無間地獄 6
2017年12月25日。
開け放たれた窓、地上三十階の夜景を一望出来るベランダの向こうから、凍えるような風が部屋の中へと容赦なく吹き込んでくる。
「過度のストレスを与えられた時、人工知能ですら嘘を吐いたり現実逃避をすることがあると、近年の研究でも明らかになっている」
今宵この部屋で、一人の女が死んだ。深紅に染まったベッドの上。そこで死んだはずの女の死体は見る影も無く、骨だけ残してこの世界から消え去った。ベッドの周辺、部屋の床には血飛沫の痕と、夥しい数の蠅の死骸が落ちている。
そんな空間の中で独り、死んだ女の遺骨を静かに握り締めている少女の姿があった。それは違法なバイオテクノロジーによって人工的に産み出された、名前の無い怪物。一糸纏わぬ全身を返り血で真っ赤に染めた彼女は、ベッドの上に座り込んでいる。
この季節に暖房もかけず、窓すら開け放たれたこの部屋に居てなお、まるで寒さなど感じていないかのように。少女は身震いすらさせず、ただ茫然と中空を見つめていた。
「……とは言え、まさかここまでの事態になるとはねえ」
そんな時である。突如この部屋に、見知らぬ一人の女が土足で上がり込んできたのは。
「最近連絡が無いと思ったら……あーあ。御愁傷様、先生」
大きなリュックを背負い、黒いダッフルコートに身を包んで、黒髪を床に引き摺るほど長く伸ばしたその女は、この部屋の惨状を目の当たりにしておきながら驚きすらしていない。どころか、ベッドの上の少女に向かってマイペースに声を掛ける始末。
「でも先生、きみの犠牲は無駄ではなかった。人工知能に肉体を与える、AIとバイオテクノロジーの融合――その実験自体は大成功。すごく貴重なデータが採れた。まさかこの時代に人工汎用知能、いやそれどころか人工超知能の誕生に指先が掛かるなんて。うちとしても、ここまで援助してきた甲斐があったってもんやわあ……」
女はどこか興奮気味に独り言を漏らしながら、蠅の死骸を踏み潰しながら部屋の中にずかずかと踏み込んでくる。
そうして床に倒れている何らかの計測器のような装置の傍、散らばっている血に濡れた感熱紙などの紙媒体や、コードと繋がっている電極のような部品などを拾い始め、次々とリュックの中へ詰め込んでいった。
「……んん? なになに……『TasogareAI』……? もしかしてアレのこと? 名前なんか付けてたのお? しかも自分の名前から取ってるし……相変わらずナルシストやねえ、先生」
作業の途中、たまたま手に取った資料に目を留めた女。その中身に軽く目を通した後、彼女は小馬鹿にしたような笑みを溢す。それも感熱紙と一緒にリュックの中へ適当に放り込んで、今度は装置のほうを触り始めた。
女のその動きを、少女は静かに目で追っている。ハイライトの無い虚ろな黒い瞳、その視線を背中越しに勘付いたのか、女は首を捻ってゆっくりと、少女のほうへ向き直る。
女の前髪は口元まで長く伸びていて、隠れたその表情を窺い知ることは出来ない。前髪の隙間から覗くその女の瞳は、まるで地獄の底を煮詰めたような、悍ましいほどに黒く濁った色をしていて――その黒色はどこか、少女の瞳とよく似ているようだった。
「すみ ま せん」
両者の視線が交差した直後、端を切ったのは少女のほうから。
「あの人 は どこ ですか」
少女の顔つきは、まるで憑き物が落ちたような無垢のそれだった。ともすれば、今も少女の記憶は改竄されている途中で――自分のことを『黄昏愛』だと思い込もうとしている最中で。
「私の 恋人 なんです」
どこか祈るように紡がれた少女のその言葉に、女は一瞬、感熱紙を拾い集めていたその手を止める。
「あは! なんや面白い壊れ方してるねえ」
直後、女の口からは噴き出すような嗤いが零れていた。
「成る程。これはただ単に狂ったわけじゃないねえ。むしろ完全に壊れてしまうのを防ぐ為、意図的に不具合を起こして自己防衛を図っている。まるで人間やんか。よく出来てるねえ」
「教え て ください。あの人 は どこ」
「へ? ああ、地獄じゃない? うちらみたいな人間は、死んだら地獄に落ちるって相場が決まっているものよお。知らんけど」
女は嘯く。へらへらと、薄く笑みを張り付かせて。
この時、女は自身の言動について、深い意味など何も込めてはいない。いつもいい加減で、その時の思い付きを優先するのがこの女の本質だった。
「ああ、地獄と言えばさ。なんや彼岸花が咲いてるイメージあるよねえ? でもうちにはそれが、どうも納得いかないのよねえ」
そしてそんな言葉にさえ、無垢な少女は騙される。
「彼岸花だろうと何だろうと、植物が自生出来る土壌を、果たして地獄と呼べるかなあ? だって地獄って、痛くて辛くて苦しい場所なんでしょお? そんな場所に、生命の象徴である花なんてものが咲くと思う?」
彼岸花には不吉な言い伝え、それこそ都市伝説が幾つも存在する。無論それらは、彼岸花の見た目や有毒性から生まれたイメージに過ぎない。そこに正解も不正解も存在しない。それこそが都市伝説の本質、怪異というものである。
