無間地獄 8
愛と連絡がつかなくなった。
朝は、その陽射しがようやくその金の触手を伸ばし始める頃、通学路の中途に位置する、古びた遊具の錆が朝露に濡れる公園で。そして一日の授業が終わりを告げ、生徒たちの喧噪が校舎から解放される放課後には、九十九とちりが通う学び舎の、歴史を感じさせる重厚な校門前で。
行きも、帰りも、影が形を変えアスファルトに伸び縮みする同じ道を、三人は肩を並べて歩む。それが彼女達の間で交わされた暗黙の約束であり、繰り返されることを常としていた。
それだというのに。黄昏愛は数日前から、九十九たちの前にその姿を見せることを止めてしまった。公園の、いつも愛が寄りかかっていた桜の老木の下にも、その細い影は見当たらない。校門前でいくら待っても、夕闇が輪郭を溶かすまで佇んでも、彼女が雑踏の中から姿を現すことはなかった。
受話器の向こうからは、生命の温もりを感じさせない、無機質な呼び出し音が虚しく繰り返されるばかり。送ったメッセージにはいつまで経っても既読を示す印はつかず、それはまるで底なしの井戸に小石を投げ込むような、手応えのない行為に等しかった。
今日この瞬間まで、共に積み重ねてきたはずの日々。笑い声、交わした言葉、共有した秘密――それら全てが陽炎のように揺らめき、掴もうとすれば指の間をすり抜けていく幻であったかの如く、黄昏愛は忽然としてその行方を晦ませてしまったのである。世界から、愛という色彩だけが抜き取られてしまったかのような、そんな空虚感が九十九の胸を締め付けた。
「……こんなこと、今までなかったのに」
夕刻の、空が茜色と群青色のグラデーションに染まる放課後の教室。窓際の一番奥の席で彼女は、蜘蛛の巣のように細かなヒビが痛々しく走る自身のスマートフォンの画面を、まるでそこに答えが浮かび上がってくるのを待つかのように見つめながら、不安でその声を微かに震わせた。
背後から差し込む斜陽が、埃の舞う教室の床に長い影を落とし、九十九の孤独を一層際立たせる。そんな彼女の切羽詰まった様子を、一つ前の席に座る一ノ瀬ちりは、どこか神妙な面持ちのまま静かに見つめていた。彼女の赤い髪が、窓から吹き込む微風に揺れている。その表情からは、感情の機微を読み取ることは困難だった。
愛の家の場所を、九十九は知らない。通っているという学校の具体的な名称すら、聞いたことがなかった。思えば愛は自身のことを多く語る性質ではなかったし、九十九もまた深く気にすることもなかった。ただ隣にいてくれるだけで満たされていた。その温もりが当たり前になっていた。
今更ながら、自分がいかに黄昏愛という人間の表層しか見ていなかったのか、その本質に触れようとしてこなかったのかを、九十九は痛切に感じさせられていた。胸の奥が冷たい水で満たされていくような感覚。後悔と、焦燥と、そして得体の知れない恐怖が、ないまぜになって押し寄せる。
愛との繋がりを示すものが、この手のひらの上の、沈黙した機械だけだという事実が、彼女を打ちのめしていた。
「何かあったのかもしれない……探しに行かないと――」
「――待てよ」
衝動的に立ち上がろうとする九十九の肩を、しかし一ノ瀬ちりの手が力強く押さえる。それは単なる物理的な制止以上の、何か有無を言わせぬ圧力を伴っていた。
「……これは、あいつの意思なんじゃねぇのか」
静かだが力強い響きを伴うちりの声が、夕暮れの静寂を破る。
「どういうこと?」
ちりの言葉の意味をどうにか咀嚼しようと、九十九は眉根を寄せた。愛の意思。それはこの状況を、彼女自身が望んだということなのだろうか。
「あいつはオレ達に、何一つ告げずに消えたんだ。それって、今はそっとしておいてほしいって事なのかもしれないだろ」
ちりは窓の外、遠くに見える雑踏に視線を移しながら、淡々と言葉を続けた。その横顔は夕陽の最後の光を浴びて、普段よりも幾分か大人びて見える。
「……だとしても、放って置けないよ。ちりは愛のことが心配じゃないの……?」
九十九の声には、微かな非難の色が混じっていた。こんな時まで冷静さを失わないちりに対して、焦燥感が募る。
「……そういうことじゃねぇよ」
ややあって、ちりは言葉を選ぶようにゆっくりと否定した。
