等活地獄 19
沈む。沈む。
これ以上沈む先など無いはずの地獄においてすら、彼女は沈み続ける。泥でもない、血でもない、透き通った液体の中で、彼女はその身を漂わせている。
遠く、遠く、遥か上空の彼方。眼前に広がる空が、赤でもなく、黒でもなく、見たことすらない鮮やかな色彩に染まっている。頂に浮かぶ太陽も、見慣れた地獄のそれではなく、ただただ眩しく、光り輝いていた。
自分を取り巻く液体も、頭上に広がる空の色も、太陽の色さえも――芥川九十九の語彙では表現すら出来ない。
それは、願っても届かない場所。夢にすら見ない、可能性の景色。
『――――! ――――! 起き――――目を――――!」
『――――そのヒトは、どうして――――』
『血が止まらない――――どうしよう――――どうすれば――――』
『――――私がなんとかします』
そんな可能性の光に向かって、少女は手を伸ばす。
太陽は沈んでいく彼女を引きずり上げるように強く、強く輝いて。
そして――
◆
「九十九ッ!!」
掴んだのは、自分より一回り小さな少女の手。九十九が次に目を開いた時、眼前には肋骨と骨盤で出来た廃校舎の天井が広がっていた。
ゆっくりと、確かめるように、九十九は辺りを見渡す。骨組みの上に幾つものズタ袋が重なって作られた簡易的な寝台の上に横たわる自分。その傍ら、掴んだ手の先には、見慣れた姿があった。
「ばか……心配かけさせやがって……」
横たわる親友の手を握ったまま、腫れぼったい眼で訴えかけてくるのは、芥川九十九にとっての唯一無二、一ノ瀬ちり。
九十九はその赤い髪を、感触を確かめるようにそっと撫でる。そのまま掌を滑らせて、涙と埃で汚れた頬に触れる。掌越しに伝わってくる体温が、徐々に九十九へ生の実感を与えていく。
「……死ぬかと思った」
「そりゃこっちの台詞だ……」
眉を八の字にしてくしゃりと笑うちり。それにふわりと微笑み返して、九十九は、次に目線をその背後――当たり前のようにそこに居る、黄昏愛へと向けた。
「…………」
互いに無言のまま、しばらく見つめ合った後。
「ごめんなさい」
先に口を開いたのは、愛の方からだった。
呆気ないほど素直に謝罪した愛は、その場で丁寧にお辞儀をしてみせた。自分の背後でそんなことをしている愛に目を向けることも無く、ちりはばつが悪そうにしかめ面をしている。
「……どういうこと?」
あまりにも不可解な状況に、流石の九十九も疑問を投げかけずにはいられなかった。深い一礼から顔を上げた愛がそのまま疑問に応える。
「そこの……赤い髪のヒトから聴きました。貴女の、本当の秘密」
「……こいつ、ロアの冗談にまんまと踊らされたんだ。九十九の秘密が、こいつの探し人の手がかりに繋がるとか何とか唆されてよ」
九十九が眠っている間、何らかのやり取りがあったのだろう。ちりは愛に対し心底不機嫌そうな表情を見せつつも掴みかかるようなこともなく、落ち着きを取り戻しているようだった。
「……ごめんなさい。私の早とちりでした」
「構わない。気にしないで」
「オイ、いいのかよそれで」
「いいんだ。それに、私も……」
私も――その先の言葉が、感情が、九十九には上手く表現できなくて。
「……それより、これはどういう……」
逡巡の後、結局、九十九は別の話題に切り替えることにした。
九十九は致命傷に次ぐ致命傷で死に体だった。外見以上に中身の損傷が激しく、戦いの最中で九十九は、殆ど死を覚悟していた。ヒト由来、怪異由来の自然治癒能力では到底追いつかない程の傷を負っていたはずである。
しかしどうだろう。まだ痛みは残るものの、内臓や筋肉、骨、細胞ひとつひとつに至るまで、九十九の身体には修復が施されていた。そればかりか、戦いで破けボロボロだったはずの衣類さえもすっかり新品同様にまで戻っている。