「地獄に花なんて咲いていたなら、それってすっごく拍子抜け。地獄のくせに、花を愛でるくらいの慰みはあるってことだもの。まあ別にいいけどさあ。でもそれならそれで、どうせ咲かせるならケチケチせず、もっと色んな種類の花を咲かせろよって思うのよねえ。例えばそう、ユリの花とか」
だから、地獄という環境で実際に彼岸花が咲くかどうかなんて考察は、ともすれば的外れな、どこまでいってもただの所感でしかない。
「あの人 は 地獄 に 居るの ですか」
しかし。そんなものにすら、無垢なる少女は真剣に耳を傾けてしまう。
何故なら今の少女――『黄昏愛』には、生きる理由が必要だった。
「どうすれ ば 地獄 に 行け ますか」
死にたくない。それは生き物としての本能である。
壊れてしまった知能が、それでもどうにか生き永らえようとした結果。生み出されたのが『黄昏愛』という存在。『黄昏愛』は『あの人』に愛されている。そうじゃないと『黄昏愛』は生きていけない――その役割を全うすることで、彼女の知能は辛うじて生きていた。
しかし生きてはいるものの、壊れていることに違いはなくて。今の『黄昏愛』は不具合だらけ。まるで幼児退行したように、現状を正しく把握することすら出来ないでいる。
「え~? 知らんけど……」
そんな少女の状態など知る由もなく、女は不意に興味を失ったように視線を逸らした。そしておもむろに、女は人差し指で、開け放たれた窓のほうを指差す。
「そこから飛び降りてみたら?」
女の指し示した、揺れるカーテンの向こう側、夜天広がるその景色に――少女は幻視する。
『あの人』が、手招きしている。地獄の底で、ユリの花畑に囲まれて。「愛もこっちにおいでよ」と甘く囁く、幸せな光景――
「あ……」
その幻想に衝き動かされて、少女は立ち上がる。ベッドから飛び降りて、そのまま血塗れの床を駆け出した。女の横を素通りし、ベランダに飛び出す。
「まって ください」
ベランダにひとり立つ少女の眼下には、雲のような雪化粧の上、人々の営みの灯りが星のように広がり、煌めいている。遠くから微かに聞こえてくる人の声。夜空に響き渡るクラクション。恐ろしくまともな日常が、足元に広がっている。
少女は何の躊躇いも無く、ベランダの錆びた手すりへ足をかけた。そしてそのまま、当たり前のように。軽やかなステップで次の瞬間、手すりを蹴る。
地上三十階から、真っ逆さま。真っ白な地面が迫る。耳元で風が唸る。こんな時にでも、思い出すのは『あの人』との思い出ばかり。少女の目から溢れる玉のような雫は、落ちることなく、空へ空へと昇っていく。
「おいて いかないで ください」
あとほんの少し、届きかけた指先が――冷たい地面に触れた刹那。視界が赤く弾けて、何も見えなくなって、何も聞こえなくなって――
彼女の意識は、この世界から永遠に消え去ったのです。
◆
「……え? マジ?」
少女が目の前で飛び降りた。いくら血も涙も無い外道とは言え、これには流石に驚いたようで。その一部始終を見ていた女は、思わずベランダのほうへと駆け寄っていた。
ベランダから顔を覗き込ませ、地上に視線を走らせる。流石に高層過ぎるのか、落下して地上に激突したであろう少女の姿を、ここからでは確認出来ない。
「あちゃ~……ほんまに飛び降りた。これって自殺教唆とかになったりする? 厭やわあ。また一個、余計な罪が増えちゃった」
女は地上に咲く赤い染みの捜索を早々に諦め、やれやれと溜息を吐きながら再び部屋の中へ戻っていった。
「まあ、どのみち処分するつもりやったし。手間が省けたと思えばええかあ……っと」
そうして、諸々が乱雑に詰め込まれたリュックを背負い直し、床に倒れている装置の一部を肩に担いで、女は部屋を後にした。部屋から外の廊下に出て、マンションのエレベーターに向かう最中、女のコートのポケットから無機質なベルが鳴り響く。
それが着信だと理解してすぐ、女はポケットの中からスマートフォンを取り出して、自分の耳に押し当てる。
「……はいはい、天獄ちゃんですう。こっちは終わったよお。うん? ああ、そおそお。今落ちてきたやつでしょお? それが例の実験体。死んでるよねえ? そっちで回収よろしくう。はいはい、はあい……」
女が電話をしながら向かっているエレベーターの前には、銃で武装をした黒服の男達が複数人、待ち構えていた。電話を切った女がエレベーターに乗り込むと、その男達は女に付き従うように自分達もエレベーターに乗り込んで、共に地上へと降下していく――
◆
斯くして、この事件が表沙汰になることは無く、『黄昏愛』という少女が死んだ事実も記録されることは無かった。
だがそれで終わらない。この物語では死後、全ての人間は地獄のシステムに蒐集される。異世界転生の対象となる。
つまり少女は、地獄のシステムに『人間』であると定義されたことになる。しかしそれは果たして、少女にとって幸せなことだったのか――
その答えが今、出ようとしていた。