焦熱地獄 11
今から九千と五百年前。
俺が拷问教會の一員となり、黒縄地獄の監獄塔で暮らし始め、およそ半年が経過した頃。
この半年の間、俺の周りでは色々な事が起きた。その中でも特に印象深かった三つの事件を、まずは紹介しよう。
◆
一つ目。俺は拷问教會の教祖、開闢王と顔を合わせた。フィデスの推薦という事で、彼女は俺の加入を快く迎え入れてくれた。
大きな図体をペストマスクとキャソックで覆い隠したその黒い魔女は、喉が焼け爛れたような低い声で語り掛けてくる。その一節だけ読めば何とも恐ろしい場面のようだが――
その女の語り口は、聞く者を心の底から安堵させるような、不思議と惹き込まれるものがあった。母のような安心感とでも言えば良いだろうか。
極めつけに彼女は、俺の異能をフィデスから予め詳細に聴いていたにも拘らず、躊躇いなく俺に握手を求めてきたのだ。いつもは天邪鬼な『俺達』も、この時ばかりは鳴りを潜めていた。
嗚呼確かに、彼女は組織の頭首として申し分無いだろう。
そこまでは良かったのだ。問題はその後。彼女は俺にこんな質問をしたのである。
「貴女は本当に、もう二度と、筆を執るつもりが無いのですか?」
それに対して俺は、当然嘘偽りなく答えてみせた。
「当然だ。俺はもう芸術家ではない。俺に筆を執る資格は無い」
だがそう答えた瞬間、開闢王の異能――『腕』とかいう奴に、俺は右腕を捥がれていた。
曰く、どうもそれは嘘に反応するらしい。つまり俺は嘘を吐いたと判断されたのだ――
「俺が嘘を吐いただと!? 巫山戯るなッ!! そんな筈が無いだろう!! このペテン師がッ!!」
俺は開闢王の前で怒り狂い、そのまま四肢を根こそぎ捥がれ、死んだ。それ以来、俺はあの魔女と会っていない。
いや、解っている。俺は嘘を吐いたのだろう。きっと、自分でも気が付かない内に。恐らく俺の中に渦巻く別人格が、この肉体を乗っ取っていたのだ。それが何らかの影響を齎して、あの『腕』を誤作動させた。そうに違いない。
でなければ――まるで俺に未練があるようではないか。
◆
二つ目。この監獄塔で、見知らぬ少女の姿を目撃した。後から知ったことだが、その少女の名はアナスタシア。まだ拷问教會の一員ですら無かった頃の彼女は監獄の中を一人で彷徨っていた。そこに俺は偶然鉢合わせたのだ。
「あっ……こ、こんばんは……」
麗しい金色の長髪。煌めく赤色の瞳。そして虫も殺せないような頼りない表情。まるで覇気の無い儚げな声。硝子細工のような印象の美しい少女は、怯えながらも勇気を振り絞った様子で俺に挨拶してくる。
俺はそんな彼女を暫し無言のまま見つめていた。見れば見るほど美しい。些か幼すぎるきらいもあるが、女性として間違いなく美しい造形である。大人しく抵抗もしなさそうだ。
どれ、ちょうど生きた材料が欲しいと思っていたところだ。俺の物にしてやるか――
「――テメェェェェェバルバラァァァァァァッ!!! アタシのアナスタシアに近付くなコラ゛ァ゛ァァァァァァッ!!!!」
俺の指先があわやアナスタシアの旋毛に触れようとした次の瞬間、どこからともなく走ってきたシスター・フィデスの飛び蹴りが俺の頭に直撃。俺は死んだ。
それ以来、フィデスが俺の前に姿を見せる事は無くなった。どうやら相当嫌われたらしい。
つくづく思う。俺に真っ当な人付き合いなど出来るはずが無かったのだと。俺とて過去を振り返るくらいの事は出来る。そしてこれまでの失敗は、その殆どが俺に起因しているのは確かだった。
これまでもそうやって俺の元を去っていった友人は山程いる。その度に俺は後悔して、自分で自分を傷付けてきた。時には他者すら傷付けて、何もかもを台無しにしてきた。
