無間地獄 3
季節は巡る。
今という時間はゆっくりと、けれど確実に刻まれて、春は夏へと移ろう。燦然と輝く太陽の下、悍ましいほど青い空が広がって、心もどこか解放されたように感じる。
汗ばむ肌に風が触れるたび、返って身体を動かさずにはいられない、そんな夏の情熱めいたエネルギーが心の底から湧いてくる。
やがて空が昏い朱に染まり、ひとときの涼やかな安らぎが訪れるその瞬間。この季節の光と影の交錯に、ただただ心を奪われるのだ。
やがて緩やかに、秋の気配が忍び寄る。緑だった木の葉は赤から黄へと色を変え、はらはらと落ちていく枯れ葉が風に舞い、過ぎ去った過去をどこかそっと呼び覚ます。
紅葉の絨毯を踏み締めるたびに、心の奥底から郷愁が込み上げる。自然の営みが静かに、しかし確かな足取りで、過去と未来を繋ぐような気がした。
秋の夕暮れには、淡い光に包まれた世界に立ち竦むと、微かな寂しさと共に、どこか深い温もりを感じるのだ。
そして、冬がやってくる。寒さが一層厳しさを増す中、静かな雪が大地を覆い、世界はまるで静寂の中に閉じ込められたかのように輝く。
凍える空気の中、温かな部屋で身を寄せ合い、共に窓の向こうの白銀を眺める、至福の時間。黒夜に包まれたその世界は、まるで全ての時間が止まってしまったかのような、恐ろしく静謐で美しい闇がただ広がるばかり。
季節は巡る。
◆
「んじゃ、また明日な」
「はい、また明日」
「うん。また、明日」
今日も、暖かな時間に別れを告げて。冷たい夜の道を、黄昏愛は独り往く。
「…………」
幸せを噛み締めるようだったあの微笑みは、今の彼女の表情からはすっかり消え失せて。街頭の無い道を歩く、夜の闇に溶け込んだ彼女の顔は、遠目にはもはや誰なのか判別のつかない無貌と化しているようだった。
「…………」
三人で過ごす時間は幸せだ。この時間がずっと続けばいい――本心からそう想ってしまうほど、かけがえのないものに違いはない。
だけど、どんな時間にだって。必ず終わりは訪れる。そもそもこんな『今』は最初から存在しないのだ。あったかもしれないという可能性すらありえない――ただの夢。ただの幻。
「…………」
そう。此処は地獄の第八階層、無間地獄。この世界では、『今』が無間に続いている。
この世界にやってきた時点で、芥川九十九は全てを忘れてしまった。此処が地獄であることも、自分が怪異であることも忘れ、この世界に違和感を抱くこともなく、『今』を無間に続けている。季節が絶え間無く巡る中、その実感すら無いままに、彼女は幸福な毎日を過ごしていた。
けれど、そんな中で黄昏愛。彼女だけは、自分が怪異であること、此処が地獄であることを憶えていたのである。
否、正確には――此処で過ごすうちに少しずつ思い出していった、と言うべきだろう。これまでもそうだった。現実ではどうしても思い出せなかったこと、認識すら出来なかったことも、『夢』の中でなら思い出せる。
地獄を巡る旅の合間に見てきた、これまでの『夢』の内容も思い出した。今なら『あの人』の顔も思い出せる。春夏秋冬、季節を追う毎に『あの人』との記憶の断片が蘇り、自分自身という存在がより鮮明になっていく。
この感覚を以てして、愛はこの世界の正体を『夢』なのだと確信していた。ということはつまり、自分は今眠っている、という事実に他ならない訳だが――
ただ、いつの間に、どこからこの『夢』が始まったのか。それが思い出せない。気が付いた時には既に、愛はこの場所で生活をしていた。普通の学生のように学校に通い、あの二人と登下校を共にして、家に帰る。そんな代わり映えのしない『今』を、いつの間にかずっと続けていた。そしてそれは、これが『夢』だと自覚した今も尚、続いている。
この『夢』の中で過ごすうち、奇妙なことが幾つかあった。例えば――自分が学校でどのように過ごしているのか、思い出せないこと。毎日登校しているはずなのに、いつの間にか時間が飛んだように、放課後になっているのだ。その間、授業を受けた記憶も無く、誰かと挨拶を交わした記憶も無い。
ただ、色んな人間から不躾な眼差しを向けられたような、そんな感覚だけがずっとあって――纏わりついてくるようなそれから逃げたいと念じていると、気が付けば放課後。九十九とちりの通う学校、その校門前に瞬間移動している。
