焦熱地獄 4
「…………愛…………?」
譫言のように、その名を呼び続ける。けれどやはり、返事は無い。九十九がどこを見渡しても、その空間の中に黄昏愛の姿を見つけることは出来なかった。
「侵入者は二人組のはずだ。何故貴様しか居ない。もう一匹はどこに居る」
目の前に立ち口を開くシスター・バルバラのことなど今の九十九にはまるで眼中に無かった。血の気が引いていくような感覚に、意識が漠然としていく。視界が覚束なくない。全ての感覚が希薄となり、もう何も考えられなかった。
「使いの者を寄越したはずだ。……まさか途中で逃げ帰ったか? 手間を掛けさせる……それで貴様はどちらだ? 鵺か? 悪魔か? どんな異能を持っている? 俺に見せてみろ――」
鋼鉄の腕が躊躇いもなく伸びてくる。その指が九十九の眼前にまで迫ってきて――九十九はそれを殆ど無意識に払い除けていた。バルバラはそれに反応すら出来ず、事態を把握した時にはもう既に――
「愛をどこにやった」
目前にまで迫ってきていた芥川九十九の拳を顔面で受け止めて、そのまま遥か後方まで殴り飛ばされていたのだった。
バルバラは地面を何度ものた打ち回り、その度に肉が裂け血が噴き出す。転がり続けるその体がようやく止まった頃には、バルバラは全身を血に染めていた。殴られた顔は大きく凹み、歯は砕け、折れた鼻から血が延々と流れ落ちている。
血溜まりの中を仰向けに倒れるバルバラ、その傍へ一歩ずつ近付いていく芥川九十九の表情は――誰の目に見ても明らかなほど、殺意に満ちていた。黒い感情に塗り潰された虚無の表情、そこに浮かび上がる瞳孔は血に餓えた獣のようにただ一点、獲物だけを見据えている。
「次は本気で殴る。吐け。愛をどこにやった。ちりのこともだ。これ以上私を怒らせるな」
バルバラを見下ろせる距離まで接近した九十九はそのまましゃがみ込んで、血だらけで倒れるその顔を覗き込んだ。そうして囁くように漏らしたその声は、やはりその胸の内を察するに余りあるほど憎しみの籠もった音色であった。
しかしそれを受けたバルバラは微動だにもしない。白目を剥いたまま、血だらけの顔を硬直させている。気を失っているのか、それとも何か企んでいるのか。
九十九は容赦なくバルバラの胸ぐらを掴み、その頭を激しく揺らす。頭が揺れる度にそこに突き刺さった巨大な螺子が地面に激突し鈍い音を鳴らしている。
「死んだふりをしても無駄だ。さっさと吐け。おい……」
何度揺さぶっても反応が返ってこない。九十九は訝しげに眉を顰める。試しに軽くバルバラの頬を叩いてみせたが、やはり反応が無い。たとえ気を失っていようと、人間の体は衝撃に対して必ず反応を示す。それがバルバラには感じられなかった。その首は全く力が入っておらず、支えの無い頭はだらりと地に落ちている――
「…………えっ。ちょっ……待て、こいつ……まさか…………」
芥川九十九は死に敏感な怪異だ。その直感は他者に対しても有効で、目の前の相手はどの程度の力を加えれば壊れるか、芥川九十九はその見極めに秀でている。
そしてそれはバルバラに対しても同様で、九十九は彼女を本気で殴ってはいなかった。あの瞬間怒りに燃えていながら、それでも目の前の相手が貴重な情報源であることを重々承知していた九十九は、あくまで軽く、死ぬほど痛いが死なない程度の力加減で拳を振るった。そのはずだ――
「…………死んでる…………!?」
だから、そんな彼女がうっかり見誤る程度には――シスター・バルバラという怪異は、想像を絶するほど弱かったのだ。
「おいふざけるな……! たった一発、軽く殴られたくらいで……簡単に死ぬなよ! おいッ!?」
