無間地獄 18
一方その頃。
蒸気機関の駆動音が響く中、シルクの薄衣よりも薄そうな、かすかに粉っぽいような、それほどに透明度の高い白い肌の女が目を覚ます。
首に下げた茜色のロケットペンダントが微かに音を立て、波打つような長い黒髪が肩から滑り落ちる。シンプルな白いカットソーと黒いスラックスを身に纏うその女は、輝きを失った漆黒の瞳で窓の外を覗いた。
其処には一面の黒い大海が広がっていて、空は夕焼けと呼ぶには仄暗い朱色をしている。流石の女も、此処が奇妙な場所であることは察しが付いた。そして自身が、どうやら機関車のようなものに乗っていることにも。
吊り革。ソファ。車窓。列車を構成する、女も生前に随分と見慣れたそれらの要素。一見するとありふれた造りでありながら、しかし、その列車からは同時に黒い大海の上を線路も無しに突き進む明確な異常性もまた見て取れた。
女の眼前、四つある車窓には――灰色の砂漠、がらくたの山、雪の降り積もる街並み、そして血塗れの一室に飾られた拷問器具の数々――それぞれの窓が別々の景色を映し出している。
どう見積もったところでそれは、現実ではおよそありえない光景だったのだが――しかし女はそれを前にして、取り乱すどころか冷静に落ち着いた表情を浮かべていた。
そう、此処が地獄であれば、この程度のことなど起きて然るべきであろうと。ただただ、女は目の前の事象を現実として素直に認めていたのである。
異常性と言うのなら、その場で最も異常で在ったのは、もしかすると女の方なのかもしれなかった。
「地獄へようこそ!」
そんな彼女の期待に答えるように、鈴を鳴らしたような小気味の良い音が鳴り響いた。それは女の頭上、列車の駅名を示す案内板の文字がくるくると回転し始めた頃を見計らったように――その姿を現す。
「やあやあ、はじめまして! ボクは『ロア』! キミの旅路をサポートするよ!」
七色の布が幾重にも重ねられた分厚い虹色のフレアスカート、幾何学のまだら模様浮かぶパーティースーツ、白塗りの顔を左半分覆い隠す黒仮面、束感のある白髪、頭上には先が黒と白の二又に分かれた道化の帽子。
そんなあからさまに怪しい彼、もしくは彼女。性別不詳、正体不明の、中性的な顔立ちの何者かが、女の頭上、ぷかぷかと宙に浮かんでいるのだった。
「自分でも解ってると思うけど、キミは死んだ。死んでこの地獄に来た。今のキミは『異能』と呼ばれるチカラを身に付けた、ヒトならざる不死身の『怪異』なのさ。人間じゃなくなった気分はどうだい?」
噂。そう名乗る彼もしくは彼女、くるくるり宙を舞いながら。宝石飾るネイルで彩られた両手、ひらひらり上下へ漂わせながら。笑い疲れて罅の割れた道化の白い頬、余計にぐしゃりと歪ませながら――その金色の瞳で女を見下ろしながら、歌うように言葉を紡ぐ。
「……はぁ。クソ眠い」
その明らかに異様な光景を目の当たりにして、しかし地獄に落ちて間もないはずの女は、意にも介さない。
「死んだ後ってこんな感じなのね、貴重な体験だわ。この事を学会で発表すれば人類の価値観は大きく変わるでしょうね。今更詮無いことだけど……」
それどころか退屈そうに欠伸をしてみせる女の態度に、ロアは大袈裟に首を傾げてみせる。まるで自分自身のことなど棚に上げて、奇妙なものを眺めるように。
「……要するに、これって異世界転生よね。私の生きる世界ではそれを証明できる科学的根拠は無かったけれど、未知の法則の実在を完全に否定することも出来ない。可能性としてだけなら、あり得ないとは言い切れなかった……」
目の前に佇むロアのことなど眼中にも無いように、女は一人ぶつぶつと思考を口から垂れ流す。
「とは言え……よりにもよって地獄か。人類の未来に、科学技術の発展に貢献したこの私を……地獄に落とすなんて。神様の目も節穴だな……面白くもない」
やがてその息に僅かな苛立ちを乗せ、車窓の端に肘を置き頬杖を付きながら、女は冷たく鋭いその目付きをようやくロアの方へと向けた。
「……とりあえず、煙草が吸いたいわ。ある?」
「此処まで来て、最初に気にするのがそれ? 変わってるね、キミ!」
「私に花を愛でる趣味があるように見える? それで、どうなの?」
ロアはようやく自分に興味が向かったことに、待ってましたと言わんばかりの愉しげな笑みを浮かべる。
「そうだねぇ……八大地獄の第二階層、黒縄地獄にでも行けば手に入るんじゃないかな? この便の終点は等活地獄まで。降りた先で、黒縄行きの駅を探すといいよ」
