焦熱地獄 25
時を、少し遡る。
「……つまりだ。如月真宵の異能は特殊な『部屋』を建造する能力なわけだが、その発動条件として特定の材料と膨大な時間を必要とする」
それは九十九とバルバラが第七階層に到着した後のこと。
駅から降りたバルバラは、早速その懐から握り拳ほどの白い布の塊を取り出し、おもむろにそれを空へと放り投げた。直後、それはまるで風船のように膨らんでいき、やがて空飛ぶ人造怪異『一反木綿』へと変貌する。
二人がそれに乗って黄金宮殿を目指していた、その道中でのお話。
「材料のことは差し置いても、『部屋』の完成にはとにかく時間がかかる。短くても百年、長ければ千年以上。改造の回数にもよるがな」
「なるほど……」
「ちなみに奴自身に戦闘能力は全く無い。もしも戦闘になった場合は、奴が造った『部屋』や『箱』にだけ気を付けておけば良い」
「了解。……ところで、ずっと疑問に思っていた事があるんだけど――どうして羅刹王は、無間地獄に行って願いを叶えようとしないの?」
その皮切りとなったのは、芥川九十九の提言だった。
「羅刹王が居る限り、誰も無間地獄には近付けない――それってたぶん、羅刹王が無間地獄行きの列車と駅を独占してるってことだろ? それが出来るくらい強いっていう話でもあるんだろうけど」
黒い太陽の下、灰被りの砂漠を一望して。空飛ぶ布の上に肩を並べ、足を崩している彼女達。投げ掛けられたその疑問に対し、バルバラは咥え煙草を吹かしながら、鋭い目付きで遥か遠くを見つめている。
「だったら、誰も近付けないとは言うけどさ。羅刹王本人はいつでも無間地獄に行けるはずだろ。わざわざ拷问教會に頼らずとも、無間地獄に行って願いを叶えて貰えば良いじゃないか」
無間地獄の魔王は、訪れた者の願いを叶える。この噂の信憑性については、嘘偽りを裁く開闢王の言質によって担保されている。だのに何故、羅刹王は無間地獄に行く以外の方法で願いを叶えようとしているのか。それは正しく根本的な疑問だった。
「確かに無間地獄の魔王は訪れた者の願いを叶える。だが願いが叶うのは『資格』を持つ者だけだ」
「……えっ、資格?」
その疑問に、あっさりと。何を今更とでも言わんばかり、少しも勿体ぶらずに答えてみせるバルバラ。しかしそれは当然、九十九にとっては初めて耳にする情報で。彼女は動揺で思わず声を上擦らせていた。
「詳しい事は俺も知らん。だがどうもその資格とやらを、彼女は持っていなかったらしい」
「……でも、拷问教會は無間地獄に行こうとしているよね?」
「嗚呼、だから奴等は恐らくそれを持っているのだろう。あの羅刹王でさえ持っていない物をだ。全く度し難い」
「……誰でも願いが叶うわけじゃないのか……」
最悪の事態になっても、無間地獄にさえ行く事が出来れば、全て何とかなると思っていた。しかし――ここにきて発覚した新たな事実。願いが叶わないかもしれない可能性。それは九十九の心を酷くざわつかせていた。
途端に苦々しい表情を浮かべ始める九十九。その様子を横目で捉えたバルバラは、呆れたように鼻を鳴らしてみせる。
「貴様も無間地獄に行くつもりだったか」
「うん……叶えたい願いがあるんだ」
「貴様がその資格を持っているかどうかは、実際に無間地獄へ行ってみなければ解らんがな。しかしそれ以前の問題だ。羅刹王が居る限り、誰も無間地獄には近付けない。諦めろ」
「そういう訳にはいかないよ……ていうか、どうにかならないの? それ」
九十九は不安からくる鬱憤の矛先を、隣のバルバラへ向けるようにその唇を尖らせた。明らかに不満げな彼女の声色に対し、バルバラは意地の悪い笑みを浮かべている。
「仲良いんだろ。上手く口添えしといてよ」
「ククッ、それは出来ない相談だ。彼女は嘗て、この俺や如月真宵ですら無間地獄に近付くことを許さなかった。その意味が解るな?」
「む……じゃあいいよ。許可なんて要らない。勝手に進ませてもらうから」
「それも無理だ。言っただろう、無間地獄には近付けないのだ。それは単に彼女の許可が必要だという話ではない。文字通り、物理的に不可能なんだよ」
バルバラのその不可解な言い回しに、九十九は理解が追い付かず、怪訝に眉を顰めた。対してくぐもった嗤いを漏らすバルバラ。彼女の吹かした煙草の先端からは、燃え尽きた灰殻が風に乗って散っていく。
