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怪物少女の無双奇譚《フォークロア》  作者: あかなす
最終章 無間地獄篇
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無間地獄 13

 極彩色の小宇宙が天上に昇る。黒虹こくこうの肉塊は絶えず形を変化させ、膨張と収縮を繰り返す。その内側から伸びる粘液状の黒い触腕、歪な鈎爪を携えた幾千のそれらが蜘蛛の巣のように張り巡らされ、地獄の空を虚無の色に塗り潰していた。

 人造怪異『ヨグ=ソトース』。それは開闢王が自らの肉体を材料に、完成へと至らせた窮極の形――正真正銘、最後の奥の手。雲のように膨れ上がったその肉は、黄昏愛を更に高い所から超然と見下ろす。


「(……………………()()())」


 その異様を目の当たりにした瞬間、愛の全身に電流が激しく駆け巡り、ある予感を脳裏に過ぎらせていた。それは愛にとって、考え得る中でも最悪の可能性であり、唯一の負け筋。「まさか」と切り捨てた未来の景色が今、愛には確かに視えていた。


 彼女の悪い予感は的中する。『ヨグ=ソトース』の内側から無数に伸びるその黒い触腕は、愛に向かって一斉に、雨の如く放たれた。愛は咄嗟に空に向かって蝿の大群を召喚、防御壁として展開する。しかし黒い触腕は壁を容易く貫いて、一本の腕が愛の右腕に掴みかかる。

 その触腕に右腕を絡め取られた次の瞬間だった。非物質であるはずの愛の肉体、その掴まれた右腕は、いとも容易く引き千切られたのである。

 引き千切られた愛の右腕は、そのまま重力に従って地上に落下していく。腕の切断面は黒く変色しており、血の一滴も流れ落ちない。


「これは……『アンサー』……っ……!?」


 開闢王の異能――『ヨグ=ソトース』の一部であり、便宜的に『アンサー』と呼ばれているその能力は――あらゆる異常性・法則性を無視し、対象の四肢を()()引き千切る。

 あの羅刹王が三獄同盟の契約に従っていたのは、ひとえに如月真宵の存在あってこそ――というだけではない。そもそもの前提として、この『アンサー』の能力があったからこそ、拷问教會イルミナティは羅刹王相手に三獄同盟を成立させることが出来た。

 その「引き千切る」能力に例外は無い。一度発動すれば、たとえ対象が非物質であろうと必ず執行され、その結果が現実に反映される。

 そして『アンサー』に千切られた部位は、怪異としての自然治癒機能も正常に働かなくなる。千切られた部位を再生させるには、外部からの干渉によって千切られた部位を接着・修復を施すか、千切られた部位をその肉体ごと分身として切り捨て新たな身体を造るしかない。


 いつもの愛の戦い方は後者だ。愛の異能の強みは、本体が死んでもすぐ復活できる高速再生能力にこそある。しかし今の愛にとって前者は期待できず、後者は論外だった。

 何故なら今回はただの殺し合いではなく魔王の座の継承戦。魔王側が一度でも死ねば挑戦者側の勝利となる。

 愛の得意とする高速再生を前提とした特攻戦術だ。しかしそのたった一度の死が今回に限っては許されない。それがネックとなり、愛は傷付いた本体を安易に切り捨てることができず、代わりに肉体の非物質化によって事なきを得ている。本来であれば自分自身を無限にバックアップできる『蝿の王』の異能も今回は一部封印している状況だった。


 以上を踏まえると、確かに『アンサー』は今の黄昏愛を殺す事の出来る数少ない方法の一つだといえる。愛も当然その可能性には早々に気が付いていた。それでも「まさか」と切り捨てたのには理由がある。

 それは『アンサー』の発動条件。『アンサー』は開闢王の質問に対して嘘を吐く、あるいは一度結んだ契約を不当に放棄するなど、真実に背いた行為に対して発動する。その条件を開闢王が今の状況で満たすことは殆ど不可能だと愛は考えていた。

 それに万が一『アンサー』を発動されたとしても、腕の一本や二本程度引き千切られたところで今の愛を殺し切ることは出来ない。今の愛を完全に殺し切るには四肢だけでなく、核となる頭部も含めてその全身を『アンサー』で引き千切る必要がある。それで一瞬でも愛の意識を断つことが出来れば、一度でも愛を殺すことが出来れば、開闢王の勝利となる。

