焦熱地獄 1
地獄の第六階層、焦熱地獄。
黒く隆起した火山からは藍色のマグマのような何かが絶え間なく流れ落ちていて、この階層の大地は全て冷え固まったそれによって形作られていた。
その気候は暑いというより、熱い。蒸すような暑さではなく、炎を目の前にしたような熱さ。血が沸騰して肌が焦げ付くような灼熱の世界。
その過酷な環境で並の動物が生存できるはずもなく、それは怪異にとっても同じこと。故に焦熱地獄と呼ばれるその場所を棲家とするような怪異は、第七階層まで含めても片手で数えられる程にしかいない。
逆を返せばそれは、こんな場所を好んで棲家とするような者はあらゆる面において、並の怪異では無いという事でもある。
それは肉体的な意味でも、精神的な意味でもそう。より突出した異常性を抱えた者のみが立ち入ることを許された、まさに地の獄。
「俺は……人間失格だ……」
ならば。観客も寄り付かぬこんな場所に独り、工房を構えて。あまつさえ、報われない創作に心血を注ぐ――そんな彼女達のような変態にこそ、この場所は相応しいのだろう。
「ゴミだ……クズだ……出来損ないだ……俺には何の才能も無い……何も生み出せない……何も為す事など出来やしない……このまま無為に時間だけを浪費して……生き恥を晒し続けるだけの人生……何もかも無意味だったのだ……」
猫が爪研ぎをした跡のように、ささくれ立った六畳一間。地獄の黒い太陽が齎す夕暮れのような陽の光に照らされて、深紅に染まったその和室。開け放たれた障子の向こう側、縁側からは赤く濁った三途の川が一望出来る。
「……スランプだ。創作意欲が湧いてこない。描けない画家などただの穀潰し……そうだろう? 今の俺に生きている意味など無い……こんなものは人間とすら呼べない……埃のようなものだ。ただ部屋の隅で埋もれるだけの、何の価値も無い、塵芥が同然……」
その和室は壁に床に天井に、至る所に和紙や木板、墨汁や小槌や彫刻刀など、あらゆる画材が雑多に散らばっている。畳の上は足の踏み場も殆ど無い程で――そんな座敷の中央、彼女の姿はあった。
先程からまるで今にも死にそうな声色で、絶望に染まったような胸の内を吐露し続けている彼女こそは。白髪混じりの黒髪をだらしなく垂らした、ツギハギだらけのその顔は――拷问教會が誇る第三席の大幹部。シスター・バルバラ、その人。
修道服の上から白衣を羽織るそんな彼女は、まるでこの世の終わりを迎えたかのような、魂の抜けた表情で項垂れていた。理由は今まさに、彼女の口から語られた通りなのだろう。丸眼鏡の奥に潜む鈍色の三白眼は虚空を彷徨い、気怠げに開かれた口の端からは涎を垂らして、矯正器具を付けた歯を覗かせている。
まさに地獄の底から溢れ出ているような、彼女の怨念のようなその声は、しかし決して独り言などではなかった。その矛先は明らかに、彼女が背に凭れかけている――もうひとつの人影に対して、向けられたものだったのである。
「ん~……そうじゃのォ~……そうかもしれんのォ~……」
バルバラの背後で胡座をかくその人影――その少女は、どこか上の空のような気の抜けた返事をこぼす。
まるで自分自身を切って貼ったようなツギハギだらけのバルバラとは対照的に、その少女の身なりは実にシンプルな装いだった。骨張った小柄な体躯、身に纏うは浴衣が一枚のみ。
その顔や手足、全身のそこら中が墨汁で汚れている。黒い毛先の白髪を後ろに結ったそれは、まるで筆のようだった。
バルバラに背凭れとして使われているそんな彼女は、嫌がりこそしないものの、バルバラの話をちゃんと聞いてもいない様子で――それもそのはず。少女は目の前の木板に一心不乱、筆を入れる真っ最中であった。
少女にまるで相手にされていないことを察したバルバラは、蒼白と褐色が入り混じるその顔を、その眉間を歪ませていく。
「…………同胞よ。俺の話を聞いていないな?」
「いや~……どうだったかのォ~……」
「やはり聞いていないではないかーッ!!」
手足をジタバタと振るい、暴れるバルバラの体重が、その背に一層寄り掛かる。その騒がしさにとうとう、少女は筆を止めてしまう。やがて重く深い、苛立ちの乗せた息を、喉の奥底から吐き出して――