「お詫び、と言ってはなんですが……寝ている間に、貴女の身体を治療させていただきました」
その疑問に答えるのは黄昏愛だった。よく見ると、彼女の右手が、ぶよぶよとした奇妙な異形の何か――ヒトの臓器のようなモノに変形していることに、九十九はそこでようやく気付く。
異種移植。それは、ヒトに近い動物の臓器や血液をドナーとする移植方法。
その身ひとつで、ありとあらゆる動物の個性を再現、具現化できる愛だからこそ可能な手法。人の領域を、倫理を逸脱した、現世では考えられない方法による治療が九十九の身体には施されていた。
「口から直接、私の触手を挿入して……傷付いた内臓を修復しました。服は……蚕の糸で編んで、繕わせていただいて……」
「……すごいな、その異能。本当に、なんでもありだ……」
これにはさしもの幻葬王も笑う他なかった。改めて、自分が命を削って戦った相手が規格外だったことを実感する。一方で愛の表情は浮かないままである。そっと胸元のペンダントを握り締め、首を横に振る。
「結局、誰も『あの人』の居場所を知りませんでした」
言われて、九十九は思い出す。そもそもこんな事態になったのは、愛の探し人の行方が解らないからである。
「……すまない」
「九十九が謝るこたねえだろ……」
ちりはむっとした表情で横槍を入れる。赤いネイル彩る華奢な手は、感触を確かめるようにいつまでも九十九の手を握り続けていた。
とは言え、目の前で落ち込んでいる愛の表情はあまりにも痛ましく、ちりですら今はばつが悪そうにそれ以上の口は噤むばかりであった。
九十九に治療を施してくれた恩義もあるが、愛の想いが不器用ながらも真剣であることが解ったからこそだろう。そしてそれは、九十九にも伝わっていた。
「もう、行く宛に心当たりは無いのか」
「此処に着いてから虱潰しに、隅々まで探しました。けど、見つからなくて……『あの人』どころか、此処には、花さえも……」
「……花……」
この等活地獄の広さは、ヒトの脚で端から端まで完全に歩き切るには途方も無い距離で。それもヒトを喰らわんとする有象無象の怪異を相手取りながら進むとなれば、それは無謀と呼べる。しかしそれも、この規格外の少女であれば、あながち不可能とも言い切れないだろう。
想いが乗ったその脚で、本当にこの等活地獄を隅々まで探したのだとしたら――この数週間、それは健気と呼ぶにはあまりにも過酷な旅路だったに違いなかった。
「……やっぱり、『あの人』は此処にはいないようです」
「そうか――」
九十九は上体を重たそうに持ち上げ、壁を背にもたれかかる。その赤い目は迷いなく、愛の漆黒の瞳を捉える。
「なら、次の地獄に行かないとな」
次の地獄。九十九が当たり前のようにそう言ってのけるので、愛は思わず俯きがちだった顔を上げる。
「此処は第一階層だ。地獄は第八階層まである。八つの地獄を繋ぎ行き来する『猿夢列車』、あれに乗れば、次の地獄――次の階層に往ける」
戦闘での狂気じみた雰囲気はどこへやら、あまりにもきょとんとした間抜け面で耳を傾ける愛に、流石のちりも気が抜けたように息を吐く。
「……初めて地獄に堕ちてきた時、ロアから案内を受けなかったのか?」
『その通り! ただし、この便の終点は等活地獄まで。降りた先で、それより先に進むには――』
あの時、『あの人』のことで頭がいっぱいだった愛はロアの話を最後まで聞き届けることもなく、早とちりにも話を途中で切り上げていた。そのことを思い出し、早とちりが過ぎる自分自身を悔いるように、愛の白い頬には見る見るうちに朱が挿し込まれていく。
「あの……ごめんなさい……」
その様子を呆れたような視線を向け、これ見よがしに溜息を吐くちり。
