焦熱地獄 3
「うぇ……」
彼女達が通った後に、屍体の山が築かれていく。しかし傷付いた屍体から滴るその赤は血のそれではなく、油性の絵具であった。事実それら人造怪異を構成する成分はその殆どが絵具や墨で出来ていて、醸す死臭は肉のそれではなく、どこか薬品のような香りをしている。
「これ、変な味がします……」
そしてそんな物を文字通り拾い喰いした黄昏愛は、それを口の中に放り込んだ直後に苦々しい表情を浮かべていた。
「なんでも拾って口に入れちゃ駄目だよ。ぺってしなさい、ぺって」
口の端から垂れ落ちる墨汁のような黒い液体をセーラー服の袖で拭う彼女に対し、芥川九十九は呆れた様子で横から口を挟む。それを受けた愛は「う~」などと唸りながら口の中の絵具を唾と共に地面へ吐き出すのだった。
さて――彼女達は駅を出てからと言うものの、ただ只管に直進していた。その道中、周りには人造怪異の他には特別何もなく、焼け爛れたような黒い荒野のみがただ広がっていて。それでも彼女達は愚直な程に真っ直ぐ、相応の時間を掛けて前に進み続けていた。
それは無論、ただ闇雲に突き進んでいたという訳では無い。異能で強化改造された黄昏愛の視力は、遥か遠くに佇むそれを間違いなく捉えていた。彼女達は其処へ向かっていたのである。
「これって……?」
やがて其処へ辿り着いた彼女達は、それを前にして歩みを止める。それは魑魅魍魎の犇めく灼熱地獄において何よりも異質だった。
「……地下鉄、でしょうか。地獄では初めて見るタイプの駅ですね」
それは地下へと続く階段――地下鉄のそれであった。其処の大地だけが丸ごと削り取られ舗装され、その上に看板付きの屋根が建てられている。看板の文字は掠れていておよそ識別出来ないが、どうやら駅であることは間違い無さそうである。
「これが、駅? もう駅に着いちゃったの?」
「……着いちゃったみたいですね。でも他に建築物も見当たりませんし、人影も無い……」
愛と九十九は階段の底へ恐る恐る顔を覗き込ませる。どうやら階段は地下深くまで伸びており、その先で何が待ち構えているのか地上からでは見通すことが出来ないほど深く、暗い。
「ちりさんが囚われているとしたら、この下か……あるいはもう既に、第七階層まで運び込まれてしまった後なのかもしれません」
シスター・カタリナは「次の階層、焦熱地獄で待っている」とは言っていたものの「第六階層で待っている」とは言っていない。八大地獄における焦熱地獄とは、第六階層と第七階層を一括りにした総称としても用いられる。既に第七階層まで運び込まれた可能性は大いにある。
そもそもカタリナが本当のことを言っている保証すら無いわけで――愛達は現状、自分達に今出来ることを地道にやっていくしかなかった。
「そっか。それじゃあ……降りてみようか」
「はい」
密かに背後へ迫ってきていた猫又の怪異、その顔面を裏拳で即座に叩き潰しながら――芥川九十九は自ら先頭を切り、地下に続く階段へその一歩を踏み出す。
殿を務める黄昏愛は最後、振り向きざまに蜘蛛の糸で編んだ網を両手首から放出。群がる人造怪異を絡め取りその侵攻を喰い止めた後、悠々とスカート翻し九十九の後を追うのであった。
◆
慎重に一段ずつ、確実に踏み締めていく。光射さぬ地下は降りていく程に闇が色濃くなっていく。まるで深海の奥底へ沈んでいくようだった。階段を降りながら、愛は僅かに首を傾け後方を確認する。どうやら人造怪異は追ってきてはいない。足止めしたとは言え、あれだけの数。一匹も追いかけてこないというのは些か奇妙である。
今や遠く離れた地上の空を訝しげに睨み付けてから、愛は前方へ視線を戻す――と、先頭を進んでいた九十九は既に愛より先に階段を降り切っていた。その背中を追いかけるように愛もまた駆け降りる。
