焦熱地獄 17
夜天に散りばめられた、命の星。そのひとつひとつが流星の如く、地表目掛けて降り注ぐ。
「うわあああああああああああああああああああああああああっ!!」
「何!? 何っ!? ここどこ!? 落ちてる!? 私落ちてるっ!!??」
「あきらっきいいいいいいいいいいいいいいいいい!! 俺も今そっちに逝くよおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「助けてえええええええええええええええええええええええええええ!!!!」
人間が自由落下した場合、その終端速度は約200キロメートル。上空の雲がある位置から地上までの距離、約10キロメートルを落下したとして、空気抵抗を考慮しても約3分から4分程度で地上に激突することになる。
カタリナの異能で現世から転送させられ、地獄に文字通り落ちてきた人間達の数は、目算にしてざっと数十から数百。黄昏愛の視界いっぱいに広がる夜空から、彼らは無軌道に降ってきていた。
「(……助ける必要は、無い。地獄に落ちてきた時点で、あの人達はもう助からない……)」
合理的な判断である。黄昏愛はヒーローではない。見知らぬ他人が戦いに巻き込まれようと心を痛めることは無い。彼女にとって重要なのは、目の前の敵を殺すこと。今もくつくつ嗤っている、あの憎きカタリナに意識を集中することだ。
「(でも……はぁ……でもこれ、九十九さんだったら……助けるんだろうなぁ……)」
そんな愛に不具合とでも呼ぶべき感情の機微を発生させたのが、芥川九十九の存在である。彼女のことを想うと、愛は冷静な判断が出来ない。それはきっと九十九にとっても同じだろう。
「っ……仕方ない……!」
その判断は合理的ではないのかもしれないが――人間としてはきっと正しい。
愛は両腕に形作った触手の塊を咄嗟、上空へと掲げた。複数の触手を一つに束ねたそれは掌を広げるように、触手の網を張り巡らせる。
触手の網は柔軟性と粘着性を伴い、落ちてきた人間達を上空で次々と受け止めていく。何かを喚き散らし藻掻く人間達の姿は、まさに蜘蛛の糸に絡め取られた獲物のようだった。
そうして全ての人間を受け止めた触手の網はゆっくりと下降していく。こんな事をしている場合ではないという苛立ちと、無事に全員を助け出せたという安堵――愛の口からはその両方が入り混じる溜息が、細く長く吐き出されるのだった。
「やっぱり優しいねえ、愛ちゃんは」
だが当然、これで終わりなはずも無い。
むしろここからが始まりだった。本当の、地獄絵図は。
「おかげで助かったよ、うちも」
悪辣に微笑むカタリナ、その四つ目からは――血の涙が溢れ出していて。
その異様に愛が気付いた、次の瞬間――それは始まった。
『―――――――――――――――――』
それは世界中が振動するような、大気の揺れ。黙示録を知らせるラッパのようなその咆哮は、愛達が居る其処から遥か彼方――かつて『ヤマノケ』や『姦姦蛇螺』と対峙したあの山から聞こえてきていた。
その山が突如、崩れる。内側から爆発したように、あるいは噴火したように、山が丸ごと、轟音と共に土砂に崩れていった。山が崩壊した原因はすぐに判明する。それは山の内側から現れて――天高く、空へと舞い上がった。
『―――――――――――――――――』
それは地中を潜り、空を飛ぶ――白い巨鯨。
「……嘘。あれって……」
かつて愛達と黒縄地獄にて死闘を繰り広げた、最凶の怪異――歪神楽ゆらぎ。その存在を知覚、あるいは意識するだけでも、対象の心身を強制的に狂わせてしまう『くねくね』の異能を使って、彼女は複数の人造怪異を生成、使役している。
その内の一体こそが、白鯨の『しろちゃん』――最悪にして災厄の怪物が今再び、愛の前に姿を見せたのだった。
「……げほッ。がふッ……くっ……ふふ。あっはは……! ゆらぎちゃ~ん! これ、ちょ~っと借りるよお~!」
そういうカタリナの表情は笑みを形作っているものの、その目からは血を流し、口からは血を吐き出し続けている。どうやら白鯨を転送してくる際に、歪神楽ゆらぎの存在を意識してしまったらしい。それでも自我を保っているだけ軽症と言えるだろう。
