焦熱地獄 22
ハッピーエンドの条件は、羅刹王と敵対しないこと。
「私ね。自分の物を他人に触られるのが嫌いなの」
「違う……待ってくれ……」
たとえ味方に付けることが出来なくても、敵対さえしなければ。彼女の機嫌を損ねさえしなければ、まだ望みはあった。
「傷つけられたり、壊されたりしたら、許せない。それが大切なお友達なら、尚更ね」
「話を聞いてくれ……!」
とにかく、絶対に、羅刹王とは戦ってはならない。それが大前提であると、バルバラとも散々話し合って、解っていたはずなのに――
「私ね。だから貴女を殺すのよ」
芥川九十九は失敗した。
聴く者全てを震え上がらせるような声色で、見る者全てを畏れさせるような表情で、縦に割れた瞳孔が黄金の瞳の中で煌めいて。彼女の一挙手一投足が、全てを雄弁に物語っている。
この物語の結末はもう、決まってしまったのだと。
「誤解なんだ……ッ!」
九十九の訴えも虚しく、寝台に腰掛ける羅刹王はその無に等しい表情を何一つ変えることも無く――瞬間。芥川九十九の第六感ともいえる防衛本能が、その脳内で危険信号をけたたましく鳴り響かせる。
九十九は思考を介するよりも疾く、反射的に悪魔の機能を解放した。全身から溢れ出した黒い煙が九十九の肉体を半人半魔に変貌させ、身に纏うジャージを突き破り生えてきた悪魔の翅を以てして、九十九は一心不乱に上空へと翔び立っていた。
あの芥川九十九が、逃げの一択。そしてその判断は、この場において何よりも正しかった。九十九が黄金の天井を体当たりで無理矢理に破壊し、外へ脱出を試みる最中。羅刹王はその動きを目で追うことすらせず、自身はその場から動こうともしないまま――
「さようなら」
たった一言、それだけを残して。直後――黄金宮殿はその全てが瞬く間に炎上し、溶解し、蒸発したのである。
それ程までの、凄まじい爆発だった。爆風の勢いは地獄全土にまで広がり、灰色の砂漠は炎の海に沈み、文字通りの灼熱地獄と化す。爆心地である黄金宮殿は跡形も無くなり、その上空には赤い空の全てを覆い尽くすかの如く、巨大な黒煙の茸雲が出来上がっている。
燃え上がる大地、爆煙渦巻く灼熱の中心にはその絹のように白い柔肌に汚れ一つ無く、纏う羽衣にさえほつれ一つ見当たらない、美しい羅刹王の姿が当たり前のように佇んでいた。
それはどういう原理か、彼女が腰掛けている寝台を含め、彼女の周辺のみが傷一つとして付いていない。事が起きる前から変わらず、彼女は優雅に寝台へ腰掛けている。
「――――…………げほっ!? っ……ごほ……くっ……!?」
こんな惨状に巻き込まれて、芥川九十九はそれでもどうにか生きていた。咄嗟に上空へ逃げたことが幸いし、突然起きた炎上と爆発にもどうにか直撃は免れたのだ。
とは言え、その後の爆風までは回避のしようが無く、九十九はその全身を爆炎の高熱に曝されてしまった。常人であれば既に死んでいる程の、重度の火傷である。
今の九十九は悪魔の黒い肌とはまた別物の、血肉が焦げ炭化した煤色に全身が覆われていた。噴き出した汗が途端に蒸発してしまう程の高熱が肉体を蝕んでいる。翅も尻尾も爆風の熱に巻き込まれ、焼け爛れてズタボロ。その場に漂うので精一杯。
直近では厄災の人造怪異『白面金毛九尾の狐』の火炎放射を喰らった時でさえ、ここまでの重傷を負う事は無かった。それ程までの高熱。桁外れの火力。悪魔の規格外の肉体でさえ耐えられない、逃げるしか無かった程の爆炎に彼女は襲われたのだ。死んでいてもおかしくない。
「(し……死んだかと思った……死んだかと思った……っ! 今のは、本当に……! あと数秒、脱出が遅れていたら……!)」
それでも、まだ終わっていない。一瞬で死に体にされたが、彼女はまだ生きている。九十九の心臓はその奇跡を、生の実感を確かめるように、凄まじい速度で脈打っていた。
地上に居る羅刹王から大きく離れ、真上のポジションを取る九十九。対する羅刹王はと言うと、九十九のことを見上げすらせず、緋色に彩られた指先でベッドシーツの感触を確かめている。
「待っ……く……! 話、を……っ! げほっ……!」
そんな彼女に向かって、九十九は懸命に口を動かした。彼女が完全な悪魔の姿ではなく半人半魔を保っているのは、まだ羅刹王と話し合う余地を諦めていないからである。
しかしこの一瞬で周囲の気温までもが急激に上昇したのか、大気は火花を散らす程で――その熱気は吸い込めば容赦無く喉を焼き肺を焼く。その所為で上手く呼吸が出来ず、その所為で上手く喋れず、その所為で九十九は弁明する機会すら失っていた。
「よく聞こえないわ」
必死に藻掻く九十九に対して、羅刹王はやはり目もくれない。周囲を占める高熱とは裏腹に、彼女の放つ吐息はどこまでも冷たかった。