存外にも地下へ続く階段はそれほど深くは無く、降り切った先では狭い通路が続いていた。左右を土壁に覆われた、殆ど洞窟のようなその通路を、愛と九十九は一列に並んで進んでいく。
そうして、暗闇の通路を真っ直ぐに進み切った最奥で、彼女達を待ち受けていたものは――赤く錆び付いた水密扉であった。通常は船舶など浸水が想定される場所に水害対策として備え付けられる物であり、普通の扉よりも水密性が高く頑丈な造りになっている。ドアノブのような取っ手は見当たらず、代わりにその扉の中央部分には舵のような形状の大きいハンドルが付いている。
「…………」
それを前にした九十九、無言のまま首を傾け、後方の愛に視線を送る。それを受けた愛もまた視線で応じてみせた。静かにその両手を怪物のそれへと変化させ、臨戦態勢。
九十九は目の前のハンドルを慎重に両手で握り締める。そのハンドルは焦熱地獄に在る物とは思えないほど、悍ましいほどに冷たかった。そのまま舵を切るように、九十九は握り締めたハンドルを時計回りに動かし始める。
ハンドルがずりずりと音を立てて動く度、扉は大きく軋み、赤錆がぱらぱらと剥がれ落ちていく。それでも構わずハンドルを捻っていくと、固く締められていたそれは次第に緩くなっていき、扉の端々から空気の抜けるような音が微かに聞こえてきた。
手応えを感じた九十九は、ハンドルをぐっと前に押し込む。すると扉はゆっくりと前へ押し倒されるように動いていって――
「…………これは」
開け放たれたその先の景色に、彼女達は目を丸くしていた。
彼女達は確かに階段を降りて、地下空間に向かったはず。けれどその空間は、見渡す限り天井が無く、地面すら無かった。そこには、ただ只管に広大で、膨大な――宇宙が広がっていたのである。
ただ薄暗い空間が漠然と広がる、上下左右どこを見渡しても果てが無い、正しく宇宙。そう呼ぶ他無い、異常な拡がりのある空間。其処には様々な形状の扉が、まるで星々のように無数に宙を浮かんでいた。扉の形に統一性は無いが、しかし全ての扉には唯一の共通点として、大きな人間の目が一つ。その単眼は一斉にギョロリと瞳を走らせ、この空間に侵入してきた愛達を睨み付けている。
地面すら無いと先述した通り、其処には地面の代わりとなる足場――鉄道の線路が、まるで蜘蛛の巣のように縦横無尽、空中に張り巡らされていた。幾重にも枝分かれしている線路は、ともすれば階段や梯子のように、宙を浮く扉の前にまで伸びている。
「私、普通の地下鉄を見たこと無いけど……たぶん、普通じゃないよね? これ」
「……異常ですね。これは……異能で空間が拡張されている……?」
九十九は辺りの様子を窺いつつ、赤錆の扉を出てすぐ足元にあった線路の上に飛び移った。続いて愛もまた彼女の左隣に並び立つ。赤錆の扉は二人が離れた途端、ひとりでにゆっくりと閉ざされていった。
「……どうしたものですかね」
彼女達の目の前に広がる、無限の空間と無数の扉。いくら見上げても果ての見えないその光景は軽く目眩を覚える程に途方もない。扉に付いた無数の瞳から向けられる夥しい数の視線を彼女達は一身に浴びていた。
「まさか……正解の扉は一つだけ、とか……?」
「……なかなか骨が折れそうですね。そもそも何なんでしょう、この空間。最初は駅に通じているのかと思いましたが――」
「駅ですよぉ~?」
戸惑う二人の会話の中、不意に差し込まれた――知らない声。それは九十九が立つ右隣から、はっきりと聞こえてきた。
「正確にはぁ~元々は駅だったものを改築した次元間ポータルでございますねぇ~」
