無間地獄 14
魔王の死を見届けた世界は新たな王を迎えるべく、光に塗り潰されていた景色に本来の色を取り戻していく。役割を終えた『ヨグ=ソトース』は、まるで悪い夢だったかのように跡形も無く霧散して――そこに残ったのは、宇宙を剥き出したように黒みがかった赤い空。崩壊した黒い大地の破片は未だ宙を漂い、地獄の底は赫々とした溶岩を輝かせている。
そんな崩れた瓦礫の一つ、頼りない足場をその巨体で包み込んでいたシスター・マルガリタは機械仕掛けの身体を変形させ、少しずつ元の人型へと戻っていった。やがて彼女は天使のように、足場に蹲る開闢王と歪神楽ゆらぎの傍に舞い降りる。
『ホラ起きて、お二人さん! まだ最後の仕上げが残っているでしょう♪』
その声を陽気に響かせて、寝坊助を起こすようにマルガリタは両手を激しく叩く。皮膚のない金属質の掌同士がぶつかり合って、耳障りな音が辺りに轟いた。
「っ……う……」
ほとんど前のめりに倒れ込むような姿勢で蹲っていた歪神楽ゆらぎが、その細い腕を震わせて、ゆっくりと上体を起こす。正しく叩き起こされた彼女は、その眉間に皺を寄せ、血の気を失った蒼白の顔面のまま空を見上げる。
彼女はそのまま、まだ焦点の定まっていない虹色の瞳をぎょろりと動かし、周囲を注意深く見渡した。
「お……終わった……?」
『ええ! マルガリタ達の勝利よ♪』
黄昏愛の姿も『ヨグ=ソトース』の姿も、どこにも無いことを確認すると、ゆらぎはようやく安堵したように息を吐く。そのまま立ち上がろうとするが、しかし脚は震えるばかりで力が入らない。気力を完全に使い果たしてしまったのか、結局その場から立ち上がることは出来なかった。
「…………ゆらぎ」
そんな彼女に優しく声をかける存在に気が付いて、ゆらぎは咄嗟に顔を持ち上げた。その視線には、同じく上半身だけを起こしてそこに跪く開闢王の姿がある。
彼女の正体を隠していたペストマスクは今や崩れ落ち、その火傷に侵された顔面と、輪郭を覆う程度に伸びた金色の髪が白日の下に晒されている。彼女の螺旋渦巻く銀色の瞳が、ゆらぎの虹色の瞳と視線を交わす。
「…………よく、がんばりましたね」
傷付き乾いたその唇から、慈しむような声色が微かに漏れた途端、開闢王の肌が灰になるように少しずつ崩れ落ちていった。『ヨグ=ソトース』を召喚した代償か、その命の灯火は今にも消えかかっているのが見て取れる。
「おかあさん……」
ゆらぎにも、こうなる事は解っていた。『ヨグ=ソトース』の異能を限定解除する為に、その等価交換として必要な代償は、肉体の消滅。怪異の自然治癒機能も働かず、未来永劫意識だけの存在となる。だから『ヨグ=ソトース』は、本当に最後の奥の手だった。チャンスは一度きり。二度は無い。
そのチャンスを、彼女達は無駄にしなかった。魔王を倒して世界を救う、そんな王道ファンタジーさながらのハッピーエンドに、この物語は辿り着いたのである。
「さあ……教えた通りに」
「……うん」
斯くして願いを叶える権利は『ヨグ=ソトース』の使役者である歪神楽ゆらぎに与えられた。彼女はゆっくりと息を吸い込んで――やがて鋭く、空を睨みつける。
「あたしの……あたしたちの願いは……この地獄から、怪異という概念を……無かったことにすること」
無いモノを有ったコトには出来ない。それが無間地獄――『物語の世界』のルールである。
◆
その異世界には『物語』が在った。しかし『物語』には形が無く、他に何も無かった。『物語』は観測する者がいるからこそ存在が証明される。観測者がいない世界において、『物語』は在るはずなのに無いことにされていた。
何も無いから、何も有ったコトには出来ない。太陽も水も空気も階層も列車も無い、物質の存在しないただ虚無が広がるだけの空間――それが原初の地獄だった。
そこで『物語』達にとっての閻魔大王――魔王『アザトース』は、異世界から死後の人間の魂を蒐集することにした。
無いモノを有ったコトには出来ないが、既に有るモノを材料に偽物を造り出すことは出来る。こうして蒐集した人間の魂を材料に造り出した器を『物語』が乗っ取り、同一の存在と化したモノ――それこそが、この世界における怪異という概念である。
人間は物語が地獄で受肉する為に必要な宿主。今の地獄で形の有るモノ、太陽も水も空気も階層も列車も全て、『物語』が受肉した怪異の姿。『物語』は人間に寄生することで形を手に入れたのだ。
それは閻魔大王にとっても同様で、彼はこの世界で受肉する為、自らの狂気に耐えられる器を無間地獄に誘い込み、願いを叶えることと引き換えにその肉体の所有権を手に入れた。
地獄は『物語』の為の世界であり、人間は『物語』にとって依代に過ぎない。この世界はそういう風に出来ていた。
◆
つまり怪異という概念が無くなれば、怪異と同一化している『物語』も全て無かったことになる。閻魔大王がいなくなれば、人類がこの地獄に転生することも二度と無くなる。観測者を失った地獄は形を失い消滅する。
「叶えろよ、閻魔大王。お前が作ったルールだぜ」
これこそが開闢王にとっての救済。歪神楽ゆらぎにとっての救済。その願いは今、果たされた。
天に向かって牙を剥く少女。その願いが空の彼方まで届いた瞬間、世界の全てが緩やかに、終わっていく。ほどけるように、その輪郭が少しずつ溶けていく。まるで雪が地上から空へ昇っていくように、白い粒子がそこら中から溢れてくる。
