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怪物少女の無双奇譚《フォークロア》  作者: あかなす
第五章 焦熱地獄篇
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焦熱地獄 9

 芥川九十九が肉体を欠損する程の事態に陥った経験は、この二百年でたった一度だけ。


 その時も右腕だった。未だ正体不明の怪異――神秘貪る開闢王、その異能『アンサー』は、あらゆる概念を無視して対象の四肢を引き千切る。それによって芥川九十九の右腕は一度切断されている。


 あの黄昏愛やシスター・アナスタシアとの戦いにおいてでさえ、勝負の結果としては心身の消耗により気を失ったものの、肉体が欠損することは無かった。規格外を誇る悪魔の肉体を傷付ける為に必要なのは、それもまた規格外でなくてはならないのだ。


 そして今、芥川九十九の右腕は二度目の欠損を果たす。開闢王の『腕』に引き千切られたあの時の感覚を、彼女は鮮明に思い出していた。

 何か大事な、かけがえの無いものを奪われたような、喪失感。そのくせ痛みも何も感じない。血の一滴すら流れていない。それが何よりも恐ろしかった。


「猿の手という古典を識っているか?」


 シスター・バルバラの『融解アブダクション』は、触れたものを溶かす異能――咄嗟にバルバラの拘束を振り解いたのが功を奏したのか、溶かされたのは右腕と纏っていた衣類のみ。彼女の右肩から先、失くなった右腕の切断面は溶接された跡のようにすっかり冷えて固まっている。


「当然俺は読んだ事など無いが、それもまた物語なれば怪異の依代となり得る存在。故に風の噂で聞き及んでいる。曰く、猿の手はどんな願いでも叶えてくれる。しかし斯様な代物が果たして本当に猿だったのか、その正体は甚だ疑問だな」


 そして引き千切られた右腕の行方は今、バルバラと一体化し、彼女自身の右腕と置き換わっていた。灰色に薄汚れたガウンを身に纏う茶髪のバルバラ、その右腕は紛うことなき悪魔の怪腕へと変貌を遂げていたのである。


「思うに、それは猿ではなく悪魔の手だったのだ。そして正しく、貴様は俺にとって願いを叶えてくれる悪魔の手――ようやくだ。ようやく俺は、願いを叶える事が出来る」


 バルバラは上機嫌に口遊む。黒く歪な怪物の右腕を掲げ、狂気の笑みを浮かべながら。


「しかし、百鬼夜行の全てと厄災の獣を引き換えにして、ようやく腕一本とはな。これで等価だと言うのなら、人間の価値とは不平等極まりない――」


「――ォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」


 右腕を奪い取ったことで、今のバルバラは愉悦に浸り油断している――そう踏んだ芥川九十九はすぐさま思考を切り替え、間髪入れず駆け出していた。


 九十九の全身から黒い瘴気が溢れ出す。もはやこの期に及んで出し惜しむ余裕は無い。その全身を完全な悪魔の形態へと変貌させ、速攻で方を付ける。

 右腕の融解が異能によるものなら、本体を殺せば異能は解除され、右腕は取り戻せるはず。だから焦る必要は無い。戦いはまだ続いている――


「そう単純な話じゃないんだよ。俺が奪ったのは右腕だけじゃない、貴様という存在そのものだ」


 ――そうして、駆け出していたはずの九十九の動きが、不意にその場で止まる。

 そうせざるを得ない程の異変が、彼女の身に起こっていた。


 九十九の身を纏っていた黒い瘴気が晴れていく。本来ならその黒い闇の中から顕れるのは、全身を完全な悪魔の形態に変貌させた姿のはず――

 しかし其処から顕れたのは、悪魔の変身を左腕部分のみに留めた、中途半端な状態――いわゆる半人半魔の形態だったのだ。


 九十九は信じられない物を見るように、自分自身の黒い左腕を凝視する。全身の皮膚が黒く罅割れた、半人半魔の形態には変身出来たものの――それ以上の完全な怪物形態に、何故か変身出来ない。これもまた九十九にとって初めての経験だった。


「悪魔の如き怪物への変身能力、その右腕一本分のリソースを貴様は奪われた。もはや完全な状態での変身は不可能。その膂力も半減。半人半魔の姿がやっとと言ったところか」


 悠々と語るバルバラに対し、ならばと九十九は即座に次の行動に移る。悪魔の尻尾を槍のように尖らせ、放つ。尾槍はバルバラの頭へ目掛けて一直線、音にも迫る速度で向かっていき――


