無間地獄 15
地獄の第三階層、衆合地獄。
酩帝街。其処は来る者拒まず、去る者を憂う街。立ち入った者を酩酊の中に閉じ込めて、辛い過去を忘却させ、現実を停滞させる。逃避を肯定し、あまねく人々に幸福を齎す為の場所。
そして此処は西区の住宅街。高層建築物が建ち並ぶその中の一棟、雲にも近い場所から街全体を見下ろせる暗がりの一室で、今日も彼女達は交じり合っていた。
「っ……ライザ、さまぁ……」
この酩帝街で慈善的にバンド活動をしている『Dope Ness Under Ground』――そのメンバーの一人、キョン子という偽名を名乗る少女。インナーカラーをピンクに染めた黒髪姫カットの彼女は今、いつものゴシックロリータ調の服装を脱ぎ捨て、裸のままシーツの上にその背を沈み込ませている。
そんな彼女の上に覆い被さっているのは、同じくメンバーのライザ・スターリナ・クロヴォプスコフ。短く整えられた金髪、その前髪に一筋の赤いメッシュが重力に従い微かに揺れる。彼女もまた一糸纏わぬ姿のまま、その碧眼で少女を見下ろす。
「名前、を……呼んで……呼んで、くださいぃ……っ」
掠れた呻き声を漏らすキョン子――そんな彼女の首を、ライザをその両手で力一杯に締め上げていた。
当然、そんな事をすれば酩帝街の掟、盛者必衰の理に抵触して強制的に酩酊、泥酔、昏睡させられる。実際、彼女の周囲にはその行為を咎めるように白い濃霧が立ち込めていた。
「嗚呼……『百合』……愛してるよ……」
しかし、彼女達の頬に射し込む朱は酩酊のそれではない。意識も言動もはっきりとしている。無論、二人は『净罪』をしていない。酩酊の耐性なんて持っていない。にもかかわらず、まるで其処に『二人だけの世界』があるかのように――何者も彼女達を縛ることは出来ないようだった。
「ぅ……ごっ……ぉ゛…………」
ライザに首を締められるキョン子――もとい『黒須百合』は、本名を呼ばれた途端に息を荒げ、その身を痙攣させ始める。その苦しみから藻掻くどころか、ライザの両手に自ら手を添えて、その最後の一線を超えるように促していた。
その光景が異常な興奮を齎しているのか、ライザの息も次第に荒くなっていく。生前より彼女を苛む、ぐつぐつと煮えたぎるような殺人衝動。その渇きが満たされていく。表舞台では決して見ることの出来ない、餓えた獣のような剥き出しの欲望がそこに顕れていた。
やがてキョン子は一際強く体を跳ね上げると、ぴくりとも動かなくなった。心臓が止まっている。それは酩帝街という環境においては数少ない、明確なイレギュラー。理を無視して行為に及ぶ、それを可能にする事こそ、黒須百合――『キョンシー』の怪異である彼女の異能だった。
行為が終わったことを悟ったライザの体は、その余韻を浸るように何度も大きく呼吸を繰り返す。焦がれるような熱が次第に冷めていき、心地の良い倦怠感に支配されていく。
そうして落ち着いた頃、ライザはおもむろに、その掌をキョン子の胸に押し当てた。直後、ライザの全身が碧く稲光を発して――『麒麟』の異能による電流が、止まっていたキョン子の心臓を叩き起こす。
死んでいたキョン子の体はその瞬間びくりと大きく跳ね上がって、数秒後。呼吸を再開した彼女は荒く咳き込みながらも、その身をゆっくりと起こす。
自分が死に、そして生き返ったことを理解したキョン子は、慈しむような表情を浮かべていた。そのまま目の前のライザに艶めかしく寄りかかる。
「……ありがとう、百合。いつもすまないね、私の為に……」
ライザはキョン子の冷えた体を、今度は優しく抱き寄せると、その耳元で吐息混じりに囁いた。その表情に僅かな懺悔の色を滲ませて。
