焦熱地獄 21
第七階層の全土を埋め尽くす灰色の砂漠は、その実、灰になるまで燃え尽きた人骨の粉だった。この敷き詰められた灰被りの大地は、その全てが怪異の骨灰なのである。
跡形も無く燃え尽きて、粒子と化した人骨の海。それは今でも燃えるような熱を帯びていて、下手に触れれば火傷では済まない程で。
そんな物が見渡す限りに広がって、よもや地平線が見えてしまう程に、第七階層にはそれ以外何も無かった。
ヒトが居ないという意味では、同じく焦熱の名を冠する地獄・第六階層も同様だと思うだろう。
しかし第六階層には、少なくともロマンちゃんが使役する人造怪異の群れが空を漂っているし、実はあの地下鉄の次元間ポータルを利用すればバルバラやロマンちゃん以外の他の獄卒の部屋にも行く事が出来る。
そういう意味では、完全な無人だとは言い切れない。第六階層とはそんな場所。
だがこの第七階層は違う。本当の意味で、何も無い。全て、全て彼女が滅ぼしてしまった。此処に在るのは彼女だけ。そしてその彼女すら、もはや人間とは言い難い――地獄の一部と半ば化している、人間離れした怪物なのだ。
そういう意味では、完全な無人だとすら言い切れる。第七階層とはそんな場所。
栄華とは程遠い、国とすら呼べない、虚無の大地に根ざしている――黄金で出来たその宮殿は、もはやただの空虚なオブジェクトでしかなかった。
高層ビル程の高さがあるその巨大な建造物は、紛れもなくその全てが黄金で出来ている。現世の基準で考えれば恐ろしい価値が付く代物だろう。
しかし無論、黄金である意味など全く無い。栄華を誇るつもりもなく、そもそも誇れる相手すらいないこんな地の底で――まるで意味のないその建造物に、彼女は独りで棲んでいるのだ。
「着いたぞ」
駅を出て数刻、九十九とバルバラは其処に辿り着いた。
そんな二人は現在、空を浮遊する奇妙な布に乗っている。その白くてのっぺりとした空飛ぶカーペットの正体は、人造怪異『一反木綿』。これもまたバルバラがロマンちゃんの私物をくすねてきた物だった。二人はそれに乗って黄金宮殿まで文字通り飛んできたのである。
「道中にも話した通りだが――念を押しておく。貴様、羅刹王の機嫌は絶対に損ねるな。彼女は俺のように優しくはない。言葉や態度には気を付けろ」
「それは、さっき聞いたけど……ていうか、お前がそれを言うのかって思ったけど……」
一反木綿は少しずつ下降していき、四方を黄金の壁に囲まれた宮殿の巨大な門の前までやってくると、地上から1メートル程の高さで停止した。
そこから九十九が先に飛び降りた後、続けて飛び降りたバルバラの身体を両腕で抱えるように受け止める。
一応、彼女なりに用心棒の役目を果たそうとしているのだろう。バルバラはそれに対して特に礼を述べる事もなく、九十九の腕から降ろされてすぐその足で扉の前へと向かっていた。
「だったら、私も確認しておきたいんだけどさ……『如月真宵は放置で良い』って、どういうこと?」
「言葉通りの意味だが。異存でもあるのか?」
「ロアもああ言っていたけど、とどのつまり如月真宵さえ無力化すれば、羅刹王が死ぬことは無い。だったら如月真宵には全てを話した上で願いを諦めてもらえばいいじゃないか」
「それは無理だな。奴は願いを諦めない」
二人は話しながら、扉のすぐ目の前まで足を運ぶ。固く閉ざされた黄金の扉は、比較的身長の高い九十九でさえ腰を反らして見上げる必要があるほどの巨大さである。
そんな扉の前で腕を組むバルバラだが、立ち止まったまま微動だにもしない。どうしたのかと九十九が顔を覗き込むと、バルバラはその鋭い視線をおもむろに九十九へと向けた。
「どうした。貴様の出番だぞ。俺の腕力では開けられないからな」
「……構造上の欠陥なのか、お前が貧弱なのか……判断に困るな……」
九十九はやれやれと思いつつバルバラの前に立ち、両手を扉に押し付ける。そのまま体重を前に傾けると、大きく重たいその扉はゆっくりと奥へ開かれていった。
