無間地獄 17
「…………………………………………」
その日、何の脈絡もなく芥川九十九は目を覚ました。
長い夢を見ていたような気がする。けれど、その内容がまるで思い出せない。ともかく現状を確認しようと、九十九は周囲を見渡した。
其処は自分達が拠点としているホテルの一室。寝室とリビングが地続きになっている広い空間、その奥の壁際に設置されたベッドの上。いつもの黒いジャージに身を包み、そこへ横たわる自分の身体。
リビングからドアを挟んで廊下、キッチンの方から水音が微かに聞こえてくる。それ以外は訪れた時からまるで変わり映えのしない風景だった。室内であるにも拘わらず微かに漂う白い霧も、やはりいつも通り。
「……んーっ……」
微睡みの抜け切っていない頭を無理矢理にでも起こそうと、上半身を起こし、そのまま両手を天へ掲げ上半身をぐっと伸ばす。全身に血の巡りを実感する。身体は依然重たいが、不調というわけではない。この気怠さは寝過ぎによるものだろう。
「……あれ、いつ寝たんだっけ……ていうか、何してたんだっけ……」
カーテンの隙間から漏れる赤い陽光がリビングのテーブルを微かに照らしている光景をぼんやり眺めながら、ゆっくり記憶を掘り起こす。意識を失う直前の景色を手繰り寄せる――
「え?」
その矢先のことだった。不意にリビングのドアが開き、中へ入ってきた足音に九十九が視線を向けると――素っ頓狂な声を上げる黄昏愛がそこにいた。愛は上体を起こしている九十九の姿に目を丸くして、その場に立ち尽くしている。
「あ、愛。おはよ」
呆然としている愛にいつもの調子で挨拶をする九十九。
「つ、九十九さんっ……!?」
ベッドの上で軽く手を振るそんな彼女に向かって、愛は慌てて駆け寄るのだった。
「あぁ……よかった、目を……っ……もう、心配したんですよ……!」
傍までやってきてしゃがみ込み、九十九の右手を愛はその両手で握り締める。愛の低い体温が掌を通じて微かに伝わってくる。
「ごめんね。えっと……私、どうしてこうなったんだっけ?」
「禁后ですよ、禁后っ!」
その単語を耳にした瞬間、廃墟で起きた『禁后』との戦闘、その場面ごとの記憶が急速に思い起こされていく――
「あ、そっか! そうだったそうだった」
「私達、どうにかあの部屋から脱出して、この拠点まで戻ってこれたのですが……九十九さん、気を失ってしまって……」
――そんな会話の最中。思い出していく記憶の中で、見覚えのない光景が混じっていることに、彼女は気が付く。
「……もしかして、結構寝てた? 私」
「いえ、まだ一日しか経っていませんよ。良かったです、すぐに目を覚ましてくれて」
「……そっか。そうなんだ……」
ぼやけていた意識が明瞭になる程、夢にしてはあまりにも鮮明な体験が、感情と共にはっきりと蘇ってくる。
「でも、すれ違っちゃいましたね。私の本体と、赤いヒト……たった今、この部屋を出たばかりなんですよ。最後の座標が解ったからって、二人だけで向かっちゃって」
「……たった今?」
「はい。ついさっきですよ。今から走って向かえば、まだ追いつけるかもしれませんけど……まあ、そこまでして合流しなくても、待っていればそのうち帰ってきますよ」
この時点で既に、九十九の記憶の中の体験と今の状況は明確に相違していた。
そうだ、この状況は明らかにおかしい。だって『禁后』に襲われた九十九は三日三晩、目を醒まさなかった。その間に愛とちりは北区に向かい、ちりは其処でシスター・フィデスと出会って『净罪』に手を出してしまった。そこから全てが狂い始めたのだ。
酩帝街から出た自分達は未知の階層に迷い込み、其処でちりが拐われてしまった。ちりを取り戻すべく焦熱地獄に向かったが、羅刹王に返り討ちに遭った挙げ句、ちりは如月真宵の異能を完成させる為の材料にされた。最後の頼みの綱だった無間地獄も、閻魔大王の謀略により愛は願いと引き換えに魔王にさせられ、無間地獄に閉じ込められた。
残された芥川九十九はその後、シスター・マルガリタに殺されて、そして――
「…………………………………………思い、出した」
――あの空間で、少女と出逢った。
少女から告げられた真実。芥川九十九の正体。ある地点から物語を再開する、それが『偽物の悪魔』の異能。
最初はその言葉の意味がまるで解らなかった九十九も、今この状況を実際に目の当たりにして、ようやくその意味を完全に理解していた。
「時間が……巻き戻っている……?」
そう。今居る此処は間違いなく地獄の第三階層、衆合地獄。時系列は一ノ瀬ちりが『净罪』に手を出す直前。本来であれば九十九が目を醒ますはずのないタイミング。
なら、まだ間に合う。ここから先の未来、その結末は『偽物の悪魔』である芥川九十九の行動如何によって、変えることが可能――そういうことなのだ。
「…………行かなくちゃ…………!!」
