拷问教會の日常 下
黒縄地獄。八大地獄の第二階層。
肌を刺すような寒い気候、その冷たい風に乗ってどこからか漂ってくる微かな死臭。住人は暗闇の中にまるで潜むようにして暮らし、辺りは静謐に包まれている――かと思えば、時折聞こえてくる歓喜の悲鳴。あるいは、苦悶の叫喚。
同じ地獄の一部でありながら等活地獄とはまるで空気からして別物の、異なる世界の在り方が其処には広がっている。
かつては其処も等活地獄と同様、複数の勢力が鬨ぎ合う土地だった。およそにして一万年ほど昔、そこに突如として現れた一大勢力こそが『拷问教會』である。
拷问教會の開闢王は、黒縄地獄に『救済』を齎した。脳を変質させる程の快楽を齎す、違法ならぬ異法薬物はそれを中心とした等価交換の社会を実現するにまで至った。
拷问教會の民は『救済』の為ならどんな命令にも従った。彼らは『救済』を対価とした労働力となり、永い年月を掛けて『大聖堂』や『工場地帯』など黒縄地獄におけるインフラの整備に尽力し、今の黒縄地獄が形作られたのだ。
とは言え、当初はそんな拷问教會に対して反抗する敵対勢力も少なくはなかった。しかし『救済』の普及と共に次第にその数も減らしていき、やがては黒縄地獄全体の九割以上が拷问教會に与する結果となったわけである。
それでも、ゼロではない。不特定多数の人間が其処で群れを成す以上、どうしたってイレギュラーは現れる。
開闢王は秩序を乱す者を許さない。拷问教會の幹部は魔女狩りと称し、常に裏切り者の動向に目を光らせているのだ。
等活地獄から流れ着いた者は、猿夢列車内で必ず開闢王の噂を聞かされる。神秘貪る開闢王、彼女は何でも識っている。どんな質問にも答えてくれる。
その噂に惹かれて拷问教會に近付けば最期、待つのは『救済』による洗脳か、はたまた『救済』の材料そのものと成り果てるか。どちらにせよ、拷問である。
もしも拷问教會にとって有益や情報や異能を齎す人材であると運良く認められれば、拷问教會の構成員として働く道もある。上手く功績を立てれば幹部の地位に上り詰めることもあるだろう。
つまり現在、幹部と呼ばれる者達は相応の働きを以てして、拷问教會に貢献したという事でもある。
幹部は、組織に忠誠を誓った者として新たな名前を開闢王から授かると共に、今後更なる働きを期待され――例えば各階層にスパイとして潜入し、地獄全体の情勢を裏から操るなど――大きな役割を担っている。
そんな幹部には序列が存在した。現在は全十二席、特にその上位六席は組織内でも開闢王に次ぐ特権が与えられている。
対する下位六席は実働部隊。主な仕事は黒縄地獄内に残存している不穏分子の殲滅、等活地獄内での『救済』流通、有望な人材の誘拐、等活地獄から流れ着いた来訪者の対応など、現場に立つ事が多い。
同じ幹部でも仕事が違えば待遇も違う。下位六席はその役割から事実上、上位六席に代わり働く直属の部下にあたる。
それでいて下位六席は末端の構成員を指導する役割も担っていて、しかもその一方で末端の構成員達はというと組織内で成り上がるべく幹部の座を、即ち下位六席の座を虎視眈々と狙っているわけである。
つまるところが中間管理職。上と下に挟まれる彼女達は、拷问教會の中でも特に気苦労の絶えない立場なのである――
◆
「それではァ! シスター・アガタの幹部入りを祝してェ! 乾ッ杯!!」
そんな下位六席を束ねる実質的なリーダーにして、拷问教會の第七席『シスター・ドロテア』――本名を『泥舟朧』。これは彼女が、かけがえのない仲間と過ごした、ある特別な夜の記録である。
それは本編からおよそ三十年前。黒縄地獄の中央区、迷宮のように歪んで曲がって入り組んだ、暗黒街の路地裏。赤い月の下に照らされて――彼女達は今日、ある一軒のあばら家に集まっていた。
外壁は煉瓦を積み上げただけ、机は錆びついたパイプとプラ板を組み合わせた形だけの代物で、天井は無く、地面は剥き出し、殆ど吹き曝しのようなその廃墟。
普段ならば当然月明かり以外に光源など無いそのあばら家には今夜、そこら中に灯った蝋燭が立てかけられていた。
まるでこれから百物語でもするのかと言わんばかりの奇妙な光景で――そんな大量の蝋燭に照らされて、円卓を囲むように並べられたパイプ椅子に腰掛ける、修道服を身に纏った六人のシスターがいた。
彼女達は片手に持った白く濁ったグラスを勢いよくあおり、中の透明な液体を喉の奥へ次々と流し込んでいったのである。
「ッ……! かァ~~~~ッ! 不味いッ! まったく飲めたもんじゃねえなあ! はっはっは!!」
グラスの底を机の上に叩きつけながら、最初にそれを飲み干した女が声を上げる。
光も通さないような漆黒の肌。鋭く光る金色の双眸。長身で筋肉質、黒い修道服の上から黒い革のジャケット羽織り、丸いフレームのサングラスを掛けた、黒髪ショートパーマのその女。
