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怪物少女の無双奇譚《フォークロア》  作者: あかなす
第五章 焦熱地獄篇
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焦熱地獄 2

「私、愛のことが好きだな」


 じわりじわりと炙られるような灼熱の大地、黒いローファーで踏み締めながら――黄昏愛は額の汗を制服の袖で拭い去る。死人のような蒼白の頬に、黒く長い髪が張り付いて。吸い込んだ熱気で肺が灼かれ、喉の奥から渇いた吐息が溢れ出す。


 駅を出て其処から一歩、足を踏み出したその瞬間にはもう、この有り様だった。焦熱地獄の気温は五拾度を超えており、これは人間の活動限界を悠に上回る数値である。

 黄昏愛は急いで異能を発動、全身の感覚器官を調整。体内を冷却し、体温を調節し、熱さへの耐性獲得に努めていた。そうしている間にも身体は反射的に汗を噴き出し、吸い込んだ熱気に鼻と喉を灼かれ、目の奥ではチカチカと危険信号が点滅する。

 異能による超再生と感覚遮断を以てしても骨が折れるほど、その環境の適応には黄昏愛でさえ苦労していた。


「ねえ、聞いてる?」


 そもそも全ての生物は共通して、気温の極端な変化は苦手である。特に高温高熱は、生物にとって天敵。基本的に生物は『水が存在できない環境』では生存できない。寒さと暑さの根本的な違いは、水が存在できるか否かと言ってもいい。

 寒い環境では水は凍ってしまうが、水そのものが無くなるわけではない。対して暑い環境では、水は蒸発してしまう。存在すること自体が出来ない。体内に水分を持つ生物にとって、どちらがより致命的かという話である。否、無論どちらも致命的ではあるのだが――


「私、愛のことが好きなんだけど」


 ――例えば。寒さには絶対零度という限界値があるのに対し、暑さにはそれが無い。プランク温度という物理法則上の実質的な最高温度は存在するが、そこが上限ではない。

 つまり寒さに限界はあるが暑さに限界は無い。絶対零度に近い環境でも耐えられる生物は理論上存在するが、プランク温度はおろかマグマの熱にさえ耐えられる生物は存在しない。


 極端な話だが、その極端さを体現できる黄昏愛という怪異だからこそ、これは根深い問題でもあった。黄昏愛の異能は間違いなく規格外チートだが、ある意味では生物という概念そのものの化身と呼べる彼女にとって、高温高熱は数少ない弱点の一つなのである――


「愛は私のこと、どう思ってる?」


 ――つまり彼女にとって、今は悠長に冗談などを口にしている場合ではないのだ。それどころではない。


「ねえ、無視しないでよ。ねえってば」


 だと言うのに。


「……………………」


 滲み出る汗のように、じっとりとした黒い眼差しを。自身の左隣に向ける黄昏愛。その視線の先には――このような状況下において、果たしてどういうつもりなのか。愛の言葉を囁き続ける芥川九十九の姿があった。

 彼女もまたその全身から汗を噴き出して、既に息を切らしている。黄昏愛のように後から耐性を獲得できるような異能を持ち合わせていない九十九にとって、今の状況は相当辛いはずである。

 だと言うのに、彼女はその目を輝かせ、あまつさえ笑みを浮かべていた。灼熱の大地を黙って踏み締める愛の隣、まるで子供のように九十九は構わずはしゃぐような声を上げている。


「……どうしちゃったんですか。いきなりそんなことを言い出して……」


 堪らず呆れた声を漏らす愛。暑さによるものとはまた別の、戸惑いの汗を頬に浮かべながら。


「だって、言葉にしなきゃ伝わらないって言ったのは愛でしょ。だから、言葉にしてみたんだけど」


 それは、焦熱地獄に到着する直前のこと。猿夢列車にて黄昏愛は、芥川九十九の本音を引き出した。錯乱していた九十九を落ち着かせ、これからの目的を明確にし、結束をより強めることに黄昏愛は成功したのだ。


