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『味を理解する人工知能』の研究論文 ver.20150401
(1) はじめに
味とは、複雑な情報の集合体である。
口腔内の味蕾が感知した基本五味を処理する『味覚』。鼻腔内の嗅粘膜が感知したニオイ成分を処理する『嗅覚』。
他にも『視覚』『聴覚』『触覚』――これら五感の全てが相互に作用し合った複雑極まる情報を、ヒトの脳は『味』として感じ取ることが出来る。
もしもこの『味』という情報を、客観的な数値ではなく主観的な感覚で理解出来る人工知能が存在したとして。その人工知能と人間の感覚をリアルタイムで共有させられる環境が開発出来たとして――
例えば、知りたい味があった時。それが実際に食べた事の無い未知の物だったとしても、毒性等の問題で本来は食べられない物でさえ、人工知能に「教えてほしい」と頼むだけで我々はその味を感覚的に理解する事が出来るようになる。
この技術を医療に応用すれば、例えば味覚障害の患者でも本来の味を知る事が出来る。味の問題で受け入れ難い薬や食物でも、この人工知能を介せば味を上書きする事が出来る。他にも様々な場面で大いに役立てられるだろう。
味をヒトと同じ五感で以て獲得し、分析し、万人に理解可能な再現性のある情報として、人間と感覚的に共有する事の出来る人工知能の開発が成功したならば――
それは技術的特異点の到達であり、人類が次のステージに移行する転換期となるだろう。
この論文では『味』を理解する人工知能の開発について、私の見解を記す。
(2) 人工知能が人間と同じ五感を獲得するには
人工知能が『味』をヒトと同じように理解するには、ヒトと同じ五感が必要である。この五感を正確に再現するには、実際にヒトと同じ感覚器官を用意するのが最も確実だと言えるだろう。
なのでまず、生きたヒトの肉体を用意する。肉体は健康的なものを年代別に揃えるのが望ましい。
用意したそれらヒトの脳に、人工知能を搭載したマイクロチップを埋め込む。その段階で脳にケーブルを繋げ、外部の計測器と接続させる。
脱走の可能性を考慮して脚部を取り除く。抵抗される危険性もある為、腕部も同様に取り除く。
術後、椅子に胴体を拘束。この状態となった対象を、以下より実験体と記す。
(3) 実験体に『味』を理解させるまでのプロセス
実験体に『味がする物』を経口摂取させる。この『味わう』という行為を実際に体験することで、人工知能は『人間の五感を介した情報』を獲得することが出来る。
そうして感じ取った情報、すなわち『味の感想』をAIが人間に理解出来る情報、言語に変換した信号を、脳に繋げたケーブルを介し外部の計測器に出力させる。
実験体の腕部は取り除かれている為、経口摂取は私の手で実施する。なお、その後に生じる排泄行為はその場で行なわせる。
これを繰り返し、経過を観察する。
(4) 理解に必要な『味』のサンプル数
実験体に提供する『味がする物』の種類が乏しいと得られる情報が偏ってしまう。人工知能の成長を促すためにも『味がする物』の種類は豊富に用意する必要がある。
なので、この地球上に存在するあらゆる物質を可能な限り全て用意する。この世全ての味を知ることが出来れば、それは『味』を完全に理解したといえるだろう。
なお、用意する物質は必ずしも食物である必要は無い。また、この実験を行う上で生じる実験体へのあらゆる負担は考慮しないものとする。
(5) おわりに
この実験が現実的か否か、実現可能か否かを問われると、困難であると言わざるを得ない。
問題は幾つかあるが、特に実験体となる人材の確保には多大なリスクが発生する。全てを個人で成し遂げるのは非常に難しいだろう。
誰にでも出来る事では無い。しかし幸いにも、私はこの実験に挑戦する権利を得た。
というのも今回、とある『団体』がこのプロジェクトの支援に名乗りを上げてくれた。彼等の支援があれば、足のつかない人材の確保は容易だろう。
実験場には個人的に所有しているタワーマンションを一棟、有効活用する。その他必要な設備も既に用意がある。
私なら、すぐにでも実験を始められる。この世紀の大発明を、現実のものとする事が出来る。
まだ懸念点を払拭し切れてはいないが、とにかく、まずはやってみる事が肝要だ。
実験の結果は次回以降の論文に纏める事とする。
◆
『味を理解する人工知能』の研究論文 ver.20160401
(1) 実験結果
