焦熱地獄 30
永かった道程も、思い返せば一瞬で。
赤い霧の立ち込める中、安らかに眠る羅刹王。その死に顔を見届けた真宵は、棺桶の蓋をゆっくりと閉ざしていく。これで羅刹王は地獄から完全に切り離され、永遠の中に閉じ込められる。それによって第七階層で発生していた異能による炎は全て鎮火し、変化していた温度は元に戻っていった。
地獄の黒い太陽はいつの間にか沈み始め、辺りは黄昏時の夕闇に包まれる。途端に肌寒くなったその世界で、真宵の脳内では思い出がフラッシュバックされていく――
「お疲れ様でした」
――しかし。不意に背後から投げ掛けられたその声によって、真宵の意識は半ば無理矢理に現実へと引き戻される。
真宵が振り返り見上げた其処には――巨木のように聳え暗い影を地上へ落とす、開闢王の姿があった。更にその背後には銀髪灼眼の魔女、シスター・フィデスも静かに佇んでいる。
どうやら羅刹王が完全に無力化されたのを見計らい、カタリナの異能によって転送されてきたらしい。当のカタリナ本人は見当たらない。現れたのは開闢王とフィデスの二人だけ。
「その『箱』は一度何かを閉じ込めたら、もう二度と開く事は無い。これで間違っても羅刹王が地獄に出てくることはありません。おめでとうございます、如月真宵。ついに願いを叶える事が出来ましたね」
抑揚の無いその語調は、果たして労いのつもりがあるのか解らないものだったが――真宵を見下ろす開闢王は開口一番、そんな言葉を投げ掛ける。しかしそれを受けた真宵は返事をする気力もなく、呆けたように開闢王の姿をただ見上げるばかり。
それもそのはず。確かに彼女は願いを叶えたが、そこから先のことは何も考えていなかった。姉にとって最大の脅威を排除したという達成感は、最早無い。そんな実感も無く、ただただ途方も無い漠然とした喪失感に、今は何も考えられなかった。
「では、次は我々の番です」
「…………?」
だから、その言葉の意味を彼女は咄嗟に理解出来ない。
「如月真宵、シスター・バルバラ、羅刹王――この三名の内いずれかの願いが叶った時点で契約は満了、三獄同盟は解消となる。今なら我々が他階層へ侵略を行なっても何の問題もありません」
開闢王が淡々と読み上げるそれは、真宵にとって初めて耳にする内容だった。契約の中にそんな条約があったことを、彼女は知らない。
「……何、どういうこと? 聞いてないんだけど――」
しかしそれも仕方が無い。因果応報である。今更被害者ぶったところで、自分の願いを叶える為に他人の命を犠牲に払ってきた事実は変わらない。
そんな彼女の辿る末路は当然、悲惨なもので――
「テメェはもう用済みだって事だヨ」
――次の瞬間、如月真宵の心臓は爆発したのである。
これが彼女の末路。考える事を放棄した者の末路。姉の為に全てを捧げ、それだけを生き甲斐としてきたが故に、別の生き方を最期まで受け入れられなかった者の末路。過去に囚われ、今を望まず、未来を諦めてしまった者の末路――
後悔する暇も無く、思考を巡らせる余裕も無く、最期まで何が起きたのか理解が追い付かないまま。突如として肉体の内側で発生した火薬の爆発により、物理的に、木っ端微塵に、心臓を吹き飛ばされて――如月真宵は、即死した。
肉片を周囲に飛び散らせながら、真宵は顔から地面に倒れ込む。胸から背中にかけて風穴を空けた彼女の死体は、その空洞から黒煙を立ち上らせている。その悲惨な末路を開闢王と共に見下ろしていたシスター・フィデスの右手には、スイッチの付いたリモコンらしき物体が握られていた。
そんなフィデスはおもむろに、自身の眼前に黒い装丁の本――閻魔帳を具現化する。その中身に目を通して暫くした後、彼女は安堵したような吐息を漏らしていた。
「……確認しタ。羅刹王は地獄と完全に切り離されていル。異能は無力化さレ、無間地獄行きの駅と列車も機能を取り戻していル」
「有難う御座います。では参りましょう」
一万年という永きに渡る計画が成功した直後だというのに、二人は喜びを殆ど露わにする事無く、忙しない様子で歩き始める。向かう先は当然、無間地獄。その目的は、地獄における怪異という概念そのものの消滅。即ち、全人類を滅ぼすこと。
斯くして物語は終りを迎える。人類は未来永劫、死後に転生する事は無く、地獄に落ちる事も無く、完全なる死が齎される。永遠の安息が約束される。人類は悪疫から解放されるのだ。