「ただ……ただな、九十九。オレ達が要らねぇお節介を焼いちまったことで、あいつとの『今』が、この関係性が壊れちまったら……そう思うと、オレは……」
その声色には、普段の彼女からは想像もできないような脆さが滲んでいるようだった。失うことへの恐れ。現状維持という名の、消極的だが切実な願い。
「……ちり。私は今、はっきり分かったよ」
そんな彼女の瞳を真っ直ぐに見据えて、九十九は決意を込めて呟いた。スマートフォンの冷たい感触をきつく握り締めながら。
「愛と一緒にいたい。それは『今』だけの話じゃない。これからもずっと一緒に居たいんだ。たとえ『今』が壊れてしまったとしても、また一から、何度だってやり直せばいい。一緒に居るって、そういうことなんだよ。きっと」
九十九のその言葉は、教室の静けさの中に確かな熱量を持って響き渡った。迷いのない、強い意志。それを聞いたちりは、暫し言葉を失ったように黙り込んでいた。
やがて、おもむろに学生服のカーディガンのポケットを探り、ちりはそこから一枚の、折り畳まれたメモ用紙を取り出した。その紙片は使い古されたように少し黄ばんでいる。
「……ここに行け。あいつはそこにいる」
そう言って差し出されたメモ用紙を、九十九は戸惑いながらも受け取った。そこには走り書きで、簡単な地図と住所らしきものが記されていた。
「……ちり? これって、一体――」
感謝と疑問の入り混じった視線をメモ用紙から上げ、ちりに問いかけようとした九十九だったが、その言葉は途中で宙に溶けた。そこには既に、ちりの姿はなかった。まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、前の席は空席となり、微かに開いた窓から吹き込む風が、ちりの残り香を運び去っていく。机の上には彼女の物であろう、赤い色鉛筆だけが無造作に転がっている。
九十九は、手に残るメモ用紙の感触を確かめながら、しばし呆然と立ち尽くしていた。ちりは、いつから愛の居場所を知っていたのだろうか。何故それを今まで黙っていたのか。疑問は次から次へと湧き上がってくるが、今はそれを追求している時間はない。愛に会わなければ。その一心で、九十九は鞄を掴むと、夕闇が迫る教室を飛び出していた。
メモ用紙に記された、決して詳細とは言えない地図を頼りに、九十九は慣れない街路をひたすらに歩いた。日は既に地平線の向こうに隠れ、街灯がぽつぽつと頼りない光を灯し始めている。道行く人々の顔は、年の瀬の慌ただしさと、どこか浮かれたような期待感がないまぜになっているように見える。九十九の心臓は期待と不安で高鳴り、早鐘のように鼓動を刻んでいた。
どれほどの時間が経過しただろうか。息を切らし、額に滲む汗を手の甲で拭いながら、九十九が辿り着いたのは――周囲の建物を睥睨するかのようにそびえ立つタワーマンションだった。ガラス張りの壁面が街の灯りを反射して、冷たく、どこか非現実的な輝きを放っている。
ふと空を見上げると、白いものが静かに舞い落ちてくるのが見えた。雪だ。最初は綿毛のように頼りなげだったそれは、次第にその密度を増し、視界を白く染め上げていく。そういえば、今日はクリスマス・イヴだったか、と九十九はぼんやり思った。街の喧騒とは裏腹に、雪は音もなく降り積もり、世界の音を吸い込んでいく。寒さが身に染みた。
マンションの壮麗なエントランスへと歩を進め、その分厚いガラスでできた自動ドアの前に立つ。その直後、自分が何か特別な操作をしたわけでもないのに、まるで最初から待ち構えていたかのように、その重厚なドアが滑らかに左右へと開かれた。吸い込まれるように中へ入ると、そこは外の寒さが嘘のように暖かく、そして静謐な空間が広がっていた。大理石の床は磨き上げられ、九十九自身の姿をぼんやりと映し出している。人気はなく、ただ微かな空調の音だけが響いていた。
ロビーの奥に設えられたエレベーターホールへと向かう。何基か並んだうちの一つの扉が、これもまた、九十九が呼び出しボタンを押す前に開いていた。まるで見えざる何者かに導かれているような感覚。九十九は躊躇いながらも、その豪奢な内装の箱へと足を踏み入れた。行き先階のボタンには触れていない。それでもやはりエレベーターは自然と上昇を開始し、やがて最上階を示すランプが点灯すると共に、穏やかな衝撃と共に停止した。