自分に置かれた状況を理解した瞬間、考えるよりも先に体が動いていた。横になっていたベッドから飛び上がるようにその身を起こすと、部屋の外に向かって駆け出そうとする。
しかしそんな九十九の意思に反し、彼女は脚は床を踏んだ直後に縺れ、そのまま力が抜けていくように彼女はその場で倒れてしまった。
「え、ちょ、九十九さん!? 急に起き上がっちゃだめですよ!?」
突然のことに咄嗟の反応が遅れた黄昏愛、もといその分身は、倒れた九十九に慌てて駆け寄り肩を貸す。
「気持ちはわかりますけど、安静にしていないと! まだ万全じゃないんですから!」
本来この時間軸の芥川九十九は、三日間休眠しなければならないほど体力を消耗していた。そんな状態であるにもかかわらず、時間を巻き戻す悪魔の異能は彼女の意識を半ば強制的に叩き起こしたのだろう。ここが分水嶺、今行かなければ間に合わないぞと言わんばかりに。
「くそっ……愛……ちり……!!」
己を叱咤するように、九十九は血が滲むほど唇を強く噛み締める。そのまま這ってでも向かおうとしているような彼女の執念、その豹変ぶりに愛の分身は困惑の表情を浮かべていた。
◆
その時。九十九達が宿泊している部屋の玄関前、忍び寄る二つの人影。
一人は、白く透き通った肌。整った顔付きを彩る濃いめの化粧。プラチナブロンドの美しいロングヘアー、その頭上に赤く巨大な角が二本、頭蓋を突き破って隆起している。黒いマスカラが煌めく大粒の黒い右目に対し、長い前髪に隠れた紫の左目。何の変哲もない白いセーラー服の上からカーディガンを羽織った、そんな少女。
もう一人は、光も通さないような漆黒の肌。鋭く光る金色の双眸。長身で筋肉質、黒い修道服の上から黒い革のジャケット羽織り、丸いフレームのサングラスを掛けた、黒髪ショートパーマの女。
顔一面に薔薇と茨を模したタトゥーが隙間なく掘られており、首から下げた大きなロザリオは毒々しい金色を放っている。
耳も鼻も唇もピアスだらけで、見るからにカタギではない。そんな彼女がまるでボディガードのように、ブロンドの少女の背後で静かに控えていた。
先頭を往くブロンドの少女は、九十九達の部屋の前に立つと、その扉に何の躊躇いも無く手を掛けた。鍵の無い部屋の扉は何の抵抗もなく開け放たれ、二人の侵入を簡単に許す。
彼女達は土足のまま上がり込み、廊下を不躾に踏み鳴らす。その足取りは明らかに確信をもって、九十九達の居るリビングへと向かっていた。
◆
「おいっすー、九十九っち。迎えにきたぜー」
まるで当たり前のような気軽さで、気の抜けた声がリビング内に響き渡る。突如現れた二人組の来訪者、ブロンドの少女と黒い女。それを前にして、愛も九十九もその場で呆然と固まっていた。
愛にとっては純粋に、突然の来訪者に対する驚きから。そして九十九とっては、前回の記憶にはないイレギュラーな事態。二人は揃って、動きだけでなくその思考も完全に停止していた。
「つか何気に初めましてだよね? あーしは『滅三川ジェーン瞳』ちゃん。で、こっちが『どろろっち』ね。よろしくー」
ブロンドの少女――滅三川を名乗るその怪異は、自分の背後に立つ黒い女――どろろっちに指差して、とても初めましてのそれとは到底思えない簡単な挨拶を済ませる。
「とりま立ち話もなんだし、そろそろ行きますかー?」
唖然とする愛と九十九を差し置いて、滅三川は異様な軽やかさで話を進めていく。玄関の方を気怠げに指差し、まるでこれから近所のコンビニにでも向かうのかと勘違いしそうになる口振りで。
「……何なんですか、貴女達」
いつまでも固まっているわけにはいかない。最初に声を上げた愛は、周囲に酩酊の白い霧を発生させる程の敵意を伴った強い警戒の色を滲ませる。ハイライトの無い黒い瞳孔が滅三川を鋭く睨み付ける。
「んー、ごめ。あーしが用あんのは九十九っちだけなんだよねー」
しかしそれを前にしても滅三川の態度は変わらない。滅三川は申し訳無さそうに眉尻を下げつつ、その長い前髪に見え隠れする黒と紫のオッドアイは芥川九十九にのみ注がれている。
「救いに行くっしょ? 世界。そのために時間巻き戻したんじゃん? 大変そだから、あーしが手ぇ貸してやるつってんの」
そうして彼女は、聞き逃しそうになる程にあっさりと――けれど確かにはっきりと、そう言ったのだ。
「…………え?」
一拍置いて、ようやくその言葉が理解に到達して尚、九十九は真っ先に自分の耳を疑っていた。そんな九十九の疑問に滅三川は答えるでもなく、ただ不敵に微笑んで――
「行くよ、芥川九十九。ここからが本当の下剋上だぜ」
真っ直ぐネイルに彩られたその右手を、九十九に向かって差し出したのだ。
◆
地獄。其処はどこまでも続く線路の上、等しく赤い空の広がる世界。其処を舞台に繰り広げられる、一つしか無い椅子の奪い合い。盤上に集うのは、終わりを望む者と、終わりに抗う者。
斯くして少女達の運命は交差する。果たして次の物語は如何なる結末に辿り着くのか。新しい物語は、ここから始まった。