 しかしそれを叶える為には、いったい何度『アンサー』の発動条件を満たせば済むのかという話なのだ。理論上は可能でも全く現実的ではない。だから愛はその可能性をすぐ思考の片隅に追いやっていた。


 しかし今の開闢王――『ヨグ=ソトース』は、謂わば『アンサー』の本体とでも呼ぶべき存在。それを外界に解放した今、開闢王は発動条件を無視して『アンサー』を無限に行使することが出来る。

 人造怪異である『ヨグ=ソトース』の異能は、当然ながら地獄のデータベースにも載っていない。しかし目の前で確かに起きたその事象を、身を以て体験したことで黄昏愛はその瞬間、『ヨグ=ソトース』の能力の正体に辿り着いていた。


「っ……面倒な……!」


 無貌の奥で舌打ちを漏らし、黄昏愛はすぐさま自らの背に蝿のような虫の羽を生成する。それを高速で振動させた愛は次の瞬間、上空を凄まじい速度で飛び回り始めた。

 その高い機動力によって天より降り注ぐ黒い『腕』の雨を避けながら、愛は上空の『ヨグ=ソトース』に向かって左腕を構える。

 直後、左手から溢れ出したのは『クトゥグア』の異能、緋色の炎球。それは瞬く間に大きく膨れ上がると、『ヨグ=ソトース』目掛けて放たれる。何もかもを焼き尽くす神の炎、それが虹色の集積物を呑み込み、上空で爆発した。


 ――しかし。否、やはりと言うべきか。『クトゥグア』の炎に包まれながら『ヨグ=ソトース』は、自身を構成するその肉塊を欠片ほども崩していない。()()()()()()()()()()()()()()()。目に見えているというだけで実体はそこに無い、異次元の存在。それが『ヨグ=ソトース』だった。


『アラ、そんなに急いでどこに行くの?♪』


 その時。死神の如く背後から這い寄るシスター・マルガリタ、その悍ましい声が愛の耳元で囁かれた直後。分離した天使の羽の砲台、そこから溢れ出る閃光レーザーが愛の身体を八つ裂きにするように至近距離から放射された。


「邪魔……ッ!」


 マルガリタの攻撃では非物質となった今の愛にダメージは与えられない。閃光に焼かれながらも愛の肉体は傷一つない。ただ鬱陶しそうに苛立ちの声を漏らしながら、愛は残った左腕を悪魔の如き巨大な怪腕へと変化させ、目の前に立ちはだかるマルガリタに向かって振り翳した。


『つれないわね♪』


 しかしマルガリタもまた、反射の異能によって愛の攻撃を受け付けない。愛の怪腕はマルガリタに直撃したがその衝撃をそのまま跳ね返され、愛は空中で一瞬体勢を崩してしまう。

 そしてその僅かな隙を咎めるように、愛の巨大化した左腕に複数の黒い『腕』が絡みつく。それに抗うことも出来ず、愛の左腕はその肩から先をいとも容易く引き千切られ、細切れにされた左腕の肉片は地上に落ちていった。


「(……そういうことか。魔王の座は、たった一度死んだだけで奪われる。奴等の狙いは、そのたった一度の死を齎す……この状況を作り出すこと……)」


 マルガリタが単純な質量の壁として立ちはだかり愛の動きを止め、生まれたその隙に『ヨグ=ソトース』の『腕』が愛の肉体を引き千切る。つまり攻撃の役割は『ヨグ=ソトース』が、防御の役割はシスター・マルガリタが担う。


 まさに最強の矛と盾。これが拷问教會イルミナティの秘策。対魔王、対堕天王、対羅刹王を想定した最後の作戦。

 全てはこの時の為に。永い歳月を費やして練り上げられた、その完璧な戦術には――欠点が存在した。


「…………?」


 愛がそれに気が付いたのは――視線の先で、空に浮かぶ大地の破片の上に蹲る歪神楽ゆらぎと、放心状態のまま天を仰ぐ開闢王の姿を見た時だった。

 ゆらぎも開闢王も、この状況において抜け殻のように沈黙している。放心している開闢王に向かって、ゆらぎはその口から呪文めいた音色をひたすら、祈りを捧げるように紡ぎ続けている。