重々しい音を立てて扉が開くと、そこは静まり返った長い廊下だった。等間隔に配置されたダウンライトが、柔らかな光で足元を照らしている。絨毯が敷き詰められているためか、九十九の足音はほとんどしない。廊下の一番奥、そこだけが僅かに明るくなっていた。メモの通りなら、そこに目的の部屋がある。緊張で渇いた喉を潤そうと、九十九は一度唾を飲み込んだ。
やがて他とは異なる設えの、重厚な木製の扉の前に辿り着いた。扉の横には、真鍮製のプレートが掲げられており、そこには「黄昏」という二文字が、美しい筆跡で刻まれている。
間違いない。ここが愛の部屋だ。九十九は震える手で、冷たい金属のドアノブに触れた。深呼吸を一つ。そして意を決し扉を押し開け、薄暗い部屋の中へと一歩、足を踏み込もうとした、まさにその次の瞬間――
◆
――視界が、閃光と共に白く染まった。強い浮遊感に意識が揺さぶられる。そうして次に目を開いた時、九十九の目の前に広がっていたのはマンションの一室ではなかった。
それは一面に広がる、燃えるような真紅。どこまでも続く、彼岸花の群生地。血の色を溶かし込んだような花弁が、地平線の彼方まで絨毯のように大地を覆い尽くしている。熟した柘榴の果肉を塗りたくったような、あるいは巨大な傷口から流れ続ける血のような、そんな赤。鼻腔を突くのは、鉄錆にも似た、むせ返るような花の香り。雲一つない赤い空も相俟って、まるで全てが赤いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗り潰されたような、そんな景色。
先程までの出来事は、まるで遠い昔の夢物語であったかのように、そのリアリティを失っていた。タワーマンションも、雪も、クリスマス・イヴの喧騒も、どこにもない。『夢幻地獄』での永い彷徨から覚醒したことで、九十九の脳裏には、忘却の彼方に追いやられていた全ての記憶が、濁流のように蘇っていた。
――そうだ、ここは地獄。地獄の第八階層、無限地獄。自分が何者で、何故ここにいるのか。パズルのピースが嵌るように、全ての情報が統合されていく。
そうして、九十九の視線は自然と、眼前に広がる真っ赤な花畑の中心へと引き寄せられていった。そこに――黄昏愛。彼女の姿があったのだ。
しかしその姿は、九十九が知る普段の彼女とはあまりにもかけ離れた、異形のものへと変貌を遂げていた。艶やかだったはずの長い黒髪は悍ましいほどその長さを増し、大地の上を蠢き広がって、地面をのたうつ蛆虫の群れを彷彿とさせる。
そしてその華奢な背中からは、死肉に群がる蝿のそれを思わせる、薄汚れた透明な虫の羽が四枚、不気味に生えていた。まるで蝿の女王。彼女はその羽を時折微かに震わせ、周囲の彼岸花を静かに揺らしている。
返り血なのか、それとも別の何かなのか、どす黒い染みが無数に付着した黒いセーラー服をその身に纏う黄昏愛は、蒼白を通り越してほとんど陶器のような色合いとなった顔をゆっくりと持ち上げ、その虚ろな瞳で九十九の姿を正確に捉えた。その瞳は、底なしの深淵を覗き込むような暗闇だけが広がっている。
「愛……?」
変わり果てたその姿を前にして、九十九の声は困惑に掠れていた。愛は異能で姿を変えられる。しかしこれまでに見てきた変身能力のどれとも、今の愛はどこか本質が異なるような気がしてならなかった。目の前の存在は、本当に自分が知っている黄昏愛なのだろうか。疑念が心を蝕む。
「……九十九さん」
すると彼女は、仮面のように張り付いた無表情のままながら、九十九の呼びかけに応じてみせた。その変わらない声の響きに、九十九はほんの僅かながら、安堵にも似た感情を覚える。
「私は……願いを、叶えました」
そうして愛が小さく呟いた、その時。九十九のすぐ隣で、何かがどさりと、鈍い音を立てて落ちてきた。驚いてそちらに視線を向けると――そこには一ノ瀬ちりの姿が、力なく横たわっていた。眠っているのか、その瞳は固く閉じられ、胸元は呼吸で微かに揺れている。
「ちり……っ!」