それは哀しい事だが、同時に仕方のない事でもある。何故ならそれが俺の生き様だからだ。生き様を変えてしまっては、それはもう俺じゃない。たとえ地獄に落ちても、俺は俺の生き様を貫き通すのだ。
◆
「そっかあ。きみはまだ、自分が理想の生き様を貫けていると思い込んでいるんやねえ」
…………三つ目。
「だったらきみは、どうして描くことを辞めてしまったの? どうしてそれは、貫き通すことが出来なかったの?」
俺が独房で自身の異能の研究をしていた、ある日の夜。
「結局、きみにとって絵を描くことって、何だったのかなあ?」
シスター・カタリナ。奴は俺の前に姿を見せた。
只管に長く、黒く、膨大な量の髪の毛を地面に引き摺って。それは車椅子の上に乗ってやってきた。どうやら奴の異能は、その長い黒髪を触手の如く操る能力らしい。奴の頭髪はひとりでに蠢き手足の代わりとなって、奴が搭乗する車椅子を操作しているようだった。
「ねえ、教えてよお。きみの言う生き様って、具体的に何を指して言っているの? 絵を描くことがそれじゃないのなら、今のきみは――どうして生きているのかなあ?」
長い前髪に殆ど覆い尽くされた目元、その隙間から辛うじて覗かせる――輝きを失った、地獄の底のような真っ黒の瞳。吊り上がった口角から漏れ出す仄暗いその声色は、開闢王とは正反対――まるで深淵に覗き返されているような、そんな途方も無い不安感に駆られ、名状し難い恐怖に押し潰されそうになる。
「…………何が言いたい?」
「いやあ、純粋に気になってねえ。ほら、うちら同胞やんかあ? もしも悩んでる事とかあったら、相談してほしいのよお」
白いワンピースの上から蠢く黒髪纏う、四肢の無いその悪魔は、そうやって当たり前のように嘯いてみせる。その眼差しは、心よりもずっと深く昏い何かを見透かしているようで。雲のように掴み所が無く、蜘蛛のように狡猾な、悪意を取り繕うともしないその生き様は――ともすれば羨ましい程に、俺の目には輝いて映った。
だからこそ、気に入らない。相容れない。その天衣無縫は、何もかもが目障りで耳障りだった。
「悩んでいる? この俺が?」
「だって、納得してないでしょお? 今の自分に。だから、悩んでるんでしょお? その異能を、どう使うべきか」
地面の上に肘を付き寝転がっている俺に向かって、カタリナは依然として悍ましいほど穏やかに語り掛けてくる。
「宇宙人ちゃんの異能は、触れた物を溶かす能力――でも、それだけじゃない。それは使い方次第で如何様にも化ける無限の可能性――そんな事くらい、他人に言われるまでもなく、本人が一番よく解ってるはずよねえ?」
忌避を顕わに睨み付ける俺の三白眼などまるで気にもしていない様子で、カタリナは自分が言いたいことを好き勝手に並び立てる。
「でも……解ってるのに、目を逸らしてる。異能の使い方なんて、もうとっくに思い付いているのに。きみは解らないふりをしているの。どうして?」
そうしてカタリナは気味の悪い微笑を浮かべながら、小首を傾げてみせた。くすりと溢れ落ちる嘲笑すら隠そうともしないその態度に、いい加減俺も我慢の限界で――俺は大きく舌を打ちながら上半身を起こし、その場に胡座をかいた体勢となって、目の前の女を再度鋭く睨み付ける。
「やはり何が言いたいのか解らんな。とっとと失せろ」
「そっかあ。それじゃあ、この話はもうおしまい」
苛立ちを乗せた俺の言葉に対して、しかしカタリナはあっさりと引き下がってしまった。つまらん。もう少し粘ってくるようなら、その喉元を掻っ切ってやるつもりだったのだがな。
「うちねえ、生きてた頃は工芸家の職業に就いてたのよお」
斯くして、本当に何の脈絡も無く次の話題に移ったカタリナだった訳だが――俺にとっての問題は、そこからだった。