二人が反射的に声のした方へ目を走らせると――そこには、長い首を蛇のように弛わせる、女の顔が宙に浮かんでいた。
いつから、そしてどこからやってきたのか。長いその首を幾重にも宙に張り巡らせて――黒い丸髷をした白い顔のそれは、地上で見かけた人造怪異の群れと同じ、浮世絵がそのまま現実世界に具現化したような、文字通りの異彩を放つ存在感をしていて。
愛達には一目見てそれが、人造怪異――つまり、自分達の敵であると認識出来た。
「初めましてぇ~人造怪異の轆轤首と申しますぅ~ここから先は私めがご案内させていただき――」
轆轤首が喋り終えるよりも疾く――九十九はその首を右手で掴み掛かっていた。
「ちりはどこだ」
九十九に表情は無い。地獄に燃える業火のような灼光を、瞳の中に滲ませて。ただ一言、低い音を冷たい息と共に口から漏らす。まるで豹変したような殺意の顕れ。愛のおかげで冷静さを取り戻したとは言え、その怒りが消えたわけではなかった。
「ぎっ、げごっ――う、く、苦しいですぅ~~助けてくださいぃ~~私は喋れる事だけが取り柄の人畜無害な人造怪異でございますぅ~~」
首を締められた轆轤首は顔色こそ変わらないものの、その頭を酷く痙攣させ、首をじたばたと蠢動させている。
「ちりはどこだ」
対する九十九、無駄な問答をするつもりは無いと言わんばかりに復唱。首が圧し折れない程度の力加減を意識しつつ、指の力を徐々に強めていく。
「――う、ぐ、か、勘弁してくださいぃ~~私はただ命令された通りに動いているだけでしてぇ~~何も存じ上げませぬぅ~~」
「誰に何を命令された」
「ば、バルバラ様ですぅ~~私の使命はバルバラ様のお部屋に皆さまをご案内することでしてぇ~~バルバラ様がお部屋で皆さまのことをお待ちでございますぅ~~」
バルバラという初めて聞く名、そしてその何者かが自分達を誘導しようとしているらしい事に、愛と九十九は二人揃って訝しげに眉を顰めた。
「バルバラ? そんな奴の事なんか知らないしどうでもいい。私達はちりを探している。知らないならお前に用は無い」
「そ、そのちりという物が何かは存じ上げませぬがぁ~~バルバラ様ならきっとご存知のはずですぅ~~」
駘蕩とした口調の中、微かに苦しげな声色を滲ませる轆轤首は、命乞いをするようにその赤い唇を懸命に動かしてみせる。
「バルバラ様は拷问教會の大幹部様でありながらぁ~~第六階層の管理を羅刹王様に任せられている獄卒でもありますのでぇ~~その立場上、込み入った事情にもお詳しいかとぉ~~少なくとも此処に何かが持ち込まれたのであれば、その居場所も把握しているはずですぅ~~」
「……また拷问教會か……」
その単語を耳にした途端、忌々しそうに表情を歪ませる九十九。小さく溜息を漏らす。
「だとしても、お前に案内される必要はない。……だよね、愛」
「そうですね。いくら扉の数が多いと言っても、虱潰しに開けていけばいいだけの話。分身や触手を使えばそう時間も掛かりません」
人海戦術。それは黄昏愛という怪異が、あらゆる状況下において得意とする手段の一つである。
脳機能を拡張し、視覚を強化し、手足となる触手を複製することで――実際に黄昏愛は『酩帝街』においても、中央ドームで一堂に介した何千万という住民達の顔を一つ一つ見分ける人間離れした所業すら成し得ている。
まさにそれは今の状況を打開するにあたって最も適した方法だと言えたが、しかし――
「それは無理ですぅ~~不可能ですぅぅ~~」
轆轤首は藻掻くように首を振り、愛の言葉をはっきり否定してみせたのだった。
「この空間に内在する『扉』はあらゆる場所のあらゆる『部屋』と繋がっておりますがぁ~~全ての『扉』にはそれぞれ開ける為の『鍵』が必要なのでございますぅぅ~~」