「ッたく……この校舎を出てすぐ、西に真っ直ぐ進んでいけば駅に着く。第二階層行きは、そこの一番乗り場だ。時刻表は無い、待ってりゃ気紛れにやってくる」
「……此処には無くても、どこかにはあるんじゃないかな。地獄に咲く、花」
面倒そうな態度からは意外なほど、思いの外しっかり案内してくれる赤い少女。相変わらず何を考えているのか解らない無表情のまま、それでもしっかり背中を押してくれる黒い少女。二人の少女に、愛は改めて深く頭を下げた。
「ありがとうございます。行ってみます」
新たな期待と希望を胸に、愛はその場から去ろうと踵を返す――
「待って」
――それは、殆ど無意識の行動だった。
無意識に、無自覚に、九十九の右手は咄嗟、ちりの中からするりと抜け出して。自分の目の前から立ち去ろうとする愛に向かって、真っ直ぐ伸ばされていたのだ。
それに愛も気が付き、歩みを止めて振り返る。
「どうかしましたか?」
「…………え。あ、いや…………」
理由も解らず、咄嗟に伸びた自分の手、まじまじと見つめて。そうしてようやく、慌てたように九十九は言葉を紡ぎ出す。
「ごめん……何でもない」
「……? そうですか。それでは」
不思議そうに首を傾げると、愛は再び歩き始めた。廊下を進む軽快な足音が次第に離れていく。校舎の中から愛の気配が完全に消えると、ようやく九十九はその右手を力無く下ろすのだった。
◆
「……しかし、傍迷惑な奴だったな」
愛が保健室から去って、しばらくした後。沈黙を破るように、ちりは大袈裟に溜息を吐いてみせる。九十九の横たわる寝台に腰掛け、己の赤髪、その毛先を指でくるくる弄りながら。
「ま、九十九の誤解は解けたわけだし……これでしばらくは等活も落ち着くだろ」
これにて事件は一件落着である。怪異殺しの悪魔は芥川九十九ではなかった。それどころか、真犯人とも呼ぶべき恐ろしい女怪異の暴走を食い止めてみせたのである。
今回の活躍によって、これまで九十九を王として支持していなかった者達も内外問わず評価せざるを得ないだろう。結果として『屑籠』の政治にとってはプラスに働いたわけである。
ああ良かった良かった、めでたしめでたし――
「私も」
――とは、当然ならない。
何故なら終わりというものは、いつも決まって唐突に訪れるものなのだから。
ちりの言葉を遮るように、九十九は身を捩るようにして起き上がる。足を寝台の下へ降ろし、そのまま立ち上がってみせる。その一挙手一投足にちりが目を奪われていると――続きの言葉を紡ぐため、九十九は再び口を開いた。
「私も、花を見てみたい」
その言葉を聞いた瞬間、ちりの心臓は酷く脈打っていた。喉が張り付いてしまったかのように、言葉が出てこない。
「……………………」
ちりは下唇をそっと噛み締めて、すこしの間を置いたあと。
「……花か。ああ、花な。うん。そういや見たことねーよな九十九は。後でまた教えてやるよ、どういうもんか……」
いつもやってきたように。いつもの調子、いつもの表情で、いつものように誤魔化してみせる。
「ちり」
――けれど。九十九の凪いだような赤い瞳は、残酷な程に、真っ直ぐで。
「……あァ、もしかしてあの女のこと心配してんのか? そりゃ、あの調子じゃ次の地獄でも苦労するだろうけどよ……でもアイツ、オマエとタメ張れるくらい強いんだぜ? 別に放っておいても大丈夫だって……」
――なんて、白々しい。
嘘偽りを知らない、彼女の純粋な心そのものを象ったようなその眼差しが今、誰の後ろ姿を捉えているのかなんて、口にしなくとも解る。
「ちり。聞いてほしい」
――あの時、あれと拳を交えたあの瞬間から、芥川九十九は決定的に変わってしまったのだ。
