焦熱地獄 20
芥川九十九とシスター・バルバラを乗せた猿夢列車が、第六階層を出発して数時間後。
先頭車両から見える車窓の景色は、やはり支離滅裂としていて――レールどころか大地さえ無い空中、紺碧の上空と深紅の下空に挟まれて、列車は道なき道を翔けていた。
「……それでだ。俺はあれ以来、如月真宵ともども羅刹王のもとで暮らすことになった。その荷造りの為に一度だけ、黒縄地獄に戻ったわけだが……ククッ。そこで愉快なことがあってな……」
片や如月真宵の企みを止める為に、片や如月真宵の真意を確かめる為に、利害の一致から結ばれた停戦協定。
ボックス席で向かい合い、座っているそんな両者はと言うと、存外にも会話を弾ませているようで――
「…………」
――否、訂正しよう。弾んでいるわけではない。バルバラのほうから殆ど一方的に話しかけているだけで、そんな彼女の話を適当に聞き流す九十九は車窓の景色を気怠げに眺めていた。
「おッと……そろそろか。少し待て、芥川九十九」
その矢先、バルバラは自ら話の腰を折ると、おもむろに自身の修道服の懐を弄り始める。
そうして取り出した物は、彫刻刀だった。恐らくロマンちゃんの私物をくすねてきたのだろう。
その仕草を九十九は咄嗟に目で追っていた。今は停戦協定を結んでいるとは言え、あのバルバラが唐突に凶器を手に握ったのだから無理もない。九十九は自然体を装いつつ、襲われてもすぐ迎撃出来る覚悟を決める。
しかしそんな九十九の覚悟とは裏腹に――バルバラは手に持ったそれを、自らの頭頂部に突如、何の躊躇いもなく突き刺していた。
バルバラの全身が痙攣し、抉られた傷口から血が辺りに飛び散る。それが九十九の黒いジャージを濡らすが、それも気にならないほど目の前の光景が常軌を逸していて、九十九は唖然としていた。
「ふゥ……」
頭から流れる血で茶色の頭髪が右半分だけ赤く染まり、また顔の右半分も朱に塗り潰されながら――バルバラはどこかスッキリとしたような面持ちで息を吐く。
じんわりと融け始めていた全身蒼白色の肌は、バルバラ自身が落ち着きを取り戻すと共にやがて冷えて固まり、形を安定させていった。
「……何をしている?」
見かねた九十九、思わず口を挟む。その呼び声に反応して、ぼんやりと中空を見つめていた灰色の三白眼は再び、サングラス越しに九十九の姿を視界に捉える。
「ンン……嗚呼、気にするな。俺の精神と感情は絶えず分裂と結合を繰り返している。だからこうして釘を刺しておかないと、螺子を巻き直しておかないと、この肉体が別の『俺』に乗っ取られてしまうのだ」
「……異能を制御出来ていないのか?」
「そう視えるか? ククッ……まァ無理もない。何、理由は単純だ。俺はいつも怒っている。つまり俺は、常に異能の発動条件を満たし続けている。ただそれだけの事だ」
「それを制御出来てないって言うんじゃ……」
ずれたサングラスを眉間に押し込みながら、くぐもった嗤いを溢すバルバラ。上げた口角の隙間から垣間見せた彼女の歯は、まるで鮫のように鋭く尖っていた。恐らくはこれも『融解』の影響なのだろう。歯が融けた後、歪に鋭く冷えて固まったのだ。
「嗚呼、それで……どこまで話したのだったか。ふむ……仕方ない、冒頭からまた話し直すか」
「……三獄同盟の締結後、黒縄地獄に一度戻ったんだろ」
「ほう? 正解だ。何だ貴様、ちゃんと聴いていたのか? 偉いじゃないか」
「…………」
色んな意味で距離感のバグっているバルバラの自由奔放な言動は、九十九にとってこれまで出会ったことの無いタイプで。呆れるべきか怒るべきかも解らず、ただ振り回されるがまま、九十九は疲れたように溜息を吐いていた。
「そう、其処で俺はアナスタシアに再会したのだ。あれは幼いながらも美しい逸材だったが、如何せん自分に自信が持てない臆病者でな。美しさとは内側から成るもの。才能を活かすも殺すも己次第。このままでは勿体ないと俺は思った」
「(……あのアナスタシアが、臆病……?)」
バルバラの語るアナスタシアの人物像は、およそ九千年以上前の話である。とは言え、それは九十九がよく知るアナスタシアのそれとはどうもかけ離れているようだった。