「良いだろう、ならば教えてやる。羅刹王の能力を。知れば諦めもつくだろう」
そうして思わせ振りに不敵な笑みを浮かべ、物々しい雰囲気を醸し出すバルバラを前に、九十九は静かに生唾を飲み込んでいた。
羅刹王。世代交代をした開闢王を除けば、彼女こそが真の意味で最も永く、この地獄で王の座に君臨し続けた怪異である。
そんな彼女が果たしてどんな異能を持っているのか。九十九にはまるで想像もつかないでいた。きっと、聞いただけで恐れ慄いてしまうような、そんな怪物じみた能力に違いない――そう静かに覚悟を決める九十九。
「ククッ……聞いて驚け。我が緋色の主、羅刹王の異能は……『触れた物の温度を変化させる』能力だ……ッ!」
そうして、満を持して告げられたその真実は――
「熱を? へぇ……」
どうやら、勝手にハードルを上げすぎた九十九にとっては些か、予想の斜め下だったようで。まるでピンと来ていない間の抜けた表情を浮かべ、生返事をする九十九であった。
「何だ貴様、反応が薄いぞ」
「いや……それってつまり、触れた物を熱くさせるとか、凍らせるとか……そういう能力ってことだよね。炎や氷を操る怪異って、まあ確かに強い部類ではあるけど。そこまで珍しくもないし……」
九十九は二百年間、等活地獄で怪異と戦い続けてきた経験がある。実際にその手合いの怪異と九十九は何度か実戦経験があった。そして、それらの有象無象を九十九はそれほど苦も無く打倒してきている。
その手合いで九十九が最も苦戦を強いられた相手と言えば、まさに直近のシスター・アナスタシアだろう。熱を奪って凍らせる必殺の一撃を食らい、九十九は敗北を喫したが――その後、黄昏愛がそのアナスタシアを倒している。
つまり、確かに強力な部類の異能ではあるけれど、絶対的に倒せない程の相手ではない。九十九にとって『温度を操る異能』とは、あくまでもそういう認識。その程度の者達しか相手にしてこなかった。
「莫迦め。羅刹王の異能を有象無象のそれと一緒にするな」
その認識を九十九は今日、改める事になる。
「例えば同じ『温度を上昇させる異能』でも、水が沸騰する程度の熱さが限界の者もいれば、発火させるほど温度を上昇させられる者、そこから更に物体を溶解させる程の高熱を引き出せる者もいる。兎角、異能には個人差に因る制約や限界が必ず付き纏うものだ」
異能は才能と同じで個人差が生じる。そしてどれほど強力な異能でも必ず制約があり、その出力には限界がある。当然それは改めて聴くまでもなく、九十九も承知の上だった。
例えば規格外と謳われる九十九の『悪魔』でさえ反動という制約が課せられ、その膂力にも限界がある。基本的に、制約も限界も無い異能など存在しない。それは九十九のみならず、全怪異にとっての常識だった。
「だが羅刹王。彼女の異能による温度操作には、上限も下限も存在しない。発動条件として対象に直接触れる必要はあるが、それ以外の制約は全く無い。ただの一度でも触れさえすれば、対象の温度を無限に上昇させられる」
その常識が、たった一言で覆される。そして嫌でも理解した。自分の認識の甘さ、事態の深刻さを。
しかし理解して、それで尚も信じ難く。九十九の首筋には人知れず冷や汗が流れ落ちていた。
「極端な話、彼女は触れた石ころを太陽に変えることすら出来る。そうなれば地獄の階層なんぞ蒸発して跡形も無くなるだろう。まァ、彼女も流石にそこまでの事はしないだろうがな。そんなことをしたら、自分の居場所まで無くなってしまう」
それは机上の空論ではなく、現実問題として。羅刹王はその気になれば、文字通り世界を滅ぼせる。無間地獄に行ってわざわざ願いを叶えるまでも無く。
「無間地獄に近付けないというのも、彼女がその異能で無間地獄行きの列車と駅を、今も絶えず燃やし続けているからだ。これが噂の真相というやつだな」
「……そういう事だったのか」
怪異という存在が、あくまでも蛋白質で出来た生物のテイを成している以上、物質としての熱耐性には限界がある。ただそれだけの単純な話。だけど、絶対に覆せない根本的な話。
だから――羅刹王が居る限り、誰も無間地獄には近付けない。噂の真相は、まさに文字通りの意味だったのである。
「これが羅刹王の異能に備わった、羅刹王にしか持ち得ない固有の特性――その3つの内の1つだ」