自分の身体からそんな物が零れていく様子に、ゆらぎは暫し目を丸くしていたが、ややあって納得したように小さく息を吐いていた。その顔にはいつもの狂気じみた表情は無く、ただ粛々と全てを受け入れるような静謐さを伴う、無垢な少女が其処に居た。
「……これでいいんだよね?」
そう静かに問いかける彼女の問いに、開闢王は答えない。彼女の耳はもう聴こえていない。既に身体の殆どが灰と化しており、その意識すら完全に消滅しかけている。
「嗚呼……ゆらぎ……僕は、あなたを……ようやく……救う、ことが……」
齎される、完全な死。その間際に漏らした彼女の声色は苦痛に魘されるようなものでは無く、心の底からの安堵が込められているように聴こえた。その囁きは灰と共に風に乗って、虚空に消えていく。やがてその体が崩れ落ちる最期の瞬間を見届けて、歪神楽ゆらぎは哀しげに微笑んだ。
「……うん。おかあさん。今までありがとう」
地獄の底で出逢いを果たし、まるで親子のように連れ添って、二人は共に生きてきた。救いたいという聖女の願いと、死にたいという少女の願いが、一万年という永きに渡る苦難の果てで、ついに叶う。
その実感と共に、ゆらぎの体は溶けていく。生前に尊厳を踏み躙られ、死後に安らぎを奪われた少女の魂は、ようやく救われたのだ。
「ああ……よかった。やっと……やっと、死ねるんだね。あたし……」
完全に消えて無くなる瞬間、少女の双眸から最後に零れたのは、確かに涙だった。
怪異という概念を失って存在自体が無かったことにされた地獄という異世界は、まるで天国のように、何もかもが白く消えて無くなっていく。
赤い空も黒い大地も無い。ただ白い闇だけが広がるその場所に――ただ一点、黒い染みが浮かんでいた。
シスター・マルガリタ。其処に一人取り残された彼女は、困ったように肩を竦める仕草をしてみせて、辺りをぐるりと見渡す。さてどうしたものかと思案するように、彼女は少し呆れているような溜息を喉の奥で微かに鳴らした。
一人でそんな事をしていると、マルガリタの全身に壊れたディスプレイのざらつきにも似たノイズエフェクトが突如迸る。通信不良のラジオのような雑音が響き、三次元だった彼女の体は二次元へと変化していく。
『Wow! 驚いた! アハハッ! マルガリタも消えるのね! 良かった! 仲間外れにならずに済んだみたい♪ マルガリタ、死ぬって初めてだから、とっても愉しみ♪』
反射の異能が何らかの影響を与えているのか、マルガリタに齎される完全な死はどうも他とは少し違う形で現れたらしい。すっかりホログラムのような平面の存在となった彼女は、むしろどこか嬉しげに雑音混じりの声を漏らしていた。
『――アラッ? ……ウフフ♪』
そんな彼女が不意に――『此方』に気付いて振り向いた。炎が揺らめく眼窩の奥、赤い灼光は間違いなく『此方』を覗き込んでいる。
『それでは皆様、良い終末を♪』
最期の瞬間、マルガリタはぴんと立てた人差し指を口元に添え、謳うように微笑んで――テレビの電源をコンセントから無理やり引っこ抜いて落とした時みたいに――この世界諸共、暗転した。
◆
地獄の第一階層、等活地獄。
全ての怪異は猿夢列車に乗ってやってくる。だから彼等は、所謂初心者狩りの要領で、転生したての怪異を狙い常に誰かが駅前で待ち伏せている。
そして実際、転生者を乗せた列車が等活地獄の入口にやってくる頻度は多い。正しく満員電車のように箱詰めにされた怪異達が訳も分からず等活地獄に放り出され、出待ちしていた怪異達にバーゲンセールの如く群がられ、殺されていく。
その洗礼から運良く生き残った者だけが、晴れて等活地獄の住人――喰う側になることが出来る。それが等活地獄の日常。永遠に繰り返される、彼等の日常。
「……あ? 何だ……列車が来ねえぞ」
そんな彼等だからこそ、どこの階層の誰よりもいち早く、その異変に気が付いた。
今日も彼等は獲物を待ち伏せて駅前で屯していた。薄汚れた身なりをした男達が複数人、暇を持て余して地べたに座り込んでいる。
そんな彼等の中から一人、ふと立ち上がる者がいた。トカゲのような異形の頭をしたその男は、レールが走る三途の川の向こう側を見つめて不思議そうに首を傾げている。
彼のぼやいた通り、待てど待てども猿夢列車はやってこない。いつもなら数分置きに何度もやってきていた列車は突如ぱたりと来なくなって、気付けば既に一時間が経過しようとしている。
「そういう日もあるんじゃね?」
「……あったか? 今まで、こんなに来ないこと」
「……無かったっけ?」
不思議は不穏へと変わり、彼等の輪の中で少しずつ波及し始めた、その矢先のことだった。
「お……何だこれ? 体が……」
彼等の体から、淡く光る粒子が溢れ出す。彼等だけではない。赤い空も黒い大地も駅のホームも三途の川も、目に映るもの全てが白く霞んでいく。
「体が……軽い……――」
何が起きているのか解らないまま、そうして彼等は消えていった。永遠に繰り返されると思っていた彼等の日常は突然、何の余韻も残さず終わりを迎えた。
やがて等活地獄全土が白い光に包まれて、その空間ごと完全に消えていく。あまりに突然のことで、どこからも恐怖の叫びは聞こえてこない。状況を理解するよりも早く、覚悟を決めるよりも早く、皆等しく消えていく。死んでいく。無くなっていく――
世界の終わりは、このようにして始まった。