「思い知ったんだ。私はやっぱり、王と呼ばれるにはあまりにも、足りない。何もかもが、まだ全然。器じゃなかった。そんな不甲斐ない私だから、みんなが傷付いて……」
月並みな言葉だ、そう叫びたかった。行くなと言うのは簡単だ。王としての責任を果たせ、そう言うこともできる。
「ああ……いや、違う……違うな。それも、ただの言い訳だ」
けれど、それを言うには。一ノ瀬ちりはあまりに永く芥川九十九の傍に居た。現在進行形で芥川九十九の中で荒れ狂う感情の波、その正体を、本人以上に解ってしまったから。
「愛はきっと、私の知らない世界を知っている。私も、私の知らない世界を、知りたい。この目で確かめたい。花を見てみたい。愛が何なのか知りたい。あの瞬間、そう、思ったんだ」
それは――未知への憧れ。産まれて初めての、彼女の欲望。
「ごめん。私、王様辞めたいんだ。本当は」
そもそも王の責任なんて、最初からそんなものは無かった。九十九は文句一つ言わないから、都合よくそれを押し付けられて、今日まで王として囃し立てられてきた。
強く、気高かったが故に、九十九は求められるがままに等活地獄の王となった。そこに九十九自身の我欲は一切介在していない。
それを解っていながら、誰もが九十九に王として在ることを望んでしまっていた。それはちり自身が誰よりも――こんな日々がいつまでも続けばいい、続くだろうと、求めてしまっていた。
だけど九十九は、それを人並みに、苦痛に感じていた。ずっと重荷だったのだ。それを言い出せないまま、二百年。芥川九十九は王としてこの地獄に縛られ続けてきた。
嫌なら辞めていい。代わりならいくらでもいる。だから無理をするな――たったそれだけのことを、誰も芥川九十九には言ってやらなかった。だって辞められたら自分達が困るから。
まるで外灯に群がる蛾のよう。近付けば燃え尽きると解っていながら、それでも寄る辺を追い求めてしまった哀れな廃棄物――
自らの夢、自らの欲望を語る九十九の瞳が、まるでいつもと違う色のようで。自分と同じ色であるはずのその赤が、今のちりには別物のように思えてならなかった。
それはまるで、屑籠の中身を燃やす、焼却炉のような。きっとこの赤に廃棄物達は魅せられ、自身の運命を焚べてしまったのだろう。
「地獄に終わりは無い。終わりが無いのは疲れる……そう思ってた。けど、あの子は……終わらせたく無い物があると言った。私はそれが何なのか、知りたい……!」
だから、ああ、解ってしまう。解ってしまうのだ。解らないと偽ることすら、許されない。確かに芥川九十九は特別だったのかもしれない。それでも、人間だ。彼女もまた自分達と同じ人間だったのだ。
「本当にやりたいことが見つかったんだ。……わがままで、ごめん」
もう無知のままではいられない。自分の人生、自由に生きてみたい――なんて。そんな人並みの欲望を、彼女は当たり前のように持ち合わせていた。ただそれだけの話。そんなこと、解りたくもなかったのに。
「だから……ちり。もし良かったら、私と一緒に――――!」
「――――そんなこと、オレに言ってどうすんだよ」
ようやく、絞り出すように声を出したちりは、九十九がそれを聞き返す余裕すら与えずにその場から勢いよく立ち上がる。
「ちり……?」
「好きにしろ……どこにでも行っちまえ……っ!」
間髪入れずそう叫んで、逃げるようにその場から駆け出した。
「ちり、待っ……!」
自分の傍から走り去っていく背中を咄嗟に掴もうとした九十九の左手はしかし、虚空を切る。
「…………ちり…………」
教室にひとり、取り残された九十九。もう視界から消えてしまった赤い影の名残を追いかけるように、視線を彷徨わせた後――自らもまた、ゆっくりと其処から立ち去っていったのだった。