「ううん……だいじょうぶぅ……ライザさまぁ……好きぃ……」
しかし首を絞められた当の本人は心底幸せそうに、うっとりとした微笑を浮かべていた。これが彼女達の日常。永遠に繰り返される、変わることのない愛の営み――
「……………………?」
――そんな日々にも、唐突な終わりが訪れる。
ライザ・スターリナ・クロヴォプスコフ。体内電流を自在に操れる彼女の異能は、それに適応した肉体の改造によって神経系が強化されており、常に一秒先の未来が視えている。
だから彼女は気が付いた。一秒先に視えた不可解な景色――その正体を確かめる為、彼女は咄嗟に窓の外へ視線をやった。まるで引き寄せられるようにライザは立ち上がり、窓の傍に近付いていく。
その瞬間だった。彼女達の居るその一室が突如、その端々から淡く光る白い粒子を溢れさせる。雪のようなそれは、まるで炭酸が抜けていくように、天井を貫通して空へと昇っていく。その現象は窓の向こう、街全体で起こり始めていた。酩酊の霧とは明らかに別種の、白い闇。
「これは……」
ライザはその光景を、ただ呆然と眺めていた。そうすることしか、今の彼女に出来ることは何も無かった。世界の終わりはもう、止められない。
「……ライザさまぁ」
呆然とするライザの隣へ、擦り寄るようにキョン子が並び立つ。彼女はライザの冷えた手を掬い取るように握り締めると、その黒い瞳で真っ直ぐ、消えていく世界を見据えた。
「キョン子の手、握っててくださいねぇ……」
何が起きているのか、彼女達には解らない。それでも、何か感じるところがあったのか――最期の瞬間、愛する人の手を離さないよう、二人は深く指を絡ませ合っていた。
◆
酩帝街北区。人を嫌うシスター・フィデスは西区の住宅街ではなく、酩酊の霧が濃い北区の廃墟を寝床としていた。『净罪』をしている彼女にとって霧の濃さは問題にならない。その静謐に浸るように彼女は独り、壁さえ無いがらんどうとした灰色の空間、中央の椅子に腰掛けて『閻魔帳』を開いていた。
「終わったナ」
一度面識のある相手の思考含むあらゆる情報を読むことが出来る『さとり』の異能、その具現化である頁の中身を、フィデスは隅々まで目で追っていく。開闢王の思考を読むことで無間地獄での魔王攻略に成功したことを識ったフィデスは、ようやく肩の荷が下りたように深く息を吐いていた。
そんな彼女がふと思い立ったように、おもむろに頁を捲る。そこに記載されていたのは、その殆どが黒く塗り潰されていて読めたものではない――芥川九十九のプロフィール。
異能も機能も、怪異に関する情報は何一つ読むことは出来ない。それがある種、芥川九十九という存在の規格外を表しているようでもあった。
それでも『さとり』の異能は、辛うじて彼女の心を読むことは出来た。フィデスはそこへ慎重に目を通す。最期の瞬間を書き表したその文章の末尾には間違いなく、芥川九十九の死が記載されている。
「……死んでいル。間違いなク……」
そう呟くフィデスの表情は、どこか安堵しているようにも見えた。
「芥川九十九……思考以外の情報が殆ど何も読めないブラックボックス。奴の存在は計画に支障をきたす可能性があっタ。だから無間地獄には極力近付かせたくは無かったガ……結局杞憂だったナ」
最後の懸念を念入りに潰して、フィデスは静かに本を閉じる。長く伸びた銀の髪を床に垂らして、彼女の灼眼の双眸もまたエンドロールを噛み締めるようにゆっくりと閉ざされていった。
「フィデスさまっ!!」
その静寂を破ったのは、美しい金色の長髪を靡かせる『吸血鬼』――シスター・アナスタシア。少女はフィデスのように『净罪』をしていないが、他人よりも素の酩酊耐性が強く、北区に近付くだけなら頬を赤らめる程度で済む。