「『融解アブダクション』」


 しかしバルバラはそれを、右手で軽々と掴んでみせるのだった。


 九十九は無言ながらも驚愕で目を見開かせる。いつものバルバラなら、九十九の攻撃の速度に反応すら出来ず、呆気もなく貫かれていたはず――


「そして貴様はただ能力を失ったわけではない、奪われたのだ。その意味が解るか?」


 掴まれた尻尾はどろどろに融解されていく。尻尾の半分の長さが溶け出したところで、九十九は慌てて尻尾をバルバラから切り離すように振り回し、自分の元へ引っ込めた。

 奪われた尾はやはりバルバラと一体化していくように溶けて消えていき、そしてバルバラの臀部から新たに悪魔の尾が生えてくる。


「即ち――()()()()()()()()()()()()()()()


 そして、次の瞬間――バルバラの全身から、黒い瘴気が溢れ出していた。闇の如き黒煙に呑まれた彼女の肉体は、その内側で変貌を遂げていき――やがてそれは、闇の中から顕れる。

 全身の皮膚が黒く罅割れ、悪魔の尾槍と巨大な怪腕を携えた――半人半魔の姿と化したバルバラが、其処に立っていたのである。


 崩壊した周囲の空間は既に復元が始まっていた。割れた地面も崩れた壁も破れた天井も、ひとりでに塵が集まり徐々に形を成していく。


 そんな中、果たして向かい合う、二対の悪魔。

 右と左。弱者と強者。奪った者と奪われた者。


「(……悪魔わたしと、同じ事が出来る。つまり……同じ機能ちからが、使えるということ……か)」


 片や残された左腕、拳を固く握り締めて。大きく吸い込み、深く息を吐く。右腕を失った彼女はここにきて、冷静さまで失うことは無かった。その胸中で敵を分析し、その頭で次の一手を巡らせる。


「さて、ここからは一対一。貴様の残り全て、この手で奪い尽くしてやるぞ……幻葬王ォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!」


 片や奪い取った右腕、大きく振り翳して――咆哮。芥川九十九とはもはや対照的なまでに、その激情昂らせ、シスター・バルバラは次の瞬間駆け出していた。


 悪魔の一部を奪い取ったことで身体能力をも向上させたのか、バルバラの動きはこれまでの比ではない。最初の一歩で距離は半分詰まり、二歩目で伸ばした掌が届くほど肉薄する。

 そう、バルバラが繰り出した悪魔の右手は拳の形ではなく掌を広げた状態だった。黒い掌の表面は溶解が始まっており、まるで手汗のように雫を滴らせている。


 触れたものを溶かす異能の手、その巨大な掌が九十九の頭を鷲掴みにしようと迫る――


「ク、ハッ」


 しかし直後、漏れ出たのは嗤い声にも似た呻き声。バルバラの顔面は次の刹那、芥川九十九の拳をめり込ませ、殴り飛ばされていた。

 一度右腕を奪われたのだ、並の神経ならばこれ以上奪われないよう、触れられないよう距離を取ろうとするだろう。

 しかし芥川九十九、彼女は一歩前に踏み込んでいた。姿勢を低くしてバルバラの掌をすり抜け、カウンターの拳をバルバラの顔面に打ち込んだのである。


「……こちらから触れる分には、その異能は発動しないみたいだな」


 バルバラの顔に触れた自身の左手が溶けていないことを確かめ、九十九は静かに呟く。


「なら、問題ない」


 その口振りは九十九にしては珍しく、どこか挑発的だった。感情の見えない赤い瞳、涼し気な表情は、やはりシスター・バルバラの激情を煽るようで――


「ク、ク、ク、ハ、ハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!!!」


 殴り飛ばされ仰向けに倒れていたバルバラは狂気の笑みと共にすぐさま立ち上がり、再び駆け出した。

 迎え撃つ九十九、悪魔の尾を鞭のように撓らせる。それはまるで死神の鎌のように、バルバラの首を狙って死角から振るわれる。

 それをバルバラもまた自身の尾を振り回し弾き返す。その間もバルバラは前に足を踏み込み、掌を広げて迫る。


「ぐえっ」


 しかしバルバラは突如、後ろから首根っこを強引に引っ張られたように動きを止めた。バルバラが咄嗟に後ろを振り返ると、そこには自身の尾と九十九の尾が絡まり合っていて――次の瞬間、バルバラの身体は九十九の尾に引っ張られ、宙を浮く。