「故に、同盟締結の立役者であるこの俺の武勇伝を聴かせてやったわけだ。そして発破をかけてやった。こんな俺でも、この程度の偉業ならば成し遂げられる。ならば、美しく才能のある貴様であれば、それ以上の大業が成し遂げられるはずだと」
足を組み頬杖を付いて、得意げに語るバルバラ。車窓から射し込む朱と碧の光に照らされた彼女の横顔は美しく、自信に満ち溢れている。
「それ以来、あの者とは会っていないが……風の噂では、随分と明るい性格に変わったらしいな。この俺を大幹部などと呼び、のちに拷问教會の一員となる事を自ら志願したとか」
自身を最弱の怪異と称しながらも尊大な態度を貫く彼女は、ともすればどこまでも自分に正直に生きているのかもしれなくて。その在り方が、見る者によっては眩しく映るのかもしれない。
少なくとも当時のアナスタシアには、そんなバルバラの言葉が酷く響いたのだろう。
「どうやらそれが俺の影響だと解ってすぐ、怒り狂ったフィデスからのお達しだ。アナスタシアとは金輪際関わるなとよ。しかし、あの時のフィデスの悔しそうな顔と言ったら……ククッ。今でも忘れられんな……」
「(よく喋るなあ……)」
一方で、今宵の芥川九十九はと言うと。特に響いている様子もなく。それどころか上の空、その視線を車窓の向こう側へ泳がせていた。
「(そういえば……私も、愛も、ちりも、口数はそこまで多くないけど……一緒に居たら、無言の時間でさえ不思議と居心地がいいんだよな……)」
それも当然と言えば当然で、九十九の頭の中は今、あの二人のことで埋め尽くされている。
「(愛……ちり……大丈夫かな……)」
一刻も早く二人の無事を確認したい。その為には如月真宵を倒し、どんな手を使ってでも二人の居場所を訊き出してやる――そんな物騒な考えも過ぎり始めていたが、何よりも。
「……会いたいな……」
九十九にとって二人の存在はいつしか、かけがえの無いものになっていて。それは自分でも無意識の内に心の声を現実に漏らしてしまう程、切実な願いだった。
「ほう」
そんな時、バルバラの興味深げな声色が不意に聞こえてきて。
自分がうっかり言葉を漏らしていた事に気が付き、思わずはっと顔を上げる九十九。前方に向き直った視線の先では、バルバラが意地の悪い微笑を浮かべている。
「仲間を、大切に想っているのだな」
「……悪いか」
「いいや。それで良い」
気恥ずかしそうに再びそっぽを向いた九十九に対し、バルバラは存外にも誂うようなことはしなかった。むしろ珍しく、九十九の言葉に共感し、同調するように――その表情は穏やかで。
「仲間、親友、同胞とは、望んで得られるものではない。金で買えるものでもなければ、力で支配するものでもない。その一生で、果たして巡り会えるかどうか――そんな奇跡。失ったら二度と戻ってこない、かけがえの無い財産だ。大切にしろ」
意外と言う他無かった。まさかあのバルバラの口から、そんな実直な言葉が飛び出してくるとは。あのバルバラが、仲間という存在に対してそこまでの思い入れがあるとは――
「などと……ククッ。言葉にするのは容易いな。他人に向けたものならば尚更軽い」
「…………」
少なくとも九十九にとっては予想外で、思わず見張った目でバルバラの姿をもう一度、その視界に収めていた。
「羅刹王と如月真宵は、お前にとって……仲間なんだよな」
「そうだが」
九十九は僅かに目を伏せ、言葉を選んでいるような逡巡の沈黙に口を閉ざした後――
「……本当に如月真宵は、羅刹王を殺そうとしているのか?」
やがて意を決したように、予てより抱いていたその疑問を言葉にした。
「そう言っているだろう。俺達はそれが前提の関係性だ」
「今でも?」
たった一言ながら芯を食ったようなその言葉に、バルバラの眉間にじわじわと皺が寄っていく。
「確かに、最初は憎かったのかもしれない。でも、それから永い時間を経て、ずっと一緒に居たんだよね。如月真宵は今でも本当に、羅刹王を殺したいと本気で思っているのかな」
「当然だろう。でなければ、奴は実の姉を失う。そこを天秤にかけることで成立した契約だ」
「……そもそも、どうして羅刹王は堕天王を殺そうとしているんだ?」