「……なにそれ。一つの世界が複数の階層に分かれているの? それとも、複数の異世界を総称した定義が地獄? いずれにせよ、列車で移動って……妙な世界ね」
他愛もない会話を交わしていると、不意に列車が金属の擦れる大きな音を立て、速度をゆっくりと落とし始めた。窓の外は赤い空に黒い大地、等活地獄のありふれた景色が広がっている。
「あ、そうだ」
その時だった。少しずつ減速していく列車の中、腰掛けていた横長の座席からゆっくり立ち上がると――
「私を殺した『あの子』がどこにいるか、知ってる?」
揺れる足場の上をしっかりとした体幹で踏み締めながら、まるで今さっき思い出したかのような口振りで、彼女がそう言ったのは。
「……さあ、知らないな」
「あっそう」
一瞬の間があった。その後、努めて無表情を装って、ロアは――地獄の案内人であるはずの彼は、はっきりと嘘を答える。しかしそれに気付いているのかいないのか、女は問い詰める素振りもなくあっさりと引き下がった。
「探すのかい?」
「そうね。会えたらいいなとは思ってる。アレは私の作品みたいな物だから。その研究成果が、ちゃんと人類の未来に遺っているかどうか……歴史にどれほどの影響を与えたのか……可能なら確認もしておきたいし」
何でも無いことのように呟きながら、女はその胸元に吊るされた茜色のペンダントを指で弄る。
「そもそもアレが人間として認められて、死後地獄に落ちてくるのか、純粋に興味もある。ヒトの形をしているから、可能性としては大いにあるわよね。そんな『あの子』を、もしも見つけられたなら……改めて別の使い道を模索するのも悪くない」
先端の装飾を親指で弾いて器用に開ける。その中の罅割れた写真を一瞥すると、彼女は特に感慨も無くそれを閉じ、すぐに扉の前を見据えた。
「……やめておいたほうが良いと思うけどねぇ。この広い地獄でヒト探しなんて、正気の沙汰じゃないよ」
「そう? でもま、他にやることも無いし。気長に探してみるわ」
言いながら気怠げに手のひらを振ってみせる女。その後ろ姿を、ロアは戦々恐々の内心で見つめていた。
当然、ロアは女の正体を識っている。果たして如何なる運命の悪戯か、彼女は地獄に落ちてきていたのだ。その意味するところは最早、今更語るべくもない。
「(……まぁ、流石に大丈夫か。今から向かったところで、衆合地獄に居る彼女達には追いつけない。彼女達だって、願いを叶える為には先へ進むしかない事は理解している。等活や黒縄に今更引き返すはずもない。『あの子』が『この女』と再会することはない。もしもそんな事態になれば、その時は――)」
『――――……次は……終点……等活地獄……です……――――』
無機質な声が車内に響き渡る。蒸気を吐き出す音と同時、列車はその動きを停止させると、やがてけたたましい音と共に自動開閉の扉を解放した。
「……おっと、もうこんな時間! さあさあ話はここまで! 往くといい、みんなが君のことを待っている! 大丈夫、みんなとってもいいヒト達だから、キミもきっとすぐ打ち解けられるはずさ!」
案内人に促されるがまま、女は開いた扉の向こうへ一歩、その足を踏み出す。プラットホームを形作るレンガのような材質の足場は古く、女の履くサンダルの薄い靴底でさえ、削ろうと思えば削れそうなほどだった。
列車が停まったということは、ここは駅の役割を果たしているのだろうと女にも推測は出来たが、そこは無人であるどころか改札すらない。そこはまるで人を降ろす為だけの場所として、足場だけが辛うじて整えられているようだった。
「ようこそ等活地獄へ! 歓迎しよう――『黄昏 籠命』!」
背後で扉が閉じていく。ノイズ混じりの発車メロディが周囲に響き、手形のような黒い染みがびっしり付いたその列車は、女を一人残して来た道を引き返していった。
地獄の第一階層、等活地獄。黒い太陽が浮かぶ赤い空と、植物の自生しない漆黒の大地。其処に蔓延るのは、血腥い怪異の住人達。皆等しく活き活きと、奪い合い殺し合う。弱肉強食、それがこの階層のルールである。
「はぁ……」
斯くして物語の場末、人知れず舞台に上がっていたその女――黄昏籠命は息を吐く。
どこまでも続く線路の上、等しく広がる地獄の赤い空を、その太陽のように黒く輝く瞳で以て忌々しげに睨み付けながら。
「……さて、どうするかな」
第一部・怪物少女の無双奇譚、終幕。
第二部・怪物少女の夢想偽譚に続く。