「……鍵?」
「『鍵』が無ければ『扉』は開かず、先に進むことも出来ないぃ~~それがこの空間におけるルールでございましてぇぇ~~そしてその『鍵』とは私のことでございますぅぅ~~『鍵』である私の案内無しにはどこにも辿り着けませぬぅぅ~~」
その言葉に、愛と九十九は思わず押し黙ってしまう。それが苦し紛れの言い訳である可能性は依然としてあるものの――もしそれが本当であれば確かに、愛達にはどうすることも出来ない。
「ですからバルバラ様はぁ~~私を使いの者として皆さまに寄越したのですぅ~~バルバラ様は予てより皆さまにお会いしたいと仰っておいででしてぇ~~私はその為だけに『鍵』としての役割をプログラムされた存在に過ぎませぬぅ~~どうか信じてくださいませぇぇ~~」
「……………………」
愛の方を振り向いた九十九の表情は顰めっ面で、明らかな困惑の色が宿っていた。自分一人では判断しかねると訴えかけるようなその眼差しに、愛もまた困り果てたように溜息を吐く。腕を組み、瞼を伏せて――
「(……本当に、扉を開ける為に鍵が必要なら。もしもその事を教えられなければ、私達は今頃扉を開けることすら出来ず、先に進めなくなっていた)」
黄昏愛は思考を始めた。その考えを整理するように、心の中で静かに呟く。
「(私達が先に進むことを妨害したいのなら、そもそも私達に接触してくる必要は無い。そのバルバラとかいう奴の目的は解らないが、私達に会おうとしているのは恐らく本当――なら)」
思考を巡らせるその過程で、やがてふつふつと浮かび上がってきた疑問。それをぶつけるべく、愛の顔は再び持ち上がり、瞼は開かれた。その深淵のような黒い眼差しは真実を見通すような冷たさを伴っている。
「ここが駅なら、次の階層行きの列車乗り場もあるはずです。そこへ行く為にも、あなたの案内が必要なのですか?」
「さようでございますぅぅ~~」
「なら……バルバラを無視して私達が次の階層へ行こうとした場合。あなたは案内をしてくれるわけですか」
「問題ございません~~そもそも列車乗り場はバルバラ様のお部屋にございますのでぇ~~いずれにせよバルバラ様のお部屋には行かなければなりませんからぁ~~」
「は?」
「バルバラ様は出不精な御方でございましてぇぇ~~列車乗り場をそのままご自身のお部屋にしてしまったのですぅぅ~~」
「……なるほど」
轆轤首との短い問答を終えた後、黄昏愛は腕を組んだまま逡巡した。そうして数秒が経過して、愛はおもむろに九十九へ視線を向け、小さく頷いてみせる。それを受けた九十九は疲れたように息を吐きながら、再び轆轤首の方へ顔を戻した。
「…………案内しろ」
指の力を緩め、絞めていた首を解放する。苦しげに咳き込む轆轤首、それを睨み付ける九十九には依然として氷のような表情が貼り付いている。
「妙な動きを見せたら殺す。この場所も滅茶苦茶に破壊してやる」
「は、はいぃぃ~~お任せくださいませぇぇ~~」
念入りに脅しをかける九十九に対し、心底怯えた様子で何度も頷く轆轤首。媚びるように長い首をくねらせ、その頭を宙に浮かび上がらせていく。
「こちらでございますぅ~足元にお気をつけくださいませねぇ~」
線路に沿って空を移動し始めた轆轤首の案内に、渋々といった様子で愛と九十九はその後を追いかける。周囲への警戒を一層に強めながら、彼女達は線路から線路へ飛び移り、階段のように渡っていった。
◆
「……今更ですけど」
線路を登ったり降りたりを繰り返しながら轆轤首の後を追う、その道すがら。黄昏愛はふと、宙を漂う長い首を指差しながら口を開いた。
「アレ、本当に人造怪異なんですかね。普通に意思疎通、取れてません?」