「はァ……もォ~ッ! さっきからうるせェの~ォ! わしゃ今手が離せんっ、見れば解るじゃろうが!」
狂犬の如く吠えるバルバラにも負けない声量で、少女は牙を剥き出したのだった。背中を預け合っていた両者は直後、弾けるように身体を独楽の如く回転させ、互いに凄まじい剣幕のまま向かい合う。
「何を呑気な事を言っているッ! 友人が、仲間が、同胞がッ!! スランプなのだぞッ!? これは危機だッ! 世界の損失だッ! ならばどうする? 疾く励ませッ!! 俺を慰めろよッ、我が親友!!」
「おぬしの躁鬱はいつものことじゃし!! 作業中に話しかけてくるのはやめろといつも言っておるじゃろうが!! おぬしもわしが同じことをしたらブチ切れるじゃろ!!」
「当然であろうがッ!! 俺の創作を妨げるものは、たとえ同胞であろうと許さんぞッ!!」
「めんどい奴じゃのォ~ッ!?」
互いの額を打つけ合い擦り合わせる。そこから火が噴き出すのではないかと思う程に両者、肉薄して――
「ぬわぁ~っ!」
先に観念したのは浴衣の少女の方であった。声にならない声を上げ、少女は背中から畳の上に倒れ込む。
「あァ、まったくもう……! そういうところが本当に、わしの娘とそっくりじゃ……! あやつも酔っ払うとこんな風になって……いや、おぬしの場合はシラフでそれじゃから余計たちが悪いがのォ……!」
仰向けのまま愚痴をこぼす少女を見下ろすバルバラは、なぜだか勝ち誇ったような表情で。腕を組み「ふんす」と鼻を鳴らすバルバラのふてぶてしい態度に、浴衣の少女は心底呆れ返ったような溜息を長々と漏らす。
「はァ……大体なんじゃ、スランプじゃとォ~? そりゃわしにも覚えはあるがなァ、なにもそう焦るほどの事でも無いじゃろうが! そんなものに今更一喜一憂するな!」
少女はやがて仰向けだった体勢から上半身をゆらりと起こし、バルバラの目の前に人差し指を突き付けた。恨めしそうなその黒い瞳に見上げられたバルバラ、思わず気圧されたように姿勢を正す。
「よいか? 思うように上手く描けん、ここんところ伸び悩んどる……それはつまり、まだ上手く描ける余地がある、まだ伸び代があるということじゃ。スランプとは絵描きにとって成長痛のようなもの。今は辛くとも努力さえ怠らず精進に励めば、あとは時間が解決してくれる!」
「むッ……しかしだ! 努力が必ず報われるとは限らないッ! 努力が報われるのもまた才能あってこそッ! 貴様のような天才に俺の気持ちなど解るまい!!」
「わからんのォ~! わしゃ才能があるから絵を描いているわけではないからのォ~! 好きだから描く、絵描きの大前提じゃ。おぬしもそうではなかったのか?」
「ぐゥ……ッ……!?」
正論に次ぐ正論。完全に説き伏せられたバルバラ、まさにぐうの音も出ないといった様子で。暫し葛藤の表情を浮かべていたが――
「…………確かにその通りだッ! すまない同胞よ、今のは俺が言い過ぎた……! 許せッ!!」
呆気もなく前言を撤回し、いっそ清々しいほどに潔く、彼女は頭を下げるのだった。
「はァ……おぬしが言い過ぎるのもいつもの事じゃろうが……もう構わんから静かにしておれ……」
墨に汚れた手をひらひらと振ってみせながら。浴衣の少女は身体を捻り、畳の上に鎮座している描きかけの木板に再び向き直る。そうして筆を手に取る少女の背後でバルバラはしかし、依然としてどこか不満そうな表情のまま、その背中に視線を注いでいた。
「とは言え……とは言えだッ、聞け同胞よ!! 努力しようにも道具が無ければ絵の描きようがない!! そうだろうッ!?」
「……道具が無い時はのォ、指でこう、空に思い描くんじゃ。いんすぴれゑしょんを働かせての~ォ」
「そういう話ではなーいッ!! とにかく今の俺に足りないのはそれなのだッ!! 描きたくても描けないのだ、物理的にッ!!」
適当にいなそうとする少女の肩を逃しはしまいと言わんばかりにがっしり掴んで、バルバラは再びその口を忙しなく動かし始める。それに付き合わされる少女は、ほとほと疲れ切ったという表情で、諦めたように肩を落としていた。
「ふゥ……やれやれ。今日はいつにも増してめんどいのォ……」
さて今度はどう説き伏せてやろうかと、顎に手をやり思案に耽る――その矢先、少女の丸い眉がふと何か思い至ったように持ち上がった。