斯くして現れた白鯨の人造怪異。雲すら呑み込んで、天蓋のように空を覆い尽くすその巨体。それを地上から信じ難いものを見るような眼差しで見据える愛。
あの時の悪夢が蘇る。愛がこれまで戦ってきた数々の敵、その中で唯一、この白鯨の怪物にだけは勝利することが出来なかった。引き分けに持ち込めてすらいない。
あの時は白鯨の相手を芥川九十九に任せ、その隙に本体のゆらぎを毒で倒すことにより、どうにか切り抜けられた。
九十九に匹敵する規格外の肉体に加え、毒も通じぬ規格外の耐性。そんな怪物を今回は一人で相手にしなければならない――そんな絶望に愛の表情は見る見る青ざめていく。
「……前見た時とは……様子が違う……?」
それほどまでに強く印象に残っている化け物だからこそ、愛はその異変にすぐさま気が付いた。
白鯨の怪物は、よく見るとその全身をところどころ青黒く変色させ、あまつさえその肉体が溶け出していたのだ。目からは玉虫色の泡が噴き出し、無数の牙が生え揃った口の端からは唾液のような青黒い液体を垂れ流している。その異様は、さながらゾンビのようだった。
「愛ちゃんはこれと遭った事があるんやっけえ? 今は『ヒサルキ』を憑依させてるのよお。ゆらぎちゃんから所有権を奪って操る為にねえ。ふふ……バレたらゆらぎちゃんに殺されるやろなあ、うち……」
愛の疑問に答えるカタリナ、額に脂汗を浮かせ苦しげに息を漏らす。まさに狂化の一歩手前、それでも彼女は嗤っている。
『―――――――――――――――――』
ヒサルキに憑依されゾンビと化した白鯨が、再び世界が割れるような雄叫びを上げた。その咆哮は衝撃波すら伴って、焼け野原の上を台風のような突風が吹き荒ぶ。
そして、直後――鯨の噴出孔から飛び出したコバルトブルーの粘液が、雨となって地上に降り注いだ。
「……!? まずッ……!」
その粘液に黄昏愛は見覚えがある。だがそれの正体を思い出した時には、もう何もかもが手遅れだった。
「いる! いる! いる! いる! いる! いるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいるいる縺溘☆縺代※縺上k縺励>縺溘☆縺代※縺上k縺励>縺溘☆縺代※縺上k縺励>」
「とんでる! わたしのなかで! くじらが! めのなかにいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「ひれひれひれひれひれひれひれひれひれががががががががががががががががががががが縺イ繧後′縺イ繧後′縺イ繧後′縺イ繧後′縺イ繧後′縺イ繧後′縺イ繧後′縺イ繧後′」
白鯨が降らすコバルトブルーの雨は、触れた者に『狂気』を感染させる。愛が咄嗟に触手の網目を塞いで結界を作り出そうとしたが、液体は僅かな隙間から入り込んで、人間達の皮膚を濡らした。
結果、愛の守ろうとしていた現世の人間全てが――狂気に造り変えられる。やがてヒトの形すらも失って、肉体が鱗に覆われていく。
「繝舌ぃ繧ォ」
そしてその変貌には、やはり見覚えがあった。腕が四つ。脚は無い。目は魚のように大きくつぶらで、肌は青く、ヒレは二枚ある。そんな――魚人の怪物。それらは多腕で愛の触手を引き千切り網から抜け出すと、空を飛んだ。
かけがえのない命がまさに今無惨に変わり果てた地獄絵図を、どこまでも他人事のように眺めるカタリナ。そんな彼女はいつの間にか、どこからか取り出したビニール傘で、狂気の雨から自身をちゃっかり守っていた。
無意識に込み上げてきた怒りで、愛は奥歯を強く噛み締める。開き切った瞳孔でカタリナの姿を射抜く彼女だったが――それは向かってきた魚人の群れによって中断を余儀なくされた。
魚群のように一塊になって、ミサイルのように突っ込んでくる魚人の怪物達。事実、この怪物は触れると爆発する機能が備わっている。その突撃を避ける為、愛もまた鳥の翼で上空へと羽ばたいた。
雲のある位置まで飛翔したその先で、待ち受けるのは白鯨の怪物。上空にて、愛は再びこの怪物と視線を交わすことになる。
『―――――――――――――――――』
世界を震わせる咆哮と同時、白鯨の身体の表面、無数にある小さな穴から、夥しい数の触手が生えてきた。もはや鯨とは名ばかりの異形、異常を極めた怪物の触手群が、一斉に愛へ目掛けて襲い掛かる。
