焦熱地獄 23
所謂、天性の才能というものは。
いつも決まって、時代の節目と共に現れる。
『ああ、月に還りたい』
彼女は、人類史におけるその一人だった。
天から授かりしその美貌は、見る者全てを虜にした。誰からも無条件で愛され、望めば何でも手に入る。そういう星の下に生まれたとしか思えない、絶世の魔性。
彼女という存在を知ってしまえば最期、時の帝でさえ求愛せずにはいられなかった。誰もが彼女の為に尽くし、畏れ、敬った。
誰もが彼女の言葉に従う。時代が時代だったなら、その気になれば彼女はきっと、世界を支配すら出来ていただろう。
だって彼女が白いと言えば、鴉は一匹残らず白くなる。仏の御石の鉢も、蓬莱の玉の枝も、火鼠の皮衣も、龍の首の玉も、燕の子安貝も、どんな空想だって彼女が望めば在ったことになってしまう。彼女に叶わない願いなどおよそ存在しなかった。
それなのに。彼女はいつも退屈そうに、ともすればどこか哀しげに――毎夜、ただ空に浮かぶ月をばかり眺めていた。
まるでその遙か先に、自分の本当の居場所が在るのだと確信しているかのように。地球は自分の居場所ではないとでも言いたげに。彼女の視線は恋焦がれるように、この惑星の外へと向けられていたのだ。
『ああ、月に還りたい』
だってきっと、私はこの星の人間ではない。そうじゃなきゃ、他人と自分がこんなにも違うはずが無い。
だからきっと、此処は私の居場所じゃない。そうだったなら、あの美しく輝くお月さまこそ、私の居場所なのだ――
もはや現し世に未練は無く、巨万の富に囲まれながら心此処に在らず。そんな彼女を見て、誰もが思った。
きっと彼女には、人の心が無い。我々には到底理解の及ばぬ、人外の領域に居られる御方なのだと――誰もが理解を諦めた。
望めば何でも手に入る彼女は、その実、本当に欲しいものは絶対に得られない。
そういう星の下に、生まれてきてしまったのである。
◆
だから、彼女は旅立った。月を目指して、命を手放した。
しかし、望んだ場所にはやはり辿り着かず――次に目を覚ました時、彼女は地獄に落ちていた。
地獄の第一階層、等活地獄。時系列で言えば、本編から一万と五千年前のこと。
天より授かりし緋色の羽衣を身に纏う、麗しき彼女が一歩、外界へその足先を出してみると――
あの荒くれの有象無象、地獄の住人達は皆一様に息を呑み、その場から動くことすら出来なかったという。
「ねえ。そこのあなた」
その中の一匹に、彼女は気安く声を掛けた。声を掛けられた当人は一瞬、何が起きたのか理解出来ず、ただ呆然と其処に突っ立っているばかり。
「道を、教えてくださる?」
その言葉の意味を、彼女が自分に何を求めているのかを、遅れてようやく理解して――その者は狼狽えながらも、彼女の望むがまま、慌てて口を開こうとする。
「……おい。お前ら、何を呆けてやがる」
それを邪魔したのは、有象無象の中の一匹。この群れを率いる怪異の長だった。
全身を血で汚し、目は焦点が定まっておらず、鋭い牙を剥き出すその獣人は、誰の目に見ても明らかに尋常ではなく、理性を失っているようだった。
恐らくは、彼女の姿がまともに見えてさえいないのだろう。彼女の声がまともに聞こえてさえいないのだろう。でなければ、彼女の美を前にしてこんな態度が取れるはずもない。
「獲物だ。いつものように殺して剥いで、俺に献上しろ」
そんな彼に凄まれた周りの者達は、皆酷く怯えた様子だったが――しかし。
そもそもいつもの彼らなら命令されずとも、目の前の女に向かって飛び掛かっていたはず。それなのに、命令されたにもかかわらず、誰も動こうとはしなかった。誰もが困惑したまま、その場で足踏みしている。
異常事態を察して、獣人もまた訝しげに顔を顰めていた。やがて大きく舌打ちをしてみせると、その巨大な鉤爪を掲げ、自ら彼女に向かっていく。
「あなたが、無間地獄の魔王さん?」
そんな獣人に向かって、彼女は一言、まるで呑気にそう尋ねる。
「……は? そんな訳ねえだろ」
彼はそれを笑い飛ばしながら彼女の目の前にまで迫り、その頭上に向かって容赦なく、掲げた鉤爪を振り下ろした――