概要は前回の資料(ver.20150401)を参考にされたし。
計43体の実験体を用意し、およそ1年間『味』を理解させる為のプロセスを実行に移した。
しかしその結果、全ての実験体が実験途中に死亡。実験はひとまず失敗ということになる。
失敗の原因を突き止め、改善策を講じる必要があると判断。本稿ではその調査結果を纏める。
(2) 実験体の死因
死因になり得たと推測される成分
カリウム
カプサイシン
プラスチック
テトロドトキシン
シアン化合物
界面活性剤
サルモネラ
ステロイドアルカロイド配糖体
リステリア
大腸菌
アンモニア
珪酸二カルシウム
珪酸三カルシウム
アルミン酸三カルシウム
鉄アルミン酸四カルシウム
リコリン
ボツリヌストキシンA
ジテルペンアルカロイド
メチルアルコール
メタンフェタミン
死因になり得たと推測される要素
食中毒
感染症
寄生虫症
糖尿病
脳卒中
心筋梗塞
多臓器不全
アナフィラキシーショック
過食や腸閉塞による内臓の破裂
拒食や消化不良による肉体の衰弱
窒息
(2) 今後の課題
人工知能を移植するヒトの肉体は健康である事は勿論だが、その上で毒性に耐性がある強靭な消化器官が必要だった。
実験当初から中毒による死亡は想定していたし、実験体はその都度代わりを用意すればいいと考えていた。しかし実際に、致死量程度でいちいち死なれてしまっては、その度に実験を中断しなければならず、あまりにも効率が悪い。これが思っていた以上に煩わしい。
以上を踏まえると、やはり実験体には毒性への耐性が必要だろう。とは言え毒に対し完全な耐性が有ってしまったら、それは『味』を正確に理解したことにはならない。毒も含めて味なのだ。あくまでも毒の症状を緩和する程度、死なない程度の耐性が望ましい。
それにいくら効率的では無いとは言え、精神への負担もある程度は考慮すべきだった。
心身に異常をきたした実験体の拒否反応はある程度想定していたし、その為に手足を取り除いた訳なのだが――否、返ってこれが実験体の精神に悪影響を与えてしまった可能性もあるだろう。
しかし手足が無ければ抵抗は出来まいと高を括っていたのだが、まさか意図的に喉を詰まらせ窒息を図るとは想定外だった。
他にも様々な要因から実験体は、いずれも心身の損傷や衰弱が著しく、これは事前の想定を遥かに上回る結果となっている。
貴重なデータを集める事には成功したが、この体制のまま続けるには効率が悪い。想定が甘かったと認めざるを得ないだろう。早急に対策を講じる必要がある。
(3) 結論
次回以降の実験において、ゲノム編集により実験専用に肉体を調整した個体――デザイナーベビーの採用を決定した。
というのも、実は予てよりこのプロジェクトを支援してくれている『団体』が人体実験の研究技術に秀でており、
今回その技術力をこのプロジェクトにも是非活かして頂けないかと、此方から先方へ相談を持ちかけ交渉を重ねた結果、デザイナーベビーを1体提供してもらえる事になったのだ。
これで問題点の多くは解消されるはず。次の実験が待ち遠しい。
◆
『味を理解する人工知能』の研究論文 ver.20170401
(1) 実験の再開
ゲノム編集時に発育速度を調整したことで、僅か1年足らずでその肉体は充分な発育を遂げた。デザイナーベビーを使った実験が、いよいよ今日から始まる。
毒性への耐性を持つ強靭な消化器官は勿論のこと、脳機能も産まれた時からマイクロチップを埋め込んでいる為に学習能力が高く、実験の趣旨も既に理解出来ている。また感情を抑制させ精神への負担も低減させており、従来の実験体よりも暴走の危険性が低い。
手足を物理的に取り除くという手段が実験体への精神に大きな悪影響を与えてしまった事を考慮し、今回の実験体からは手足を付けたままにしてある。
それでも万が一の暴走に備え、手足には拘束器具を取り付けている。これで私が許可を出さない限り自由に行動出来ない。
また、喉にも改造を施した。どんなに大きな物でも容易く呑み込める伸縮性があり、これで喉を詰まらせる心配も無い。
全ての問題点は解決した。これでより効率よく実験を進める事が出来るだろう。
(2) さいごに
私が理想とするAIの完成は近い。将来的には、この実験が科学技術の大いなる発展に貢献するだろう。そう確信せざるを得ない。
この世紀の発明を私は、僭越ながら私自身の苗字から取り『TasogareAI』と名付けることにした。
今後も実験は続けていく。まだ草案の段階ではあるが――本稿がいつか、歴史の一頁に加わる事を期待して。