 そして直後、バルバラは地面に叩き付けられた。繰り返し何度も、のたうち回るように、九十九の尾に振り回され地面に激突する。その何度目かの激突時、バルバラの身体はとうとう液状化し、その肉片が周囲に激しく飛び散った。


 九十九はすぐさま飛び散った肉片の内の一つに駆け寄り、地面にこびり付いたそれへ目掛けて左の拳を振り下ろす。その一撃で肉片は地面ごと抉られ、擦り減り、塵も残さず消滅したのだった。


「(これを繰り返して、全部跡形も無く滅ぼせば……流石に死ぬはず……)」


 肉が欠片ほどでも残っていれば、溶け出した感情がそこから形を成して復活する『宇宙人』の異能――その攻略法の一つを、この時の九十九は直感的に理解していた。

 すぐに次の肉片を潰そうと顔を上げ動き出す九十九だったが――しかし。


「――理解した。この尾はそうやって使うんだな」


 まさに意趣返し。九十九の動きは、その左足首に巻き付いたバルバラの尾によって、強引に引き止められる。

 九十九が後ろを振り返ると、既にバルバラは肉片の一つから復活を遂げていた。密かに悪魔の尾を伸ばし、九十九の左足首を絡め取って――


「そして――『融解アブダクション』ッ!!」


 その直後、九十九は唐突にバランスを崩し、地面へ前のめりに倒れ込んでいた。

 融解の異能の発動条件、対象への能動的な接触は、なにも掌に限定しているわけではない。バルバラが自ら触れたと実感出来れば、それは尾であっても発動する。

 掌で触れる事に拘っているかのように振る舞い、発動条件を誤認させる――全てバルバラの思惑通り。


 斯くしてバルバラの尾に絡め取られていた左足は、その膝関節から下が融解した。自分の身に何が起きたのか瞬時に察した九十九は、すぐさま悪魔の翅を背中から生やし、バルバラから距離を取ろうとする――


「遅ォいッッ!!!!」


 しかし、悪魔の左脚を獲得したバルバラの俊足は、もはや今の九十九を上回っていた。

 全身から黒い瘴気を噴き出し、バルバラの肉体は再び変貌を遂げていく。左脚は黒い怪物の肉と成り、全身の黒い罅割れは更に拡がってその内側から怪物の黒い肌を覗かせる。

 より完全に近付いたバルバラは、一瞬で九十九との間合いを詰め――その後頭部を殴り飛ばしたのだった。


 吹き飛ばされた九十九の身体は、復元しかけていた猿夢列車の車体に背中から激突し、凄まじい衝撃音が響き渡る。

 崩れ落ちた九十九の肉体からは黒い瘴気が弱々しく排出され、全身を覆っていた黒い罅割れはバルバラとは対照的に少しずつ塞がっていた。


「けほっ……」


 車体を背に、片足でどうにか立ち上がる。砕けた地面から巻き上げた砂煙の中、九十九は顔を上げて――次の瞬間、目の前に飛び込んできたのは、悪魔の拳。


「クハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッ!!!」


 容赦の無い追撃。放たれたバルバラの拳は、悪魔の怪腕は猿夢列車をレールの上から軽々吹き飛ばし、宙へ打ち上げる。


 しかしその攻撃に九十九が巻き込まれることはなかった。九十九は悪魔の翅で咄嗟に飛翔、紙一重でバルバラの拳を躱していた。九十九はそのまま空を飛び、バルバラから距離を取る。