「願いを諦めないって……どうして? 正直、如月真宵は願いを叶えても意味無いだろ? その後に拷问教會が願いを叶えて人類が滅亡すれば、堕天王も死んでしまう。本末転倒だ。なら願いが叶わなくても、地獄が終わるよりはマシだって、話せば解ってもらえるはずだ」
「甘いな」
重たい扉を奥へ押し込みながら、その片手間に九十九は背後のバルバラへ疑問をぶつける。
「俺を含めた三獄同盟の関係者は、その契約内容に則り、一部の行動や言動に縛りが課せられている。例えば堕天王は三獄同盟の真実を知ることが出来ないし、羅刹王は他階層への侵略行為が禁止されている」
それには確かに九十九にも心当たりがあった。例えば、酩帝街の地下闘技場で戦ったライザ。例えば、北区の図書館で出会ったべあ子さんなど――契約によって言動や思考そのものに制限を課せられた者は存在する。
「他にも細かい制約が幾つも取り決められていて、これを破ろうものなら開闢王の異能が階層すら跨いでその罪を罰しにやってくる。無論その程度で、俺達怪異は死なないが――死なずとも四肢が生えたそばから奪われ続け、永遠に自由を失う。死よりも恐ろしい罰だ」
嘘の証言や約束の反故に対して発動する開闢王の異能『腕』は、あらゆる概念を無視して対象の四肢を引き千切る。実際に九十九はそれによって右腕を引き千切られている。
あの時の感覚を思い出して身震いしつつ、九十九は続くバルバラの説明へ静かに耳を傾けていた。
「その幾つかある制約の中に――『羅刹王、如月真宵、シスター・バルバラの三名は、願いを諦めてはならない』――というものが存在する。この契約がある以上、俺達三人は願いを叶える為に動き続けなければならない。願いを諦めたらその時点で自由を奪われる。だから俺達は願いを諦めない」
「ということは、お前……まだ諦めてないんだな……」
「当然だ。でなければ俺が今こうして五体満足でいられるわけが無い。俺が願いを叶えるのは邪魔者を排除してからだ」
挑発的に鼻を鳴らしてみせるバルバラに、九十九は呆れたように溜息を吐いて――そうしている間に、扉はヒトが一人通れる程度まで開け放たれた。
灰の付着した両手を払う九十九の後ろからすり抜けるように、バルバラが先頭を歩き始める。
そんな扉の先、黄金宮殿の内部は只管に広く、がらんどうとした空間だけが在った。松明などの人工的な灯りの類いは無かったが、黄金の壁や床が光を反射している為か、天窓から射し込む僅かな陽光だけでも存外明るい。むしろ目に毒な程の輝きを放っている。
「何より如月真宵は今、拷问教會の側に居る。そもそも俺達が如月真宵と話し合えるようなシチュエーションを奴等が許すわけも無い。仮に如月真宵を説得出来たとしても、奴等はどんな手を使ってでも如月真宵に契約履行を強制させるはずだ」
床に敷かれた赤い絨毯の上を踏み締めながら、ずいずいと奥へ進んでいくバルバラ。後ろを付いていく九十九は、その視線の遥か先で黄金の玉座を見た。
羅刹王どころか誰も座っていない、ただ沈黙のみが横たわる玉座。其処を目指すようにバルバラは足早に歩みを進める。
「つまり俺達が何を為そうにも、拷问教會は必ず障害となる」
「そうか……そうなると結局、拷问教會との全面戦争になるわけか」
「拷问教會が無間地獄に行こうとしているのなら、その拷问教會を倒してしまえばいいだけの話。その後でなら、たとえ如月真宵が願いを叶えようと問題なかろう」
バルバラは玉座に目もくれずその横を通り過ぎ、その奥へと足を運んだ。玉座の後方にはまた別の広い空間が広がっており、そこには天高く捻れる黄金の螺旋階段が設置されている。
その異様な光景に九十九は暫し目を奪われていたが、構わず先へ先へと進んでいくバルバラに気付いて、慌ててその後ろを追いかけた。
「まァ、そんな事は俺がさせんがな……ククッ」
「あ、うん……えっと、これはどこに向かってるの?」
「寝室だ。この時間なら羅刹王は其処に居る」
共に並んで黄金の螺旋階段を昇っていく九十九とバルバラ。一歩踏み込むごとに柔らかい金属の心許ない感触が足裏に伝わってくる。
「とにかく、全ては拷问教會という障害を取り除いてからだ。改めて、異存はあるか?」
「まあ、そういうことなら……無いよ。無いけど……」