ちりが、生きている。その事実に九十九は思わず歓喜の声を上げそうになった。しかし、すぐにその歓喜は、背筋を這い上がる冷たい違和感によって霧散し、九十九は急速に冷静さを取り戻していく。
「……待って。どういうこと? だって、愛の願いは……」
黄昏愛の願いは、『あの人』との再会。そのために、ここまで旅を続けてきた。そのはずだ。
「……私の求める『あの人』は、どこにもいませんでした。ですから私は、もう一つの願いを叶えることにしたんです」
愛は淡々と、感情の起伏を感じさせない声で告げる。赤い彼岸花の花畑が、まるで彼女の言葉に応えるかのように、風もないのにざわりと揺らぐ。その光景は、この世のものとは思えないほどに幻想的でありながら、同時に言いようのない不吉さを漂わせていた。
「えっと……正直、私にはよくわからないけど。でも、とにかく……愛がちりを、助けてくれたってことだよね? ありがとう……」
複雑な事情は理解しきれないながらも、九十九は目の前の事実、ちりの復活という奇跡に対して、心からの感謝を述べた。しかし、愛の表情は変わらない。蒼白な顔には何の感情も浮かばず、ただじっと九十九を見つめ返している。その無表情さが、かえって九十九の胸をざわつかせた。
「……それじゃあ、これから……どうしようか? ここが地獄の最下層なんだとしたら、これ以上先には進めないよね。……そうだ! 私達三人でさ、ここで一緒に暮らそうよ! あっ、でもその前に……あのシスター・フィデスを、拷问教會の連中をどうにかしないとね。奴らを倒そう。ここで迎え撃つんだ。大丈夫、三人で力を合わせれば、きっと……!」
未来への希望を無理矢理にでも見出そうと、九十九は早口で言葉を並べ立てる。この異常な状況下で唯一の救いは、二人が無事であるという事実。ならば、ここで新たな生活を始めることも可能なのではないか。そんな九十九の、ある意味では現実逃避にも似た提案に対して――
「私達は、ここでお別れです」
愛は静かに、ゆっくりと首を横に振った。その仕草は絶対的な拒絶を含んでいて、その言葉は刃物のように九十九の胸に鋭く突き刺さる。
「え……?」
理解が追いつかない。何を言われたのか解らなかった。
「九十九さんとちりさんには『資格』がありません。『資格』の無い者は、この無限地獄に居続けることは出来ない」
――その瞬間。赤い空が、まるで薄墨を垂らしたかのように、徐々に白み始めていく。九十九の視界が、まるで古い映画のスクリーンのように、周囲から徐々に狭まっていくのを感じた。世界の輪郭が少しずつ曖昧に、不安定に崩れていく。足元の彼岸花も、その鮮やかな赤を失い、色褪せていくようだった。
「私には『資格』がありました。この無限地獄に留まるための、そして――『魔王』となるための資格が。私は願いを叶えて、その代償に魔王になることを選んだ。無限地獄の魔王は、この場所から外に出ることはできない。あなた達と一緒に居ることは、もうできないんです」
愛の声が、酷く遠くに聞こえる。その姿も徐々に霞み始め、まるで水面に映った月のように揺らぎ、その輪郭を失っていく。まるで長い夢から醒めようとしているかのような、抗いがたい感覚。九十九の視界は急速に暗闇に包まれていき、やがて愛の姿も、その声も、遥か彼方の闇の中へと消えていった。
「待って……何を言ってるの……? 愛……!? 行かないで……!」
必死に伸ばした手は、空を切るばかり。
「……さようなら。ちりさんと、どうか、お元気で……」
最後に聞こえたのは、途切れ途切れの、悲痛な響きを帯びた囁き。
「愛……!? 愛――――ッ!!」
叫びは、誰にも届かない。そして九十九の意識は、深い闇の中へと沈んでいった。抗う術もなく、ただ、引きずり込まれるように――
◆
九十九が次に目を覚ました時、そこは無間地獄の赤い花畑ではなかった。硬く冷たい感触が背中にあり、鼻腔には微かな硫黄の匂いが混じり合って漂っていた。
ぼんやりとした視界が徐々に焦点を結んでいくと、そこには酷く懐かしくさえ感じる光景が広がっていた。砂漠の上に立つプラットホーム。錆びついた線路。そしてホームの端の煤けた駅名看板。そこには「焦熱」という文字が、辛うじて読み取れる。