「はて、そういえば……ついこの間、まさにその材料が見つかったとか何とか、おぬし言っておらんかったか? あれは結局どうなったんじゃ?」
小首を傾げる少女の背中越し、今度はバルバラが溜息を漏らす。少女の両肩を軽く掴んでいた機械仕掛けの両腕、力なく床に下ろして。
「……………………失踪した」
「失踪ォ~?」
「我が人生における最高傑作、その材料になる予定だった二匹の怪異は……消えたのだ……」
「はァ……?」
自らの頭を抱え重苦しい息を吐き出すバルバラの、その口から漏れ出た言葉に対し、しかし少女はまるで要領を得ていない様子。依然として首を傾げるばかり。そんな彼女の仕草を背後に感じ、バルバラは鎌首をもたげて、再びその口を開く。
「我が同胞、如月真宵の報告によれば……二匹の材料共は第四階層、叫喚地獄に足を踏み入れたのち、行方を晦ましたという。そしてその報告自体、もう半年近く前のことだ……!」
「……あァ~。そういうことかえ……」
その説明でようやく合点がいったのか、少女は声を上げると共に、半年前のバルバラとの会話を思い出していた。
約半年前。黒いローブの女――如月真宵の招集を受け、バルバラは第七階層、羅刹王の宮殿に訪れた。そこで「フィデスの試練を突破して此方に向かって来ている二人組の怪異を確認した」という旨の報告を受け、バルバラはその二人組――『ぬえ』と『悪魔』の実力を、第四階層にて試すこととしたのである。
しかし試すと言っても、バルバラ本人は何もしない。第四階層には羅刹王の兵隊が駐在しており、侵入者には自動的に攻撃を開始するよう訓練されている。果たして羅刹王の兵力を『ぬえ』と『悪魔』が突破出来るか否か、バルバラは高みの見物を決め込む――はずだった。
衆合地獄の酩帝街から脱出し、叫喚地獄に向かったと目される『ぬえ』と『悪魔』は――それから数ヶ月以上が経過したというのに、未だ焦熱地獄に辿り着いていないのである。
「ほォ~ん……あれからもうそんなに経っておったのか。絵を描いておると時間の感覚が曖昧になるのォ~」
絵を描く片手間、バルバラから確かにそんな話を聞き及んでいたことを思い出した少女の反応はと言うと、何とも気の抜けたものだった。まさに我関せずといった風で、彼女は筆を取ったその手を再び、軽快に動かし始める。
「……地獄の第四階層、叫喚地獄には我等が同胞――『獄卒』の兵隊が駐在し、侵入者に目を光らせている。彼等は曲りなりにも、あの羅刹王に兵力として雇われた者達だ。材料共がどれほど規格外の怪物と言えど、彼等の包囲網をそう易易と突破出来るとは考え難い……」
そんな少女の背後で独り、バルバラはツギハギだらけのその顔を自らの掌で覆い隠し、その内側で譫言のように声を漏らす。
「たとえ第四階層を突破出来たとしても……次に待ち構えるのは地獄の第五階層を牛耳る、あのシスター・アポロニアだ。アレは第四席や第五席にも引けを取らぬ怪物……異能の相性如何によっては……其処で二匹共々、脱落していても不思議ではない……」
目の前の少女が聞いていようといまいと関係無く、バルバラは後悔の念を吐き出し続ける。ずれた丸眼鏡を指先で持ち上げ掛け直し、その奥に控える鈍色の三白眼が恨めしそうに天を仰ぐ。
「そして事実、材料共は消息を絶っているわけで……なあ親友、この状況をどう思う?」
「んん~? そりゃあ~……まァ~……叫喚地獄のどこかで野垂れ死んでおるのではないかの~ォ?」
何だかんだでバルバラの話をちゃんと聞いていた少女、筆を動かす手は止めないままに言葉を返す。そしてその返答に対し、バルバラの表情は一層翳りを帯びていくのだった。
「やはりそう思うよな……嗚呼……絶望的だ……ようやく手に入ると思っていた新しい材料が……俺の手元に届くことなく、篩いにかけられてしまうとは……」
「あァ~……わしのォ~、かねがね疑問に思っとったんじゃが。おぬしの権限ならば、獄卒どもに手出しさせぬよう命令することも出来るじゃろ。なぜそうしなかった? そもそもそんなに欲しい材料だったなら、おぬしの方から迎えに行けば良かったじゃろ」
「……同胞よ。俺は常に忙しい。迎えに行く暇などない」