「何だ、まだ何かあるのか」
「……気になるんだ。ロアがあそこまで如月真宵に拘っている理由が」
天高く聳えるその黄金宮殿は、各階にフロアが設けられていた。螺旋階段はその途中途中に、複数の客室が用意されているフロアや、宝石や絵画の類いが展示されているフロアに繋がっていた。
それらのフロアを無視して、バルバラと九十九は只管に上へ上へと階段を昇っていく。
「お前の言う通り、今回の件は拷问教會さえ倒せば解決する。なのにロアは、如月真宵のことばかり。それ以外の線を、まるで最初から切り捨てているかのようだった。どうしてだと思う?」
「さァな。個人的な怨みでもあるんじゃないか」
「あのロアにそんな人間臭い感性があるとは思えないよ」
「フン……そうだな。ならば、あるいは……拷问教會と全面戦争になった場合、俺達では勝てないと思われているのだろう。だから如月真宵にだけ集中しておけ、ということか」
「む……私は強いよ。負けるつもりなんて無い」
唇を尖らせる九十九。その横顔を尻目に、バルバラはくぐもった嗤いを漏らす。
「ククッ……だが拷问教會には、あのクソガキ――歪神楽ゆらぎが居るだろう」
その名前が出てきた瞬間だった。九十九の階段を昇る脚が不意に止まる。電流の走ったような頭痛に襲われ、九十九は思わず顔を顰めた。
「っ……く……『くねくね』の怪異のことか……?」
「拷问教會を相手にするということは、あのガキを相手にするということだ。貴様、あのガキに勝てるか?」
そういうバルバラもまた、彫刻刀の刺さった頭の傷口から、止まっていた出血が再び溢れ始める。知覚するだけで対象を狂わせる『くねくね』歪神楽ゆらぎの異能は、名前を出すだけでも彼女達に悪影響を及ぼしていた。
「う……私じゃ……無理だ。でも、愛が居れば……」
「黄昏愛。あの『くねくね』を実際に打倒せしめた化け物か。しかし今はどこに居るのか解らない。そうだろう?」
「うん……」
「頼りには出来んな。だから、今の俺達に出来る手を打っておく」
止まっていた脚を無理矢理にでも動かして、彼女達はなんとか歩みを進めていく。見上げれば天高く伸びる螺旋階段の行き着く先、最上階はもうすぐそこだった。
「今から羅刹王を説得して、俺達の味方に付いてもらう。流石の羅刹王も『狂気』への耐性は持ち合わせていないが――それでもだ。実際に『くねくね』と戦闘になった場合――彼女の異能なら最悪でも引き分けには持ち込める」
「そ……そうか。凄いな……」
「しかし彼女は俺以上に気紛れだからな。仮に真実を知ったとしても、俺達の側に付いてくれるかどうかは……五分五分といったところか。最悪の場合、拷问教會の側に付く可能性すらある」
「……は? そんなことあるか? 羅刹王だって拷问教會に騙されているんだから、全てを話したら私達の味方をしてくれるはずだ」
「彼女の判断基準は善悪や損得ではない、ただ面白いか面白くないかだ。今の俺達よりも、あの如月真宵を丸め込んだ拷问教會のほうが面白いと判断したら――彼女は俺達の敵になるだろう。そうなったら詰みだな。諦めろ」
「傍迷惑な奴だなぁ……」
そうして二人は螺旋階段を昇り切り――最上階に辿り着く。
天井が近い空間である為か、他のフロアよりも狭く感じる其処は――赤い絨毯の敷き詰められた廊下の先で、一つの扉が待ち受けていた。
「まァ安心しろ。その為に俺がいる。彼女のことを誰よりも理解しているのはこの俺だ。交渉は任せておけ」
「そっか。私はどうすればいい?」
「言っただろう、羅刹王の機嫌は損ねるなと。つまり余計なことは喋らず黙っていろということだ。貴様は俺の身の安全を守ることだけ考えていれば良い。理解したか?」
「む……」
バルバラの物言いに文句の一つでも言いたいところだったが、実際この状況ではバルバラの言う通り。九十九は顔を顰めながらも、渋々といった様子で頷いてみせた。
「まぁ、でも……ありがとう。正直、助かってるよ」
長い廊下を並んで進む二人。薄暗いその道中で、九十九は不意に真顔でそんな事を言ってのける。それを受けたバルバラはあまりにも分かりやすく訝しげな表情を浮かべるのだった。