「う、お、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
対する愛もまた、吠える。取り繕う余裕すら無い、獣の如き咆哮。そうして彼女の両腕から放たれたのは――思い付く限り、ありとあらゆる生物の肉を混ぜて造った、巨怪なる百鬼夜行。
彼女が時折『魔腕』と呼ぶその攻撃方法は、実に単純明快。ただ筋肉の塊を敵にぶつけるだけ。毒を除けば、それは彼女が瞬間的に繰り出せる物理的な最大火力だった。
触手の群れを、筋肉の塊が押し返し、圧し潰す。更に魔腕からは愛自身の触手が伸び、すり抜けてきた白鯨の触手や魚人の群れを自動的に叩き落とす。攻防一体、死角は無い。
愛の魔腕はそのまま白鯨の大口を両端から掴み掛かり、口の端に指を突っ込んで、そこから白鯨の巨体を真っ二つに引き裂かんとありったけの力を込める。魔腕に引っ張られた口の端は次第に裂け、青黒い体液が噴き出していた。
『――――――――――――――――――――ッッ!!!!』
だが白鯨にはこれがある。大きく開かれた口、その奥底から放たれる――大咆哮。それは九十九も使う事がある大技。咆哮による振動で、触れた物質を崩壊させる――まさに音の爆弾。
間近でそれを受けた魔腕が、触れた端からその肉を綻ばせていく。そこから伝播していくように、崩壊は黄昏愛本体にも直撃した。
「ぐッ……あ……!」
その瞬間に鼓膜が破れ、耳の奥から血と脳漿が噴き出す。全身の毛穴からも同様に体液が飛び出して、一瞬にして肉体が圧縮されるような衝撃を味わう。それでも『ぬえ』の高速再生はすぐさま愛の肉体を元通り修復した――が、魔腕も触手も破壊され、完全にがら空きの状態。
「繝舌ぃ繧ォ」
そこに容赦なく飛び込んでくる魚人の群れ。次々と愛の身体に四つ腕でしがみついて、その皮膚に牙や爪を突き立てる。そうして身動きの取れなくなった愛に向かって容赦なく、津波のように迫ってくる白鯨の大口。このまま愛を飲み込もうとしているのは一目瞭然だった。
「(…………つ…………九十九、さん……)」
再生した端から魚人に啄まれる、檻が如き闇の中。絶体絶命の状況で――彼女はその名を呼ぶ。それは奇跡を祈ったのではなく、これまでの軌跡を信じたが故に。
「(もう一度、力を……貸してください…………!)」
その想いは、まるで見えない誰かに通じたように――
『ォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!』
――悪魔が、彼女の中で産声を上げる。
あの戦い以来、二度目となる規格外の変身――悪魔の模倣。肥大した黒い筋肉、山羊のような顔に捻り曲がった角、黒い翅と尻尾――圧倒的な暴力をその身に体現した怪物王。
その大咆哮によって、周囲に群がる魚人は瞬く間に一掃された。自由の身となった瞬間、悪魔と化した愛はその黒い翅で飛び立ち――白鯨の真上を取る。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!』
悪魔の巨大な拳がそうして、白鯨の脳天に振り落とされた。いくら白鯨と言えど、その規格外の膂力に殴られた衝撃は無視出来るものではなく――
『――――――――――――――――――――ッッッ!!!!』
身を捩るように暴れ、一際甲高い咆哮を上げる白鯨。すぐさま白鯨の背中から無数の棘のような触手が放たれ、反撃が始まる。
無数の棘が悪魔の肉体を穿つ――しかしそんな苛烈極まる猛襲の中でも、悪魔の攻撃は止まらない。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!』
乱打、乱打、乱打。拳の嵐は棘を圧し折りながら、白鯨の背中を何度も抉る。その度に空中に浮く白鯨の巨体は少しずつ下降していく。白鯨の分厚い皮膚が、拳の形に深く減り込んでいく。押している。確実に。あの白鯨を、悪魔の膂力で。
致命傷とは程遠いが、それでも着実にダメージは与えられている。それにこの調子なら地上まで叩き落とせる。休む暇を与えてはならない。ここで一気に畳み掛ける――!