九十九はそう訊きながらも、その実おおよその見当はついていた。
「そうまでして……全ての地獄を支配したいのか? そんな事をして、何の意味がある?」
地獄の天下統一。普通なら夢物語にも等しいがしかし、羅刹王は実際にその一歩手前まで行っている。
羅刹王は一万年前から現在に至るまで、地獄を二分する二大王の片割れとして数えられている。更にそれより以前の時代、つまり堕天王が現れる前まで、彼女こそが無間地獄を除く全ての地獄を支配していた。
ならば羅刹王は、再びその栄華を取り戻す為に、堕天王を殺そうとしているのではないか。だからこそ拷问教會と手を組み、堕天王の暗殺を企てている――九十九はそう考えていた。妥当な推理だと言える。
「意味など無い。ただ気に食わないだけだろう」
しかし返ってきたバルバラの言葉は、事の大きさの割にはあまりにも単純だった。
「彼女は全てを欲しがっている。だがそれは支配の為ではない。手に入れた後にどうこうするつもりも無く、ただ手に入れること自体が目的の、単なる所有欲だ」
伊達に一万年近く共に連れ添ってきた訳では無いようで、羅刹王を語るバルバラの言葉は淀みなく断定的に紡がれていく。
「そもそも彼女が望んで叶わない願いなどそうは無い。彼女にとっては全てが自分の思い通りになる事など当たり前。だがそんな中で堕天王、あれは彼女にとって数少ない――自分の思い通りにならない事象だった」
堕天王、如月暁星。渦中の人物である如月真宵の姉であり、地獄の第三階層『酩帝街』の主。
彼女の目標は、この地獄から戦争を無くすこと。全てを我が物にしたいという羅刹王の願いとは相反すると言っていい。
そんな両者が地獄で邂逅したらどうなるか――想像に難くないだろう。
「堕天王の異能は羅刹王にとって、唯一にして致命的な弱点だ。相性が悪いなんてものではない、戦いにすらならん。事実、羅刹王は堕天王に敗北している。もう何度もな。まあ、殆どの怪異が堕天王の前ではそうなるだろうが」
羅刹王が堕天王に敗北している――バルバラのその一言に、九十九は思わず耳を欹てていた。
それはとどのつまり、羅刹王には酩酊の耐性が無いということ。恐らく『净罪』が出来る適合者ですら無いのだろう。だから代わりに『拷问教會』を使って、堕天王を殺す方法を探させている。
「思い通りにならなくて、気に食わない――だからこそ興味が湧いたのだろう。彼女にとって堕天王は、望んでも得られない希少な困難だった。彼女は今、生まれて初めての試練に挑戦しているのだ。未来の展望も無く、ただ所有欲を満たすが如くな」
情報が統合され、現状が浮き彫りになっていく。少なくとも、今必要な情報は概ね明らかになったと言ってもいい。
それでも、九十九にとってはどうしても理解に苦しむ問題が一つだけあった。
「だったら……その挑戦を邪魔しようとする如月真宵や、お前の事を……羅刹王はどうして自分の傍に置いているんだ」
羅刹王、バルバラ、如月真宵――この三人の関係性が何故、成り立っているのか。ここまでの話を聞いた上で、それだけがどうしても九十九には理解出来なかった。
「……喧嘩に、ならないのか?」
「ハッ! だからだろうが!」
そんな九十九の素朴な疑問をバルバラは一笑に付し、さも当然のように答えてみせる。
「俺達は互いに相反する願いを抱きながらしかし、願いを叶える為には互いを利用し合う為、共に在らねばならない。俺達は好敵手にして共犯者。望んで得られるものではない、同じ穴の狢。そんな俺達に彼女は価値を見出した。面白いと感じたのだ」
殺し合う為に助け合う。そんな関係性を『同胞』と呼ぶ彼女達だからこそ、辿り着いた境地があった。ただそれだけの話。
「理解したか? これが俺達だ。この前提が、この関係が、今更変わることなどあり得ない」
それがどれほど歪な関係であろうと、当人がその形に納得しているのなら。それはきっと、他人が口を出す事でも無いのだろう――
「……やっぱりおかしいよ」
しかし。しかしである――芥川九十九がそれを肯定することは無い。共感なんて出来るはずも無いのだ。
「つまり、羅刹王が堕天王を殺そうとさえしなければ……如月真宵だって、羅刹王を殺す必要は無いってことだろ」