「あら、そう。なら、用は無いわ」
――次の瞬間。彼女の足下が突如、赫々と輝き、膨れ上がって――爆発した。
その熱が、爆炎が、一瞬にして獣人の身体を飲み込む。爆風が周囲の何もかもを吹き飛ばし、炎と黒煙が立ち昇る。
やがて景色が晴れた時――彼女の目の前に居た獣人は、その肉体が炭と化し粉々に崩れ落ちていた。
爆風に巻き込まれた周囲の有象無象もまた火傷を負い、殆どがその場に倒れ伏している。焼け野原の四面楚歌と化したその焦土で一人、彼女はやはり無傷のまま佇んでいた。
そんな彼女が、ゆっくりと。最初に声を掛けた怪異の一匹に再び近付いていく。蹲るその怪異を見下ろしながら、そうして彼女はもう一度、妖艶に囁くのだ。
「道を、教えてくださるかしら」
◆
――このようにして、彼女は八大地獄を巡っていった。
触れるもの全てを滅ぼす彼女に、誰もが文字通りに焦がれていった。やがて彼女は『麗しき緋色の羅刹王』と呼ばれるようになり、行く先々で彼女に従い共に付いていく者達で溢れ返った。
そんな彼らに、羅刹王は何も与えない。王と呼ぶのは勝手。けれど彼女は民を必要としない。付いてくるのも勝手。けれど面白くないものに彼女は興味を示さない。
ならば、せめて自分が彼女にとって役に立てる人材、兵力であることを示す為、周りの者達は皆躍起となっていた。その結果争いが生まれ、殺し合いにまで発展した。彼女が其処に居るだけで戦争の火種は絶えず、結局彼女は独りだった。
当時の地獄はそれぞれの階層に違う怪異が王として君臨していた時代だったが、彼女と出逢った王達は次々と彼女に屈服し、羅刹王の傘下に下った。
あの開闢王でさえ、彼女の人間離れしたその心を文字通り読むことが出来ず、理解を諦めるほどで――そんな羅刹王の旅路は、もはや苦難や障害とは無縁だった。
そうして、当時の第七階層を支配していた第六天魔王と呼ばれる大怪異をすら一蹴し、彼女は殆ど何の苦労も知らないまま、地獄の第八階層――無間地獄へと辿り着いたのである。
「あなたが、無間地獄の魔王さん?」
「その通り。ボクが魔王だ」
地獄の第八階層、無間地獄。
植物の自生しない地獄において唯一、白い花が咲き誇るその場所で。
彼女は無間地獄の魔王――『閻魔大王』と出逢った。
魔王を名乗るその少年は、しかし、何の変哲も無いただの人間のようにしか見えない。
白色のパジャマのような服装、癖毛の黒い短髪、寝不足が祟ったような酷く深い目の隈――特徴らしい特徴と言えばそれだけの、平凡な少年の姿。
白い花に囲まれて、魔王は地面の上に独りで座っている。そんな彼を羅刹王は静かに見下ろして、言葉が返ってくるのを待っていた。
「願いを叶えに来たんだね。でも、残念。キミは願いを叶える『資格』を持っていない。だから、キミの願いは叶えられないよ」
そして、この時。羅刹王は生まれて初めて、望んだ願いが叶わないという経験を得たのである。
「あら。そうなのね」
だと言うのに、羅刹王はまるで最初からどうでも良かったかのような気軽さで、あっさりと引き下がってみせる。そんな彼女の様子に、魔王は不思議そうに首を傾げていた。
「嬉しそうだね?」
「ええ。だって、望んでも叶えられない願いがあるだなんて。それってとっても、面白いじゃない?」
「……なるほど。むしろキミ程の存在が『資格』を持っていないのは、おかしいと思っていたんだよ。キミ自身がそれを――困難を望んでいたんだね」
魔王はどこか合点がいったように頷いて――その直後、周りの景色が歪んでいく。星一つ無い黒い空も、白い花の咲き誇る大地も、歪曲した闇に侵食され、少しずつ消えていく。
それはまるで、夢から覚めていくような、世界そのものが無くなっていくような、終わりの光景。その中心で、羅刹王は微かな笑みを浮かべていた。
「解ったわ。この願いは、自力で叶えてみるわね」
「……諦めたほうがいいんじゃないかな」
やがて全てが闇に溶け、自身の姿さえも見えなくなった消えていく世界で、ただ独り。残された魔王は、去り際の彼女に向かって言い放つ。冷たく、突き放すように。
「キミのその願いは、きっとどうやっても――永遠に叶わないよ」