「……工芸? 貴様が……芸術家だと……?」
耳を疑った。この女に芸術の教養があるとは微塵も思えなかったし、何より――この俺の前で「芸術で食い扶持を稼いでいた」などと語るその神経の図太さに、俺は怒りを通り越し唖然となっていた。
「そおそお。実はねえ、これから制作に取り掛かろうとしてる作品があってさあ。きっとそう遠くない内に、完成すると思うから。その時は――」
この時、俺の中で疑惑が確信へと変わった。カタリナが俺に何を伝えようとしているのか。
「宇宙人ちゃんにも、いつか観せてあげるねえ。うちが創る……本物の芸術を」
とどのつまり、こいつは俺に喧嘩を売っている――そう確信した次の瞬間、俺は飛び掛かっていた。
◆
以上、この通り。俺は新しい職場で早速、複数の人間関係を終わらせてしまった訳である。
別にどうでもいい。俺に人が寄り付かないのはいつもの事だ。そもそもこの監獄塔という場所自体、滅多に人が寄り付くような場所ではない。その静謐さを気に入って此処に住んでやっているのだ。むしろ静かなのは良いことだ。
ちなみに此処には俺の他にもう一人、『くねくね』とかいう怪異が棲んでいるらしい。どうやらそいつの影響もあって、あのフィデスやカタリナだけでなく、薬漬けにされ理性を失った信者共でさえ寄り付こうともしないのだとか。
将来的に『くねくね』を閉じ込めたこの監獄塔は丸ごと地下に移動させ、その上に別の建築物を造り蓋をしようと計画しているらしい――が、それはさておき。
こんな風に、どうしようもない俺だった訳なのだが――意外にも。こんな俺と半年間、未だ会話を成立させる事の出来ている我慢強い相手がこの時、一人だけ存在していた。
彼女の名は――
「異能の研究は順調ですか?」
――如月真宵。最近の俺の話し相手は、専ら彼女だった。
その日。独房に籠もり切りの俺の元へ、如月真宵はいつもの如く姿を見せた。毛先の蒼い朱髪。眼鏡の奥に控える朱と蒼のオッドアイ。着崩しすらしていない黒いビジネススーツの上から更に黒いローブを羽織り顔を隠すその女は、控えめにノックしてから扉を静かに押し開き、努めて慎重に足を踏み入れる。
そんな仕草の一つ一つからも彼女の几帳面さ、生真面目さが窺えるようだった。騒がしいのを嫌う俺に極力配慮しているのだろう。好感が持てる。
「見ての通りだ」
しかし、だからこそ気に入らない。俺はそういう人間だったので――いつもの如く、俺が彼女に向ける瞳孔は不機嫌を顕わにした鋭いものだった。事実、今の俺は心底腹を立てている。そんな俺の荒れ狂う心情は外見にも現れていた。
俺の華奢な全身を殆ど覆い尽くすように巻き付けられた、血だらけの包帯。雑に巻かれたそれらの隙間からは、まるで人面瘡のような、人の顔にも見て取れる模様が幾つも浮かび上がっている。
そんな俺の左手首には透明の管が突き刺さっていた。それは俺の傍に佇む点滴スタンドと繋がっていて、点滴スタンドに吊るされたボトルには玉虫色に濁った液体が入っており、それが管を通って俺の中に少量ずつ流れ落ちていく。
そして極めつけは、俺の周囲に転がる無数の怪異の、屍体の山。そんな物に囲まれて生活している俺は、さぞ悪臭を放っていることだろう。
「……そうですか」
如月真宵は部屋に入った直後、僅かに顔を顰めていたが――すぐにいつもの、つまらなそうな真顔に戻っていた。包帯の隙間から覗かせる俺の怨めしそうな視線を前にして尚、彼女は面倒臭そうに溜息こそ漏らすものの、平然と睨み返してくる。肝の据わった女だ。気に入らないが、面白い。
「こちら、シスター・フィデスからの差し入れです」
如月真宵は躊躇いなく此方の傍まで歩み寄ってくると、事務的にそう告げて、片手に担いでいた麻袋を俺の前に落とす。その拍子に麻袋の隙間から、死人の青白い顔が垣間見えていた。