顔一面に薔薇と茨を模したタトゥーが隙間なく掘られており、首から下げた大きなロザリオは毒々しい金色を放っている。耳も鼻も唇もピアスだらけで、見るからにカタギではない。
そんな強面な印象のある見た目からは意外な程に、彼女の笑顔と口調は気さくなものだった。最初に乾杯の音頭を取ったのも彼女である。周囲からは物音一つしない淋しげなその場所で、彼女の豪快な笑い声だけがこだましていた。
「そりゃそうですわよォ! ただの消毒用エタノールを水で割っただけの代物ですものッ、アルコールの味しかしませんわァ!? はァ……うぅ……相変わらずクッソ不味いですわァこれェ……」
豪快に笑う革ジャンのシスターに対し、その右隣で車椅子に座る両脚の無い修道女――拷问教會の第十一席、栗色ツインテールのシスター・エウラリアは舌をべっと突き出しながら苦言を呈する。
アルコールの苦みが彼女には合わなかったのか、その表情は不満ありありといった様子で歪んでいた。
「うふふっ……そうですか? ほんのり甘くて、美味しく感じますよ。私には」
エウラリアの向かい側の席では、二尺にも及ぶ高身長、拷问教會第八席、黒く長い髪のシスター・アグネスが微笑んでいる。グラスの底にうっとりとした視線を落とし、その頬は微かに朱を帯びていた。
修道服としては些かタイト過ぎる生地が、彼女の凹凸はっきりとした身体のラインを浮き彫りにして。ねっとりとした声の質も相まり、何やら無駄に色気を感じさせてくるようである。
「はっはっは!! 景気付けなんだから、こういうのは勢いが肝要なんだよ! それにほら、アグネスもこう言ってることだしよォ、そのうち手前さんもそいつを美味く感じる日が来るかもだぜい?」
「わたくしにはただただ苦いだけですわァ……まあでも、最近は舌がおバカになってしまったのか、確かに少し飲み慣れてきましたわね……」
不味さを訴えかけるように眉を顰めるエウラリアとは正反対、くしゃっと心底愉快そうに破顔する革ジャンシスター。
そんなエウラリアへ舐め回すような視線をアグネスは密かに向けていたわけだが、それはさておき。
「よいのですっ!」
溌剌として、それでいて生真面目そうな声色が、アグネスの左隣に座っているピンク髪の少女の口から飛び出した。
「飲酒とはそもそもアルコールを摂取するための行為ですから、それでよいのですよシスター・エウラリア! それに酔っ払ったらどうせ味なんてわからなくなるんですから問題ありませんっ!」
そんな身も蓋もないことを宣うこの修道女は、拷问教會第十席、シスター・クリスティーナ。死体のような青い肌からは生気を感じさせず、常に開き切った瞳孔は正しく死人のそれである。
「自分がそうですっ! 自分にはもはや何もわかりません! 呑めれば何でもよいのですっ! あひゃひゃっ!!」
しかして今やその青い肌には強く赤みを帯びていて、目はぐるぐる螺旋を描いていて。
その場を仕切っている革ジャンシスターも「まだ一杯目だよな?」と思わず目を丸くしているようだった。
「こうしてヒトはアルコール中毒に成っていくのだな。斯く言う我も、最近はこれを飲まなければ手が震えるようになってきたぞ。ククッ……」
既に出来上がりつつクリスティーナの左隣、その肩を然りげ無く支えてやりながら、怪しげに笑うのは拷问教會第九席、シスター・セシリア。
この場においては唯一、頭から丸ごとすっぽりとシスターベールを被って、全身の殆どを漆黒の修道服で覆い隠している彼女。鋭い目付きと怪しげな口元だけが、まるで闇の中に浮かび上がるようだった。
「しっかし怪異の身体というのは便利なものですねっ! アルコール中毒で死んでも次の日には蘇生できますし! 呑兵衛にとっては極楽も同然ですっ! というわけで自分、おかわりです! 今度はメタノールを所望します! ロックでっ!!」
「ククッ……今宵は無礼講ではない、やめておけクリスティーナ。それといつも言っているが貴様が死んだ後に介抱をしているのは我だぞ。ゲロまみれの死体を処理する我の身にもなるのだクリスティーナよ……」
開幕から人一倍はしゃいでいるクリスティーナを隣で静かに宥めるセシリア。これも彼女達にとってはいつもの光景である。
「っ……うぁ……喉が、焼ける……」
そしてエウラリアの右隣に座り、やっとの思いでグラスの中身を飲み切って呻き声を上げているこの少女は拷问教會第十二席、シスター・アガタこと阿片美咲。今宵の宴の主役である。
染めた金髪は既に色落ちしていて頭上は黒髪と化している。黒いマスクを顎の下にずらした彼女の頬には、裂かれた傷痕が垣間見えていた。
その傷痕を周りは特に気にもしていない様子だったが、本人はそうもいかないようで、グラスを口元か離すとすぐにマスクを元の位置に戻していた。
「ククッ……無茶はするなよ、新入り。宴の主役が早々に退場とあらば興醒めもいいところだからな。クククッ……」