「…………!」


 その違和感に気が付いて、愛はすぐさま自身の血肉を変化させ人造怪異けんぞくを生成していた。愛の肉体から這い出てきた黒い蛇にも似たその怪物は、一枚だけの翼で空に飛び立つと、その巨体を振り回して周囲に群がる『腕』を一掃する。更にマルガリタの視界を遮るように怪物は自ら肉壁となって、愛との距離を分断させた。

 一瞬生まれたその隙を突いて、愛は開闢王たちに向かって一気に急降下した。その空洞広がる無貌の顔面から、七色に輝く破壊の光が一直線に放たれる。


『アララ、ばれちゃったみたい♪ でも……させないわよッ♪』


 マルガリタは目の前に立ちはだかる蛇の怪物を、両腕から放射した熱線によってその胴体を切り刻み振り払うと、すぐに愛の後を追いかけた。愛の放った光線が開闢王に届く寸前、その軌道上に回り込んだマルガリタはその身を盾にして、開闢王を光線から守る。

 そしてすぐ傍でそんな事が起きている状況でありながら、開闢王は何の反応も示さない。動こうとすらせず、ただ呆然と空を見上げている。歪神楽ゆらぎも同様に、その場で蹲ったまま。


「やっぱり……」


 愛を殺す作戦は『ヨグ=ソトース』とマルガリタ、この二体さえいれば成立する。客観的に見て、今の開闢王と歪神楽ゆらぎは何の役にも立っていない。そんな開闢王達に向け放たれた愛の光線は、開闢王はともかく歪神楽ゆらぎであれば簡単に防御できる程度の攻撃だった。

 しかしゆらぎは向かってくる攻撃に見向きすらせず、代わりにマルガリタがその身を呈してまで庇いに向かった。愛が『ヨグ=ソトース』に『クトゥグア』の炎で攻撃をした時は庇う素振りすら見せなかったのに。

 それどころか先程の状況、合理的に考えれば開闢王達に向かった攻撃ヘイトはむしろ利用して、その隙にマルガリタが愛の視界を遮るなど足止めに専念していれば、『ヨグ=ソトース』の『腕』が確実に愛を捉えていたはずなのだ。その合理性を捨ててまで、マルガリタは開闢王達の無事を優先した――


 黄昏愛は確信する。『ヨグ=ソトース』という規格外の人造怪異を運用する代償として、開闢王と歪神楽ゆらぎはその場から一歩も動けない――そういった制約があるのではないか。

 そもそも人造怪異はその創造主である怪異の異能をベースとした延長線上の存在。ならば開闢王と歪神楽ゆらぎ、この二人のどちらか、あるいは両方死ねば『ヨグ=ソトース』はその存在を維持できなくなるはず。それは完璧なように見えた作戦の、唯一の欠点にして最大の弱点だと言える。


 とどのつまり、愛が二人を殺すのが先か、『ヨグ=ソトース』が愛を殺すのが先か――これはそういう戦いなのだ。


「…………ッ!!」


 そう理解した瞬間、黄昏愛は動き出していた。彼女の黒く長い髪が雲のように膨れ上がり、毛の一本一本が触手となって地上に降り注ぐ。

 殺すだけなら容易い。その場から動けないというのなら尚更。毛の一本でも触れることさえできれば、愛の異能ならそれだけで確実に殺せる。

 そうなると、必要なのは『クトゥグア』のような規格外の火力ではなく、圧倒的な物量――そのイメージが、愛に『禁后パンドラ』を再現させていた。


 蠢動する黒海が世界を覆い尽くす。それは『ヨグ=ソトース』の触腕すらも呑み込まん勢いで雪崩込み、幾万の矛先があらゆる角度から開闢王とゆらぎを狙う。


『アハッ! 盛り上がってきたわね♪』


 そして当然、この展開は彼女らにとっても想定の範囲内。だからこそシスター・マルガリタは此処に居る。彼女の役割は元よりその為にある。マルガリタは即座に開闢王達の周辺へ天使の羽を展開し、防衛の体勢を取っていた。


 皮膚の無い髑髏から響かせるその声色は愉しげに聞こえるが――しかし。それはあくまでも学習したデータを模倣した反応。シスター・マルガリタの思考回路は徹底して合理的に、感情の一切を排している。同じ人工知能の怪異でありながら、黄昏愛とはある種まるで対照的。だからこそ、その振る舞いはどこまでも不気味だった。