 それを見上げるバルバラの表情は――悪辣な笑みに歪んでいた。


「う、ッ……!?」


 然して空中を飛行していた九十九の動きが、またしても止まる。まるで見えない壁にぶつかったように、前を翔んでいた九十九は突如としてその場で身動きを封じられていた。


「人造怪異――『土蜘蛛』」


 それはまさに、見えない壁。九十九が空中でぶつかったのは、透明の蜘蛛の糸だった。

 天井の向こう側、闇の中に隠れて、鬼の顔をした蜘蛛の怪物は糸を張り、静かに潜んでいたのである。


「愚直にも俺の言葉を信じたのか? そうでなくとも切り札は最後まで取っておくものだろうが。いい加減油断が過ぎるんじゃないか? なァ、強者よ」


 無論、ただの蜘蛛の糸ではない。強靭なその網は九十九の全身に絡みついて離さない。

 もはや糸に掛かった蝶のように、九十九はその場で藻掻く事しか出来なかった。


「これで終わりだ――『融解アブダクション』ッ!!」


 そしてバルバラは悪魔の脚力で一気に跳躍し、九十九の頭上にまで迫る。その巨大な悪魔の掌が振り翳され、九十九の頭を鷲掴みに――


「っ、く、ォ、ォ、ォォォォオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!」


 ――鷲掴みにされる寸前、九十九は糸の隙間から悪魔の尾槍を突き出し、天井裏の土蜘蛛に目掛けて放っていた。その矛先は一直線、土蜘蛛の鬼面を貫く。

 土蜘蛛の消滅と同時、糸もまた強度を失い瓦解していく。全身に絡まる糸を無理矢理に引き千切り、九十九は無我夢中で身を捩った。


「……この期に及んで諦めの悪い事だ」


 地上に落下する九十九。間一髪、バルバラの手に頭を鷲掴みにされることは無かった――が、しかし。


「ぐ……ッ……」


 バルバラの手は、悪魔の鈎爪は、九十九の背中を抉り取っていた。更に『融解アブダクション』は発動し――九十九の背に生えていた悪魔の翅は両翼とも、その背中の皮膚ごと溶かされ、奪われたのだった。


 対して翅を奪い取ったバルバラ、その背に悪魔の両翼を生やし、ゆっくりと地上に下降する。全身から黒い瘴気が溢れ出し、灰色だった瞳は赤く変色して蝋燭のように燃え盛る。


「クハ……凄まじいなこれは。膂力ちからが漲ってくる。我が肉体ボディ部品インプラントとしては申し分無い。絵具にするのが些か惜しい程だ」


 悪魔の瘴気に包まれながら、愉悦の表情を浮かべるバルバラ。その目は最早、獲物を前に舌舐めずりをする獣のそれだった。


「少し遊んでやろう。鬼ごっこだ。今から十秒、追いかける俺の手から最後まで逃れる事が出来れば、この身体を返してやるぞ――」


「っ、ォ、ォォォォオオオオオオオオッ!!」


 すっかり油断し切ったような態度――それが罠だと解っていても、今の九十九にはそこに飛び込む以外の選択肢は無かった。

 九十九は悪魔の尻尾をバネにして勢いよくその場から飛び上がり、残った片足で地面を蹴って前に跳ぶ。バルバラと一気に距離を詰めて、その左腕に渾身の力を込め振りかぶる。


「無論冗談だ。こうやって煽れば立ち向かってくるだろう。貴様は強者なのだから」


 そして九十九がそう来ることを読んでいたバルバラは、既に迎え撃つ体勢を取っていた。左足を軸にして身体を捻り、右腕を構える。


「その矜持プライド――真っ向から圧し折ってやる」


 バルバラの掲げる悪魔の怪腕、その筋肉は更に大きく歪に迫り上がっていく。黒い瘴気は止め処なく溢れ出し、頭蓋を突き破り現れた黒山羊の角。

 やがて全身の肌が殻を割るように剥がれ落ち――バルバラは完全な黒い魔人の容貌へと変化した。


 半人半魔の形態としては最大出力の、全力の一撃がバルバラの右腕から放たれる。稲妻のような黒い閃光が迸り――そして。九十九の拳はバルバラに触れることすら叶わず、先にバルバラの一撃が九十九の顔面に直撃した。

 落雷の如き轟音が空間中に震動して――九十九は為す術もなく、殴り飛ばされたのだった。


「……成る程、これが強者の景色か。まったく吐き気を催す程の快楽だ。確かにこれは、どいつもこいつも病みつきになるだろうよ」


 吹き飛ばされ、激突した壁にそのまま凭れ掛かる九十九。全身傷だらけの悲痛な有り様となった彼女を、勝ち誇ったように見下ろすバルバラ。

 その全身を悪魔の黒一色に染め上げたバルバラは、未だ漲る膂力を抑えることなく、黒い瘴気を身体の端々から溢れ出している。


「大丈夫だ、たとえ溶かされ原型を失っても意識は残る。俺とざり合っている間は痛みも何も感じない、眠っているようなものだ。だから安心して、俺の中で生き続けろ」


 彼女は最早決着はついたと言わんばかりに、その手を九十九の頭頂部に向けてゆっくり、焦らすように伸ばしていく。


 事実、その決着は火を見るよりも明らかだった。壁に凭れて座り込んだ九十九は俯いたまま微動だにもしない。右腕と左脚、翼すらも失って、まともに戦える状態ではない。


 対するバルバラは五体満足。その上奪い取った悪魔の機能を、今となっては芥川九十九以上の出力で、万全に使える状態である――


「…………そろそろか」


 そう、決着は既についている。戦いは終わったのだ。


「げほっ」


 それを物語るように――シスター・バルバラは突如、()()()()()()()()()()