気がつくと九十九は、その駅のホームの隅で、ちりと共に地面に倒れていた。隣には、まだ意識の戻らないちりが、静かに寝息を立てている。
「……第七階層? 戻ってきたのか……? どうして……一体何が……」
九十九の掠れた声が、寂寥とした駅のホームに虚しく響き渡る。思考は未だ、無間地獄で愛と交わした最後の言葉、その悲痛な響きと、徐々に遠ざかっていく彼女の姿に囚われたままだった。胸を抉るような喪失感と、理解を超えた事態への混乱が、九十九の中で渦を巻いている。
未だ意識の戻らない一ノ瀬ちりの肢体は、見た目以上にずしりと重い。それでも九十九は、その小さな肩をしっかりと背負い直し、ふらつく足取りで、錆びついた鉄製の改札口へと向かった。一歩一歩が、鉛を引きずるように重い。
何が起きたのか、なぜ自分たちはここにいるのか、そして何よりも、愛はあの後どうなったのか。そもそもどこからが夢で、どこからが現実だったのか――疑問ばかりが頭を占拠し、答えは見えない。
改札を抜けた先、駅舎の外へと続く薄暗い通路。その出口の僅かな光が、まるで奈落の底から見上げる月のように、頼りなく揺らめいていた。
「それは質問でしょうか。ならば答えねばなりません」
そんな九十九を出迎えるように、あるいは待ち構えていたように、その声は聞こえてきた。
「無間地獄を巡る猿夢列車は、資格を持たない侵入者を許容範囲外として、この第七階層まで強制的に送還する役割を担っています。あなた方はそれによって、無間地獄から追い返された。それだけのことです」
開闢王。ペストマスクと黒いキャソックが象徴的なその魔女は、その背に見慣れない黒い棺桶を背負って、駅舎の外、古木の如く佇んでいる。彼女は相変わらず、抑揚のない事務的な口調で応えてみせた。頼んでもいないのに。
「開闢王……! お前、あの時……愛に殺されたはずじゃ……」
拷问教會の無間地獄行きを阻止するため、まさにこの場所で九十九達は死闘を繰り広げた。その際に、開闢王は黄昏愛の一撃で致命傷を受けたはず。だというのに、今の開闢王は五体満足、無傷で九十九の目の前に立っている。
「無間地獄は他の階層とは時間の流れが著しく異なっています。あなた方が無間地獄へと足を踏み入れてから、こちらの時間で既に一年以上の歳月が経過しました。それは怪異の自然治癒機能が損傷した肉体を蘇生させるに充分な猶予です」
「何……ッ?」
九十九と愛が無間地獄へと向かったのは、ほんの数日前の出来事――少なくとも、九十九の体感時間ではそうとしか思えなかった。確かに『夢幻地獄』で過ごした時間の感覚は曖昧だったが――まさか一年以上もの時が経過しているとは、到底信じられることではなかった。
信じ難いがしかし、それは事実なのだろう。嘘を断罪するあの『腕』が影も形も見せないということは、つまりそういう事なのだ。
「久し振りだナァ。芥川九十九ォ」
――その時。開闢王の背後から、ぬらりとした粘液質な気配と共に、もう一つの影が姿を現した。シスター・フィデス。その顔には、他者の不幸を蜜とする悪辣極まりない嗤いが張り付いている。
「一年以上も居座りやがっテ。キサマ等が目を覚ますタイミングは心を読んで解るとは言エ、まったく待ち草臥れたゼ。やっとアタシ達に順番が回ってきタ」
フィデスの、神経を逆撫でするような言葉の一つ一つが、九十九のささくれ立った心を容赦なく刺激する。まるでこの状況全てが、彼女の掌の上で計画通りに進行していたとでも言わんばかりの、そのふてぶてしい口振り。それを前にして、九十九の腹の奥底からは、抑えようのない怒りが込み上げてきていた。
「貴様……シスター・フィデス……ッ!!」
九十九の全身から黒い瘴気が溢れ出す。途端に伸びてきた悪魔の尾が、背負っていた一ノ瀬ちりの肢体にそっと絡みつき、駅のホームの中に避難させた。そして一歩ずつ、敵意を剥き出しにしてフィデスへと歩み寄る。既に全身の皮膚には悪魔化を示す黒い刺青が広がり、双角が頭蓋骨を突き破って禍々しく天を衝いている。
「これからアタシ達は黄昏愛から魔王の座を奪いに行ク。資格を持たねえキサマは引っ込んでいロ」
「何なんだよさっきから……資格資格って……貴様等は何を知っているッ!!」