 それはそれで良かったのだが――そうして駅から出てすぐさまに、芥川九十九はすっかりこの調子だった。人間、本音を知られてしまった相手には遠慮が無くなるものだ。そうして心の距離がぐんと近付いた結果、つまるところ芥川九十九は、黄昏愛に対してこれまで以上に懐いてしまったわけである。


「私はちりのことが好きで、愛のことも好き。うん……やっぱり、言葉はいいね。しっくりくる。好きだよ、愛」


 この暑い中、隣を並んで歩く二人の距離は肩が触れ合う程に近い。九十九が愛の方へどんどん寄っていって、その横顔を覗き込むように話しかけている。その圧には流石の愛でさえも押され気味で、困惑の表情を浮かべていた。しかもそれが直球にも程がある好意の告白であるなら尚更、愛は戸惑うことしか出来なかった。


「…………はあ。それは…………ありがとう、ございます」


 返答に迷った末、愛はひとまず感謝の意を伝えることにした。いつも必要以上にズバズバと正直な想いを口にする普段の彼女らしからぬ、なんとも日和った返しである。


「うん。それで?」


 そして今の芥川九十九は当然、そんな生ぬるい返事が聞きたいわけではない。


「……それで、とは……?」


「愛は私のこと、どう思ってるの?」


 ここでまさかの追い打ちに、愛はとうとう言葉を詰まらせてしまった。普段のポーカーフェイスは完全に崩れ、微かに朱を帯びたその頬を、愛は思わず引き攣らせる。


「言葉にしないと伝わらない。まさか、自分だけは例外だなんてこと、ないよね?」


 そうして彼女は悪魔のように、いたずらな微笑みを浮かべて。してやったと言わんばかりの視線を向けるのだ。


「う゛っ……えぇぇ……? 今、ですか……?」


「今。聞きたい」


 とうとうこの時が来てしまったか、と思った。黄昏愛、彼女は今日まで言葉にすることを躊躇ってきた。何故ならば自信が無かったから。この感情に、未だ明確な答えを持ち合わせてはいなかったから。こんなことは、産まれて初めてだったから。


 わざわざ言葉にしなくとも、人間同士の関係性は成立する。適当に、適切に、当たり障りのない距離感を築くことさえ出来れば、必要以上の言葉は必要無い。それで特別困ることも無い。言葉にするということは、関係に変化を齎すということ。誤魔化しが利かなくなるということ。それはとても、勇気のいること。


『人間て生き物は存外察しが悪いからねえ。ちゃんと言葉にせな何も伝わらんよ。それが好意なら尚更ねえ』


 頭の片隅で蝕むように、あの女の仄暗い声が微かに響いてきて――咄嗟に邪念を振り払うように頭を振るう。そして再び、その視線を左隣の彼女へと移して。彼女の凪いだような赤い瞳のそれと、交差した。


「…………好き、ですよ。好きです。ええ、それは、間違いなく…………」


 気恥ずかしそうに尖らせた彼女の唇から漏れ出たその言葉に、芥川九十九は思わず「わあっ」と喜びの声を上げそうになって――


「あの……それで、ですね……」


 しかし愛の言葉はまだ続いていた。愛から好きの言葉を引き出せただけで充分だった九十九にとってそれは予想外で、彼女は不思議そうに首を傾げ、耳を澄ます。数度の深呼吸を間に挟んだのち、やがて勇気を振り絞るように、躊躇いながらも口を開く。


「だから……っ……私と、お友達に……なって、くれませんか…………?」


 他人との関係性を『あの人』以外に知らない彼女にとって、友達の作り方なんてものは当然知る由もないことで――だからそれは、まるで告白のようだった。


「えっ? もう友達でしょ?」


 意を決した彼女の申し出に対し、それを受けた芥川九十九の反応はと言うと、実にあっさりとしたもので。そもそも九十九にとっては今更な話だったのだろう。むしろ当然の反応だと言えた。