「っ……あ、嗚呼……」
視線を合わせないままに声を掛けてきたセシリアに対し、アガタは苦みに悶えながらもどうにか言葉を返す。
「……そもそもエタノールって……地獄で手に入る物なのか……?」
アガタが等活地獄に居た頃、屑籠に居た頃は、曲りなりにも酒なんて代物はお目にかかったことすら無かった。
拷问教會の仲間入りを果たし、晴れて幹部となった彼女は今日、初めて味わったアルコールの味に悶えながらも、その視線は興味深そうにグラスの底へと注がれている。
「そこはわたくしも不思議に思っているのですが……しかし現にこうして、開闢王は他階層の遠征から戻って来られる際、我々への手土産としてこのように物資の一部を持ち帰ってきてくださるのですわ」
そんなアガタの、誰に投げ掛けたわけでもない独り言のような疑問に応えたのはエウラリアだった。自分のグラスの縁を親指で拭いながら、彼女は囁くように口を開く。
「……地獄には植物が自生できる土地は無いし、石油のような資源も採れないはず。開闢王はどこに行ってこんな物を……他の階層には一体どんな世界が広がっているんだ……?」
「興味本位で第三階層に近付こうとするのは止めたほうが宜しいですわ。一度でも足を踏み入れれば最期、二度と戻ってこれなくなりますわよ」
第三階層、衆合地獄の酩帝街。幹部ともなれば噂くらい知っている。進むことも戻ることも出来なくなる忘却の街。しかしその詳細までは、少なくとも下位六席の立場では手に入る情報に限りがあった。
「だからこそ開闢王は、わたくし達に先へ進むことを禁じているのです。自由に出入りできるのは開闢王と、選ばれた上位六席の方々だけですわ」
「……じゃあ、この酒の出所は結局、解らないのか……?」
「ええ。上位六席では無いわたくし達に、地獄のシルクロード――すなわち、三獄同盟に関わる機密情報を知る権利はありませんもの」
「……三獄同盟……」
三獄同盟は拷问教會にとって重要機密。幹部でさえ極一部の関係者以外、深く識る事は許されない。開闢王は下位六席を含む拷问教會の構成員に対し、三獄同盟について詮索しないよう戒律を設けている。
開闢王が何を企んでいるのか、どこを目指しているのか、殆どの構成員が何も知らない。それでも真実のみを口にする彼女だからこそ、構成員達は何も知らずとも付いていこうと思えるのだ。
しかしその一方で、皆に課された戒律さえも無視出来る特別扱いを許された極一部の関係者というのが、上位六席というわけである。
「……同じ幹部なのに、随分と待遇が違うんだな……」
「――そうッ! 全くその通りなんだよッ!」
消え入るようなアガタのぼやきに、今度は革ジャンのシスターが耳聡く反応していた。夜の闇によく通る声量で、彼女はアガタを勢いよく指差す。
「手前さんもよく解ってんじゃねェかッ! 流石は己等が見込んだだけの事はあるぜい! はっはっは!!」
彼女はそうして笑いながら、おもむろに――懐から短刀を取り出していた。
その短い鞘を引き抜いて軽く放り投げてみせると、彼女は剥き出しの白刃を振りかざして――
「己等ァ、上位六席の事が滅法気に食わねェ!」
机の上に先程から所狭しと並べられている、焼けた肉の塊に短刀を突き刺したのだった。
そして短刀をまるでフォークのように、突き刺した肉塊ごと持ち上げて、彼女は豪快にそれを頬張り、食い千切る。
「己等たちァ、誰よりも! 上位六席のアイツラよりも! 開闢王の事を慕って、開闢王の為に汗水垂らして働いてるぜッ! そうだろいッ!?」
突如として声を張り上げて、まるで狂言を回すような言い回しに熱が籠もり始めた彼女の姿に、アガタは唖然と目を丸くしていた。その隣でエウラリアは「また始まりましたわね」と呆れたように溜息を吐いていた。
「それなのに上位六席ときたらァ、開闢王の善意に胡座かいてェ、好き放題やりやがってよォ! 己等達に等活地獄の無茶なシノギ押し付けといて、手前等は顔も見せに来やしねェ! 礼の一つもされたこたァ無いンだぜェ!? 信じられッかよォ!?」
「そうだそうだーっ! もっと言ってやってくださいよぉボスぅ! あひゃひゃっ!!」
「応ともよッ! いいか手前さんらァ! いつか絶対ェ、この己等が――拷问教會第七席、シスター・ドロテア様がッ! あの腐った老害どもに目に物見せてやるッ! そンで己等が出世した暁にはァ、手前さんらの待遇ももっと良くしてやるぜェ! だから安心して付いてこいよォ、このドロテア様にッ!!」
そうして革ジャンの彼女――もとい拷问教會第七席、シスター・ドロテアは立ち上がって、皆の前で堂々と胸を張ってみせるのだった。
「……まッ! とは言え、現状がすぐに変わるわけでもあるめェ。だからこうして、手前のことは手前で労ってやるしかねえってこったな! 今日はじゃんじゃん飲んで食えよォ!」
「それでは不肖クリスティーナ、遠慮なく! いただきまーすっ! あひゃっ!」