何故ならば芥川九十九にとって、仲間とは守る為の存在だから。例えば愛とちり、あの二人を守る為なら、彼女は当然のように自己犠牲を厭わない。自分の命は勿論、何万年と夢見た願いですら、彼女は容易く諦めてしまうだろう。
「だったらそんな願い、叶わないほうがいい」
「分からず屋め……何度も言っているだろうが。その願いがあったからこそ、俺達は仲間に成れたのだ。俺達はこれで良い。変わる必要も無い。貴様の物差しで俺達を測るな」
「仲間を不幸にする願いなんておかしいだろ!」
「何ィ……?」
両者の主張はその実、そこまで食い違っているわけではない。仲間が大切だという気持ち自体は同じである。
だからこれは、もはや置かれた状況の違いでしかなく、これまで目にしてきた物の違いでしかなく、価値観の違いでしかなかった。
しかし、それを差し置いても――もとより馬が合わない二人。睨み合う両者の間で険悪な空気が流れ始める。
「仲間が傷付いて何とも思わないのか? それで願いが叶って、契約が無くなったら――お前達はもう仲間でも何でも無い、ただの他人に戻るのか?」
「ええい、訳の解らん事を……! いい加減鬱陶しいぞ!! たかが小娘如きが、この俺に講釈を垂れるなッ!!」
「自分達の未来について、どう考えているんだ? ちゃんと話し合ったのか? 変わらないものなんて無いんだ。言葉にしないと、想いは伝わらないんだぞ!」
九十九の発したそれは黄昏愛からの受け売りで、自分自身に向けた言葉でもあった。実際つい最近まで九十九は、バルバラほどでは無いにせよ、頑なになっていた時期がある。
だからバルバラに対して抱く感情は、ある意味で自己嫌悪にも近かったのだろう。もはや一言物申さねば気が済まなくなっていた。
「チッ……くだらん! 凡人の発想だな」
「くだらなくない! だったらどうしてお前は今、如月真宵に会いに行こうとしてるんだよ!」
「それも最初に言っただろうが鳥頭めッ! 奴は仲間である以前に好敵手! そんな奴の願いを邪魔する為だ! それにカタリナとかいう部外者如きの介入を許し、あまつさえ良いように利用されるのは面白くないから、その偵察も兼ねてだなァ――」
「心配だからって素直に言えばいいのにーっ!!」
「殺すぞ貴様ッ!?」
「やってみろっ!!」
良くない方向へ議論をヒートアップさせすぎた両者、揃って飛び上がるように席から立ち上がり、互いに息がかかる程の距離まで顔を近付け睨み合う。
そうして一触即発、今にも殴り合いが始まる寸前のところで――
「まあまあ、落ち着きなよキミ達。だいたい、ここは電車の中だよ? 乗車中のマナーは守ってもらわなくちゃあ困るねえ」
例によって、空気を読まず。むしろ読んだ上でなのか、ともかくとして。
その道化はいつものように、彼女達の前に姿を現したのだった。
◆
「やあやあ、ボクはロア! キミ達の旅路をサポートするよ!」
七色の布が幾重にも重ねられた分厚い虹色のフレアスカート。幾何学のまだら模様浮かぶパーティースーツ。白塗りの顔を左半分覆い隠す黒仮面。束感のある白髪。頭上には先が黒と白の二又に分かれた道化の帽子――
それは自称、地獄の水先案内人。性別不詳、正体不明、神出鬼没、奇奇怪怪。そんな彼もしくは彼女が今宵もまた、噂を語りにやってきた。
「……前々から思ってたけど。言うほどサポートしてないよな? お前……」
「いやいや! 今日のボクをこれまでのボクと一緒だなんて思ってもらっちゃあ困るよ! 今回ばかりは全面的にサポートするさ! 何たってこのままじゃあ、地獄が終わっちゃうからね! さあ共に力を合わせて、この世界を救っちゃおうぜっ!」
いつの間にか音もなく廊下に立っていたその怪人は意気揚々と捲し立て、宝石を飾ったネイル輝く右手の人差し指を天井へ勢いよく掲げてみせる。その動きと連動するように、どういう訳かあちこちでクラッカーの鳴る音やラッパの吹く音が聞こえてきた。
「オイ、聞いたぞ道化。地獄の終わりとはどういう事だ」
話の腰を折られたことで九十九に対する怒りもまた有耶無耶になったのか、バルバラは再び席に座り脚を組み直して、今度はその矛先をロアへと向ける。その眼光はサングラス越しでも眩しいほど鋭く瞬いていた。