そんな彼女が肩で息をしながら、フィデスの住処に駆け込んできた。額に汗を滲ませた彼女の表情は、困惑と焦燥の色に塗り潰されている。
「ま、街が……おかしいのですっ! 何か、ご存知ありませんか……!?」
アナスタシアの指差す街の景色は既に白い粒子に満たされて、その輪郭は今にも崩れそうなほど曖昧になっていた。
焦るアナスタシアの様子を静かに一瞥して、フィデスは椅子から腰を持ち上げる。そうしてゆっくりと、彼女はアナスタシアの目の前まで歩み寄っていった。
「大丈夫、終わるだけダ。開闢王が願いを叶えたからナ」
「お、終わる……? どういうことですか……?」
アナスタシアを見下ろし呟くフィデスの顔は、まるで憑き物が落ちたような無表情で。それを見上げるアナスタシアの困惑は一層強くなるばかり。
そんな少女の痩身を、フィデスはそっと抱き寄せた。アナスタシアは抵抗こそしないものの、フィデスを見上げるその顔は戸惑いに歪んだまま。
いつもなら嬉しいはずなのに――修道服越しに感じるフィデスの体温は吸血鬼のそれよりも冷たくて。アナスタシアは抱き締め返すことができずに立ち竦む。
「……リリス。オマエの尊厳ヲ、アタシはようやク……守ることができル」
そうして、どこか懺悔をするようにフィデスの口から零れ落ちた、その言葉。『リリス』という名に、アナスタシアはその目を僅かに見開かせた。
「フィデス、さま……? リリスとは……一体、誰のことで……」
リリス。それはアナスタシアにとって、まるで聞き覚えのない響き。けれど、打ちひしがれたように弱々しくその名を口にするフィデスの様子を目の当たりにして、察する。
「もしかして、余は……何かを、忘れているのですか……?」
「……いいんダ。もウ……」
その問いかけに、フィデスは答えない。ただその輪郭が少しずつほどけていき、空に昇っていく自身の欠片を、彼女は視線で見送った。
「フィデスさま」
アナスタシアの小さな手が、フィデスの胸元を浅く掴む。その宝石のような赤い瞳は理外の恐怖に怯え、微かに震えていた。
「余は……『アナスタシア』は、まだ……死にたくありません」
何も解らない。ただきっと、これから自分は消えるのだと――追いつかない理解の中でそれだけは感じ取った少女が、懇願するように声を漏らす。彼女の滲んだ視界に映るフィデスは最期、氷像のようだったその顔を微かに綻ばせ、口を開いた。
「……アタシハ、『オマエ』を殺したイ」
◆
酩帝街中央区。彼女のライブを待ち望み、ドームの中で犇めき合っていた観客達は皆、跡形もなく消えていった。
中央ステージに一人取り残されたのは、ヒト呼んで忘却齎す堕天王。スーパーアイドル・あきらっきーこと如月暁星。碧い長髪を双つに結った彼女は、いつも通りアイドル衣装を完璧に着こなして、ステージの上に立っている。
ライブの途中、観客席から彼女を見上げていた無数の人影が突如、彼女の目の前で霞のように消えて無くなった。その現象を目の当たりにした如月暁星は、スポットライトの中央、表情を失った顔で、ただ静かに目を見開かせている。
「いやあ、終わったねえ」
その時ステージの袖から一人の女が姿を現した。女は緋色の髪をウルフカットに整えて、その目に薄く色の付いた眼鏡をかけている。ニットとジーンズの上からチェスターコートを羽織った、地獄の住人らしからぬ綺羅びやかな格好。薄く笑みを貼り付かせ、ずかずかとステージに上がり込んでくる。どこかわざとらしい訛り口調、響かせて。
「……あなたは?」
突如現れたその女に対し、如月暁星は顔色一つ変えることなく、僅かに微笑さえ携えて言葉を投げかけた。この状況において焦りの色すら見せない冷静な振る舞いに、女は乾いた笑みを漏らす。