その言葉を待ってましたと言わんばかり、両手にナイフを二振り携えて。先程からやんややんやと囃し立てていたクリスティーナが我先にと机の上へ手を伸ばしていた。
無造作に積まれた肉の塊へ躊躇いなくナイフを突き立てて、豪快に喰らい付く。中の骨ごと噛み砕くその姿に、ドロテアもまた満足気に笑っていた。
「特にアガタ! 今日は手前さんの第十二席就任を祝した歓迎会でもあるんだぜい! ほら、食え食えいッ!」
「……でもこれ、何の肉なんだ……?」
「知らぬが仏ですわ」
エウラリアはもはや慣れた手付きで自分の前にある皿の上、肉の塊をナイフとフォークで丁寧に解体していく。その様子を隣から訝しげに眺めるアガタであった。
このような飲み会形式の宴は、ドロテアがいわゆる幹事を務め、定期的に開催されている。
下位六席の幹部間で情報交換という名目、親睦を深めて互いの距離を近付け信頼を築き上げようというのがドロテアの狙いだった。
つまり彼女達にとって今日の宴はある意味いつもと変わらない、何でもない日常の光景だったのだが――
シスター・ドロテア。彼女にとって今夜は、いつもより少しだけ特別な、常ならざる夜だったのである。
「……ええ、ええ。ですがこうして、下位六席の座が全て揃う日が訪れるとは、思いませんでしたね」
二杯目の盃に口を付けながら、シスター・アグネスはふと感慨深そうに言葉を溢す。
「第十二席の座に至っては、私が知る限りでも三百年以上は空席のままでしたから」
「おォ、そうさな。己等が第七席に繰り上がってから、ざっと千年は経ってる。拷问教會が誇る全十二席の幹部は、これでようやく出揃ったってワケだ」
懐から取り出した黒い葉巻、蝋燭で火を点けたそれをゆっくりと口元へ運びながら、ドロテアは言葉を返した。
「あら、そんなに経っていらしたのですか? でも……」
煙を吹かすドロテアに対して僅かに身体を捩り距離を取りつつ、アグネスはわざとらしく小首を傾げてみせる。
「思えば私が第八席に収まった頃、第九席も第十席も第十一席も第十二席も居なかった頃から、私とドロテアは二人まとめて下位六席と呼ばれていましたよね」
向かい側の席、ドロテアとアグネスのそんな会話が不意に耳に入ってきて――切り取った肉の破片を恐る恐るといった様子で咀嚼していたアガタは思わずその動きを止めていた。
「不思議だったんです。下位六席という呼び名は、私が来る前から既に定着していた。つまり下位六席は、もともと六人揃っていたはず。それがなぜ、空席になってしまったのか。かつて下位六席だった幹部達は、どこへ行ってしまったのでしょう?」
「……ふむ。それについては我も気になっていた」
早々に酔い潰れたクリスティーナを膝枕しながら、セシリアがアグネスの言葉に続く。
「気にはなっていたが……幹部にはそれぞれ、課された使命とその守秘義務がある。おいそれと尋ねてよいものか……迷っていた。我だけではない、きっと他の者達もそうだろう」
「……そろそろ話してくださっても宜しいのでは? シスター・ドロテア」
皆の視線がドロテアへと集まる。ドロテアは深く呼吸するように葉巻を吸い上げ、一気に燃えカスとなったそれを掌の中で握り潰した。
「あ~……まァ……そうか、そりゃ気になるよなァ。あンま面白れェ話でもねェんだが……あいわかった! ちょうど良い機会だ、話してやるよォ」
黒い煙を吐き出しながら、にやっと口角を上げてみせるドロテア。丸いフレームのサングラス、そのずれていた位置を中指で押し込むようにして元に戻す。
「千年前だ。当時の下位六席が徒党を組んで、上位六席の大幹部サマを闇討ちしようとしたんだよ。つまるところが、拷问教會への裏切りだなァ」
そうして語られる、過去の記録。思い返すドロテアの表情は、どこか翳りを帯びているようだった。
「下位六席つってもォ、正確には己等を除いた五人だなァ。その頃の己等は幹部になりたての第十二席。つまり当時の第七席から第十一席が反旗を翻したってワケさァ。だが結局、アイツラの闇討ちは失敗に終わったんだがねい」
「……そんな事があったのか……」
「それで、その裏切り者の元幹部達はどうなったんですの?」
「あァ、全員始末したよ。この手でなァ」
極めて淡薄にそう言って、ドロテアはサングラス越しに自分の右手を見つめていた。ドロテアの両手は黒い革の手袋によって覆われており、拳を握り締めるとギチギチと軋むような鈍い音が鳴る。
「……あァ、いや。全員じゃねェか。一人だけ……取り逃がしちまった奴がいる。己等はアイツの事を、今でもずっと追い続けてる。裏切り者への制裁。そいつが己等に課されたァ、幹部としての使命ってヤツだぜい」
ドロテアは皿の上で肉塊に突き立てられていた短刀を引き抜いて、今度は血の滴るその刃へ視線を落とした。その獣のような金色の瞳孔は、まるで遥か彼方の獲物を見据えているようで。