あれほど大幹部だの獄卒だのと持ち上げられておいて、死んだ。呆気もなく。呼吸もしていない、心臓も止まっている、そんな正真正銘ただの屍と化したバルバラを前に、九十九は思わず狼狽し切った声を漏らす。
その肩を持ち上げ上半身を起こし、何度も何度も強く揺さぶるが、やはり何の反応も返ってこない。何より直に触れている九十九自身がそれを直感していた。完全に死んでいる。貴重な情報源が、こんなにあっさり――
「くそっ……!」
不死の怪異とは言え、完全な死からの自然蘇生には時間が掛かる。この場に黄昏愛がいれば、彼女の異能で無理矢理に蘇生させることも出来た。しかしそれも今は叶わない。
損傷しているのが頭部のみだったのは不幸中の幸いだった。外傷が少なければ少ないほど蘇生も早まる。それでもこの傷なら完全に治るまで数日は掛かるだろう。意識の覚醒ともなればそれ以上待たされる可能性もある。
この一大事に数日以上の足止めを食らうのは致命的だ。それが解っているからこそ、九十九の感じる焦燥は尋常ではなかった。その苛立ちをぶつけるように、バルバラの屍体を乱暴に放り捨てる。
「どうすればいい……どうすれば……っ」
九十九はその場から立ち上がり、じっとしていられないと言わんばかり、バルバラの屍体から背を向けウロウロと歩き始めていた。その迷ったような足取りからも彼女の動揺が窺える。
「……こういう時、ちりなら……」
こういう時、九十九が真っ先に思い浮かべるのは一ノ瀬ちりの顔だった。九十九にとって一ノ瀬ちりは冷静沈着の代名詞。長い付き合いでその行動パターンもある程度推測できる。その行動を、その言葉を想像するだけで、九十九の心は平静を取り戻せる。
信頼している者の顔を思い浮かべながら――吸って、吐いて、ゆっくり呼吸を整える。少し冷えた頭で、小刻みに震えるその瞳で、九十九は周辺を見渡し始めた。
規模の大きな空間だが、その構造は極めて普遍的な駅のプラットホームだ。特筆すべきは九十九とバルバラを除けば無人であるということ、扉やエスカレーターのような他の場所へ移動する為の物が列車以外に見当たらないということ。
そして猿夢列車が停まっている線路が遥か遠くの暗闇にまで続いていること、奥の壁に巨大な画板が立てかけられていること。その四つ。
前提として此処は列車乗り場だ。ならば今停まっているこの列車に乗れば、恐らく次の階層に行けるのだろう。それはいい。問題は黄昏愛が今どこに居るのか。
轆轤首に導かれたあの扉を通り抜ける直前まで、愛は間違いなく九十九の背後に居た。九十九が先に通ってすぐ、愛もそれに続いたはずだ。愛があの場所に一人残る理由が無い。
あの場所に残らなければならない理由があるとすれば――九十九が先に扉を通った後、愛の身に何かが起きたのだ。それは敵による襲撃か、何らかの罠が作動したのか――
「……愛なら、きっと大丈夫。問題は、ここから私がどう動くべきか……だな」
黄昏愛、彼女の戦闘力の高さはよく知るところである。彼女が窮地に陥る状況は想像することさえ難しい。ならば今心配するべきなのは何よりもまず自分自身のことだろう。つまり、黄昏愛との合流を目指すのか、それとも一人で先を目指すのか――その進退を今、芥川九十九は問われている。
「此処に在るのは列車だけ。他の部屋に移れそうな扉の類いは見当たらない。引き返すことは恐らく出来ない……なら、愛が来るのを信じて此処で待つべきか。それとも、一人で先に第七階層へ進むか……」
思考を整理して気持ちを落ち着けるため、思ったことをそのまま言葉にしていく。言葉にすると状況を正しく認識出来る。