そして、バルバラの話はまだ終わらない、むしろ、始まったばかりだった。
「……は? 3つ?」
「羅刹王の異能には固有の特性が3つ備わっている。さっきの話がその1つ目だ」
「……まだ何かあるの……?」
「ククッ……当然だろう。あの羅刹王だぞ? この程度で収まる訳が無い」
心底げんなりとした、憂鬱な表情を浮かべる九十九。鬱々としたその様子を横目で捉えたバルバラは、対照的に心底愉快そうに嗤っている。
まるで羅刹王のことを、ただ自慢したいだけのような。彼女を語るバルバラは、自分の事のようにどこか誇らしげだった。
「2つ目。彼女の異能は一度でも発動条件を満たせば、後から何度でも遠隔発動が可能。たとえ階層を跨ごうと、これまでに触れた事のある物や場所の全てを、彼女は念じるだけで異能の発動対象に指定出来る」
「……やっぱりどう考えても、発動条件が簡単過ぎるよね?」
「彼女は嘗て、無間地獄を除く全ての階層を支配していた。この地獄で彼女が触れていない場所など無いに等しい。彼女がその気になれば、全ての階層をある日突然滅ぼす事すら可能だ。今は契約の関係で他階層への遠隔発動は禁じられているがな」
「えぇ……」
もはやドン引きの芥川九十九である。そして同時に納得もしていた。だからこそ羅刹王は、この地獄で事実上の天下統一を果たす事が出来たのだ。むしろこの程度のチートも持っていないようでは、天下統一など夢のまた夢なのだろう。
思えば羅刹王と対を成す堕天王も、ただ其処に居るだけで異能が自動で発動し、更にその効果は階層全土に齎されるというチートぶり。地獄を二分する二大王は伊達では無い。
「3つ目。温度操作によって発生した後天的な現象――つまり炎や氷は、羅刹王が自分の意思で異能を解除しない限り、永遠に消えることはない」
黒い煙を吐き出しながら――バルバラは咥えていた煙草の吸い殻をおもむろに、上空へと放り投げた。捨てられた吸い殻は曲線を描き、暫し風に乗って浮遊した後、重力に従ってそのまま落下していく。
「仮に羅刹王が死んだとしても、異能は自然に解除されることも無く、その効果を永遠に残し続ける。無論、無間地獄行きの列車と駅も絶えず燃え続けたままだ」
「……あれ? それって……」
そうして、口の端から煙と共に漏らしたバルバラのその一言に。その意味するところに気が付いて、九十九の表情は見る見る困惑に歪んでいった。
「羅刹王を殺しても……結局、無間地獄に近付けないのは変わらないってこと……?」
「嗚呼。だからただ殺すだけでは駄目だ。無間地獄に行きたいなら、羅刹王の異能そのものを完全に無力化する必要がある。その為には――羅刹王という存在を、その概念をこの地獄から完全に消すしかない」
怪異という概念そのものの消滅――つまり、怪異にとっての完全なる死。それは拷问教會の最終目的でもある。
しかしそれは現世の常識で喩えるなら、死者が生き返るようなもの。普通なら叶うはずも無い、不可逆の概念。だが――
「果たして無間地獄の魔王以外にそんな事が可能なのか、俺には皆目見当も付かんが――如月真宵は、その答えを見つけたのだろう」
願いを叶える方法を、不可能を可能にする見通しを、如月真宵は見つけてしまった。彼女は正しく、地獄における死の商人となってしまったのである。
そして、そんな彼女のことを――好敵手のことを語るバルバラは、やはりどこか嬉しそうだった。
「4つ目」
「3つじゃなかったの……?」
続けざま、流れるように前言を撤回するバルバラ。天衣無縫な彼女の言動は最早この際、諦めるとして。
「彼女の体は炎で出来ている」
むしろ九十九にとっては、ここからが本題だった。本題で、問題だった。
「…………どういうこと?」
「言葉通りの意味だ。彼女は存在そのものが炎に置き換わっている。つまり彼女は物質で構成されていない。物質では無いから物理的には殺せない。むしろ此方から触れてしまったら最期、殺せないどころか一方的に異能の対象にされてしまう」
「…………」
ここにきて最早、九十九はリアクションを取ることすら放棄して。暫くの間、呆然と言葉を失っていた。