 愛と九十九、互いに唖然としたように大きな瞳をぱちくりと見開かせ、しばらく無言で見つめ合う。


「……………………ほんとうですか?」


「うん」


「い、いつからですか? 何を基準にして?」


「え~?」


 慌てふためく愛の様子に、九十九からは思わず笑みが零れていた。そうして九十九はおもむろに、自身の右手を差し出して、そのまま愛の左手を手に取り、軽く握り締める。


「これからも、よろしくね」


「…………は、はい」


 爽やかにはにかんでみせる九十九の頬は僅かに朱を帯びていて、それを前にした愛の頬もまた火照ったように朱く染まっていた。


 親友を救い出すため、結束した二人の絆。まるで青春のような光景だが――ちなみに。愛と九十九、二人はこのやり取りを()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 焦熱地獄に足を踏み入れた瞬間、侵入者を狙うようプログラムされた人造怪異のオートセキュリティ。浮世絵のような作画のまま世界に浮かび上がった奇妙な妖怪の群れは、まさに百鬼夜行。空からは火車かしゃの妖怪が業火を纏って降り注ぐ。地面を這う絡新婦じょろうぐもが巨大な口を開けて迫ってくる。鬼火おにびが、鉄鼠てっそが、死霊しりょうが、牛鬼うしおにが、網剪あみきりが。日本の伝承に残るあらゆる妖怪達が襲い掛かってくる。


 そんな百鬼夜行の襲撃を――――愛は背中から生やした怪物の触手で、九十九は臀部から生やした悪魔の尻尾で――――その悉くを薙ぎ払いながら、彼女達は平然と歩いていた。

 触手と尻尾は半ば自動的に振るわれ、彼女達の周囲に近付いてきた怪物を次々と叩き潰していく。空を飛ぶものも地を這うものも関係なく、彼女達の歩みを妨げるものを露払う。今の彼女にとってはこの程度の作業なら、もはやイチャつきながらでも可能なのだった。


「……ですが、困りましたね」


 周囲に轟く怪物達の断末魔を聞き流しながら――黄昏愛は気難しそうに顔をしかめる。無論その困ったこととは、人造怪異の群れに襲われている今この状況を指したものでは無い。


「確かに九十九さんのことは、好きです。友情は間違いなく感じています。ただ、この『好き』が果たしてそれだけなのか。『あの人』への『好き』とどう違うのか……私の中でまだはっきりと答えが出ていないんです。とは言え……答えが出てしまったら、それはそれで色々と問題が……」


 黄昏愛には『あの人』という恋人がいる。黄昏愛にとっての『好き』の基準は『あの人』を物差しにすることでしか測れない。だから戸惑っていた。他人ゼロ恋人ヒャクしかなかった彼女の中に突然生まれた友達という概念について、彼女はその扱いにすっかり困り果てていた。


 唯一無二だと思っていた『好き』が増えてしまったことによる、ある種のロジックエラー。それは時折飛び散ってくる怪物の返り血よりも気掛かりなことだった。


「愛ってそういうところあるよね。難しく考えすぎじゃない?」


「う、うるさいですね……『好き』には色々あるんですよ。九十九さんが単純すぎるんです」


「えー? 好きってだけじゃだめなの?」


「……駄目な場合もあります。色々と複雑なんですよ、『好き』というものは」


「ふーん……? 『好き』ってそんなにたくさん種類があるんだ。すごいね」


 まるで他人事のように口遊む九十九に対して、愛はじとりした視線を向ける。


「……九十九さんだって、そうでしょう?」


「え?」


「私への『好き』と、ちりさんへの『好き』は、同じではないはずです」


 それは愛が頭を悩ませている理由の一つでもあった。一ノ瀬ちりが九十九へ向ける『好き』がどういう類いのものなのか、愛は知っている。それを踏まえると今の彼女たち三人の関係性は、ともすればあまりにも複雑な三角関係のようにも映る。