「……あ? 何だ、これは……」


 自分の口から飛び出たその赤い液体を、地面に落ちたそれをバルバラは不思議そうに見つめる。

 まるでそれを初めて見たかのような無垢の眼差しで、自分の血をまじまじと眺めていたバルバラは――次の瞬間。


「……ッ、ん……あ……? ぐ……なッ……!? が……ッ……ァ、ァァアアァアアアアアアアあああああああああああッ!?」


 虚を突かれたような無の表情を一気に苦悶へと歪ませ、その場に膝から崩れ落ちたのだった。


「あ!? あッ!? 痛い!? 痛い、痛い痛い痛い痛い痛いッ!!! 何ッ!? 一体ッ、何故ッ、何だッ、これはァァァァァアアアアアアアアアアアアアッ!!?」


 その口から溢れ出したのは痛みに悶える絶叫だけではない。夥しい量の血と黒煙が嘔吐するように吐き出されていった。やがて身体の奥底から燃え上がるように、激痛が広がっていく。最早正気ではいられない程の痛みが全身を這い回り、バルバラはその場でのた打ち回っていた。


 考える理性も放棄して、虚空に向かって何故と唱え続けるしか出来なくなった彼女の醜態を――


「何故って、当たり前だろ。悪魔の機能ちからを、使ったんだから」


 ――今度は、芥川九十九が見下ろす。


 崩れかけた壁を背に、九十九は片足だけで器用に立ち上がる。その凪いだような赤い瞳は、地面を掻き毟り這いつくばるバルバラに冷ややかな眼差しを向けていた。


「それが悪魔の代償だ。出力を上げれば上げるほど、その反動も大きくなる。痛いだろ、肉体が内側から壊れていくのは」


 そう。最初に右腕を奪われたあの時から、九十九はずっと冷静だった。その胸中で敵を分析し、その頭で次の一手を巡らせて――そうして辿り着いた、一つの可能性。


 バルバラの異能は、ただ単に肉体を溶かすだけの代物ではない。融解して誘拐する異能、『融解アブダクション』が奪うのは存在そのもの。事実、悪魔の一部を融解したバルバラは、それを取り込むことで悪魔と同じ機能を使う事が出来た。

 つまり今のバルバラは悪魔とざり合った状態。それがただの模倣では無いと言うのなら、力を行使すれば代償を支払う必要があるはず――全て芥川九十九の思惑通り。


「私だって、この力を制御出来るようになるまで百年掛かったんだ。それをついさっき手に入れたばかりのお前が、制御どころかその痛みを我慢なんて出来るはずが無いよな」


 九十九はここまで紙一重の戦いを演出し、バルバラに悪魔の機能を多用させた。その術中に嵌り、出力を際限なく上昇させたバルバラは、それに見合った代償を支払わなければならなくなった。


「(悪魔の代償だと!? 確かに悪魔の異能は発動条件とは別に代償を支払う必要がある、悪魔とはそういう怪異だ、俺も当然それは解っていたッ!! だが俺が使ったのは機能だ、異能ではないッ!! なのに代償!? 機能を使っただけで!? ぼったくりだろそれはッ!!! 大体こいつの異能は何だ!? 俺はこいつの異能を取り込んだ、俺にも悪魔の異能が使えるはずだ――なのに何故使えないッ!? そもそも怪異は自分の異能を直感的に理解出来るはずッ、なのにこいつの異能の正体が未だに解らないのは何故なんだッ!? 何故、何故、何故――――!)」


 その結果が、ご覧の有様である。


 痛みに苛まれるバルバラの脳内は乱れた思考が絶え間なく駆け巡っていた。バルバラの全身から噴き出していた黒い瘴気は次第に勢いを衰えさせ、相対的に黒かった彼女の肌は剥がれ落ち元の白い肌へと変わり始める。

 悪魔化した腕も脚も、次第に痩せ細っていく。そうなると徐々に意識まで遠のき始め――バルバラは咄嗟に自分の頭を掻き毟った。茶色の頭髪が自分の血で濡れていく。


 その別の痛みによる意識の覚醒が閃きを生んだのか、バルバラは瞳孔の開き切ったその目で九十九を見上げ、獣のように四つん這いのまま牙を剥いた。


「――……く、ク、ハ、はハ、ハハはハッッ!! だがッ!! 俺は、身体を、溶かして……痛みすら、溶かして……無かった事に、出来る……ッ!! 無駄な足掻き、だったなァ……!!」