「これに関しては異能の特性と言うより、怪異としての機能だな。しかし肉体の非物質化などという、それ単体でチートにも程がある能力を。ただの機能として持ち合わせている怪異などは地獄史上、後にも先にも羅刹王と堕天王の二人だけだろう」
怪異にとっての機能とは、異能ではない身体的な能力のことを指す。爪を伸ばしたり、羽を生やしたり、運動能力を強化したり。その種類は様々あるが――基本的に共通して言えるのは、機能はその異常性という意味で異能に劣るということ。
異能に匹敵するような機能は、それこそ『吸血鬼』のような特別な怪異――『王位種族』でもなければ持ち得ない。
「なんか……ずるくない……?」
「当然の格差だ。彼女はそういう星の下に生まれてきた。そうあれかしと産み落とされた、王位種族――神格の怪異『クトゥグア』なのだから」
だから当然、そういう事だった。
その名は生ける炎、クトゥグア。
触れるもの全てを滅ぼす、名状し難き外なる神格。
そうあれかしと、彼女はこの地獄に生まれ落ちたのである。
「だが、怪異同士の戦闘は異能の相性差が全て。彼女にも弱点は存在する……とは言え。貴様如きでは彼女に戦闘で勝つことなど不可能だ」
焦熱地獄の気候は、他の階層と比にもならない程に熱い。にもかかわらず、一通りの話を聞き終えた今の九十九の体感温度は、むしろ凍える程の寒気を錯覚していた。
もはや羅刹王は、ある意味においてはあの歪神楽ゆらぎと同じ、出逢ってしまったら即終了――そういう類の存在。戦おうとすること自体がそもそも間違いの相手。九十九でさえそう思わざるを得ない、諦めざるを得ない規格外。
「……はあ。世界は広いんだな……」
上には上がいる。そんな世界の広さを実感して、この時の九十九は寒気以上に、ある種の高揚すら覚えていたのだった。
「だから絶対に敵対するな。彼女の機嫌を損ねるな。言葉や態度には気をつけろ。当然触れてはいけないし触れられてもいけない。理解したな?」
「わかった。それで……今後の方針だけど。如月真宵のことはどうする?」
「……如月真宵は放置で良い。それより、見ろ。あれが羅刹王の根城……黄金宮殿だ――」
◆
――そして、現在。
「何ですかそれ……」
芥川九十九から羅刹王の能力について、端的に話を聞かされた黄昏愛はというと、やはりその顔を酷く顰める羽目になっていた。
「なんか……ずるくないですか……?」
「だよねぇ……?」
まるで井戸端会議のように、不満に頬を膨らませた顰め面、突き合わせ愚痴をこぼす愛と九十九。愛の黒い瞳は、再び地上の羅刹王へと向けられた。羅刹王もまた退屈そうに空を見上げていて、その黄金の瞳と視線が交差する。
「異能に関しては、概ね予想していた通りですけど……体が炎で出来ているだなんて」
羅刹王の異能が規格外であることは、今の愛にとって問題ではない。勿論、脅威である事に違いはないのだが――今の愛もまた羅刹王と同じ、何の制約も限界も無い、無限の再生と増殖能力を持っている。戦いの土俵に立つこと自体は出来ていた。
「物質じゃないから、殺せない。生物じゃないから、私の異能も通用しない……かと言って、彼女を無視して先に進む事も出来ない。あぁ……困りましたね……」
問題は、このままでは負けこそしないものの、勝つことも出来ないということ。『蠅の王』の遺伝子操作は、肉体に触れる必要がある。だがそもそも肉体が無い、物質ですら無い物は、異能の対象には出来ない。
改めて、黄昏愛にとって羅刹王は相性最悪の相手だった。それを再度実感した愛は、ほとほと困り果てたように大きな溜息を吐く。
無論、だからと言って完全に諦めた訳ではない。新たに得た情報を基に、愛の脳内では凄まじい速度で演算が為されていく。どうすればこの状況を打破出来るか。羅刹王を倒す事が出来るか。
しかし、いくら考えても今の状況は絶望的以外の何物でもなくて――愛の表情は焦燥と不安で次第に青ざめていった。
「とにかく……げほっ。今は……誤解を解かないと。もう……っ……それしか……――」
咳き込みながらも懸命に口を動かし、提案をする九十九。実際、今となってはもう彼女の言う通りだろう。羅刹王と戦ってはいけない。話し合いで解決するしかない。
だが、言うは易し。それすら今は難しい状況になってしまった。バルバラを転送されたあの瞬間が明暗を分けた。カタリナによって、そういう風に誘導されてしまったのだ――