「……そうかもね」
本当は解っていた。自分の願いが、叶わないなんて事くらい。
だって彼女には、人の心が無い。だからどこにも、彼女の居場所なんて無い。
最初から、彼女が望む月なんて――どこにも在りはしないのだ。
◆
所謂、天性の才能というものは。
いつも決まって、時代の節目と共に現れる。
「初めましてっ、羅刹王さん★ わたしは――地獄に舞い降りた堕天使★ あきらっきーですっ★ 急にゴメンなさいっ★ 早速本題なんですけど――戦争、やめてくれませんか★」
彼女は、人類史におけるその一人だった。
羅刹王が全ての地獄を支配して、四千年後。その巨星は突如、地獄に落ちてきた。
地獄は過去現在未来、全ての時間を超越して、人類が蒐集される場所。だからこんな奇跡も起こり得る。一万年に一人の天才が、二人。同じ場所に集うという奇跡が。
その奇跡の名は、忘却齎す堕天王――如月暁星。斯くして二人は出逢ってしまった。
「――――…………あら。酔っちゃったみたい」
そして、この時。羅刹王は生まれて初めて、膝を地に付けた。堕天王の異能、盛者必衰の理。それは羅刹王すらも酩酊させてしまった。
異能を封じられ、身動きすら取れない――羅刹王は生まれて初めての敗北を味わったのである。
けれども堕天王の望みは戦いではなく、話し合いによる決着。
今の地獄は、もはや羅刹王が望まなくとも、彼女が其処に居るというだけで彼女を巡り戦争が起こってしまうような状況。
それを止めさせてほしいという堕天王の要求に対して――
「嫌よ。だって私、貴女のことが気に食わないもの」
羅刹王は考える素振りすら見せず、呆気もなく拒絶した。
その答えに政治的な意味も正当な理由も無い。強いて言うなら、自分の思い通りにならない堕天王が、自分よりも強い堕天王が、ただ気に食わなかったから。
自分と同じ人間離れした才能を抱えながら、他人を愛することの出来る堕天王が。
自分とはまるで違う堕天王という存在が――憎くて、妬ましくて、愛おしかったから。
だから彼女は、突きつけた。
「私ね、きっと貴女を殺してみせるわ」
この得難い困難に、挑戦状を。
◆
それから千年以上に渡って、両者の話し合いは続けられた。
と言っても、真っ当な話し合いを望んでいるのは堕天王だけ。しかし羅刹王は彼女が何度自分の下に来ようと話し合いを拒絶し、それどころか堕天王の暗殺を企てるようになる。
地獄の情勢も羅刹王派と堕天王派に分かれ、むしろ各階層での争いは酷くなる一方だった。
そして、この頃からである。新たに開闢王の座を継いだという新参者を長に置いた『拷问教會』なる新興宗教団体が、羅刹王に接触を取るようになってきたのは。
羅刹王が彼らの存在を無視できなかったのは――あの堕天王の『酩帝街』を通過して、自分の下にやってきたから。
つまり堕天王暗殺の鍵となる酩酊に対する耐性を彼らが持っていたから――というのもあるが、しかしそれ以上に。
羅刹王が彼らに興味を惹かれたのには別の、大きな理由があった。
「――と言う訳で。ご紹介致します、羅刹王。彼女が、酩酊の耐性を後天的に獲得する技術を開発した――」
その日、開闢王の紹介で初めて顔を合わせた時に――羅刹王は人知れず確信していた。
嗚呼、自分は今まさに――運命と対面しているのだと。
褐色の肌。毛先の碧い朱髪。眼鏡の奥に控える、朱と碧のオッドアイ――そして、見間違える筈もない、あの堕天王と瓜二つの――絶世の美貌。
それをどういう訳か、自ら黒いローブで覆い隠している――その運命の名は、如月真宵。
彼女の、その射抜くような殺意に満ちた視線を受けて。その奥に秘めた、自分と同じ輝きを垣間見て――
堕天王と対峙した時でさえ感じなかった、生まれて初めての想い――言葉では形容し難い、熱い何かを確かに感じて。
「(――――…………ああ、ようやく。私の願いは、叶うのね)」
羅刹王は、まるで恋する乙女のように――その胸を。
誰にも悟られること無く、静かに高鳴らせていたのだった。
その秘めたる想いは、一万年という永い歳月を費やして、共に寄り添っても尚、とうとう暴かれることも無いままに――
物語は、現在へと至る。