やはりどう考えても、あの愛が敵に延々と足止めを食らい、あまつさえ負けるような姿を九十九には想像できなかった。なら一人で先に進むより、愛との合流を待ったほうが無難だろう。下手に動けば入れ違いになったり、最悪自分まで罠に嵌りかねない。一刻も早く先に進みたい気持ちはあるが、此処は一旦堪えるべきだ。
「……決めた。此処で愛のことを待つ。どのみちバルバラに話を聞くなら、その蘇生を待つ必要だってあるし……――」
すっかり冷静さを取り戻した九十九は、再びその視線を地面に横たわるバルバラの屍体へと向けた。
やはり死んでいる。どうやら愛のように高速で肉体を再生出来るような類いの異能は持ち合わせていないらしい。怪異特有の自然治癒が働いている様子は未だ見受けられない。
それどころか、バルバラの肉体は徐々に崩れていた。
「――……は?」
肉が、骨が、ひとりでにほろほろと崩れ、その原型を失っていく。崩れる肉体は血と混じり合い、溶け出して、ヘドロのような真っ黒い液体へと変貌を遂げていった。
それはまるで腐敗が早送りで進んでいくような、あまりにも奇怪な光景だった。腐り落ち、溶解していくバルバラの肉体は、九十九の目の前で瞬く間に液状の何かへと変わっていったのである。
有り得ない現象だ。形状記憶のように不死性を保つ怪異の肉体が自然に腐ることはない。しかもこの速度で、液状になるまで溶解していくなんて、およそ普通ではなかった。
バルバラの肉体だったものが溶け出した真っ黒い液体が、地面を侵すマグマのように広がっていく。よく観察するとそれはグツグツと煮え滾る程の高熱を伴っていて、酷い悪臭が空気を焼きながら漂ってきていた。
九十九がバルバラの屍体から暫く距離を取っていたのは幸運だった。九十九の足がその得体の知れない黒い液体の侵略に巻き込まれることは無かった。九十九は咄嗟に今居る場所からも飛び退き、マグマの如き液体から更に距離を取る。
円を描くように波紋していき、大きな水溜りのようになった黒い沼。人間だった面影すら最早無くなったそれを前に、九十九は完全に言葉を失っていた。
果たして、この黒い沼は一体何なのか。この謎の液体に対して、自分はどんなアクションを取るのが正解なのか。それは百戦錬磨を誇る芥川九十九が対処法に困るほどの未知。前例の無い現象。とにかく今は、それから距離を取って様子を窺う事に徹する他なかった。
すると、そんな慎重を徹する九十九に対して、まるで業を煮やしたように――突如として、黒い沼は蠢き始める。ぼこぼこと泡立つ水面から、何かが浮上してくる。迫り上がったきたそれは徐々に液体から固体へと移ろい、その形も変化していく。やがてそれは明確にヒトガタへと変わっていったのである。
それはまるで蝋人形のようだった。身体が溶けたヒトガタのそれは、三体。黒い沼から這い上がるようにして、その姿を現した。
「――『融解』。俺はこの能力をそう呼んでいる」
その内の一体が、産声を上げる。蝋人形は固形化が進んでいくにつれ、人間本来の頭髪や皮膚のような物が形作られていく。最初に声を上げたその一体は、黒い髪に黒い肌、青い瞳を輝かせた、黒い修道服の女の姿と成った。その四肢と脊柱、肩甲骨が鋼鉄に似た何らかの金属に挿げ替わっている。
「最初に言っておく。俺は弱い。拷问教會の中でも当然最弱。あのヒョロガリの第二席にさえ、殴り合いの喧嘩で勝つことが出来ない程の体たらく。貴様がこれまで戦ってきた怪異の中でも、俺という存在は間違いなく最弱として永遠にその名を刻むことになるだろうな」