「チッ……また屍体か」
口元を覆う包帯の中で大きく舌打ちし、胡座をかいた体勢のまま如月真宵を再び鋭く睨み付ける。俺の不機嫌の理由を担う一つが、正しくこれだった。シスター・フィデス、奴は如月真宵を介して時折このように、俺の異能研究の材料を寄越してくる。それは良い。問題は、寄越してくる材料が屍体にばかり偏っているという点だ。
「言ったはずだ、材料は生きたまま寄越せと。どうなっている? フィデスにはちゃんと伝えてあるんだろうな?」
「当然伝えていますよ。その上で、シスター・フィデスから預かってきた伝言です。生きたままは無理だと」
「何故だ!」
「そりゃあ……生きているという事は、抵抗してくるという事ですから。生きたまま此処まで連れて来るとなると、相当な手間でしょうし」
如月真宵はそう淡々と、合理的に言葉を並び立てていく。それでも納得していない俺の不満な表情に向かって、彼女は呆れたように溜息を漏らしていた。
「仮に怪異を生きたまま此処に連れてきたとして、シスター・バルバラ、貴女はそれを一人で対処出来るのですか?」
「む……ッ」
彼女にはっきりと口にされた問題に、思わず俺の喉は言葉を詰まらせていた。
当然、言われずとも解っている。俺は弱い。仮に生きたまま材料を寄越されたところで、今の不安定な状態の俺では材料と戦闘になった場合、返り討ちに遭うのが関の山だろう。
だからこそフィデスは材料を屍体にしてから俺に寄越している。フィデスなりの考えがあっての事なのだ。解っている。今の俺は所詮、食い扶持を自ら用意することすらままならない、脆弱な雛鳥に過ぎない。
「しかし……しかしだ! こんな調子では、どれだけ時間が掛かると思っている! 俺に異能を使いこなせるようになれと言ったのは貴様等だろ!」
俺は震える手で点滴スタンドに掴まりながら、そろりそろりと起き上がる。点滴しているクスリの影響で灰を被ったように濁った意識と視界の中、それでも俺の呂律は不思議なほどよく回っていた。
「見ろ……この有り様を。こんな物に頼らなければ、今の俺は感情を抑える事すらままならない。良いのかッ、こんな体たらくで!? 俺に一刻も早く異能を使いこなせるようになって欲しいんじゃないのかッ!」
「ご心配なく、時間が掛かるであろう事は織り込み済みです。むしろ急いては事を仕損じる。今は焦らずじっくりと、出来る事から着実にモノにしていくべきです」
「ぐぬぬ……!」
ああ言えばこう言う。俺の苦手なタイプの人間だ。
「ですが確かに、貴女の言い分にも一理あると私は思います。どうしても生きた材料が欲しいのであれば……そうですね。例えば……人造怪異なんて如何でしょう?」
「人造怪異……? 何だそれは……」
「文字通り、人工的に造られた怪異です。作り方はベースとなる異能によって様々。実は私も、自分の手で造れないものか研究しているところで」
ずれた眼鏡を指でくいっと上げながら、淡々と言葉を紡ぐ如月真宵。ここまで事務的な応対をされてしまっては、否が応でも落ち着くしかなかった。
「例えば、生きながらにして無抵抗な人造怪異を造ることが出来たら、材料として丁度良いのでは? 一度フィデスに相談してみましょうか?」
「チッ……嗚呼もういい……勝手にしろ……」
項垂れるように、俺は再びその場に座り込んだ。苛立ちを乗せた俺の深い溜息を聞いて、如月真宵もまた小さく溜息を吐いていた。
「……シスター・バルバラ、何をそんなに焦っているのですか?」
その時、ふと。これまで無機質で冷淡な口調だった如月真宵が、その声色に困惑を僅かに滲ませながら口を開いた。
「……焦っている? この俺が? ハッ、何を言う……どうして俺が……」