「でも、いいのよ。私はもう、貴女のことを不愉快だと思ってしまったから。それが全てなの。だから、無理に喋ろうとしなくていいわ。もうどうでもいいの」
突き放すように言葉を溢す彼女は、どこまでも退屈そうで。ともすれば、どこか哀しそうにさえ見えて。そんな彼女の妖艶で儚げな面持ちは、このような状況でなければさぞ絵になっていたことだろう。
地獄の全土から噴き上がる炎の柱は瞬く間に勢いを増していき、天高く伸びていく。炎の熱気は周囲の温度を際限なく上昇させていて、その真上に居る九十九は炙られているも同然だった。
「(クソッ……喉が爛れて……! 話をしないといけないのに……上手く声が出せない……!)」
本来であれば、こうなる事を回避する為に羅刹王の説得をバルバラが一任する予定だった。まさに最悪なタイミングでの転送。つまり奴はずっと、彼女達の動向を『穴』から覗いていたのである。
拷问教會第一席、シスター・カタリナ。ちりを拐い、愛を拐い、無関係な人々の命すら弄ぶ、最悪の怪異。彼女の存在を意識すると、思わず怒りに我を忘れそうになる九十九だが――しかし、今はそこに意識を向ける余裕すら無い。
「(こうなったら一か八か、声の届く距離まで近付いて……なんとか、一言だけでも……端的に真実を伝える……!)」
その覚悟に応じるように、九十九の全身から再び黒い瘴気が溢れ出す。筋肉が肥大化していき、やがて闇の中から――完全な悪魔の怪物と化した芥川九十九の姿が現れた。
「(私じゃ羅刹王には絶対に勝てない……だからもうそれしかない……ッ!)」
しかしその変身は、勝利の為ではなく――生き延びる為の苦肉の策。そう、芥川九十九は諦めていた。戦闘になった時点で、自分は絶対に羅刹王には勝てないと。
黄金宮殿に到着するまでの道中、バルバラから事前に聞いていた、羅刹王の能力にまつわる話を思い出しながら。この時の芥川九十九は、ただ生き延びる為だけに――無謀な賭けに出るしかなかった。
『――――ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!!』
規格外の肺活量で大きく息を吸い込み、そして一気に吐き出す――悪魔の咆哮、音の爆弾。怪物化しているとは言え傷付いた喉を更に酷使したことにより、悪魔の口からは音と共に大量の血が吐き出される。それでも構わず、九十九は地上に向かって咆哮した。
質量を伴う音の衝撃波は地上にまで届き、灼熱の大地を宙に巻き上げる。それによって地上を燃やし羅刹王の盾となっていた炎が分散し、羅刹王までの距離に僅かな道が出来る。
九十九はその一瞬を見逃さず、その針の穴が如き道へ目掛けて突進した。とにかく距離を詰めなければ、文字通り話にならない。焼け爛れた悪魔の翅を無理矢理に羽ばたかせ、半ば後先考えずに突っ込む。
そうして限界ぎりぎりまで近付いたら変身を解除して、ただ一言、『お前達は騙されている』と伝える。それで向こうの気を惹く事が出来れば――
「このシーツ、気に入っていたのだけれど」
しかし。悪魔の如き怪物が、すぐ目の前まで迫ってきている――そんな状況で。気を惹くどころか、羅刹王が今考えている事と言えば、これからお気に入りのベッドシーツが駄目になってしまうことに対する憂いだけ。
そうして、彼女の緋色に彩られたその指先が、シーツに浅く食い込んだ――次の瞬間。今度は腰掛けていたベッド自体が突如として炎上し、発光し、そしてやはり――爆発したのだった。
赤い光が瞬いて、爆炎が全てを飲み込む。地盤を揺るがす程の音が遅れてやってきて。第七階層の全土が灰色の砂漠から赫々たる溶岩の海へと瞬く間に変貌を遂げる。
空はもう見えない。黒雲が天蓋のように隙間なく覆い被さって、世界に夜の帳を無理矢理に下ろしたような闇で埋め尽くしている。灯りは、地上に燃え盛る炎だけ。
そしてその爆心地で、やはり羅刹王は変わらず其処にいた。大事そうに触れていたベッドは消失し、彼女はつまらなそうな表情のまま佇んでいる。
よく見ると彼女の足裏は地上に触れておらず、宙を僅かに浮いていた。彼女を包む緋色の羽衣、その周囲は蜃気楼のように空間が歪んで見える。
「あら」
そんな彼女が今日、初めて空を見上げていた。
黄金に輝く、その視線の先には――
「今日は来客が多いわね」
――ぶん、ぶん、ぶん。
蠅の大群を引き連れた、黒い少女の姿が浮かんでいる。
◆
カタリナの手配した猿夢列車は、叫喚地獄どころか第六階層・焦熱地獄すらも通過して、黄昏愛を第七階層まで連れてきた。なんとも気前の良い事である。
そうして、彼女が駅に降り立った時にはもう――それは始まっていた。