「うん。ちゃんと意思疎通が取れる人造怪異は珍しいね」
浮世絵のようなその外見で人造怪異であることは一目瞭然ではあるものの、ここまで流暢にヒトの言葉を介する人造怪異を愛と九十九は初めて目の当たりにしていた。愛達はその黒い丸髷を後ろから物珍しげに眺めている。
「人間の言葉を音として模倣するタイプはたまに見かけるけど、言葉を介した意思疎通が取れる人造怪異はなかなかいない。しかも自我のようなものまであるタイプはかなり珍しい」
例えば彼女達が先に出逢った『ヤマノケ』の人造怪異は人間の男性の声を発していたが、あれは音を模倣しただけに過ぎない。意思疎通が取れるような知能も備わってはいなかった。
それがこの轆轤首を自称する人造怪異には、いわゆる人間性が備わっているようである。表情こそ殆ど変わらないものの、命の危機に瀕して明らかに恐怖の感情を見せていたことも人造怪異としては珍しい反応だった。
「命令通りに動くだけでいい人造怪異には本来、人間性なんて必要ないから。むしろ人間性を機能として維持させる為に他の機能や戦闘能力を犠牲にしなければならないから、基本的にメリットは無いんだよ――」
そこまで話し終えて、九十九は不意に口を閉ざした。僅かにその表情を強張らせて――奥歯を噛み締めている。
「……いや、メリットならあるか。敢えて自我を残すことで、殺すことを躊躇わせる。殺した後に、罪悪感を植え付ける。そういう、メリットが……」
九十九がその時思い出していたのは、シスター・カタリナの非情な言葉。人間を材料にして造った『巨頭オ』や『姦姦蛇螺』の人造怪異には自我が残っていた、そんな彼等の命をこの手で奪ってしまったという、その事実――
「大丈夫ですよ」
そんな僅かに翳りを見せ始めた九十九のことをすぐに察して、左隣に立っていた愛は彼女の左手を握り締める。顔を上げた九十九の視界には、微笑を浮かべた愛の顔が広がっていた。
「私も共犯なので。裁かれる時も償う時も一緒です」
力強いその言葉は熱となって、九十九の心に火を灯すようだった。
「まぁ、そもそも私達は何も悪くないんですけどね。悪いのは全部アイツです。絶対にブッ殺しましょうね!」
「はは……そうだね。絶対にブッ殺そう」
良くも悪くも容赦の無い黄昏愛のその振る舞い、活き活きとしたその様子に、九十九は思わず込み上げてきた笑いを我慢出来ず噴き出していた。破顔した彼女を目の当たりにした愛もまた満足気に微笑む。
「あぁ……そういえば。ロアのやつは、如月真宵のことを『世界を創る異能を持つ』って云ってたよね」
線路の横にまるで壁のように並び立つ扉の群れ、その表面に付いた大きな瞳からの視線を浴びながらも彼女達は躊躇わず先へと進む。線路の上は一歩を踏み締めるごとに軋み、微かに揺れていた。
「それってさ、つまり……」
「これまで私達が見てきた数々の『部屋』、謎の『階層』、人間を怪異に変える『箱』、そしてこの『空間』も……如月真宵が異能で創り出した、一種の『世界』として解釈出来る……そう仰りたいんですよね?」
「うん。どう思う?」
「そうですね……実際に奴が異能を使っているところを私達は見たことが無いですが……。単純に、空間を造る能力……あるいは、空間そのものを対象とした現実改変……世界を創り変える、つまり改築する異能……みたいな、そんな感じでしょうか?」
「とにかく変な『部屋』をいっぱい作れる怪異ってことだよね。でも、それ以上のことは何も解らない。そんなよく解らない奴が、全ての元凶とか云われても……」
「まるでピンときませんよね。同感です」