「千年も追い続けているボスの執念も凄まじいが、その追跡から逃れる事が出来ている裏切り者の元幹部も……正直、末恐ろしいな……」
そこまで聞いたセシリアが思わず口にしていた、ともすれば裏切り者を評価するような危うい発言に対して、ドロテアはギョロリと視線を動かし――
「そうッ! そうなんだよォ! アイツァ逃げるのも隠れるのも上手くてなァ、悔しいが己等より一枚上手だァ。解るだろォ? 己等の苦労が! はっはっは!」
――果たしてどういうわけか。ドロテアは途端嬉しそうに、弾けるような笑顔を溢していた。
「でも見当は付いてンだ。等活地獄の十六小地獄、裏切り者が潜む隠れ家としてはちょうど良いだろォ? だから己等も普段は等活地獄でシノギをやりつつ、十六小地獄内に紛れ込んで情報集めてんのさァ」
ドロテアは上機嫌なまま、もう何杯目かの酒をあおる。もはや酔いが回って感覚が薄れてしまったのか、アルコールの苦みも喉の焼けるような痛みもまるで感じていないかのようにドロテアは、そのエタノールの水割りを美味そうに飲み干してみせた。
「そんな折によォ、シスター・アガタ、手前さんを見つけたッてワケさ。ありゃ僥倖だったぜい。思った通り、開闢王は手前さんのことを高く買ってくれたし、実際すぐに幹部へ昇進だ。己等の目に狂いはなかったなァ! はっはっは!」
拷问教會のスパイは、地獄のあらゆる階層に潜んでいる。第七席は等活地獄の担当だった。
ドロテアは等活地獄で密かに薬物を流通させていた売人であり、そして当時心を病んでいた阿片美咲はドロテアと巡り合った。そこからドロテアの紹介で阿片美咲は拷问教會へ入信するきっかけを得たのである。
「……その節は、どうも……」
そんなアガタは少し気恥ずかしそうな表情で、目線をドロテアから逸らしつつ、殆ど中身の入っていないグラスに口を付けていた。
「へえ! アガタもボスから直接スカウトされたクチなんですねぇ! 自分とセシリアもそうなんですよーっ!」
セシリアの膝上に倒れ込んでいたクリスティーナが突然起き上がる。机の上へ前のめりに身体を乗り出して、その顔を勢いよくアガタのそれに近付けた。
「改めまして自分、クリスティーナですっ! 大聖堂の護衛! これから一緒に頑張りましょうねっ!」
「……よ、よろしく……」
クリスティーナの差し出した青い肌の右手にアガタも応じようと、恐る恐る手を伸ばそうとして――
「……あ、ちなみにクリスティーナさんの異能は彼女の体液に触れるだけでも発動する事がありますので、気を付けてくださいましね」
「…………」
よく見るとクリスティーナの掌には尋常ではない量の汗が滲み出ていた。エウラリアの指摘でそれに気付いたアガタは動きを止め、訝しむようにクリスティーナの顔を睨み付ける。
「あひゃひゃっ!! これは失敬! 自分、異能の制御が下手くそでしてっ! 気を付けていただけると幸いですーっ!」
「……なんだこいつ……」
「はっはっは!!」
クリスティーナにとっては自己紹介も兼ねた冗談半分、警告半分といったところだったのだろう。それもどうやらいつもの事だったようで、傍で見ていたドロテアも口を挟むことなく笑っていた。
「……あァ、確かにちょうど良いや。もうこの流れで言っちまうかァ」
そうして一頻り笑った後、おもむろに背筋を正し始めるドロテア。持っていた短刀を肉塊へ、まるで鞘代わりのように突き刺す。
「さて! 今宵は宴も酣になってきたところだが、手前さんらの耳に入れておきてェ話がある。聞いてくれェ」
その一声で皆の視線が再びドロテアへと集まった。ドロテアは皆の顔へ順番に視線をやった後、咳払いを一つしてみせて、そうしてゆっくりと口を開き始める。
「己等はよォ、手前さんらのことは家族だと思ってる。ちと大袈裟に聞こえるかもしんねェが、己等にとっちゃそうなのさァ」
ドロテアの酒に灼けた声色は、夜の闇に存外よく通った。
「手前さんらは己等が選んで、開闢王に選ばれた、かけがえのない仲間だ。一緒に開闢王の役に立ちたいと思ってくれてる同志だ。手前さんらが傍で支えてくれりゃあ、己等ァ百人力さァ」
からっとした笑顔で、そんな事を恥ずかしげもなく彼女は言ってのける。
「だから……そんな手前さんらにだからこそ、折り入って頼みがあるんだ」
そしてここからが本題だと言うように、ドロテアの声量は一気に落ちる。低く、囁くように。まるで周囲を警戒しているような慎重さで。
「己等ァいつも言ってンだろォ? 上位六席、あの腐った老害どもに目に物見せてやるってなァ。ありゃあ別に冗談でもなけりゃあ……何の算段も無しにホラ吹いてるワケでもねェのさ」
彼女の表情はここにきていつになく真剣そのもので、恐ろしいくらいの気迫をどこか感じさせるものだった。その場に居る誰もが、思わず息を呑む程に。
「己等に計画がある。下剋上だ。今の上位六席を引きずり降ろす」