「えー? 同じだよ」


 しかし芥川九十九、彼女はそれをまるで単純なことのように、臆面もなく口にした。そこに裏表は無いのだろう。芥川九十九は想ったこと感じたことをそのまま言葉にしている。だからこそ、そんな彼女の言動がまた愛を戸惑わせる理由の一端を担っていた。


「同じで、いいんですか?」


「どういうこと?」


「さっきも言った通り、『好き』には色々な形があるんです。ようするに――友達として好きなのか。それとも――恋愛対象として、愛しているのか」


 この時、愛が何を言おうとしているのか。芥川九十九はようやく、理解して――


「それって……」


 ――あの時のことを、思い出していた。


『さては貴女、誰かを愛したことがありませんね?』


 黄昏愛と初めて出逢った、運命が廻り始めたその日。彼女に掛けられた、思いも寄らぬその一言。


『終わらせたくないのは当然ですよ。だって私は『あの人』のことを愛していますから』


 ()が何なのか、そもそもそれが知りたくて、芥川九十九はここまで旅を続けてきた。その答えに辿り着くには、まだまだ時間がかかると思っていた。けれど――


『いつか貴女にも解る日が来ますよ。終わらせたくないと想えるほど、愛せる人が現れたら、きっと』


 その答えの一端に今、芥川九十九は間違いなく触れていたのである。


「そっか……この感覚が、そうなのだとしたら……」


 掴みかけた答えを手放さないように、九十九は汗ばんだその掌に力を込める。


「……これまでの人生の中で、私がこんなに『好き』だって感じた相手は、愛とちりだけなんだ」


 黄昏愛と一ノ瀬ちり、ふたりは九十九にとって恩人である。九十九が彼女達にどういう救われ方をしたのか、そこに違いはあれど差は無い。


「ねえ、愛。こういうのって……どっちも好きで、どっちも愛しているっていうのは……だめなのかな?」


 だから彼女の結論は、必然的にそうなった。

 どちらも好きで、大切で、どう考えてもそこに差が付けられない。ならば、どちらも手に入れる。人間らしく、欲望のままに。しかしその傲慢さ、浅ましさこそ、彼女が人間として成長した何よりの証でもあった。


「――――――――」


 そんな我儘にも程がある結論に、黄昏愛は言葉を失う。

 好きになってしまったものは仕方がない、とは言え。愛にとって『好き』はやはり一つだけ。いつか必ず、どちらかを選ばなければならない。優劣の話ではなく、単純にそういうものだと思い込んでいた。

 だから――どちらも好きで、どちらも愛していいだなんて、その発想が愛には無かった。愛にとってそれは両立しないもの。少なくとも以前までの彼女なら――『あの人』以外の全てをどうでもいいと切り捨てられた彼女ならば、駄目だとはっきり言葉にしていただろう。