愛達が如月真宵と出会ったのは、あの一度きり。そもそもまともに会話が成立した事すらなく、顔も黒いローブを羽織っていた為に解らない。そんな謎の人物を指して急に『全ての元凶』などと紹介されたところで、愛達にはまるで実感が無かった。
「いずれにせよ、奴がカタリナと結託して……実際に、ちりさんを拐ったのは確かです。なので、私達にとって敵であることは間違い無さそうです」
あの一件、全ての手引きをしたのはシスター・カタリナだが、実際に昏睡した一ノ瀬ちりの身柄を担いで誘拐したのは如月真宵だった。そして如月真宵は『部屋』を創る怪異である。そこから導き出される結論に、九十九は顔を酷く顰めていた。
「もしかして……ちりは今、如月真宵の異能でどこかの『部屋』に閉じ込められている?」
「そしてその『部屋』が、焦熱地獄にあるとは限らない……ですね」
九十九の首筋に汗が垂れる。それはただ周りの気温が高いからというだけでは勿論無く、むしろ九十九の顔色は寒気に襲われたように青ざめていった。
「……どうしよう、愛。だって如月真宵は、地獄に新しい階層すら造れるんだよね? もしそんな所に、ちりが閉じ込められていたら……私達、このまま先に進んだところで……ちりのことを見つけられるのかな……」
「大丈夫です」
思わず悪い予想を口にしてしまった九十九に対して――しかし愛はやはり力強く、再びその言葉を口にしていた。
「まず前提として、私達には净罪の恩恵が無いので第三階層以前に引き返すことはもう出来ません。今の私達に出来るのは、前に進み続けること」
現状の整理を淡々と、それでいて堂々と口にする黄昏愛。そんな彼女の横顔を九十九は不安そうに見つめている。
「まずはこれから会うバルバラとかいう奴に話を聞きます。何も知らなかったら殺します。その次は第七階層に行って羅刹王に話を聞きます。何も知らなかったら殺します。無論その道中も、ちりさんのことは探し続けます」
「……それで、何の収穫も無いまま……ちりも見つからず、カタリナも如月真宵も現れなかったら……?」
恐ろしくシンプルな方針に対し、九十九は当然の懸念を訴えかける。しかしそれも何のそのといった風に、愛は僅かに口角を上げてみせた。
「第八階層、無間地獄に行きましょう。そこで願いを叶えてもらえばいいんです。ちりさんを返してくださいって」
「あっ……そうか! その手があった!」
「無間地獄は訪れた者の願いを叶える。この噂の信憑性については他ならぬ開闢王が保証してくれていますから。私は『あの人』を、九十九さんはちりさんを、それぞれ願いを叶えて取り戻す」
九十九の表情が見る見る内に明るく晴れていく。愛の横顔を眺めその眼差しには、まるで生きる為の熱が焚べられたように燦然と輝いていた。
「勿論これは最終的な手段の一つです。自分の手で助けられるならその方が良いに決まっています。それに友人をこんな目に遭わされて、ここまでコケにされて黙っているわけにもいきません。償わせます。これに関しては神様にお祈りするのではなく、自分達の手で、必ず」
地獄に初めて落ちてきたあの時から、その傍若無人ぶりは何一つ変わっていない。邪魔をするものは殺す。徹頭徹尾そこだけはブレないまま、黄昏愛はここまでやってきた。
それは敵に回せば脅威以外の何者でもなく、しかし味方であればこれ以上頼りになる指針も無い。そんな黄昏愛の振る舞いが、間違いなく――今の芥川九十九の心を支えていた。
「……愛が居てくれてよかった」
全身にじわり、熱が広がっていく。頬は赤みを取り戻し、吐息には熱が宿って。まるで今さっき命を吹き込まれたかのように、九十九の体温は炎のように熱く、血は全身を駆け巡っていた。
「私独りだったら、こんな風に冷静になれてなかった。混乱して、暴走して……きっと何も出来なかった」
