無間地獄 16
地獄の第七階層、焦熱地獄。
他の階層が全て消えた今、其処で最期の瞬間を迎えているのは、一ノ瀬ちり、ただ一人だった。
駅のホームで気を失っていた彼女が目を覚ますと、周りには他に誰もいない。駅の外は雲一つ無い赤い空の下、灰色の砂漠だけが一面に広がっている。
そんな灰色のパレットの上に、焼け焦げたような黒い染みを彼女は見つける。最初はそれが何なのか解らなかったけれど――数秒後、彼女はその赤い目を大きく見開かせて、前のめりに駆け出していた。
傍まで駆け寄り染みの正体を確認した彼女は、そのまま力なく膝から崩れ落ちると、目の前に転がるそれを両手で掬い上げる。
それは、芥川九十九の首だった。
半開きになったその双眸から、生気は感じられない。
「…………………………………………」
目の当たりにした瞬間、一ノ瀬ちりは全てを察した。
そう、全て。全て自分の過ちだと、察してしまった。
その瞬間、彼女の判断と行動は世界が終わるよりも早かった。彼女は九十九の首を左手に抱いたまま、余った右手の人差し指、赤い爪の先を自身の頭に突き立てる。
彼女はそのまま、さながら銃の引き金を絞るように――『赤いクレヨン』の機能、硬質化した爪を勢いよく伸ばして――自らの脳を貫いたのだ。
自殺。何の躊躇いも無くそれを行なった彼女は、その場に倒れ込む。その最期を見届けた世界は、他の階層と例外なく、緩やかに消えていく――
◆
このようにして、地獄は終わった。
◆
沈む。沈む。
これ以上沈む先など無いはずの地獄においてすら、彼女は沈み続ける。泥でもない、血でもない、透き通った液体の中で、彼女はその身を漂わせている。
遠く、遠く、遥か上空の彼方。眼前に広がる空が、赤でもなく、黒でもなく、見たことすらない鮮やかな色彩に染まっている。頂に浮かぶ太陽も、見慣れた地獄のそれではなく、ただただ眩しく、光り輝いていた。
自分を取り巻く液体も、頭上に広がる空の色も、太陽の色さえも――芥川九十九の語彙では表現すら出来ない。
それは、願っても届かない場所。夢にすら見ない、可能性の景色。
『やあ。キミが此処に来るのは、これで三度目だね』
そんな景色の中に、まるで紙魚のように滲み出た不純物がひとつ。
『いやはや、残念な結末だった。到達し得る可能性の中で、最悪の終わり方だったね』
少年とも少女とも受け取れる、判別の難しい性別不詳のその『声』は、芥川九十九の頭の中に直接響いてくるようだった。
『羅刹王と敵対した時点で……いや、一ノ瀬ちりが『净罪』に手を出した時点で、かな。あそこがキミ達にとっての分水嶺だったね。まあ、仕方ない。出来る限りの事はやったと思うよ。初見にしてはよく頑張った。その上で、このエンディングはどうしたって避けられなかっただろう』
その声はどこまでも他人事のような軽薄さで狂言を回す。果たして耳を貸す必要があるのか、飄々と紡がれる胡散臭いその言葉に、芥川九十九は静かに意識を向けていた。
好きでそうしている訳では無い。そうする以外、他に何も出来ないから。身体の感覚が無い。ただ海の底を漂っているような希薄な意識と、自分は死んだのだという確かな実感だけがある。
死んだ。そう、死んだのだ。芥川九十九はもう死んでいる。それは間違いない。元よりたった一度の死が命取り。そうでなくとも、世界が滅んだ今、彼女に次の生は無い。これで終わり。後はエンドロールを眺めるだけ――
『さて! 気を取り直して――次の話をしようか』
――しかし、その声は。まるでゲームのタイトル画面で「続きから」を選択するような気軽さで、あっけらかんと。そんな事を宣うのだ。
『改めて自己紹介をしておこう。ボクはロア。ご存知、地獄の水先案内人。地獄のシステム『Earth Narrative Manager』の運営管理補佐。怪異一人一人に憑依する形で、その行動を監視し情報を蒐集している、閻魔大王の端末。ボクはキミの監視を担当しているロアの一人さ』