「はじめましてえ。物部天獄ですう」
女は少し離れた所で立ち止まると、極々自然に嘯いた。見るからに胡散臭いが、それでも如月暁星は笑顔を崩さない。それがアイドルとしての矜持だと言わんばかり。
「そうなんだ! とっても素敵なお名前だね★」
「あはは。そうなんよお。うちもねえ、これまで色んな名前使ってきたけど、結局これが一番しっくりくるのよねえ。一度聞いたら忘れられへんでしょお?」
「うんっ! 憶えたよ★」
朱と蒼のオッドアイを煌めかせて、場違いなほどいつも通り明るく振る舞う彼女。しかし決して、それは彼女が呑気だからという訳ではない。
「それで、物部さん? あなた、何をしたの?」
今この世界で何が起きているのか。誰がこれを引き起こしたのか。その本質を、彼女は確かに気が付いていた。
彼女達が居るドーム会場はその節々から軋むような音を立て、少しずつ瓦解している。弾けるように空へと昇る白い粒子は如月暁星だけでなく、物部天獄を名乗るその女の体からも同様に、絶え間なく溢れ出している。
「ええ? うちはなんも? ただほんのすこおし、背中を押してあげただけ」
だと言うのに、女は自分自身の事でさえどうなろうが知った事ではないと、投げやりにせせら笑う。その飄々とした態度は、果たしてどこまでが嘘でどこまでが真実なのか。彼女という存在そのものを、どこまでも薄っぺらく演出している。
「うちねえ。本当に最期の瞬間、最期に見たい景色は、最初から決めてたの」
そんな彼女が、不意に。細く長い双眸の隙間から、黒く濁った瞳を覗かせた、次の瞬間。
「如月真宵は、お前を助ける為に羅刹王を殺した」
これまで軽薄だった女の声に、確かな感情の色が宿っていた。
「…………え?」
それはまるで、罪を咎めるように。突如酷薄に告げられたその一言は――笑顔のプロとして、人前ではどんな時も崩れることの無かった如月暁星の顔から、表情を引き剥がす。
「羅刹王が居なくなったから、開闢王は無間地獄に辿り着く事が出来た。願いを叶える事が出来た。これから地獄は消滅する。全人類が死に絶える。如月真宵のせいで。如月暁星のせいで。お前らのせいで。みんな死ぬ」
如月真宵。唯一無二の妹。その名が出てきた時点で、如月暁星の精神は否応なしに掻き乱される。
「……………………」
最愛の妹に、何かがあった。地獄の終焉に繋がるような何かが。そんな最悪の可能性を、暁星は直感する。その瞬間、彼女の顔からは完全に血色を失っていた。開いた瞳孔が微かに揺れる。息が喉に詰まり、額に滲んだ汗が流れ頬を伝った。
「……うふ。ああ、そう……その顔」
絶望の色に染まっていく如月暁星を前にして、女の口角は醜く吊り上がっていく。血の気の引いたその顔を覗き込むように、少しずつ、少しずつ、躙り寄る。
「私ねえ、ずっと……ずっとずっとずうっと……お前のその顔が見たくってえ……」
やがて目と鼻の先まで這い寄ってきた女は、虚空を捉えている彼女の視界に自分という存在をねじ込むように、その顔を息がかかる距離まで肉薄させた。
「ああ、やっと……うふふ。お願い、叶っちゃった」
悪魔のような粘性伴う囁き声。目の前で発せられたそれに対し、如月暁星は微塵も反応を示さない。まるで時間が停止したように、彼女はただ呆然と其処に立っている。体も心も霞がかって、その輪郭が徐々に失われていく。
最期の瞬間。それまで邪悪に嗤っていた女は不意にその口角を落とし、やがて心底退屈そうに苛立ちの乗った息を漏らす。
「……こんなもんかよ。つまんねえなあ……」
何もかもに失望したような、そんな呪いじみた言葉を残して――地獄諸共、女は跡形もなく消え去るのだった。