斯くいうバルバラは先程から、作業を続ける少女とはまるで正反対。特に何をするでもなく、その背に凭れかかり、愚痴をこぼすばかりなのだが。もはやツッコむ気すら失せたのか、少女は無言のまま肩を竦めてみせるのだった。
「それにな……いいか? 生きるとは抗うということだ。困難に立ち向かうその姿、その瞬間にこそ、生命は至高の輝きを放つ……そこに俺はそそられるッ! 創作意欲が掻き立てられるッ!!」
途端に熱を上げたバルバラの語り口に呼応するかのように――彼女の頭に突き刺さっている巨大な螺子、その傷口から血が滲む。
「俺は妥協が出来ないッ! この程度の試練、突破してみせてこそ……この俺に相応しい逸材だと言えるのだッ!! そう……なのだがッ……しかし……ぐゥ……ッ!!」
「難儀な性分じゃの~ォ」
浮き沈みの激しい情緒と血圧をもはや自分でも御し切れないのか、ぐるぐると目を回し悶えるバルバラ。それを特に心配する素振りもなく、少女は依然として目の前の絵に集中するのだった。
障子の向こう側に見える、悠然と広がる赤い空。黒い太陽の日差しに照らされて――その宙には黒い雲のような、何かが漂っている。
よく見てみればその何かは不定形だがしかし、群れを成して蠢き犇めく確かな生物であることが解る。更に目を凝らすと、その表面には無数の目が付いていることも解る。その奇妙な生物群は何をするでもなく、鳴き声の一つも発しないままにただ無数の目で大地を見下ろしていた。
火山と、マグマと、奇妙な生物のみが跋扈するその大地に、唯一存在する建造物こそが彼女達の工房であり――其処に棲む彼女達の日常とは、斯様なものであった。芸術家が無限の時間を手に入れたら何をするのか。それはやはり、創るのだろう。ただひたすらに、創り続けるのだろう――それこそが彼女達の理想とする真の絵描き、真の芸術家の姿。
そういう意味で、彼女達は変態だった。彼女達の餓えと渇きは、いくら創っても収まらず――怪異として永く在り続けた今も尚、その在り方を一瞬たりとも見失うことはなかった。
描きたいものを、描き続けることが、許される。それが芸術家にとって、どれほど幸福なことか。ならばそれを叶える地獄とは、芸術家にとって天国にも等しい居場所であった――が。哀しき哉。そんな彼女達の、無限に続くはずだった日常もまた、終わりを迎える事になる。
「主殿ぉ~」
その終わりは、斯くして訪れた。
「大変ですぅ~主殿ぉ~」
間延びしたような、駘蕩としたような、伸び伸びとしたそんな声が不意に、縁側の方から聞こえてきた。
声の主は、とてつもなく長い首を、蛇のようにくねらせて――その顔を宙に漂わせている。黒い丸髷の、真っ白な肌の、女の顔。それは畳に座るバルバラ達を外から眺め、無表情のままにその口から声を発していた。
「おォ~、轆轤首。久しいの~ォ」
その長過ぎる首は間違いなく、どこからどう見ても文句のつけようが無いほどに轆轤首。何もおかしなところはない。むしろそう呼ばれることに納得しかない姿形だろう。
奇妙だったのは――その作画であった。轆轤首と呼ばれたその女は、まるで絵の中からそのまま飛び出してきたような――例えるならば、三次元に二次元のキャラクターが居るような――明らかに異なる世界観の作画をしていたのである。
「轆轤首……喋る人造怪異か。いつ見ても面妖なものだな……」
「ふふ。わしが丹精込めて造った――もとい描いた、自慢の人造怪異じゃ。可愛いじゃろ」
「はいぃ~わたくしは主殿の自慢の人造怪異、かわいいかわいい轆轤首ですぅ~。バルバラ様もお久しゅうございますぅ~」
絵描きの少女を主殿と呼ぶ、その一風変わった人造怪異は、やはり表情一つ変えないまま、お辞儀をするような仕草で首を傾けた。唐突に現れたその異形を前にして、主たる少女は絵を描く手を止め、気安く手を振ってみせる。
「それで、どうしたのじゃ? おぬしには駅の見張りを任せていたはずじゃが――」
そう。轆轤首は駅の見張りを任された人造怪異。もしも何者かが第六階層に足を踏み入れた場合、報告するよう命じられている。それが今、此処に居るということは――
「はいぃ~侵入者ですぅ~。見慣れぬ怪異が二匹ぃ~駅から出て真っ直ぐこちらにぃ~近付いてきておりますぅ~」
――つまりは、そういうことだった。