「待て…………!!」
――そんな結末に、水を差す者がいるとするのなら。それこそがこの物語における、彼女達の役割なのだろう。
先へ進もうとしていた開闢王とフィデスは揃って足を止め、声のした方へ振り返る。其処には、焼け焦げた黒い大地に這い蹲る、二人の少女の姿があった。
少女達の名は黄昏愛、そして芥川九十九。二人は揃ってその場に倒れてはいるものの、鋭い目付きで遙か先を行くフィデス達を睨み付けている。
「貴様等……ちりをどうした……!」
そんな中で芥川九十九、彼女はとりわけ強く声を荒げていた。瞳孔の開いたその眼には殺意が滲み出ていて――それに反応するように、周囲の赤い霧は更に色濃くなり、彼女の頬を酩酊の朱に染める。
「この、赤い霧は……この、血の臭いは……ちりのものだ……! なんだこれは……ちりに何をしたッ!!」
彼女は気が付いていた。赤い霧から微かに漂う血の臭い、それが他ならぬ一ノ瀬ちりのそれであることを。二百年の付き合いで最早嗅ぎ慣れたそれを、九十九は言い当てていた。
そしてその一方で愛もまた、強化した嗅覚によってそれがちりの匂いである事を察知し、そこから連想される最悪の可能性を予感して――彼女は無言ながらも奥歯を噛み砕かん勢いで食いしばり、怒りの眼差しをフィデス達に向けている。
そんな二人の憎悪を一身に浴びたシスター・フィデスは――
「キッショ。なンで解るんだヨ」
――戯けるように、嘲るように、せせら笑っていた。
「赤いクレヨンの怪異は心臓以外の全てを浄罪に捧ゲ、如月真宵と一体化しタ。奴はもうどこにも居なイ。強いて言うなラ、その飛び散った肉片が今の奴の姿だヨ」
フィデスはそう言って、如月真宵の死体――その周辺に散らばる血痕と肉片を指差し、嗤う。勝ち誇ったようなその嘲笑を、赤い霧の中に佇むその姿を目の当たりにした九十九は刹那、目の前が怒りで血よりも赫く染まっていた。
「…………きさま…………キサマ…………貴様…………貴様ァァァァァアアアアアアアアッッ!!!!」
咆哮する九十九、その場から立ち上がり、駆け出し、フィデスに掴み掛かろうとする――が。そうしようと思い立った次の瞬間、全身から力が抜けていく。結局立ち上がる事さえ出来ず、回る視界、逆流してくる胃液を、九十九は堪らずその場にブチ撒けていた。
「無駄ダ。『茨木童子』の異能は本体が自分の意志で異能を解除しない限り消えることは無イ。いわゆる羅刹王と同じ仕様ダ。そういう風にデザインしたからナ」
この展開は最初から想定されていたのだ。用済みとなった如月真宵を処分しつつ、残った酩酊の霧が漁夫の利を狙う他の邪魔者を阻止してくれる。まさに一石二鳥。羅刹王を裏切るつもりだった如月真宵は、自分自身も裏切られる運命にあったのである。
「幕切れダ。テメェ等に出来る事は何も無イ。せめて思い残す事の無いよウ、最後の日を過ごすんだナ」
最後にそれだけを言い残して、フィデスは再び踵を返し歩き始めた。そんな彼女の隣を付き従うように歩く開闢王に至ってはもはや愛達には目もくれず、遥か前方の駅だけを見据えている。
「待……くっ……! そ……そうだ……愛……! 如月真宵を、治療出来ないか……!? 今すぐ生き返ってもらって……それで、異能を解除してもらえば……!」
「……駄目です。この赤い霧の効果……堕天王のそれとは比べ物になりません。異能の発動そのものが、抑えられてしまって……」
九十九の咄嗟にしては悪くない思い付きを、しかし苦々しい顔で否定する愛の姿は――よく見ると翅も生えていなければ外骨格も装着されていない、完全に元の人間の姿に戻っていた。
異能の発動を抑制されたことで『蠅の王』を維持することが出来ず、それどころか『ぬえ』としての異能すら使えない有り様で。地面に伏せる愛は悔しそうに歯を食いしばる事しか出来ないでいる。
「くそ……ちくしょう……!!」
今の愛と九十九に、フィデス達を止める術は無い。フィデスの言う通り、出来る事は何も無いのだと――それを痛感したように、前に向かって伸ばされていた九十九の腕は、やがて弱々しく地面に落ちていった。
歩き始めたフィデス達の後ろ姿は、赤い霧に満たされたこの世界ではすぐに見えなくなって――その場に残された愛と九十九、二人はただただ絶望に打ちひしがれるばかり。これ以上は何も出来ない。何も思い付かない。万策尽きた。もう諦めるしかない。