「それは質問でしょうか。ならば答えねばなりません」
九十九の叫びが、周囲の淀んだ空気を激しく震わせた。するとフィデスの代わりに開闢王が、再びその静かな口を開く。
「そもそも黄昏愛という人物は実在しません。彼女は人工的に造られた架空の存在です。その極めて特殊な生い立ちが、地獄のシステムにエラーを引き起こした。本来は転生するはずのない、人間ですらない彼女を無理やり転生させた結果、彼女は『神格』の怪異――『ナイアーラトテップ』と成った」
まるで論文でも読み上げるように、開闢王は淡々と事実のみを語っていく。九十九は、その言葉の意味を完全には理解できないながらも、それが途方もなく重大な真実を孕んでいることだけは、肌で感じていた。
「地獄のシステムは、彼女が異能を暴走させるリスクを抑えつつ、またその存在を利用する為、偽りの記憶を捏造し黄昏愛という人物像に具体性を与えた。そして現在、黄昏愛は地獄のシステムが目論んだ通り、無間地獄の新たな魔王――システムの守護者とでも呼ぶべき存在になった」
九十九にとっては知る由もなかった真実が次々と、冷酷に開示されていく。難しいことは抜きにしても、確かに解ったことは一つ。黄昏愛が自分の意思ではなく、他人の悪意によって利用されたということ。
「魔王になる資格とは、即ち狂気への耐性。僕はその資格を持っている。だから、僕はこれから無間地獄に向かいます。そこで黄昏愛を殺し、魔王の座を奪って、願いを叶える。悪疫に侵されたこの世界に、救済を齎す為に」
そうして最後に紡がれたその言葉は、九十九の中で辛うじて繋ぎ止められていた、最後の理性の糸を断ち切るには充分過ぎた。
「そんなこと……させるわけないだろ……ッ!!」
九十九の左の拳が瞬く間に赤黒く肥大化し、完全な悪魔のそれへと変貌を遂げていく。その一撃を今すぐにでも叩き込もうと、九十九は全身のバネを軋ませた。
「では、行って参ります。シスター・フィデス」
「嗚呼、行ってこイ。アタシは狂気の耐性を持っていないから付き添いはしてやれなイ。上手くやれヨ」
しかし、そんな九十九の殺気を間近にしておきながら意にも介さず、開闢王はまるでマイペース。フィデスに後を託すと、そのまま九十九の脇を素通りしようとする。
「――――ォォォォオオオオオオオオオオッ!!!!」
怒りの咆哮と共に地面を強く踏み込んで、九十九は開闢王の顔面目掛けその悪魔の拳を振り翳した。その疾さは避けることもできず、直撃すれば確実な死に至る。その必殺の一撃が、周囲の空間を歪ませながら放たれる。
「バァカ……テメエ等が惰眠を貪っている間にコッチの準備は整ってんだヨ……」
しかし、フィデスが顔に不敵な笑みを浮かべ、そう嘲笑った次の瞬間だった。九十九の拳が開闢王に届く寸前、突如として巨大な影が天から降ってきて――その一撃を、金属的な甲高い音と共に受け止めたのである。
衝撃波が周囲に拡散し、九十九の髪を激しく揺らす。そのすぐ傍で、開闢王は振り返ることもなく、現れたその影に守られたまま悠然と歩き去っていく。
九十九の眼前に立ちはだかった、その影の正体。虚空より転移されてきた、新たな敵。その姿は、筆舌に尽くし難いほどに異様そのものだった。
頭部を形成しているのは、黒い不浄の焔を絶え間なく纏った、精巧な機械仕掛けの髑髏。その眼窩からは、赤い光が不気味に明滅している。背中には、黒く巨大な金属質の翼が四枚。身に纏うのは、修道服を模した外骨格。有機物と無機物が複雑に絡み合い融合したような、機械仕掛けの肉体で全身が構成されている。そしてその頭上には、燃え盛る炎によって形作られた歪な天使の輪が、静かに揺らめいていた。
「シスター・マルガリタ。邪魔者を排除してください」
『――はぁい、マスター♪ マルガリタにお任せ♪』
口と思しき空洞から発せられるその声は、耳障りなノイズが混じった、不自然なまでに甲高い電子的な音声。それは軽やかな口調で、悪魔の拳を正面から平然と、片手で受け止めている――
彼女こそは、拷问教會の第四席。炎獄の天使『ザバーニヤ』の人造怪異――シスター・マルガリタ。
新たな絶望の化身は、天使のように嗤いながら、そこに顕現したのだった。