咄嗟に言い返したが、その言葉に俺は内心どきりとしていた。俺の中に焦燥は確かに存在している。それを悟られないよう振る舞ってきたつもりだったが……否、きっと見透かされていたのだろう。思った事を口にしなければ気が済まない俺に演技の才能などあるはずもない。
そんな俺の焦燥を見抜いた如月真宵は、不意に俺の目の前で腰を下ろしその場に座り込んだ。顔を上げると、真っ直ぐ視線が合う。その神妙な面持ちを目の前にして、俺のさほど固くも無い口は余計に緩んでしまった。
「……シスター・カタリナ。奴は今、何をしている」
予想もしていなかったのだろう。俺が奴の名を口にした途端、如月真宵は驚愕で目を見開かせていた。
「奴は言った。この俺に、本物の芸術を見せてやると。それから数ヶ月……あれ以来、奴が俺の前に姿を見せることは無くなった。奴は今どこで何をしている。まさか本当に……創作などしているわけではあるまいな」
そう。あの日、大言壮語で挑発してきたカタリナに思わず飛び掛かっていた俺は直後、奴の操る髪の触手に絞殺された。それ以来、カタリナは俺の前に一度も姿を見せていない。その事実がどうしようもなく、俺に厭な予感を駆り立てるのだ。
曲がりなりにも、俺は芸術家だった。だから解る。あれは同業者の目ではない。奴は間違いなく、芸術を履き違えている。でなければ、あんな、悍ましい――諦念に満ちた眼差しなど、出来るはずもないのだ。
そんな奴が口にした『本物の芸術』とは一体、何なのか。俺に一体、何を見せるつもりなのか。俺はそれが、堪らなく、恐ろしい。
「……カタリナが、そんな事を言っていたのですか。はぁ……成る程、そういう事ね。だからあんな……」
暫く顎に手をやり考え込むような仕草を見せていた彼女は、やがて微かに溜息を漏らし――
「失礼……今、思い出しました。私、シスター・カタリナから伝言を預かっていたんです」
――そしてそれは、どこか開き直ったような口振りで。
「第三階層、衆合地獄の酩帝街。カタリナは其処で待っています。これからご案内致しましょう」
朱と蒼のオッドアイは粛然と、俺を見下ろすのだった。
◆
地獄の第三階層、衆合地獄。其処を支配する王の異能によって、この階層は盛者必衰の理が敷かれ全てが停滞した『酩帝街』と成り果てている。
この頃の酩帝街は未だ発展途上で、人も物も圧倒的に不足していた。当然だ。所詮は地獄。どこにもまともな資源は無く、まともな食糧も無く、まとも人間が居ない。
そんな場所をゼロから開拓し、真っ当に機能した都市を開発しようとしているのだ。不可能ではないだろうが、不可能と呼んで差し支えない程の途方も無い時間が掛かることだろう。
曰く、酩帝街は誰もが表現者に成れる場所を目指しているのだという。他の獣と明確な違い、人間を人間足らしめている物こそが芸術だ。それを個人が自由に表現出来る場所こそが人間にとって必要な豊かさであると、この階層の王は主張している。
俺個人としても、その思想は概ね同意出来る。芸術に必要なのは環境だ。どんな才能もそれを活かすに適した環境の用意が大前提だ。安全で裕福な環境でなければ才能は育たない。貧困は才能を殺す。この地獄という環境においては特に、酩帝街の存在は表現者にとって理想郷と成り得るだろう。そこは俺も認めている。
だが俺はこうも考える。剪定は必要だと。誰もが表現者に成れる世界、確かに理想だ。だが理想は現実ではないからこそ理想なのであって、それが現実となった場合、世界はそれを成立させる為に如何にして整合性を取ろうとするのか。
理想を現実に反映させようとすると、世界は必ず異常をきたす。生まれるべきでない才能が産まれてしまう。悪意が、産まれてしまう。