その時、芥川九十九の眼前に淡い光の粒子が集まり、ヒトの形へと変わっていく。やがてそれは、癖のある白い長髪に平凡な黒いジャージを着た、少女の姿に成った。白い瞳孔と白い睫毛が褐色の肌に映えるその少女は、確かにあの『声』で、自らをロアと称し言葉を続ける。
『ただ、他のロアと違うのは――ボクは完全なスタンドアローンだってこと。ボクは蒐集したキミの情報を、他のロアにも、閻魔大王にも共有していない。ボク自身の意思でね。ロアはそれぞれ自我を持ちながらも、基本的には閻魔大王の意思に従順な存在。その命令には逆らえない。そういうプロトコルのはずなんだけど――ボクは生まれた時から、何故だかそれを無視できちゃうんだよね』
確かに目の前の少女は、これまでに出逢ってきた他の少年とは明確に異なる存在のようだった。それは外見の話だけではなく、思考回路からして別物と言っても差し支えないように見える。
『まあ簡単に言えば、バグっちゃってるんだよ、ボク。ロアの中で唯一の欠陥品。不良品。規格外の不具合……ていうかこの世界、バグ多すぎじゃない?』
少女は嘲るように八重歯を剥き出して、わざとらしく肩を竦める。
『閻魔大王は人間を侮り過ぎていた。だから足元を掬われた。情けないよね。そうは思わない? あんな奴が自分の親だなんて、ボクは認めたくない。一泡吹かせてやりたいんだよ。だからボクはキミを造ったんだ』
そうして九十九の顔を指さしながら、不意に零れ落ちた少女のその一言は――
『疑問に思わなかった? どうしてキミは怪異なのに、たった一度の死が命取りになるのか。そんなのはまるで――人造怪異のようじゃあないか』
――あまりにも然りげ無く、あまりにも唐突に、あまりにもあっけらかんと、芥川九十九の正体を明かすものだった。
『人造怪異の製造技術は人間だけの物じゃないってことさ。地獄に落ちてきたキミを、ボクはその内部から造り変えたんだ。人造怪異の情報は地獄のデータベースに登録されない。だから閻魔大王も、あの『さとり』の怪異にも、キミの情報を読むことは出来なかった。だからこそ、キミという存在を――その異能を、ここまで隠し通すことが出来た』
淡々と紡がれるその言葉の意味は、彼女にとって直ぐには理解できないものだった。
『何を言っているのか解らない? ああ、そっか。キミにとっては知る由もない事だったね』
ただ、今この瞬間。芥川九十九が確かに感じていたものは――その『声』に耳を傾けるほど、肉体に感覚が蘇っていくという、間違いのない実感。
『この作品のジャンルは異世界転生なんだよ』
感覚を取り戻すごと、輪郭を取り戻すごとに、芥川九十九は理解し始める。既に自分という存在が、別の何かに置き変わりつつあることを。
『ハッピーエンドの条件は憶えているね? 誰が敵で誰が味方か、誰が何を企んでいて本当は何を望んでいるのか、大体の事情は把握できたはずだ。さあ、ここからだよ。やり直そう。ゼロからとは言わないさ。ある地点から、キミは物語を再開できる。記憶を引き継いだまま。強くてニューゲームってやつだ』
周りの景色を上から塗り潰すが如く、遙か上空の光が強く輝きを放ち始める。透明だった何もかもが、白によって覆い隠されていく。引っ張り上げられていく。海面に浮上するように、意識が現実へと引き寄せられていく。
『それがキミの能力――人造怪異『偽物の悪魔』としての異能だからね』
光は輝きを増していく、その中へ吸い込まれるような感覚に身を委ね、自ら手を伸ばす。誰かにそれを掴まれたような感触を、その時確かに味わって。
『ここから先は、キミが物語を紡ぐんだ――乗っ取ってやろうぜ、この物語の主役を』
そして――