そんな彼女の口からやがて飛び出してきたその言葉に、誰もが耳を疑った。
空気が凍りついたような静寂。次に何と発したらよいものか、誰もがその静寂の中で迷いを抱く。
いつもの冗談などではない。彼女達には解るのだ。ドロテアが本気であることを。
「それって……それこそ、過去の下位六席がしでかした……拷问教會に対する裏切りなのでは……?」
だからこそ、皆を代表してシスター・エウラリアの口から出たそれは、至極当然の疑問だった。
拷问教會では幹部間の戦闘行為は御法度。闇討ちなんて以ての外。だからこそ千年前の下位六席は粛清された。そのはずである。
「違う。全部、開闢王の為だ」
そんなエウラリアの不安に触れる瞳を真っ直ぐ見据えて、ドロテアは迷いなく断言する。
「今ならわかる。千年前の事件も、本当は裏切りなんかじゃねェ。むしろ拷问教會を、開闢王のことを裏切ってンのは……今の上位六席の連中だ」
語るドロテアの眉間には、忌々しそうに歪んだ皺を作り出していた。
「特にあの大幹部どもは、開闢王に隠れて良くねェ事を企んでやがる。このままアイツラを野放しにしておけば、拷问教會だけじゃねェ、地獄が終わる。己等はそいつを止めたい」
「……根拠は?」
「詳しくはまだ言えねェ。だが確かな筋の情報だ。その為に己等は今日まで準備してきた。仲間になる幹部を厳選して……手前さんらをスカウトしたのも、その為だ」
「…………」
それ以上の質問も無く、皆揃って押し黙ってしまう。その様子にドロテアは苦い表情を浮かべながらも、懸命に口を動かす。
「開闢王は、ただ沈んでいくばかりだった己等の人生に、居場所を、仲間を、生きる意味を与えてくださった。その恩に報いてェんだ。だから己等ァ、開闢王に仇なす裏切り者は絶対に許せねェ。だから……上位六席は潰す」
声に混じって吐き出されるその息には、怨みの熱が乗っていて――
「……そこで物は相談だァ。どうか己等の計画に、一枚噛んじゃくれねェかい。その力を、己等に貸しちゃくれねェかい」
そしてこれが、今宵の本題。ドロテアにとって特別な夜の、本当の始まり。
「下位六席が全員揃った今、己等にとっちゃこれほど頼もしいこたァねェ。まさに百人力さァ。一緒に開闢王を、この場所を守ってほしいんだ」
堂々とそこまで言い切って――しかし直後にドロテアは困ったように眉を下げ、溜息を漏らすのだった。
「……まァ、とは言えだ。無理強いも出来ねェわな。危ねェ橋を渡ることにもなる。だから……今日ここでした話は、聞かなかった事にしてくれて構わねェ。それで己等が手前さんらをどうこうしようなんてつもりもねェ」
そうして、ゆっくりと、深々と――彼女は皆の前で頭を下げる。
「それでも……頼む。己等に、命預けてくれねェか」
ドロテアにとってこれは、ただのお願いだった。そもそもドロテアは彼女達に命令出来る立場ではない。血を分けた家族でもない、ただ同じ職場で働いているだけの同僚である。
それもドロテアには解っていて、だからこそこれは分の悪い賭けであることも重々承知していた。
そして彼女達にとっても、これは乗る意味の薄いハイリスクな賭けである。全十二席の幹部が、何故に上位と下位で分けられているのか。そこには明確な差があるからだ。
あらゆる意味で化物揃いの上位六席に対して、下位の自分達が敵うはずもない。それは誰よりも彼女達自身が一番よく解っていて――
「具体的に、これからどうするつもりだ?」
押し黙るようなその静寂を打ち破るように、最初に声を上げたのはシスター・アガタだった。
「……まずは等活地獄の幻葬王、芥川九十九を捕獲する」
ドロテアの口から出たその名に、アガタの目付きは更に鋭くなっていく。
「今の開闢王は幻葬王の秘密に夢中だ。だからそいつを、己等達だけの手柄で捕まえて功績を立てる。己等達が上位六席より使えるってことを開闢王に認めてもらって、今よりも組織内での融通が利くよう計らってもらう」
悪魔の如き幻葬王、彼女には誰にも言えない秘密がある。その神秘に開闢王は予てより目を付けていた。阿片美咲がシスター・アガタとして幹部の座に収まる決め手となったのも、彼女が持ち込んだ幻葬王の情報に依る所が大きい。
「ゆくゆくは上位六席の暗部に潜り込み、証拠を掴む。ようはガサ入れだ。そうしてアイツラを拷问教會から追放した暁には、己等達が今の上位六席に取って代わるって寸法さァ。何も連中と正面からドンパチ殺り合うつもりはねェよ」
とは言え、危険なことに変わりはない。特にアガタにとって今の下位六席には何の思い入れも無い。
この場においては誰よりも、ドロテアに手を貸す理由が最も薄いのはアガタだった。
「……アガタ、手前さんには急な話で酷かもしれねェが……」
「やるよ」
――しかし、そのアガタが即答してみせる。
ドロテアでさえそれは予想外で、皆は揃って視線をアガタに向けていた。
