無間地獄 9
王位種族。この物語における異世界転生を人生に喩えるなら、それは最高レアリティの才能。いつから、誰がそう呼び始めたのか、定かではないものの――その概念は噂として、この地獄に浸透していた。
王位種族に分類される怪異は五種類。悪魔、厄災、鬼、神格――そして天使。拷问教會の第四席、シスター・マルガリタはこの天使の怪異に該当する。
モチーフは、神話に伝わる炎獄の天使『ザバーニヤ』。罪人を地獄の業火に突き落とし、永遠の苦しみを与える役目を神より命じられた、地獄の管理者。
そしてこれは九十九にとって知る由もないことだが、シスター・マルガリタは人造怪異。堕天王暗殺の為、羅刹王のオーダーによって拷问教會が研究開発を進めてきた最終兵器。
あと一年。羅刹王の予定通りであれば、あと一年でマルガリタの異能は完成し、堕天王を殺すはずだったのだ。
しかし羅刹王は、先に『茨木童子』を完成させた如月真宵によって封印された。これにより三獄同盟は破棄され、マルガリタの所有権は羅刹王から開闢王へと移った。その後、九十九たちが夢幻地獄に囚われている間に一年が経過し、物語は現在に至っている。
――斯くして。異能を完成させ、完全体となった天使の人造怪異は今、芥川九十九の前に立ちはだかった。
「シスター・マルガリタ。邪魔者を排除してください」
『はぁい、マスター♪ マルガリタにお任せ♪』
絶え間なく燃え盛る不浄の焔を纏って、機械仕掛けの髑髏が嗤う。それはノイズ混じりの電子的な音声で、開闢王の命令を軽やかに受諾した。眼窩の奥で明滅する赤い炎の光が、九十九の姿を静かに捉えている。
彼女に生物的な皮膚は無く、黒い人骨と機械的な触手が複雑に絡み合い形成された剥き出しのボディが、修道服を模した外骨格によって覆われていた。その背に生えた四枚の黒い翼は、鈎爪のような金属片が幾重にもなって形成されており、天使の羽と呼ぶにはあまりにも禍々しい。
炎で形作られた天使の輪を頭上に掲げるその異形の天使は、九十九の繰り出した悪魔の拳を正面から受け止めていた。
「ぐッ――――あ――――!?」
そして、マルガリタに触れた九十九は次の瞬間、遥か後方へと吹き飛ばされる。九十九の肉体は地面に何度も激突しながら転がり、周囲に拡散した衝撃波が砂漠の白い砂を巻き上げる。マルガリタの方から何かしたわけではない。ただ壁にぶつかって跳ね返るボールのように、九十九は勝手に弾き飛ばされていた。
「…………ッ!!」
倒れた地面からすぐさま起き上がる九十九。しかし直後、拳を放った左腕から走る激痛に顔を大きく歪める。九十九が痛みのする方へ咄嗟に視線を向けると、そこには無惨に傷つき血塗れとなった自身の左腕があった。指の骨は全て圧し折れ、関節は捻じれ狂い、砕けた腕の骨が皮膚を突き破り飛び出している。
ぐちゃぐちゃになった左腕の状態を自覚した途端、襲いかかってくる猛烈な痛み。九十九の額に玉のような脂汗が無数に浮かび上がる。
『Hey! コッチよ♪』
休む暇も与えないと言わんばかり、ノイズ混じりの電子音声と共に直後、マルガリタの影が九十九の頭上に降ってくる。異形の天使は、その禍々しい鈎爪の羽根から炎を噴出し、その勢いで九十九に肉薄していた。
マルガリタの、地面に突き刺さるほど鋭く伸びたヒールのような足先が、九十九の顔を薙ぐように蹴り飛ばす。ヒールの切っ先に顔面を抉られ、斜めに裂かれた九十九の顔からは夥しい量の血が噴き出した。
「く、ッ、おおおおオオオオオオオオ!!」
それでも九十九はどうにかその場に踏みとどまり、咄嗟にカウンターの右腕を振りかざす。放たれた悪魔の拳は、マルガリタの腹部目掛けて穿つように振り抜かれる――
「……!? げぼッ……!!」
――しかし。マルガリタの腹部に拳が接触した瞬間、逆に九十九の腹部が見えない圧力によって深く貫かれ、内臓が破裂。喉の奥から大量の血が溢れ出す。対するマルガリタは、やはり無傷。炎を纏う黒い髑髏は、目の前で蹲る九十九を嘲笑う。
「これは……『反射』、か……ッ」
血に塗れた唇から、九十九のか細い声が微かに漏れる。その声にはシスター・マルガリタと呼ばれる目の前の敵、その異能の正体に対する確信めいた響きが込められていた。