たった一滴、垂らした黒い染みが、真っ白だった紙の上に広がって次第に侵食していくように。たった一つの異常、たった一つの悪意によって、世界は簡単に自由を破壊され、平等を破壊され、格差を発生させる。
認めるべきでない芸術もまた存在する。この街はそんな物すら許容するつもりなのか。
だとしたら――少なくとも、この場所は俺にとって理想郷には成り得ないのだろう。
「……………………何だ、これは」
そしてそれは、まさに。俺の懸念していた、悪意の権化。この酩帝街という世界において、一滴の黒い染みだった。
酩帝街、南区、南西郊外。其処は一帯が廃墟と化していた。未だ酩帝街は全体的に整備が行き届いていないものの、とりわけ此処はまるで意図的に放棄されているようだった。酩酊の白霧で見通しが悪く、俺は足元の残骸に何度も躓きそうになった。
俺には見慣れない代物だが、この朽ち果てた残骸は所謂、鳥居とか呼ばれる物だろう。形の崩れたそれらが幾つも地面に倒れているようだった。
周囲には他にヒトの気配は無い。静謐の中を如月真宵の先導によって、俺は只管に真っ直ぐ突き進んでいくと――やがてそれは姿を現した。
空き家だ。ヒトの棲んでいる気配は無い、二階建ての一軒家。材質は劣化し古ぼけた外観に映るが、目立った外的損壊は見られない。壁に取り付けられている窓は白く澱んでいて、中の様子を覗くことは出来そうにない。
何よりその建築物には、出入り口となる扉が無かった。扉の無い家――否、もはや『箱』と表現したほうがむしろ的確だと言えるだろう。如月真宵はそんな物に躊躇いなく近付き、窓のガラスを素手で叩き割り、攀じ登り始めたのである。家の中に先に侵入した如月真宵に引っ張られ、俺もどうにか攀じ登って部屋の中、畳の上に着地する。
所謂一般的な、木造の日本家屋。その造形には些か興味が湧いたが、周囲を観察する暇も無く如月真宵に手を引かれ、俺はあっという間に居間から廊下へと移動する。そのままずいずいと廊下の奥へと進んでいき、やがて引き戸の襖の前で立ち止まった。
如月真宵はそれをやはり躊躇いすらせず開け放った――その先の光景を目の当たりにして、俺は心底絶望したのである。
「……………………何なのだ、これは」
その部屋の中央には、鏡台が置かれていた。鏡台は姿見のように縦に長く、俺の全身が悠に収まる程の大きさをしている。
そんな鏡台の前には、長い黒髪の後ろ姿が佇んでいた。
その黒髪に見覚えがあって――瞬間、俺はその場に膝から崩れ落ちていた。
「この作品のタイトルは、『禁后』だそうです」
放心している俺の隣で口を開く如月真宵。その眼差しは異様な程に冷然としていた。
「貴女も知っての通り、私はどんな『部屋』でも造る事が出来る――『工務店』の怪異。私はその異能を使って、自身の肉体を傷付ける事と引き換えに後天的に能力を獲得出来る特殊な『部屋』を造ったんです」
淡々と言葉を連ねる如月真宵の様子が、俺にはまるで冗談のように映っていた。だって、如月真宵がこれから言わんとしている事が、もしも俺の予想通りなら――何故そんなに冷静でいられるのか、俺には全く理解出来なかった。
「カタリナは、私の『部屋』の効能――『净罪』を使って、自分の髪以外の全身を切り刻み――結果、このような姿に」
そして俺の予想は当たってしまう。その受け入れ難い真実に、俺はただ茫然とする他無かった。
「『净罪』によって傷付けられた肉体は、二度と元には戻らない。カタリナは永遠にこの姿のままです。と言っても怪異は不死なので、こんな状態でも一応生きてはいるようですが」
「…………莫迦な。何故、こんな…………」
「カタリナは、この姿を――この匣を、本物の芸術だと言っていました。芸術を諦めた腑抜けに批判される謂れは無いとも。それが、カタリナから預かった伝言です」