「私は、強くなりたい。誰よりも、あの芥川九十九よりも。その為に、私は今此処に居る」
それはひとえに、愛故に。
ただ、想い人に振り向いてほしくて。彼女は自ら進んで堕ちていったのだ。歪んでいったのだ。
「そう、まだこんなものじゃ足りない。今の地位じゃ満足出来ない。今よりもっと強くなれるのなら、私はどんな地獄にだって耐えられる。……だから、アンタの賭けにも乗ってやる」
ならば確かに、彼女にとっては即答以外あり得なかったのだろう。
「アガタ……! 恩に着るぜい……!」
改めて深々と頭を下げるドロテアから視線を逸らして、アガタは相変わらず気まずそうにそっぽを向くのだった。
「あ、じゃあ自分もやりますっ!」
アガタの返答を皮切りに、続いてクリスティーナが高らかに挙手をする。
「その代わり! 今の上位六席をブッ潰した暁には! 自分の配属先を酩帝街に変えていただいてもよろしいでしょうか!?」
「あァ……! 勿論だァ!」
「あひゃひゃっ!! なら文句無しですーっ!」
ゲラゲラと笑い声を上げ、いつもの調子で酒をあおるクリスティーナ。相変わらずの騒がしい振る舞いは、この場においては何よりも頼もしく映った。
「あらあら。でしたら私も、協力いたしますよ」
妖艶な微笑を浮かべながら、続けざまにアグネスが口を開く。
「我等が偉大なる開闢王に仇をなすというのなら、他人事ではありません。ええ、ええ……それに……」
しかしその表情はどこか夢見心地な、酩酊とはまた違った朱を帯びているようで。
「第五席のシスター・アナスタシア……彼女には予てより、とても興味がありましたので……私にとっても、またとない機会ですわ……うふふ……」
「お、おォ……そいつは頼もしいなァ……」
どうやら彼女は彼女で邪な企みがあるようだが、しかし彼女の開闢王に対する忠誠だけは確かに本物である。色々と追求したい気持ちをぐっと堪え、ドロテアはひとまず彼女の言葉に頷き返すのだった。
「セシリアとエウラリアは、どうだ……?」
残った二人は無言のまま、互いに顔を見合わせる。片や覚悟を決めたように頷き、片や諦めたようにその両肩を竦めてみせた。
「……それが本当に、王のためになるのであれば。わたくしに拒否権などありませんわ。もとよりこの腕は王のため、正しき道を歩むために付いている」
静かに口を開いたエウラリア、彼女はおもむろに空のグラスを右手に掲げ、そのままいとも容易くそれを握り潰した。
「外道には……鉄拳制裁ですわッ!」
エウラリアが掌を広げると、握り潰したグラスは跡形もない塵芥と化していた。そのまま風に乗って、かつてグラスだった塵はさらさらと空に舞う。
「……ボス。等活地獄にて行場のなかった我を拾ってくれたのは貴殿だ。我は貴殿に救われた。そんな貴殿の頼みであれば、我はどこへでも馳せ参じよう」
そしてセシリア、彼女は端的にただそれだけを告げて、伝えるべきことは伝えたと言わんばかりにその後は口を噤むのだった。
斯くして全員の意見が出揃った。皆の期待が籠もった視線を一身に受けて、ドロテアはようやくその顔に笑みを蘇らせていく。
「手前さんら……!! 心底、感謝なッ!!」
その笑顔は心の底から出たような、屈託のないもので。この笑顔が出来るからこそ、シスター・ドロテアは同僚として以上に周りから信頼されるのだろう。
「絶対に後悔させないぜェ。己等に付いてきてくれりゃあ……この地獄の底で、極楽净土の夢……手前さんらに見させてやるよッ!!」
「おーっ! あひゃひゃひゃっ!!」
深けていく夜の闇に、彼女達の騒がしい声が響き渡る。それは、先の見えない地獄の底に希望を見出した彼女達の、ささやかな祈り。夏の暮のような、秋の暮のような、どこか淋しい泡沫の饗宴。
これから永遠に続く彼女達の日常の中で、その記録はきっと。思い返した時に、一際強く輝きを放つ一頁となるだろう。
斯くして、彼女達の騒がしい夜は幕を閉じる――
◆
――しかし、その三十年後。事態は急変する。
「ねえ。『あの人』がどこにいるのか、知りませんか?」
等活地獄に突如として現れた規格外の怪物少女、怪異殺しの悪魔――彼女の起こした騒動によって十六小地獄はその殆どが壊滅状態に追い込まれた。
そして滅ぼされた小地獄の中には当然、ドロテアが潜入していた組織も含まれていて。ドロテアは人知れず、怪異殺しの悪魔事変に巻き込まれ――呆気もなく死んでいたのである。
◆
「ッ……あ゙……? な、ンだ……これェ……」
目を覚ますと、彼女は洞窟のような見慣れない場所の中に居た。
冷たい地面の上に仰向けの状態で、彼女はその意識を覚醒させる。
「どこだ此処はァ……己等ァ、いったい……どうなって……ッ」
そして目覚めた瞬間、全身に痛みが走る。見ると、修道服や羽織っていた革ジャンに至るまで引き裂かれたような傷痕が残っている。