 だが、今の彼女にはそれが出来ない。だって、出逢ってしまったから。

 芥川九十九。やはり彼女はいつだって、黄昏愛に理外の答えを与える存在だったのだ。


「……わ、わかりません。私だって『あの人』以外の他人を『好き』になるなんて、初めての経験ですし……だからこうして、戸惑っているわけで……」


「そっか。あはは……私達って何なんだろうね。私達は、どうなりたいんだろう……」


 その関係性にどんな名前を付けるべきなのか、着地点はどこになるのか――今の二人には、まだ解らない。


「……ああ、そうか。ちりがこの場に居ないからだ」


 それも無理はない。だってこれは、最初から三人(・・)の問題なのだ。二人だけで悩んでいても答えなど出るはずもない。


「早くちりを助け出して、三人で話し合おう。ちりの『好き』も、ちゃんと教えてもらわないと。そうしたら、色々はっきり解るかも」


「……う、う~ん……ま、まぁそうですね……」


「ん? どうしたの?」


「いや、なんというか……よくよく冷静になって考えてみると、私……二人の関係に首を突っ込んだお邪魔虫のような気がしてきて……めちゃくちゃ気まずいような……」


 めちゃくちゃ今更である。今更ではあるがしかし、以前の愛ならそこまで気が回らなかったであろうことを考えると、これもまた成長なのだろう。


「大丈夫だよ。私達は三人で一緒なんだから。それにちりも愛のこと好きだと思うし」


「いやいや、流石にそれは無いでしょう……」


「見てたら分かるよ。実際、仲良いよね? 最近。ふたりとも」


「……それは、まぁ……なんと言いますか……」


 重ねるごとに少しずつ人間味を取り戻していくような彼女達の会話は、そこだけを切り取ってしまえばまるで青春ドラマのようで。そしてそうしている間にも、襲い来る人造怪異の群れはその体躯を触手によって引き裂かれ、尻尾によって叩き潰される。


「でも…………そうですね。そういう()の形が許されるのなら…………私は…………」


 どこか夢見心地な台詞を零しながら――行く先に転がる怪物の死体を踏み躙る。熱した鉄板のような灼熱の大地を、彼女達はこうして一歩ずつ、着実に前へと進んでいった。


 ◆


「とまぁ~こんな感じでぇ~イチャつきながら此方に向かってきていますぅ~」


 そしてその様子を遠巻きに窺っていた轆轤首ろくろくびの人造怪異。彼女の語り口によってその一部始終を共有された、シスター・バルバラはと言うと――


「――――来た来た来た来た来たァァァァアアアアアアアアッッッ!!!!!」


 その場で勢いよく立ち上がり、歓喜に震える雄叫びを上げ、螺子の刺さった頭から大量の血を噴き出していた。部屋中至る所に撒き散らされる血飛沫が。壁が床が天井が、血の噴水によって赤く染められる。


「ぬぎゃぁああああっ!? この阿呆っ!! わしの部屋で血を撒き散らすのはやめろぉっ!!」


 その巻き添えを食らってしまった絵描きの少女、筆入れ途中だった作品を自らの背中で守りながら悲痛の叫びを上げている。


「クハハハハハハハ!!!! 生意気な材料共めッ!!! この俺を待たせるとはッ!!! 絶対に許さんぞッ!!!! クッハハハハハハハハハ!!!!!」


「やかましいっ!! 死ねっ!!」


 邪悪に歪めた満面の笑みを浮かべ高笑いするバルバラの頭へ目掛けて、少女は手に取った金槌を思い切り振り抜いた。金槌に殴り付けられたバルバラは「ぐえっ」と微かに呻き声を上げると、その場に卒倒。動かなくなる。


「…………さァ出迎えの準備だッ!! 轆轤ろくろ首、貴様は奴等を俺の部屋まで案内してやれ!!」


 が、バルバラはすぐさま起き上がり、縁側の外に漂う轆轤首を指差し命令を口にしたのだった。螺子の刺さった傷口からの激しい出血は収まっているものの、たった今出来た新たな傷によってバルバラの顔面に血が流れ落ちている。


「かしこまりましたぁ~~」


 ちゃっかり血飛沫に巻き込まれない距離をキープしていた轆轤首、バルバラから命令を受けるとすぐさま首を引っ込めて、その場からゆっくりと離れていった。


「同胞よ、貴様の画廊から人造怪異さくひんを幾つか貰い受ける。構わんな?」


「あぁ……もう好きにせい……」


 血塗れの部屋の中、絵描きの少女はもはや諦めたようにその場に倒れ込み、魂の抜けたような声で応じる。それを受けたバルバラは、心底愉快そうに口角を釣り上げてみせた。


「安心しろ。全てが終わった暁には、満を持して俺の新作を観せてやる。誰よりも真っ先にな。ここまで付き合わせた報酬としては充分だろう?」


「ふん……そうじゃの~ォ。そうでなくては、おぬしなどとっくの昔に勘当しておるわ……」


 寝転んだまま不貞腐れたように唇を尖らせる少女、その真横をバルバラは通り過ぎる。血に濡れた白衣翻し、突き当たった部屋の奥、閉ざされた障子にバルバラはその手を伸ばして――