「あれれ~? 言ってなかったっけ?」
しかしロアは相変わらず、どこまで本気なのか解らない、とぼけた様子でへらへら嘯く。それは口角を吊り上げた歪な笑みを浮かべながら、その毒のような金色の瞳を九十九のほうへと向けたのだった。
「でもバルバラちゃんはともかく、九十九ちゃん達はさあ、確かあの時『お前らの事情なんかどうでもいいんですよ、私達』『キリッ』とか言ってなかったっけ? ボクとしても如月真宵さえ倒してくれればそれで良いんだけど。変に色々知っちゃって、万が一にでも如月真宵に情が移っちゃったりされても困るしね。なのに、結局知りたくなっちゃったの?」
「……いいから、さっさと言え」
皮肉をたっぷり込めたロアの言い回しに九十九はムッとした表情を浮かべながらも、声を荒げるような事はせず努めて冷静に言葉を返す。そうして席に座り直した彼女は、その凪いだような紅い瞳を真っ直ぐにロアへと向けた。
「え~? でもそんなのわざわざ言わなくたって、大方察しはつくでしょ~?」
「勿体ぶるな。地獄の終わりなどと大袈裟に言ってはいるが、どうせ羅刹王が死ぬことで得をするどこぞの勢力が羅刹王に代わってこの地獄の全てを支配しようとしているだとか、その手のつまらん企みだろうが。それでも一応、この俺が詳しく話を聞いてやると言っているんだ。早くしろ」
「はあ……やれやれ。まあ確かに、勿体ぶるような事でもないしね。わかったよ」
九十九もバルバラも『地獄の終わり』というものが何なのか、彼女等なりにおおよその見当は付けていた。
例えば羅刹王が死んで、最も得をするのは堕天王だろう。羅刹王がいなくなれば、この地獄から戦争を無くすという彼女の願いは大きく躍進する。彼女の願いが叶えば、それは確かに今の地獄の終わりと言ってもいい。
あるいは『拷问教會』がその漁夫の利を得て、この地獄を裏側から支配しようとしているのかもしれない。
つまり地獄の終わりとは、いずれかの勢力による地獄の天下統一。そう考えるのが自然で現実的だった。
だから九十九もバルバラも、そう高を括っていた。
「キミ達も知ってるだろ? 無間地獄の噂。其処に辿り着いた者はどんな願いでも叶う。奴等は其処で、願いを叶えようとしているのさ――この地獄から怪異という存在そのものが消えて無くなりますようにってね。ほら、こういう物語でよくある、悪い奴の考えそうなことだろ?」
しかし。本当に勿体ぶる事もなく、呆気なく明かされたその真実は――あまりにも不自然で、非現実的で。
「……え?」
「……何だと?」
それを聞いた二人は揃って、ただ唖然としていた。
現実問題として考えてみてほしい。例えば明日世界が終わると言われて、それがまさか何らかの比喩でも抽象的な表現でもなく言葉通りの意味だとは誰も思わないはずだ。
だってそんなの現実的じゃない。自然な発想ではない。そんな事をして誰が得をするというのか。全く意味が無い。
だが――あり得ないとは言い切れない。だってこの地獄に棲む怪異という連中は揃いも揃って、文字通り人間離れした怪物だ。
特に『拷问教會』の連中は、率直に言って狂っている。ならば。言われてみれば、確かに――やりかねない。
「奴等って……まさか『拷问教會』……?』
「……如月真宵は、それを知っているのか?」
「さあ? でもたぶん、知らないんじゃないかな? だって彼女の目的は、如月暁星を救うことだろ? 地獄が終わったら、如月暁星も消えちゃうじゃないか」
別の時間、別の場所で、カタリナから同じ内容を知らされた黄昏愛と、奇しくも同じ反応をする二人。
「…………莫迦な。…………『拷问教會』の大願は、人類の救済ではなかったのか。…………そんな事をして何の意味がある」
特にバルバラは九千年以上もの間、その真実を知らずに今日まで過ごしてきた。しかもそれは、今のバルバラが何より大切にしている同胞との勝負すら台無しにするような、碌でもない真実で。
つまりは裏切られたのだ。流石の彼女もショックが強いのか、茫然と項垂れている。すっかり血の気も引いたのか、彫刻丁の刺さった頭からは血の一滴も流れ落ちてこない。