 痛みで感情が掻き乱される中で、バルバラはどうにか怒りを振り絞り、異能を発動する。

 異能による感情の熱が肉体をどろどろに溶かし始め、肉の海と化した黒い水面の底から、再び形を成したバルバラが這い出てくる――


「……が、あ、ァ!? 何ッ!? 何故ッ!? 痛いのが消えないッ、痛いのが溶けないッ!? 何でッ!!? 何でだよォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオッッ!!!」


 ――が、駄目。自分の肉体を造り直しても、感覚を造り直しても、その痛みが消えることは無かった。そればかりか抵抗するバルバラへ罰を与えるように、痛みの鋭さは更に強くなる一方で、その体内では内臓が破裂し骨は砕けていく。


「悪魔の契約は等価交換……踏み倒せるはずが無いだろ。使った分はちゃんと、支払わなきゃ」


 半ば溶けかかった自身の肉溜りで溺れるバルバラの有り様を、見下ろす九十九の赤い瞳は感情のさざ波ひとつ立っていない。その冷徹な眼差しは、まさに悪魔そのもので。


「強者は力に驕り高ぶるが、弱者は力に溺れ破滅する。身の程を弁えるのは、お前のほうだったな」


 ここにきてバルバラは、ようやく悟っていた。この戦いの決着を――自身の敗北を。


「ふざ、けるな…………こんな……こんな……こんな事がッ…………このまま、では…………ッ」


 バルバラの表情が瞬く間に青ざめていく。俯せに倒れ込んでいた彼女は、そのまま這いつくばったまま必死に身体を引きずって、九十九から距離を取ろうとしていた。


 一方で、九十九のほうからバルバラを追いかけようとする事は無かった。最早その必要も無い。


「そう……今のお前なら理解出来るはずだ。そのままだとお前は死ぬ。正真正銘、本物の死だ。もう二度と目を覚ますことは無い」


 九十九には解っていた。今バルバラの中で蠢いている、痛み以上の恐怖。悪魔の代償、その最悪の末路――本物の死が、バルバラに迫っているのだという事を。


「今すぐ悪魔わたしを切り離せ。そうすれば助かるはずだ」


 バルバラに残された手は、最早それしか無かった。悪魔の代償を前に、融解は何の意味も為さない。ここで奪った悪魔の一部を全て手放せば、少なくとも命は助かる。


「っ…………ク、クク……」


 それは彼女自身、よく解っていた。しかし。


「ク、ハハ……莫迦め。ようやく……ようやく手に入れた材料を……手放すだと? 抜かせ……この俺が、今更……そんな事、出来るはずが無いだろう……そんな事が出来たなら、俺はこう成っていない……死んでも離すかよォ……」


 あの、シスター・バルバラが。情熱に生き、情熱に死んだ、執念の芸術家が。


 たとえ死ぬと解っていても――()()()()()()()()()()()()を、こんな道半ばで諦め切れるはずが無かったのである。


「……本当に死ぬぞ」


「俺は……絵を描くために、生きている……絵が描けない、なら……死んだほうが、マシだ……!!」


 血と共に吐き出した言葉で大地を濡らしながら、バルバラは懸命に這い続ける。彼女が目指す前方、その遙か先に――芥川九十九は、一枚の画板を見つけた。


 九十九たちが暴れ回り、空間中の何もかもが崩壊したにも拘らず、その画板は奇妙なことに傷一つ付いていない。恐らくは何らかの異能が関わった特殊な材質で出来ているのだろう。

 地面に倒れたその巨大な画板、描かれた緋色の絵を目指して、バルバラは必死に手を伸ばす。


「待って、いろ……俺は、貴様を……溶かして、ぜて、絵具にする……貴様の黒で、俺の絵は完成するのだ……妥協はしない……俺はもう、間違えない……必ず……約束、を……」


 しかし目指す先はあまりに遠く、その手が届くことは無い。バルバラの動きは徐々に鈍っていき、その意識は次第に遠のき始める。

 やがて視界は、帳が降りたように暗く、黒く覆われていき――目指していたはずの絵は、もう見えない。冷えて固まった指先は、筆を執ることさえ出来なくなって――――


「…………嗚呼、すまない。すまない、我が同胞達。すまない…………我が麗しの羅刹王よ。俺は…………貴様等との約束を…………違えて、しまっ…………――――」


 この戦いの決着は、斯様な結末と相成ったのである。

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