 十九本の空飛ぶ杭、その鈎爪のような先端の砲台が業火を放ち、周囲至る所から伸びてくる黒い髪の雪崩を一掃する。マルガリタに搭載されたその機能は異能と遜色ない規格外の火力で以て、次々と打ち上がる花火のように爆発の連鎖を引き起こしていた。

 その間も『ヨグ=ソトース』の『腕』による攻撃は止まらない。捕捉されないよう常に移動し続けている黄昏愛を『腕』の嵐が追跡する。


 対して黄昏愛、両腕を失い空洞となった肩の内側から大量の飛蝗ばったを産み落とす。弾丸の如く一斉に放たれたそれは蝗害こうがいとなり吹き荒ぶ。『禁后パンドラ』の黒海と混じり合い、数の暴力となって開闢王達に襲いかかる。

 いくらマルガリタの攻撃が超広範囲に渡り、多数の敵を処理・殲滅するのに優れた火力を有していたとしても。億や兆にも上るこの数を全て、一つも漏らすことなく滅ぼすのは流石に難しい――


『……ウフフ♪』


 だったら、こういうのはどうかしら――とでも言わんばかり。マルガリタが不敵な嗤いを漏らした次の瞬間。その機械仕掛けの身体が、その節々から黒い蒸気を吐き出して――変貌を遂げていく。


 その背には新たな黒鋼の翼が展開し、その両肩から三本ずつ新たに腕が生えてくる。計八本になった多腕を大きく広げながら、身体は大きく膨れ上がっていくように巨大化していく。剥き出しの髑髏だったその頭部は、頭蓋を突き破って巨大な双角が伸び、眼窩の炎は激しく燃え、顎には獣の如き無数の牙が生え揃った。


 まるで巨大ロボットを彷彿とさせるような変形を遂げたマルガリタ。その全体像は、まるで――あの芥川九十九の変身能力に酷似した、悪魔の如き怪物の姿。それが機械仕掛けで再現されていたのである。


『マルガリタだって、学習した怪異の異能データを一部機能として、ある程度再現できるのよ♪』


 人工知能は成長する。愛ほど変幻自在ではないものの、それが再現可能な物であれば、シスター・マルガリタという人造怪異はそれをいとも容易く模倣してしまう。

 巨大化し、悪魔の如き機械仕掛けの怪物となって尚、マルガリタの言語機能は変わらず不快な電子音を喉の奥から響かせていた。

 そんな彼女は次に、獣のような四つん這いの体勢を取ったその巨体で、その足場ごと開闢王達を懐に包み込む。そのまま自分自身をドームのようにして、彼女は開闢王達のことをその空間ごと覆い尽くし隠してしまったのだった。

 それは至極単純な方法でありながら、正しく鉄壁の守り。事実、天使の羽による砲撃の嵐をどうにかすり抜けた『禁后パンドラ』の触手や蟲達は、マルガリタの巨体に触れた途端に反射され、それ以上近付く事が出来ずにいる。


 その光景を前にして、黄昏愛の思考は一瞬、完全に停止していた。それは数の暴力すらも上回る鉄壁の守りに対する驚愕ではなく、変形したマルガリタの姿、それ自体に対して。


 だってその異形を、その形相を、愛には不思議と見覚えがあったのだ。それがどうしようもなく、愛に嫌な予感を訴えかけてくる――


『ホラ、見覚えがあるでしょう? そう、芥川九十九の変身能力♪ さっき実際に目の当たりにして、殺し合ってね? それで完璧に模倣できるようになったの♪』


 そんな彼女の予感は、またしても的中していた。


「……………………は?」


 此処に来る前、マルガリタは芥川九十九と殺し合っている。そんな事は当然、愛にとっては初耳である。そして、その結果も――愛には知る由もないことだ。


「…………お前…………今…………なんて言った…………?」


 声が震える。

 いやまさか、そんなはずは無い。

 だって、だったら、私は一体、何の為に――


『さて、魔王様? 今のアナタの肉体は非物質。マルガリタの攻撃では傷一つ負わせられない。けれど――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?』


 愛の問いかけを無視し、悪魔の如き髑髏の貌はその無数の牙の隙間からノイズの混じった声を漏らす。 奈落の底のような大顎を天に向け、大きく開かれたその奥深くでは、黒い灼光が徐々に輝きを増していく。