「げほッ、ごほッ!! ぐ……あ……!!」
――その結果。事態はいよいよ、最悪に到達しようとしている。
「九十九さん……!?」
再び、突如として大量の血を吐き出す九十九。治療をしたはずなのに、炎に触れてすらいないのに、九十九の全身は再び焦げ付いたような火傷が広がっていく。喉は焼け爛れ、肺から煙が吐き出される。
「す…………すみません、私…………」
愛が咄嗟に、その苦しげな声のした方――九十九を傍で抱える自身の分身に目をやると。分身もまた苦しげにその口から血と煙を吐き出しながら、全身を火傷に覆い尽くされていた。
「治療が……再生が……追い付きません。周囲の気温が……際限なく上がり続けています。私も……限界…………!!」
言葉を紡いでいたその途中、分身は抱えていた九十九の身体を突き飛ばす。その直後――分身の全身は、突如として自然発火したのだ。
そのまま全身を燃やしながら、炭と化しながら、分身は地上へ落下していく。地上で燃え盛る炎は凄まじい速度でその温度と勢いを増していき、もはや人体が自然発火する程の超高熱を帯びていた。色も赤から眩い白へと変化している。
宙に放り出された九十九の身体を抱き留める愛。その皮膚に触れた瞬間、その熱さに愛は愕然とした。常人であれば既に死んでいなければおかしい程の高熱である。
「これは……ッ」
かくいう愛本人も、気が付けば体中に炎が灯っていて、肉を灼かれていた。以前までの愛ならこの時点で既に全身が燃え尽きていたが、『蠅の王』に成った事で進化した再生能力は、愛が燃え尽きてしまうよりも早く細胞を増殖させ、どうにか肉体を維持出来ている。
問題は、人体が自然とこうなってしまう程に――現在進行系で、気温が上昇し続けていること。
「貴女も、私を殺せないのね」
全てを滅ぼす白炎の中心、羅刹王はやはりいつもの調子、まるで他人事のように呟いて。どこまで冷たい黄金の瞳を携えて、今にも退屈で死にそうな、眠たげな表情を浮かべて。
「なら、もう用は無いわ」
これまでに彼女が触れてきたのであろう、その素足で踏み締めてきたのであろう、焦熱地獄の全ての大地が――緋色の輝きを放ち始めた。
「まさか、本気で……この階層ごと、何もかも滅ぼすつもり……!?」
それはバルバラでさえ「流石にそこまでの事はしないだろう」と高を括っていた、最悪のシナリオ。彼女の熱は、世界を滅ぼすまで無限に温度を上昇し続ける。もはや止める術は無い。神がそう思し召しなのだから、人間にはどうしようも無いのだ。
人間は死に直面した時、その本質が垣間見える。世界が滅びる直前――その瀬戸際で黄昏愛は、打てる手を全て打とうとしていた。
先に進めないのなら、引き返せば良い。だから愛はまず、強化した視力による望遠で第六階層行きの駅を確認した――が。駅は既に燃え始め、機能していない。
ならばと、咄嗟に九十九の全身を蠅の眷属で包み込み――それが無意味だと解っていながらも――九十九を守る為に防護壁を造った。
「私はどうなっても構わない……どうか、九十九さんだけは……ッ!!」
そして――叫ぶ。ただひとえに、芥川九十九が生き永らえる可能性を少しでも上げるため。その為なら今の愛は、持ち前のプライドなどかなぐり捨てる事が出来た。
「大袈裟ね。怪異なんだから、死んでも蘇るでしょう」
しかし――それを嘲笑いもせず。無情と感じさせないほど当たり前に、羅刹王は拒絶する。実際、彼女の言う通りである。九十九がただの一度でも死ねば二度と生き返る事は無いなんて当然知る由もないし、知ったところできっと、彼女の決断は揺るがなかっただろう。こうして、最後の望みもあっさりと潰えてしまった。
地上はまるで沸騰した水面のように、小さな爆発の連鎖が既に始まっている。このまま放っておけば、やがて一際大きな爆発が起きて、その衝撃が階層全土を呑み込むだろう。それで終わり。
「くそっ……!!」
愛はもはや無我夢中で九十九の身体にしがみついていた。自分自身を盾に、その傷だらけの身体を抱き締める――もうそれしか出来る事が無かった。
斯くして。麗しい緋色の指先が、天に伸びる。
この星の向こう側に自分の居場所が在るのだと、そんな夢想に恋焦がれる怪物少女は――何の未練もなく、この星に別れの言葉を切り出した。
「さようなら。また逢いましょう」