本物の芸術――それを見せてやると、確かに奴は俺に言った。
これが答えだと言うのか。こんな物が、芸術だと言うのか。
「最初は私も意味が解りませんでした。何故こんな物を遺す必要があったのか。ですが、今なら解る――貴女の為だったんですね、シスター・バルバラ」
「まさか……発破を、掛けたとでも言うつもりか……ッ!? そんな事の為に……己を切り刻んだと……ッ!?」
他人を煽る為ならば、自分自身すら犠牲に出来る。そのやり方はどこまでも悪辣で――こんな奴を、こんな物を、芸術などと認めるわけにはいかない。
だからこそ、奴の遺した言葉が突き刺さる。芸術を諦めた腑抜けに批判される謂れは無い――正しくその通りだ。俺に奴の創作を口出す権利など無い。
「これが本物の芸術……!? 巫山戯るな……!! 芸術とは生命だ……無から有を産み出すその所業にこそ意義があり、産まれた作品に尊ぶべき価値が宿る……至高の芸術とは即ち、新たな生命の創造……それなのに……これでは真逆の代物ではないかッ!!」
俺は芸術を諦めた。もう二度と筆を執るつもりは無い――
「芸術を履き違えたまま、口も利けなくなりやがって……!! こんな事になるなら……俺が直々に、芸術を教えてやるべきだった……ッ!!」
「なら、今からでもそうすればいい」
――その決意が揺らいだのは間違いなく、この瞬間だった。
「貴女が芸術を諦めたことに、私がとやかく言う権利は無いでしょう。ですが少なくとも、その結果が貴女に良い影響を与えているようにはとても見えません。本当に、諦める必要があるんですか?」
白状しよう。図星である。俺にはやはり、未練があった。それはそうだ。俺だって死にたくて死んだ訳では無い。諦めたくて諦めた訳では無いのだ。生きられるのなら生きたかった。描けるのなら描きたかった。それが許されるのなら、俺は今こうなっていなかった。
「……………………諄い」
ここで素直になれたなら、どれだけ楽な人生だっただろうか。
「俺は、諦めた。一度でも諦めた者は、死ぬべきだ。それが芸術の世界なのだ。いくら発破を掛けられたところで……今の俺にはもう、芸術を語る資格は無い。そもそも……」
確かに未練は自覚した。けれど、一度手放して失った物は二度と同じ形で返ってくる事は無い。一度消えてしまった情熱の燃やし方を、俺は知らない。
「……今の俺には、描きたいと思えるものが無い」
俺にはもう、何も残っていないのだ。
「……そうですか。解りました」
俺の力無い返事に、如月真宵は案外あっさりと引き下がった。もとより俺に対してそこまで大きな関心が無いのだろう。如月真宵はそのまま踵を返し廊下に出た。俺は慌てて立ち上がり、その後ろ姿を追いかける。
「羅刹王との会合が一週間後に迫っています。シスター・バルバラ、貴女も出席してください」
「…………何故だ」
「数合わせです」
廊下を引き返していく如月真宵の周辺には薄っすらと白い霧が立ち込め始めていた。仄かに薬品のような刺激臭漂うそれを吸い込むと、脳にじわりと酩酊の感覚が広がっていく。意識が朦朧とし始めた俺とは対照的に、如月真宵は平然とした足取りで霧の中を突き進む――
「三獄同盟……必ず、成立させる。その為に、ここまでやってきたんだから……」
静かに、けれど力強く呟かれた彼女のその言葉が、この耳に届くよりも早く――俺の意識は、そこで途絶えた。どうやら盛者必衰の理は俺の未練にすら反応を示したらしい。廊下で倒れた俺に気付き、後ろを振り返った如月真宵は俺を見て、呆れたように溜息を漏らしていた。
結局、俺はどうしたいのか。自分の中で明確な答えが出せぬまま――如月真宵に担がれ『禁后』を脱出した俺は、そのまま酩帝街を後にしたのだった。