続いて、もう一体の蝋人形が口を開く。その蝋人形は先程声を上げた黒い女と全く同じ声色で、しかしその見た目は黒い女のそれと真逆であった。白い髪に白い肌、白い瞳を曇らせた、白衣の女。レンズの割れた眼鏡を掛け、その向こう側からじとりとした視線を覗かせてくる。
「だからこそだ。俺は弱者だからこそ、強者のように手段を選び、勝ち方に拘り、驕り高ぶることは無い。俺は努力家だ、今日の為の準備は怠らなかった。貴様はこれから、最弱こそが最も恐ろしいのだと思い知ることになるだろう」
交互に口を開く白と黒、その背後で蠢く最後の一体の蝋人形は――その髪を、肌を、瞳を、全身を真っ赤に染めた、赤い女の姿を成した。まるで血の池に飛び込んだかのような血塗れのその女は一言も発さず、顔も俯いたまま立ち上がり、両手をだらしなくぶら下げている。その手の中には一本の巨大な螺子が握られていた。
「さて、これから貴様は俺の物になるわけだが……しかし、対話が出来る状態で会う材料は久し振りだ。良いだろう、口を利く事を許す。貴様にとっては遺言になる。慎重に言葉を選べよ」
芥川九十九は身構える。警戒を強めるように拳を握り、赤い瞳をぎらつかせる。目の前の現象が、その三体の蝋人形がシスター・バルバラの何らかの能力に依るものだと言うことは今更疑うまでもなく明白であった。ここにきて九十九に戸惑いは無い。
だが――それはそれとして、拭い切れない奇妙な違和感をシスター・バルバラから察知していた。芥川九十九は死に敏感だ。例えばかつて『くねくね』を前にした時のように、安易に突っ込めば死に至る確信――そんな危険信号を、九十九は今この瞬間、微弱ながらも感じ取っていた。
それが九十九を踏み留まらせた。自身と最弱と評するその怪異に、九十九は全く油断していなかった。その証左に、九十九の身体もまた徐々に変貌を遂げていく。ぱきぱきと音と立てながら皮膚が割れ、悪魔の黒い筋肉を覗かせる。頭蓋から角が飛び出し、悪魔の尾が生えてくる――完全な戦闘態勢。
「お前は、何なんだ」
それでも、口を衝いて出たのがそんな言葉だった。あの芥川九十九が問わずにはいられない程の違和感、目の前の怪異にはそれがある。
九十九に問いかけに対し、黒い沼の中に佇む三体の蝋人形、黒と白と赤、その全てが一斉に目を見開かせた。その内の一体、黒い女が一歩前に出る。眉間に青筋を立てながら、矯正器具の付けた牙を剥き出した。
「言葉は慎重に選べと言ったはずだ。そんな事を訊いてどうする――」
唸りながら一歩、また一歩と歩みを進め、やがて黒い女は沼の中から抜け出した。黒い女は唇を微かに震わせながら、奇怪で機械なその右手を前方に向け、九十九を指差す。
「――と、いつもの俺なら怒りに我を忘れていたところだが。幸運だったな。今日の俺は機嫌が良い。教えてやろう」
見ると黒い女が纏う修道服はその胸元が一部焼け焦げ、銃創のような風穴を空けていた。それに蓋をするように、女は差し出した右手を今度は自分の胸元に置く。ともすれば、どこか自嘲気味に。何もかもを見下したような眼差しで。
「我々は宇宙人だ」
息をするように悪辣を口にするその傲慢、他者を羨み恨み病むその嫉妬、相互理解を諦めたその怠惰、目的の為なら手段を問わないその強欲、成長の糧となるなら皿まで貪り喰らうその暴食、全てを憎んだその憤怒、全てを愛したその色欲。およそ地獄のあらゆる大罪を重ねた、誰よりも人間らしいその生き物。
拷问教會第三席、シスター・バルバラ。
生前においてはヴィンセント・ヴァン・ゴッホの名で通っていた彼女は今、宇宙人の怪異としてこの地獄に顕現している。