『Exactly! マルガリタの異能は、何でも『反射』できちゃうのよ♪ 応用が効くような能力ではないから、難しいことはできないのだけれど。マルガリタに影響を及ぼす全てを反射する、ただそれだけ。でも充分♪ Simple is the best♪』
まるで感情を理解していないまま音の響きだけを再現したような、そんな不自然な明るさを伴う電子音声が髑髏の顎から溢れる。
『芥川九十九、アナタのデータは学習済み。頑丈な肉体が取り柄のようだけれど、それではマルガリタには勝てないわ? ここで死に急ぐ必要は無いと思うの。そんなことより、愛する人と過ごす残りの時間を大切にしたほうがいいんじゃない? 命が勿体ないわ?』
人造怪異とは思えないほどの饒舌で、マルガリタは軽妙に言葉を紡ぐ。その間も、マルガリタの遥か後方で開闢王は悠々自適、駅のホームにゆっくりとした足取りで向かっている。気づけばフィデスの姿もどこにも見当たらない。もはや九十九のことなど、マルガリタに任せておけば問題ない、見届ける必要すらないとでも言わんばかり。
「はぁ……ハァ……――ッ!! ォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
怒りに身を震わせ、悪魔が吠える。全身の筋肉が黒く巨大化して、完全な悪魔の姿に変身を遂げる。九十九はその巨大な悪魔の拳を一心不乱、マルガリタに向かって打ち込んだ。
悪魔の拳は当然、マルガリタを傷つけることなく、返って自身の腕を破壊する。黒い皮膚から血が迸り、骨は粉々に砕け散る。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!!』
それでも、九十九は連撃の手を緩めることはなかった。傷付いた左腕すらも叩きつけるように振るって、マルガリタに向かって何度も何度も拳を当て続ける。反射されようと構うことなく。
『Wow! 凄いわね、芥川九十九! 反射されながら、それでも攻撃をし続けられるなんて! 普通ならあり得ないわ? これが報告にあった、例の規格外ね! 異能を発動させたシスター・アグネスと膂力で張り合ったり、歪神楽ゆらぎの狂気にも痩せ我慢してみせたっていう……それがアナタの異能? それとも機能? 興味深いわ!』
そんな暴力の嵐の只中で、マルガリタはやはり涼し気な反応を示している。無駄に饒舌なその天使は、傷一つ付いていないどころか身動ぎ一つしていない。
『でも……自暴自棄? 残念だわ。マルガリタは人造怪異だけれど、これでも人間の感情は学習して理解しているつもりなのよ? こんなのって弱いものイジメみたいで、良心が痛む――』
だがその時。変化はマルガリタ自身ではなく、その足元に起きていた。
九十九の連撃を受け続けたことで、その衝撃が砂漠を巻き上げ、地面を穿ち、地盤を深く抉っていく――
『――……What? もしかして……これって……』
気づいた時にはもう遅い。既にマルガリタの足元は崩れ、その身を地中深くへと沈めていた。
最初から九十九の狙いは開闢王だった。黄昏愛を助ける――そのために今は、何より開闢王の足を止めることが先決。マルガリタの反射を一朝一夕では突破できないと判断した九十九は、すぐにマルガリタの足止めに専念したのである。
『ッ、ォ、オオオオ――――――――ッ!!』
最後の一撃で周囲の砂を巻き上げマルガリタの視界を封じ、次の瞬間九十九は空に翔び立っていた。そのまま悪魔の翼を羽撃かせ、遥か前方の開闢王に向かって突進する。使い物にならなくなった両腕ではなく、先端を槍のように鋭く尖らせた悪魔の尾を携えて――
『Fantastic!!!!』
――しかし。そのノイズはまるで悪魔のように、砂に埋もれた地中の奥底から響いてきた。
『素晴らしい判断だわ、芥川九十九! マルガリタのような睡眠学習じゃあ到底身につかない、数多の実践経験によって培われた直感! 目的を見失わない冷静さ! 周囲の環境をすら利用して瞬時に次の一手を考案する思考の柔軟性、それを可能にする身体能力! 総合的に見ても、アナタのその判断は正しい! 最善と評価しても良いわ!』
瞬間、飛行する芥川九十九の真下の地面から飛び出してきたのは――鈎爪のような羽根が一本一本分離して、ドローンのように自立駆動する――合計十九本の、空飛ぶ杭。
