は排除すればいい。今度こそ、確実に――
「ありがとう……!」
愛の企みなど露知らず、その返答に九十九は思わず頬を綻ばせるのだった。
斯くして駅のホームで二人、肩を並べる少女達。黒いセーラー服の少女と、黒ジャージに学ラン姿の少女。片や怪異殺しの悪魔と呼ばれ恐れられた『ぬえ』の怪異、片や悪魔の如き幻葬王と呼ばれ畏れられた『ジャージー・デビル』の怪異。ともすれば地獄の王にもなり得る程の強者、どちらも最強の名に相応しい実力を誇る怪物少女達。
そんな二人が手を組んだという事実が、地獄にどれほどの波乱を巻き起こすか――当の彼女達に知る由も無ければその自覚すらも無く。彼女達はただ、当たり前のように。駅のホームで列車が来るのを待っている。
「ああ、楽しみだな……」
行きたい場所に行ける、そんな当たり前すらも未知だった少女。まだ見ぬ明日を想い、その心は浮足立つ。
「……でも」
――けれど。その心には翳りも少し、見え隠れしていて。
「…………やっぱり、一緒に行きたかったな」
見上げる赤い空、幼馴染の面影を重ねる。明日を運ぶ猿夢列車は、どうやらまだやってこない。
「おい、そこのバカ共ッ!」
代わりに、其処にやってきたのは――