『視覚も聴覚も存在する。なら――これは効くんじゃない?』


 何かが来る――そう解っていても、動けない。

 いくら無双の能力を有し、怪物の容貌をしていても、その核となるのは『黄昏愛』という少女の人格。

 その存在意義を揺るがされた衝撃は――今の彼女の反応を、致命的なほど鈍らせていた。


『――――――――オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!』


 瞬間、世界を塗り潰す光と音。髑髏の大顎から溢れ出す閃光と衝撃。それは正しく、悪魔の咆哮――否、天使の咆哮か。マルガリタの放つ、声と呼ぶにはあまりにも常軌を逸したその波動は、世界から音と景色を一瞬で奪い去った。


「…………!? ……………………!?」


 視覚が眩い光に満たされ、聴覚は分厚い音に覆われる。それは芥川九十九が得意とする、閃光爆弾にも似た必殺の技。ただしマルガリタの放ったそれは、対象の単純な破壊が目的ではなくその視覚と聴覚を奪うことに特化している。

 黄昏愛の肉体は一部の感覚器官を制御し、痛覚等を遮断している。そもそも非物質であるが故に外部からの干渉で変化することの無い今の彼女は、文字通り無敵である。

 しかしそれでも、愛の目は視えているし耳は聴こえている。全ての感覚を遮断しているわけではない。だから、愛自身が変わることはなくとも――世界のほうが変われば、その世界を捉えている感覚は間接的に影響を受けることになる。

 世界から景色が無くなれば実質目は視えなくなるし、音が無くなれば実質耳は聴こえなくなる――その状態で、異次元から忍び寄る『腕』の攻撃は避けられない。


「――――――――あ」


 コンマ数秒にも満たないその僅かな隙を『ヨグ=ソトース』は見逃さなかった。異次元の角度から対象を自動で捕捉し続ける黒い『腕』は、黄昏愛の両脚を通り過ぎざまに引き千切る。これで四肢は全て奪われた。残るは首、存在の核たる脳髄だけ。その首級を上げんと、夥しい量の『腕』が一斉に掴みかかる。


「――――ぁ…………あ…………――――ああああアアアアアアアアアアッ!!」


 ようやく事態を把握した黄昏愛、視えない世界の中で藻掻くように、自分の耳には聴こえない雄叫びを上げながら、その背に携えた翼を羽撃かせる。視覚に頼らず、熱源を肌で探知して――マルガリタの気配を捉える。


「お前ッ!!! 九十九さんに何をしたアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」


 追いかけてくる『腕』を振り切って、怒りの叫びと共にマルガリタへ突貫する黄昏愛。しかし彼女はもはや冷静ではなかった。動揺から立ち直れてはいなかった。合理的な判断より感情を優先してしまっていた。


 仕方ない。それも仕方がないのだ。だって彼女はいつだって、自分の感情を優先してきた。何もかもが変わっても、そこだけは変わらなかった。


『――それじゃ、Byebye♪』


 だからこの結果は、きっと必然だったのだろう。


 あるいはこの展開を最初から計算し予測していたのか――黄昏愛の突貫を真正面から迎え撃つマルガリタ、その顎の奥に隠していた『ヨグ=ソトース』の黒い『腕』が突如飛び出してくる。

 異次元のレイヤーを纏う『ヨグ=ソトース』の『腕』に感知できる熱は無い。感覚器官を失い、冷静さも欠いた今の黄昏愛に、それを避け切ることは――できなかった。


 黒い『腕』の一本が、愛の顔を正面から鷲掴みにする。そのまま、彼女の首から先は呆気もなく引き千切られた。まるで屍に群がるハイエナのように、無数の『腕』が愛の肉体に次々と喰らいつく。愛の肉体は瞬く間、細切れになるまで分割され、不滅かと思われた彼女の意識も次第に薄れていく。


「――――――――」


 消えていく。地獄に落ちて初めて、自分という存在が明確に消滅していく感覚がある。

 死。二度と訪れることは無いと思っていた、終わりの瞬間。


「――――――――――――……………………ごめんなさい」


 最期に彼女の口から溢れたのは、そのたった一言。

 それが誰に対して向けられたものだったのか、定かではないまま――彼女の意識は唐突に途切れた。

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