『――――――――――――――――――――』
その時だった。白鯨の全身が淡く、青白く発光し始めたのは。
まるで目の前の敵を、黄昏愛のことを、獲物ではなく脅威であると、認識を改めたように。白鯨の纏う気配が途端に様変わりする。全身を纏うその光が、一際強く輝いた、次の瞬間――
鯨の噴出孔から、熱線のような白い光が射出され。悪魔と化した愛の右腕を、その肩から先を容易く切断したのだった。
愛の模倣は完璧に近い。幻葬王、芥川九十九の『悪魔』を模倣したその姿は、規格外の肉体を限りなく完全に再現している。だからあり得なかった。そんな悪魔の肉体が、あろうことか欠損するだなんて。
例えば開闢王や、愛は知らないがシスター・バルバラのような、イレギュラーな異能以外で九十九の身体が欠損するような事はこれまで無かった。それがまさか、熱線という単純な物理攻撃によって――右腕を切り落とされるだなんて。
『――――――――――――――――――――――――――――ッッッッ!!!!』
突然右腕を失ったことで動きを鈍らせた悪魔へ目掛けて、白鯨はその巨体からは想像も付かない速さでその巨大な尻尾を翻す。白鯨の尻尾が直撃した悪魔は、呆気もなく地上へと叩き落された。地上に激突した衝撃で地盤が割れ、巨大なクレーターが出来上がる。
『ッ……オ……オォ……!!』
クレーターの中央、悪魔はそれでもどうにか立ち上がっていた。奮い立ち、顔を上げたその先で――しかし。青白く発光する白鯨が、その大きな口の奥底から白い光を溢れさせる、そんな絶望的な光景が待ち受けている。
『――――――――――――――――――――――――――――ッッッッ!!!!』
二発目の熱線。放たれたその閃光は、悪魔となった愛でさえ反応出来ない速度で。
「ああ、終わりやねえ」
悪魔の胴体、上半身と下半身が真っ二つに切り落とされた。
熱線の余波は人造階層全体に及ぶ。熱線の放たれた直線上では、その遥か遠くにあった森林が一瞬で燃え上がり、地上は割れ、空気は焼け、爆発を引き起こしている。
こんな技を白鯨はずっと隠し持っていたのか、あるいは『ヒサルキ』の影響もあるのだろうか。ともあれ、黒縄地獄での勝利が如何に奇跡的だったかを思い知るには充分すぎる。
『……………………』
身体を上下に切断された悪魔の姿のまま、その場に崩れ落ちる黄昏愛。もはや身動き一つ取ることもかなわない。少しずつ命の灯火が消えていく実感がある。
芥川九十九の『悪魔』を模倣している関係上、その力には代償が生じる。その代償とは、完全なる死――とはいえ。愛の異常な再生力の高さならば、命を繋ぎ止められる可能性はある。しかし仮に生き永らえたとして、これ以上戦うことは出来ないだろう。
「(……勝てない……?)」
ここにきて、流石の愛も心のなかで弱音が溢れる。それ程までに、目の前の怪物は圧倒的だった。勝てない。何に変身したところで、全く勝てる気がしない――
『勝てる気がしない? ハッ、なに馬鹿正直に相手の土俵の上で勝負してんだ。テメェはそんなお利口さんだったか?』
必要なのは想像力。発想の逆転、あるいは飛躍。
「(……違う。私だって、あれから成長した……)」
自分自身に囚われては駄目なのだ。答えはいつだって理の外にある。
「(今の私なら、まだ……もっと……やれる)」
『そうだ、テメェはこんなもんじゃねぇだろ。おら、もっと好き放題暴れてやれ』
「(変身…………『第二形態』…………!!!!)」
ぶん、ぶん、ぶん。
蠅の羽音が、聞こえてくる。