頭が割れるように痛い。混濁する意識の中、断片的な光景がフラッシュバックのように駆け巡る。
「……怪異殺しの、悪魔……! そうか、己等ァ……殺されたのか……アイツに……呆気もなく……ッ」
本当に呆気なかった。突然の襲撃に対応することも出来ず、振るわれた蛸の足のような物にドロテアは、もののついでのように轢き殺された。抵抗すら出来ず、たったの一撃で意識を奪われ、地面を転がり回り、死んだのだ。
怪異は不死身である。死んでも時間が経てば蘇生する。つまりドロテアはたった今、復活したばかりということになる。
しかしならば、此処は一体どこなのか。周囲は岩肌に囲まれた、見慣れない洞窟だ。死ぬ直前まで、こんな場所に居た覚えはない。
それにドロテアの視界に映る限りで、出入り口のような物も見当たらなかった。であれば、光の届かないはずのこの洞窟が、こんなにも明るいのは何故なのか――
「あ、やっと起きた?」
ドロテアが事態を把握出来ず困惑していた、その時だった。その人影がいつの間にか目の前に立っていて、こちらの顔を覗き込んでいることに気が付いたのは。
「おいっすー。ひっさしぶりだねー、どろろっち」
少女の姿をしているそれは、ドロテアの目の前にしゃがみ込み、右手に携えたランタンを顔の前に掲げてみせる。底抜けに明るい声の主、その少女の正体を悟って、ドロテアは大きく目を見開かせていた。
「オイ……オイオイ嘘だろ……!? その顔は……手前さんは……まさか……!?」
「めっちゃ驚いてんじゃん。うける」
白く透き通った肌。整った顔付きを彩る濃いめの化粧。プラチナブロンドの美しいロングヘアー、その頭上に赤く巨大な角が二本、頭蓋を突き破って隆起している。黒いマスカラが煌めく大粒の黒い右目に対し、長い前髪に隠れた紫の左目。何の変哲もない白いセーラー服の上からカーディガンを羽織った、その少女。
「嘘だろ……幻か……!?」
「うける。幻じゃねえって」
当時のそれとは髪型や服装に違いはあれど、その顔は――ドロテアが見間違えるはずもなかった。
だってそれは千年間、ずっと探し続けてきた大切な仲間の顔なのだから。
「安心しなよ、どろろっち。あーしは正真正銘、どろろっちが追っている裏切り者の元幹部――『滅三川・ジェーン・瞳』ちゃんだぜー」
ドロテアの元同僚、裏切り者の元幹部――『滅三川』を名乗る彼女はそうして、あっけらかんと笑ってみせるのだった。
「てかどろろっち、千年も経ってんのに全然変わってないね。うける」
けたけたと笑う滅三川に対し、ドロテアは奥歯を噛み締める。その目には心なしか水気を帯びているようだった。
「手前さん……今まで一体どこに隠れて居やがった……ッ!? 己等がどれだけ、手前さんのこと……探し回ったと思って……ッ!」
「マジごめんて、こっちにも色々事情があったんよ。後でちゃんと説明すっからさ、とりま安静にしときな」
「くッ……あぁ゙……ッたくよォ……!」
手と手を合わせて、あざとく首を傾げてみせる滅三川。体調まで気遣われてはそれ以上何も言えなくなってしまったのか、ドロテアは自らを落ち着かせるように深く溜息を吐く。
「それにしても凄かったねー、怪異殺しの悪魔。あーしも最初は何かの間違いだと思ったよ。まさかホントに、あの禁域の怪異すら倒して先に進んじゃうなんてねー」
「……は? おい待て……」
しかし滅三川が立て続けに放ったその言葉が、ドロテアの頭に再び血を昇らせていくのだった。
「あのバケモノ女……大聖堂に乗り込みやがったのか……!? 己等が眠っちまってる間にそんな……しかも、あの禁域の怪異を倒したって事は……じゃあ、己等の仲間たちは……!?」
「うん、残念だけどほぼ全滅。災害だねありゃ」
「ッ……クソが……!!」
握り締めた拳を、勢いよく地面に叩き付ける。ドロテアの瞳からは今度こそ、一筋の涙が流れ落ちていった。
「でもそう悲観的になることも無いよ。前にも教えたっしょ、どろろっち。このままじゃ地獄は終わる。でも怪異殺しの悪魔はね、あーしがずっと待ち望んでいた分水嶺。こっから地獄の未来は良い方向に変わってくんだ。むしろラッキーって思わなきゃ」
「何言ってんだ……そういう問題じゃねェだろ……ッ!!」
「そういう問題なんだよ。いいか? 過程や方法なんてどうでもいい、最終的に勝てさえすればいいんだ。このままじゃ、あの子達の犠牲すら無駄になるぞ」
滅三川が覗き込むようにしてドロテアと視線を合わせる。長い前髪に隠れていた左目が垣間見え、その奥で鈍く紫色に輝き放つ文様を、ドロテアは確かに視た。
「まさか諦めるなんて言わないよな? ほら立てよ。もう一度、あーしと手ぇ組もうや、どろろっち――いや、泥舟朧」
これは彼女が、かけがえのない仲間と過ごした、ある特別な夜の記録。
「まだ何も終わってない。ここからが本当の下剋上だぜ」
少女たちの運命が交差する――その前日譚である。