「……いや。第一、そんな事は不可能だ。羅刹王が居る限り、誰も無間地獄には近付けない……」
僅かな静寂の後、バルバラが不意に声を上げた。そしてその一言から滲み出る違和感に、九十九は静かに首を傾げている。
「そうだね。だから拷问教會は如月真宵に協力しているんだろう。自分達が無間地獄へ行く為に、如月真宵に羅刹王を殺させようとしているんだ。でもさ、そもそも羅刹王を殺すなんて不可能だろ? だから困っているんだよ。どんな方法で羅刹王を殺そうとしているのか、まったく解らないんだ」
これ見よがしに肩を竦めてみせるロア。やがてその身体は宙に浮き、その場でふわふわと漂い始める。
「ボクは怪異を監視する存在だけど、心が読めるわけじゃあ無いからね。ボクにだって知らない事はある。とりわけ如月真宵は、ボクに感知されない領域を創り出せる。彼女は其処にほとんど篭もりきりだから、ボクでは手の出しようがなくてね」
「……待ってくれ」
紡ぐロアを遮って、今度は九十九が声を上げた。
「そもそも羅刹王を殺すのって、そんなに難しいことなのか?」
それは彼女が如月真宵の目的を知った時から感じていた違和感。ともすれば大袈裟にも聞こえる程、誰もが羅刹王を「殺せないもの」として扱っている現状に対する疑問だった。
「この地獄に羅刹王が居る限り、誰も無間地獄には近付けない。そんな噂が生まれる程度にはね。ほら、怪異は誰でも不死身だけど、殺すこと自体は出来るだろ? でも羅刹王は殺すことすら出来ない。あれはそういう存在なんだ」
最強の怪異と聞いた時、九十九は黒縄地獄で出会った禁域の存在、『くねくね』の歪神楽ゆらぎを思い浮かべる。だがどうも羅刹王はそういう強い弱いの次元では語られていないようだった。
ロアの迂遠な言い回しも相俟って、疑問はますます膨らんでいくばかりである。
「まあ詳しくは道すがら、彼から訊きなよ。彼は誰よりも永く羅刹王の傍に居た、専門家みたいなものなんだからさ」
そうして指差すロアに促されるように、九十九とバルバラ、二人の視線は再びかち合った。互いに何とも言えぬ表情浮かべ、黙ったまま見つめ合っている。
「とにかく、さっさと如月真宵を殺してちょうだいよね。下手に説得しようなんて考えないでよ? どうせ無駄だろうし、そういう甘い判断が今の状況では命取りになる。シンプルにいこう。如月真宵さえ居なくなれば、少なくとも地獄の終わりは回避出来るんだから――」
その時、叫喚のような鋭い汽笛が車体の外で鳴り響いた。
金属が擦れ合うブレーキの音と共に、猿夢列車の揺れは激しくなり、徐々にその速度を落としていく。
「さあさあ、いよいよ第七階層に到着だ! それじゃあ頑張ってね? 応援してるよ!」
最後にそれだけ一方的に告げて、ロアはその身を粒子の如く解けるように霧散していった。その姿が消えた直後、一際強く車体が揺れて――列車は完全に停止する。
九十九とバルバラは依然として無言のまま、どちらからともなく席から立つ。重い足取りのまま、彼女達は開かれた列車の扉の向こう側へ一歩、踏み出したのだった。
◆
地獄の第七階層。修羅の国、大焦熱地獄。
その空にも等しく、地獄の赤い空が広がっていたが――黒いはずの大地は、見渡す限り灰色の砂漠に覆われている。
赤い空と灰色の砂漠。それ以外には何も無い、荒廃した世界。その砂上に一歩、彼女達は足を踏み入れる。
「バルバラ」
息衝く者の気配を感じない、風すら吹かない死の世界に降り立った芥川九十九は、自身の右隣に立つバルバラへ向けて言葉を投げ掛ける。
「このままで、良いわけが無いよな」
「…………チッ。仕方ない……もう少しだけ教えておいてやる。如月真宵のこと。そして羅刹王のこと……」
ぶっきらぼうに舌打ちするバルバラだったが――それは同時に、互いの利害が完全に一致した瞬間だった。
「その代わり、貴様は今から俺の用心棒だ。何があっても俺の身を守れ。ここから先は――『拷问教會』との全面戦争になるぞ」
仮初の停戦協定ではなく、共通の敵と戦う仲間として――正式な同盟が今、結ばれる。
そんな二人は息を揃えるように、その視線を遥か彼方――蜃気楼の中に佇む、羅刹王の根城――黄金宮殿を見据えていた。