「何だ貴様……礼を言う必要など無い。ただの利害の一致だろうが。全てが片付いた後、俺は貴様を手に入れる。覚悟しておけ」
「お前の材料になるつもりは無いけど……今助かってるのは事実だから。お礼くらいは言わせてよ」
「チッ……気持ちの悪い奴だな。だが……ククッ。まァ良いだろう。もしも貴様が、この俺に期待以上の働きを見せることが出来たのなら……その時は我が同胞として迎え入れてやる。光栄に思うんだな」
「いやそれはちょっと……」
などと言い合いながら、二人の歩みはやがて大きな扉の前で止まる。その扉は宮殿の出入り口にあった物と同じくドアノブの類いが付いていない、押して開く造りだった。
「此処だ」
「……うん」
この扉の向こうに、羅刹王が居る。皆まで言わずともそれを理解して、九十九の中で緊張感が高まっていく。
バルバラは腕を組んだまま扉の前で立ち止まっている。この扉もまたバルバラの腕力では開けられないということなのだろう、今度は何も言わずとも察して、九十九が一歩前に出た。
重たい扉を両手で押していく。徐々に開かれていく扉の隙間から、向こう側の景色が顕になっていく――
その一室は他のフロアに比べて薄暗かった。天窓から射し込む陽光は僅かで、その微かな灯りに照らされて――天蓋の付いた大きなベッドが部屋の中央に一台、どかんと置かれているのが見える。
ベッドは天蓋から降りたカーテンに周囲を覆われていて、中に誰が居るのかまでは解らない――が。九十九には感じていた。カーテンの向こう側に息衝く者の気配を。
九十九は思わず息を殺して、バルバラの居る後方へと振り返る。ここから先は任せたと伝える為に――
「あっ…………――――?」
――その時、後ろを振り向いた九十九が目の当たりにした光景は。
バルバラが、まるで何かに躓いたように突如バランスを崩し、扉の前で倒れ込んで――
そしてそのまま、落とし穴の中へ落ちていくように消えていく――その瞬間の光景だった。
「…………は? え、待っ…………ちょっ……!?」
既に扉を開け部屋の内側に居た九十九、咄嗟にバルバラへ手を伸ばす――が。
それを遮るように、目の前の扉が突然勢いよく閉ざされ、九十九の差し出した手をはね退けてしまう。
落ちていくバルバラは、まるで信じられないとでも言いたげな驚愕の表情を最後に垣間見せて――そのまま、闇の中へと消えていったのだった。
「おい……おいッ!? 嘘だろ……!? またかよクソッ!!」
転送の異能――もはや説明の必要すら無いそれは、またしても九十九の同行者を連れ去った。扉が突然閉まったことまで含めて、カタリナの仕業であることは明白である。
「私はっ……いつもいつも……!! どうして……守れない……っ!!」
怒りと悔しさの混ざった悲痛な叫びを上げながら、閉ざされた扉に何度も拳を打ち付ける九十九。黄金の扉は存外にも頑丈で、部屋中に鈍い音を響き渡らせるだけで、びくともしない――
「騒がしいわね」
――それが彼女の眠りを、最悪な形で妨げた。
天蓋のカーテンが揺れる。その奥から這い出るように、のそりと起き上がってきたそれは――身の毛がよだつ程の畏敬を顕わにした。
「あら……貴女……」
艶めかしい金色の長髪、緋色の羽衣に包まれた白い肌の長身、溢れんばかりの豊満なバスト、引き締まったウエスト、妖艶に彩る紅いアイライン――およそ美女たる資格の全てを携えた、その絶世の魔女。
初めてその姿を見た九十九でさえ、思わず平伏しそうになる程の――悍ましい美しさ。
このような状況下でなくとも、一目で彼女が何者なのか、誰もが理解出来るだろう。
「……私の、大切なお友達の返り血を、たくさん浴びて。こんな所にまで、土足で上がり込んできて――」
彼女こそが、ヒト呼んで――『麗しき緋色の羅刹王』。
第四、第五、第六、第七――文字通り地獄の半分を手中に収めた、怪異の王。
「――そんなに、殺してほしいのかしら」
そんな彼女に、最悪な第一印象を与えてしまった事を察して――
「(……………………ああ、終わった)」
芥川九十九は静かに、己の死を覚悟したのだった。