そして、もうひとつの奇妙は――
「…………」
放課後、三人で過ごす時間が終わり、帰路に着こうとすると――いつも決まって、気が付いた時には既に、家の扉の前に居ること。
確かに先程まで、暗い夜道を歩いていたはず。しかし直後、まるで記憶が飛んだように、自分がどんな道を歩いて此処まで辿り着いたのか何も思い出せなくなって――いつの間にか、家の前に瞬間移動している。
つまり。この世界で愛が憶えていられるのは、三人で過ごす時間だけ。まるで最初から、それ以外の時間を知らない、想像すら出来ないみたいに。
「…………」
斯くして地上三十階のタワーマンション、その最上階。カーペットの敷き詰められた暗い廊下の最奥、その扉の前に今日も愛は佇んでいる。
「…………」
此処が愛の家、ないし部屋だというのは間違いない。そして此処には『あの人』が居る。愛は此処で『あの人』と一緒に暮らしている――
「…………」
予感があった。きっと自分は、まだ何か大切なことを忘れている。そして自分がそれを思い出せば、無間に続く『今』は終わりを迎えるのだと、愛はそう確信を持って――ドアノブに手を掛けた。
「おかえり」
扉を開き、玄関を潜ると――『あの人』は、目の前の廊下に立っていた。ウェーブがかった黒髪を肩まで伸ばした長身の女。贅肉の無い引き締まった肢体。血を啜ったかのように紅く潤ったリップと、鋭く引かれた紫のアイライン。そんな彼女は優しく微笑んで、愛の帰りを出迎える。
「遅かったじゃん。私もうお腹ぺこぺこだよ~」
此処が夢の中だからか、起きている時よりも思考が回る。普通は逆だろうが、愛の場合はそうだった。これまで無自覚に、見て見ぬふりを続けてきた違和感にさえ、自覚的になっていく。
「…………」
疑惑があった。黄昏愛は『あの人』と再会する為に地獄に落ちてきた。その前提があってこそ、この物語は始まった。
けれど肝心の『あの人』について、何も思い出せない。それでも、黄昏愛は『あの人』を探し続けていた。まるで本能的に、そうしなければ生きていけないとでも言わんばかりに。
「…………私達って、いつから一緒に居るんでしたっけ」
ともすれば、『あの人』を探すという行為そのものが、黄昏愛という存在を形作っているかのような。
「ん? え、なになに。どしたの急に。あ、もしかして記憶喪失~? なんちゃって」
怪異は地獄に落ちた時、その影響で生前の記憶を一部欠損することがあるらしい。だから、自分もきっとそうなのだろうと、当たり前に受け入れていた。
どうしてこれまで他の可能性を疑わなかったのか。まるで「そうでなくては困る」と、無意識に思い込もうとしていたみたいに。
そう、例えば――思い出せないのではなく、思い出したくないのだとしたら、どうだろう。
「私は……『黄昏愛』は……どこで産まれて、どうやって生きてきたんでしたっけ……」
黄昏愛の異能は、自分自身の肉体を改造し、その存在を遺伝子操作することが出来る。ならば、可能だろう。自分の記憶を作り変えるなんてこと、出来て然るべきだ。
「……愛? 本当にどうしたの?」
そして、そうしなければ『黄昏愛』は生きていけなかったのだとしたら。
「あなたは、誰でしたっけ」
頭の中で、蠅の羽音が鳴り響く。それはきっと、警告。自分という存在を自ら否定しようとする、そんな愚かを糾弾しているのだ。
けれど、もう止められない。だって私は、とうとうそれを口にした。
「…………」
なのに、それを受けた『あの人』は――僅かな身動ぎすら見せず、ただ柔らかく微笑んで。
「思い出したいのなら、名前を呼んでごらん」
まるでいつものように、優しく囁きかけてくる。そしてその声を聞いただけで、本能的に安堵してしまいそうになる自分がいた。
「■■さん」
だって仕方が無い。私は『あの人』の恋人なのだから。
「……■■さん」
『あの人』は優しくて、とても綺麗で、私のことだけを愛してくれる、たったひとりの大切な人。
「…………お■さん」
『あの人』がいなきゃ、駄目なんです、私。
「……………………お母さん」