掌越しに伝わってきたその熱に愛は目を見開かせた。彼女の凪いだような赤い瞳と、自分の黒い眼差しが交差して――まるで時間が止まったような感覚が、脳の奥を痺れさせる。
「ありがとう、愛。私の隣に、居てくれて」
目を見て真っ直ぐに放たれたその言葉は、受け止めるにはあまりにもくすぐったくて。一瞬、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになった自分をどうにか律し、愛は僅かに顔を俯かせる。
「……私も。地獄に落ちて間もない頃、独りで闇雲に『あの人』を探していた頃は……ずっと焦っていました。混乱して、暴走して……いえ、よくご存知ですよね」
互いに握り締め合った手、その力加減を微かに強めていった。掌に汗が滲んでいようと構わず、指を絡める。
「そんな私が、こうして今、前に進むことが出来ているのは……九十九さんと、ちりさん。おふたりのおかげです。だから……」
愛はもう一度顔を上げ、その視線を再び交差させた。
「……こちらこそ、ありがとうございます。私の隣に、居てくれて……」
縮まった距離の分だけ、言葉を重ねていく。そうして幾度も重なり合った結果、距離がゼロになった場合、自分達はどうなってしまうのか――
「到着いたしましたぁぁ~~」
――なんてことを考えていた、その矢先。駘蕩としたその呼びかけによって、二人の意識は現実へと引き戻される。
二人が揃って前を向くと、足場となっていた線路は断ち切られたようにその先が無くなっていた。そして断ち切られたその先に、白い扉が佇んでいる。
愛や九十九より一回り程度に背が低く、横幅は人間が一人通れる程度。少し小さめのその扉の表面にはドアノブの他に、大きな一ツ目が付いている。その目はギョロリと瞳孔を走らせ、愛達を視界に捉えていた。
そして案内役の轆轤首はと言うと、そんな一ツ目に顔を近付け、おもむろに目線を合わせ始める。そうしていると数秒後、扉の中からガチャリと鍵が開いたような金属音が聞こえてきた。
「はぁい~~扉を解錠させていただきましたよぉ~~どうぞ先へお進みください、バルバラ様がお待ちですぅ~~ではでは私はこれにてぇ~~~~」
轆轤首はそう言い残すと役割は終えたと言わんばかり、長い首を従えたその頭を浮遊させ、愛達から離れていく。ウミヘビのように宙を漂う轆轤首、上へ上へと昇っていって、やがてその姿が見えなくなるほど遥か遠くへと消えていった。
残された愛と九十九、白い扉の前に立つ。解錠されたからか、扉に付いていた一ツ目は瞼を閉じて、まるで眠っているようだった。
「行くよ」
合図と共にドアノブに手を掛けた九十九、ゆっくりとそれを捻っていく。最後まで回ったドアノブを、そうして手前に引くと、扉は呆気もなく開かれていった。
その先に広がる光景は――闇。ただ真っ黒な空間だけが広がっていて、何も見通せない。一瞬言葉を失った二人であったが、意を決した九十九が恐る恐る、その闇の中へ手を差し入れてみると――
「……向こう側に、別の空間がある」
差し入れた手は闇の中へ沈み込むようにして消えて、その先に此処とは違う空気を九十九は掌で感じ取っていた。
九十九は背後に控える愛の方へと振り返る。愛は「後ろは任せてください」と頷いてみせ、九十九もまた頷き返し、再び目の前の闇に向き直って――その足を、扉の先へと踏み込ませたのだった。
◆
闇の中を潜り抜けたその先で、芥川九十九はコンクリートで出来た足場に着地した。防滑剤が塗られているような、ざらりとした感触が靴底から足裏に伝わってくる。
「地球平面説」
その空間は、先程まで居た奇妙なあの場所と比べてしまえば、天井と地面がある分狭くは感じるものの、通常の感覚であれば充分過ぎる広さがあった。