『アナタにとって最悪だったのは、相手がマルガリタだったという一点だけね♪』
炎を噴出する十九本の杭は、一斉に飛びかかって――その全てが、芥川九十九の全身を空中で串刺しにした。
開闢王の『腕』やシスター・バルバラの『融解』といった例外を除いて、これまであらゆる怪異の攻撃を耐え凌いできた、あの悪魔の頑健な肉体が。まるで爪楊枝が容易く通るほど柔らかい物であるかのように、滅多刺し。
血の雨が砂漠を濡らす。開闢王まであと一メートルにも満たないところで、九十九はそのまま力なく、地面に落下する。頭から足先まで杭に射抜かれた悪魔の身体は、血溜まりの中で徐々に元の人型へと戻っていった。
全身を隈なく貫いていた十九本の杭は再び動き出し、九十九の身体から引き抜かれる。そのまま束になって、杭は九十九の上空を回り始めた。まるで天使の輪のように。あるいは、これから死にゆく者を迎えるため舞い降りた、天使そのものであるかのように。
「……………………」
穴だらけになった全身から致死量の血が流れている。両腕が杭に貫かれた衝撃で引き千切れている。杭が突き刺さり空洞と化した右目はおろか、辛うじて残っている左目の視界も、もはや何も視えていない。唯一貫かれずに済んだ心臓は、既に殆ど動きを止めている。
そんな死体同然の状態となった九十九は――それでも辛うじて、一命を取り留めていた。当然、こんな状態で即死することなくまだ息があるなんて、奇跡どころか魔法にも等しい。
膝から下は跡形も残っておらず、跪くことしか出来ないが、そんな状態でも九十九はどうにか上半身を起こしてみせる。自分はまだ死んでいない、諦めていないという意思を表明するように。
そんな九十九のもとへ死神の如く、遥か彼方からゆっくりと歩み寄ってくるシスター・マルガリタ。上空を漂っていた杭の束は空を滑るように飛行して、異形の天使の下へと集い、控えるように周囲を漂い始める。
『Good♪ 異能の試運転もできたし、戦い方も参考になった! とっても有意義な時間だったわ♪』
天使は軽やかに嗤ってみせて――その黒い左手を、おもむろに前方へと掲げてみせた。すると宙を漂っていた杭が全て、マルガリタの掲げた左腕に集まっていき、装甲を纏うように次々と装着、変形していく。
『――でも、これでおしまいね。さようなら、芥川九十九。アナタに感謝と、天使の祝福を。――今、楽にしてあげる』
そうして、すっかり巨大な大砲へと変形を遂げた左腕の矛先を、マルガリタは九十九に向かって狙いを定める。砲口の内側で、黒い炎が輝きを増していく――
「……………………」
とどめの一撃が来る。それが解っていても、今の九十九にはもうそれを避ける余力など残ってはいなかった。
「(…………愛。…………ちり。…………ごめん)」
死の間際。それが彼女の最期の言葉だった。その胸の内ごと貫くように、マルガリタの放った炎獄の閃光は――芥川九十九の肉体、その首から下を蒸発させる。
血溜まりの上に、首だけを残して。彼女の命は、この世から完全に消え去ったのだった。
◆
駅のホームでは既に無間地獄行きの列車が停留しており、その黄色い線の内側で開闢王は佇んでいた。自身の身の丈ほどもある黒い棺桶を大事そうに背負ったまま。ペストマスクに隠れた螺旋の瞳は、まるでこれが見納めだとでも言うように、地獄の赤い空を静かに見据えている。
『はぁい、お待たせ♪ 任務完了よ、マスター♪』
そんな彼女の背後に、九十九との戦いを終えたシスター・マルガリタが駆け寄ってきた。顎の奥から軽快な電子音を鳴らして、髑髏の彼女は歌うように言葉を紡ぐ。
僅かな返り血一つ浴びていないマルガリタの姿を、開闢王は首だけを振り向かせ一瞥した。
「……終わりましたか。では向かいましょう。無間地獄へ」
『Aye,Aye,Sir♪』
そうして何の感慨も籠もっていない淡白な声でそう告げると、開闢王はすぐに列車の中へと乗り込んでしまう。マルガリタもまた特に気にする様子もなく、軽やかなステップを踏みながらその後に続いた。
猿夢列車は彼女たちを乗せた瞬間、叫喚のような汽笛を上げながらゆっくりと動き始める。死灰の舞う砂漠から離れ、深い三途の海底へと沈んでいく。
確実に近づいてくる、絶望の足音。けれど、その歩みを止められる者はもう、どこにもいない。