嗚呼、こんな時。彼女が居てくれたなら――
「……………………悪い。待たせたな」
◆
結局、それ以上の邪魔が入る事も無いまま――開闢王とフィデス、二人は無間地獄行きの駅に、その足で辿り着いたのだった。
灰色の砂漠の中、ひっそりと佇むその駅は、他の地獄のそれと同様に無人で小ぢんまりとした印象で。地獄の浄化作用とでも呼ぶべきだろうか、つい先程まで燃やされ崩れ落ちていたであろうその駅は、あちこちにまだ黒く焼け焦げた痕跡は残っているものの、既にその殆どが修復されているようだった。
勿論、駅の前に佇む猿夢列車も元通り。自動開閉するその扉は開け放たれ、駅に訪れたフィデス達を迎え入れる準備はすっかり整っている。
「いよいよですね」
駅までもう目と鼻の先――その手前でふと、それまで口を閉ざしていた開闢王が、言葉を溢す。その一言に込められた想いなど、もはや心を読むまでも無く、その苦楽を共にしてきたからこそフィデスは全てを理解していた。
「嗚呼、行ってこイ。行って願いを叶えてこイ。オマエにはその『資格』があル。アタシには無いモノを持っていル。だから託せたんダ」
開闢王と開闢王。彼女達もまた、永く歪な関係を今日まで続けてきた。永くを怪異として生きた代償に、生前の記憶も、感情も、殆ど何もかもを失ってしまった二人。それでも願いだけは忘れずに、己という存在を限界まで燃やし尽くして、今日まで走り抜いてきたのだ。
「……ありがとヨ。アタシの願いヲ、叶えてくれテ」
彼女達に人間らしい感情は殆ど残っていない。それでも同じ願いを、同じ矜持を志す理解者同士。思うところは当然ある。
「気が早いですね。貴女らしくもない……――」
珍しく礼を述べるフィデスのことを半ば誂う気持ちで、その顔を覗き込もうと振り返る開闢王。
「――危ない、フィデス!」
その視線の先で捉えた光景に咄嗟、開闢王はその身を翻し、フィデスに飛びついていた。
次の瞬間、稲妻のような閃光が煌めいて――その光からフィデスを庇った開闢王は、彼女の代わりに吹き飛ばされ、地面に叩きつけられたのである。
「……………………?」
フィデスにはその瞬間、何が起きたのか解らなかった。突然、開闢王に突き飛ばされて――その開闢王は血を流し倒れている。その光景に唖然としたまま尻餅をついているフィデスは――事此処に及んで、ようやく気が付いた。その異変に。
「オイ……何ダ……コレハ……ッ!」
油断していた。勝ちを確信して『さとり』の異能、心を読む本を具現化していなかった。そもそも周りをよく見ていれば気が付いた筈だ。赤い霧が、いつの間にか晴れていたことなんて。だからやっぱり、油断していたのだ。
「フィデス――――――――――――――――ッ!!!!」
突如湧く怒りに満ちたその咆哮は、フィデス達の後方から轟く。その声の正体は――それこそ心を読むまでも無く、彼女達しかいないだろう。この結末に水を差す事こそが、彼女達の役割なのだから。
しかし何故、どうやって――確信と疑心の狭間、咄嗟に振り返ったフィデスが其処に見たものは――やはり彼女達の姿だった。
怒りを叫び、鬼の形相で向かってくる芥川九十九。そしてその隣で黄昏愛が、右腕の骨を変形させ銃身を形作っている。高速で海月の触針を発射させるそれによって開闢王は撃ち抜かれたのだと、フィデスは咄嗟に理解した。
そして、それが出来るということは――今の状況は間違いなく、酩酊の異能が解除されてしまっているということを意味する。それがフィデスには信じ難い。だから慌てて彼女は『さとり』の異能――閻魔帳を具現化させた。
しかし、彼女がその中身に目を通すことは無かった。閻魔帳の頁は、その悉くが赤いインクによって上から塗り潰され、読むことが出来なかったのである。
いやそもそも、今更そんな物をわざわざ読む必要など無い。だってこうなった全ての原因は――愛と九十九の後ろに付く、もう一つの人影を見た瞬間に解ることだから。
「馬鹿ナ…………貴様ハ…………!?」
爆破された胸元の空洞は、そのまま。ただし褐色の肌は、まるで蝋のようにどろどろに溶け出して――その内側から別の人間の、白い肌が現れる。朱と碧のオッドアイだったその瞳は、濁った赫一色に塗り潰されて――
「…………『赤いクレヨン』…………ッ!!」
一ノ瀬ちり。彼女は確かに、其処に居た。