九十九は最初、この空間を部屋ではなく、そこに繋がる途中の通路だと認識していた。それほどまでにこの空間は広く、長かったのだ。
「それをモチーフとした巨大な怪異の亡骸が、この地獄の階層なるものらしい。俺達はそんな物の上で生活しているんだ。三途の川は、それが流した涙の海から生じたものなんだそうだ」
有体に言えば、現世における駅のプラットホームである。直径にして数百メートルはあるだろうその空間は、通路が前に真っ直ぐ伸びていて、それがただ只管に長かった。天井は高く、蛍光灯が等間隔で幾つも設置されている。地面にもまた等間隔で背凭れのある椅子が幾つも設置されていた。
極めつけはプラットホームの外側、剥き出しの地面に走る線路と、その上に静かに佇む、巨大な列車。それが『猿夢列車』だと九十九が気付くのに時間が掛かったのは、その車体が色とりどりの絵具に汚されていたから。
まるで芸術的なオブジェのように変わり果てた猿夢列車の姿を目の当たりにして――九十九は轆轤首の言葉を思い出していた。
「そしてこんなものは、無数にある真実の一つに過ぎない。地獄は未知に溢れている。そこには俺の予想を遥かに超える真実が秘められていて、その中にきっと俺の求める材料があるはずなんだ……」
バルバラは列車乗り場をそのまま自分の部屋にしている。つまり此処がその場所なのだ、そう改めて認識し再度周囲を見渡すと――その空間の最奥に、奇妙な物体を九十九は発見した。
「俺の絵だ。見ての通り、画竜点睛を欠いた出来損ないだがな」
それは、絵だった。天井にまで届くかという程の巨大な画板、そこに描かれていた絵は――炎のように燃え上がる、鳥の形をした緋色の何か。
九十九に絵心は無い。それでも、そんな九十九が一目見て伝わってくる程に――その絵にはまさに炎のような執念めいたものが感じ取れる。
「俺に北斎のような才能は無い。俺が生涯に描ける人造怪異は一つだけ。だから俺は、その一つの完成に全てを捧げることにした」
――そして、先程から独りで言葉を紡ぎ続けているその声の主と、九十九はとうとう目が合った。
奥から現れたその人影は一人、牙を剥き出しながらゆっくりと、九十九の方へ歩いてきている。黒い修道服の上から白衣を羽織ったその人影。白と黒が入り乱れる傷んだ髪をだらしなく伸ばしたその人影。褐色と蒼白の入り乱れるツギハギだらけのその人影。頭に巨大な螺子が突き刺さったその人影――
「しかし俺の人造怪異は、果たして何を以て完成となるか。それは俺自身ですら解らない。必要なのはインスピレーション。俺の予想を上回る、未知の可能性を秘めた材料。だから逢いたかった、貴様等と……」
鋼鉄の義腕を白衣に突っ込み、肩で風を切るその女は――酷く不機嫌に顔を歪ませて、眼鏡の奥底に控えた灰色の三白眼を怨めしそうにぎらつかせていた。
「……だと言うのに。オイ、どういう事だこれは」
滲み出る怒りを吐き出すように、苛立ちを乗せたその声色は暗く重い。そしてそれは明らかに、芥川九十九に対して向けられたものだった。
「もう一匹はどうした。何故貴様しか此処に居ない」
その怒りの正体に、芥川九十九が気が付いた時には――何もかもが手遅れだった。
「……………………えっ」
九十九は咄嗟、後ろを振り返る。そこに先程通ってきた扉は無く、ただ何の変哲もない壁だけが聳え立っていた。
慌てて周囲を見渡す。やはりただの列車乗り場だ。そして前方には此処を根城としているシスター・バルバラらしき怪異が一人。それ以上の物は見当たらない。
そう、何も無い。其処には――
「…………………………………………、愛?」
彼女の姿だけが、どこにもなかったのだ。