「言っておくが、わしは助けに行かんぞ」


 背中越しに掛けられたその声に、バルバラの手が止まる。


「わしは絵が描ければそれでいい。厄介事は御免被る。人造怪異さくひんは貸してやるが、それ以上の手助けは期待するだけ無駄じゃ」


 絵描きの少女はバルバラの方へは一瞥もくれず、そっぽを向いたまま口を開く。そしてバルバラもまた振り向くこと無く、少女の言葉を背中で受け止めていた。


「だから……無理はするな。駄目だと思ったらすぐ引き返せ。生きてさえいれば、また絵は描ける。死に急ぐなよ、若造」


 ぶっきらぼうにそう言い放った彼女は、おもむろに上半身を起き上がらせ、その手に筆を取った。血で汚れていることなど構わず、彼女は床に転がった画板に再び筆を挿し込み始める。


「そう言ってくれるな。俺は絵を描くために生きている。絵が描けないなら死んだほうがいい」


 日の当たらぬ部屋の奥、影の中でバルバラは唸るように言葉を漏らす。その内容もさることながら、虚空を睨み付ける灰色の三白眼、その滲み出る迫力はまるで、生涯を炎に焚べ灰になるまで燃やし尽くしているようだった。


「しかしその忠告、有り難く受け取っておく事にしよう。俺は必ず帰ってくる。尤も――」


 そんなバルバラが微かに首を傾けて、視線を背後の、絵描きの少女へと向ける。


「――貴殿の新作を隣で鑑賞できる特等席、この俺がむざむざ手放すはずが無いだろう。なあ、()()()()。我が師、我が友よ」


 葛飾かつしか北斎ホクサイ。その名で呼ばれた少女は筆を止め――心底呆れたように溜息を吐くのであった。


「はァ……おぬし……好きじゃよなァ~! その呼び方の~ォ! まったく、いつの時代の雅号じゃそれぇ。いくらで売れたかも覚えとらんわ……」


 これも異世界転生の奇跡か。かの画狂老人は少女の姿で地獄に顕現し、今も絵を描き続けている。尤も今の彼、いやさ彼女にとって北斎それはもう前世(むかし)のこと。懐かしむ以上の役割を果たすことはない。


「今のわしには卍天上(スーパー)天下(ウルトラ)唯我(ハイパー)独尊(ミラクル)画狂少女(ロマンチスト)卍という新しい雅号があるというのになァ~、おぬしにはいまいち浸透しとらんようじゃの~ォ」


「……同胞よ。その呼び名は流石の俺もどうかと思うぞ。そもそも貴様、生前から名をころころと変えすぎでは……?」


「それはまあ、色々と事情があっての。それに、名前などただの飾りじゃ。ならばその日の気分で着飾っても良いじゃろう」


 そんな彼女との問答に満足したのか、バルバラは微かに口角を上げ――再び前方へと向き直った。


「ほれ、いったいった。作業の邪魔じゃ」


「嗚呼、征ってくる」


 鋼鉄の義手、その指先を閉ざされた障子と障子の間に捩じ込んで、バルバラは勢いよくそれを開け放つ。その先に広がる光景は、闇だった。ただ真っ黒な空間だけが広がっていて――其処へ彼女は躊躇いなく、その身を投げ出す。


 闇の中へ吸い込まれるようにして、バルバラの姿が消えていく。その後ろ姿を見届けることもなく――残された絵描きの少女はひとり、縁側の外を眺めている。


「……やれやれじゃのォ~……」


 赤い空を見上げながら、そうして彼女はゆっくりと、溜息を漏らすのだった。

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