「……何ですか、あれ……」
遠目からでも分かる程の、大きな大きな茸雲。巨大な爆発が起きた後、急激な上昇気流によってこういう現象が発生することは愛も知識としては知っている。しかし、まさか生きている間に実物を見ることになるとは流石の彼女も思わなかったことだろう。
到着早々、唖然とさせられながらも――愛はすぐさま、爆心地と思しき方向を視た。強化した視力が遥か先の光景を捉える。其処には炎の城とでも呼ぶべき爆炎の中心で優雅にベッドへ腰掛ける羅刹王の姿――そして、その羅刹王に向かって突進しようとする直前の、怪物と化した芥川九十九の姿があった。
「九十九さん……!? いけない……!」
そう、この時の芥川九十九は冷静ではなかった。話し合いが失敗した時点で、彼女は突っ込むのではなく逃げるべきだった。逃げたところで状況が変わるわけでも無いが、とは言えこのままでは、まさに飛んで火に入る夏の虫。それを黄昏愛は、傷だらけの九十九の姿、対して無傷の羅刹王の姿を視て、瞬時に状況を分析、把握していた。
そして何より――虫の知らせ、とでも言えばいいだろうか。その光景を目の当たりにした瞬間、黄昏愛は予感する。このままでは、芥川九十九が死んでしまうと。
「変身…………ッ!!」
そんな直感に衝き動かされ――黄昏愛の姿は変貌を遂げていく。それは直近で手に入れた、新たな力。これまでの、あらゆる変身能力を凌駕する超変身。
だが今回はカタリナ戦で見せた、完全な怪物のそれとは異なる姿だった。その背中から蠅の翅が生えてきて、手足が黒い外骨格に覆われる所までは同じだが、顔や体型そのものは元の人間の状態を維持している。
それは九十九もよく使う、いわゆる半人半魔の形態。だがその出力は、発揮出来る膂力はもはや、九十九の比ではなく。どころか悠に超えている。
蠅の翅が一瞬、消えて見える程の捷さで羽ばたいた直後――空を飛ぶ黄昏愛は、音速を超えていた。
◆
そうして、間一髪。爆轟に巻き込まれる寸前、愛は九十九を捕まえて。蠅の大群で九十九を覆い、炎から彼女の事を守りながら――上空へと避難したのである。
「…………ぐ…………ぁ…………」
しかし、次に悪魔の形態を解除し、元のヒトの姿に戻った芥川九十九は――黄昏愛の想像を絶する、惨たらしい重傷を負っていた。
爆炎の直撃そのものは回避出来た。蠅の大群による肉壁も、当然ただの蠅ではなく無限の再生力と増殖力を有した鉄壁の守り。黄昏愛に落ち度は無い。
だが、その爆発的な気温の上昇は――たとえ炎自体には触れずとも、空気の熱だけで九十九の身を灼き、焦がしていたのだ。生物にとって気温の変化とは、防ぐものでも避けるものでもなく、耐えるもの。防ぎ切れなかったのではなく、防ぎようが無かった。
加えて悪魔化の反動もあったのだろう。彼女の全身の皮膚は、ヒトの姿に戻ったというのに未だ悪魔のような炭色で、傷だらけで、血だらけで。
辛うじて意識はあるものの、まだ生きているのが不思議な程の死に体。既に虫の息。悪魔の翅も尻尾も焼け落ちて、自力では空中に浮遊出来ず、蠅の大群に支えられている状態。身動ぎ一つ取ることすらままならない。
「……私の、大切なお友達に」
九十九のそんな有り様を目の当たりにした、黄昏愛はというと――
「何してくれてんだ、お前……」
――それはもう当たり前に、烈火の如く激昂していた。
蠅の羽音が、増えていく。耳障りを通り越して、最早それは轟くように。不愉快なその音色は、世界中に響き渡っていた。空を覆い尽くす蠅の大群、その只中で浮遊する黄昏愛は――次第にその姿を変化させていく。全身の血管が浮かび上がり、皮膚の色が黒く染まっていく。それと平行して、彼女の背後では蠅の群れが一塊に集まっていき、また別の形を成していった。
「九十九さんの治療は任せましたよ……」
「……了解です、私」
蠅の塊は見る見る内に黄昏愛の分身と成っていく。分身は空に漂う九十九の身体を抱きかかえ、本体の愛から離れていった。
分身の気配が上空へ遠ざかっていくのを感じながら――彼女の肉体はいよいよ人間のそれを逸脱していく。全身の皮膚に亀裂が走り、その内側から喰い破るように、ともすれば脱皮するように――禍々しく巨大な、蠅の怪物が顕れたのである。
「これは、どういう催しなのかしら」
その異形を目の当たりにした、羅刹王はというと――
「いつになったら、面白くなるの?」
――それはもう退屈そうに、小さく欠伸を漏らすのだ。
暴食の悪魔、蝿の王。対するは神格の怪異、緋色の王。
無限に産まれる命の異能。対するは全てを殺す炎の異能。
斯くして相対する。地獄史上、怪異史上、最も頂に近い怪物同士。