■■地獄 22
白熱していた話し合いは、二人の意思が擦り合わさると共に落ち着きを取り戻していった。ちなみにその間も彼女達は床の上に座り込んだまま、今もその状態で正面から向かい合っている。
かなり大声も出していたし、これが現実の電車の中ならマナーが悪いにも程があるが、今の猿夢列車内には二人を除いて誰も乗り合わせていない。
誰に臆することもなく、彼女達は思う存分に語らうことが出来ていた。
「……あー、すっきりした」
これまで柄にもなく空気を読み、他人に合わせてきた反動もあったのだろう。言いたいことを言い切って満足したのか、愛の表情はこれまでになく晴れやかなもので。
「いいでしょう。今のあなたになら私も心置き無くお話できます。黙っていろと言われましたが知ったこっちゃありません。ざまあみろです」
そうして一頻り満足し終えた後、彼女はようやく大幅に脱線した話題を元の路線に戻し始める。
「ただし。次にちりさんと再会したその時は――あなたのその素直な気持ちを、ありのまま伝えてあげてください。いいですね?」
「うん……っ」
溢れる涙も打ち止めになってきたところで、九十九もまた背筋を正し、愛の言葉に改めて耳を傾けていた。
「まず……酩帝街から脱出する為に、私達は暗号に挑戦しましたね。最終的にちりさんが一人でゴールに辿り着き、その特典として酩酊への耐性を獲得した。そのおかげで私達は酩帝街を脱出することが出来ました」
口火を切った愛の言葉で、九十九は酩帝街で過ごした日々を思い起こす。
愛とちりが『ゴール』に向かったのは、九十九が気を失っている間のことだった。九十九が目を覚ました頃には全てが終わっていて、ちりと再会したのはその数日後。酩帝街からの脱出を決行した当日のこと。
かくいう愛もまたゴールには辿り着けず、結局はちり一人に向かわせてしまう。その後の顛末を口伝てに聞いたのは愛も同様で、その時の愛の心境はというと、まさに今の九十九と同じだった。
「ですがその特典というのが、敵の用意した罠でもあったんです。暗号の出題者、私達の敵……シスター・フィデス。奴は特典と引き換えに肉体の一部を捧げるよう、ちりさんに要求してきたんです」
ちりから実際に伝え聞いた通り、愛は粛々と状況の整理に努める。
ある意味ではこの状況を齎した全ての元凶とも呼べる、悪辣な銀の魔女、シスター・フィデスの顔を思い浮かべながら――
「……それであのヒト、私達に黙って勝手に自分の身体を捧げちゃったんですよ! ホントばかですよね!?」
――その最中、どうやらふつふつと怒りが込み上げてきたようで。愛は腕を組み、ムスッとした顰めっ面を作っていた。
「肉体の一部を、捧げる……? どういうこと……?」
そして当然、九十九がそのワードを聞き逃すはずもない。
「……ようするに自傷行為ですね。自分で自分の身体の一部を切り取って……捧げる。敵はその行為を『净罪』と呼んでいたそうです」
愛は口を動かしながら、人差し指で床の上を優しくなぞる。
「ちりさんの辿り着いた座標は、それ自体が異能によって造られた特殊な空間だったようなんです。その『部屋』で肉体を捧げるという行為そのものが、特典獲得の条件……つまり『净罪』発動のトリガーになった、と」
「『净罪』は、あくまでもその『部屋』自体の異常性……となれば、『部屋』を造った張本人が存在するはず。『部屋』を造る異能か……思えば酩帝街には奇妙な建物が幾つか在った。それがフィデスの能力?」
「いえ……フィデスは心を読む『さとり』の怪異だと、ちりさんは言っていました」
「心を……それはそれで厄介だけど……」
戦闘経験においては一日の長がある芥川九十九。すぐさま愛の話から敵の能力を分析し、次に相見えた時に備えて考えを巡らせていた。
「重要なのはここからです」
しかし今は何よりも、一ノ瀬ちりの安否が優先である。
改めて口火を切る愛に合わせて、九十九もまた目の前の話に再び意識を集中させた。
「『净罪』によって捧げられた肉体の一部は、二度と元には戻らない。怪異としての再生機能がその部分にだけ働かなくなるんです。私の異能でも修復出来ませんでした」
「それじゃあ……今のちりは……」
「……私が定期的に麻酔を打ち込まないと、激痛で動けなくなる程の重傷です」
自分の身体を自分の意志で切り刻むなんて芸当は、普通の人間には到底真似出来ない。
それを鋼の意志と呼ぶにはあまりにも歪で、そういう意味では確かに一ノ瀬ちりもまた異常な資質を持つ一人だったのだろう。
「どうも話を聴く限り、『净罪』は誰でも出来るわけではなくて、何か……素質のようなものが必要みたいです。『適合者』とでも呼ぶべきその素質が、ちりさんにはあって……敵はそこに目を付けた」
そこまで話して、ふと何か気が付いたように愛はその顔を僅かに上げていた。
「そういえば……フィデスは拷问教會でありながら羅刹王とも繋がりがあるらしいと、ちりさん言っていましたね。その羅刹王が、酩酊に耐性のある『適合者』を探しているとも……」
点と点が線で繋がっていくような感覚に思考を委ねる。状況を整理していく程に、これまで漠然としていた『敵』の姿が少しずつ浮き彫りになっていく。
「つまり、ちりは『適合者』で……そうなると、黒幕は……羅刹王? フィデスもカタリナも、拷问教會としてではなく、羅刹王の命令で動いている……?」
「……だとしても。その『適合者』とやらを使って、羅刹王は結局何をしようとしてるんでしょうか……」
一ノ瀬ちりが狙われる理由も、狙っている敵の姿も、朧げながら見えてはきた。しかし現状、彼女達の知り得る情報だけではここまでが限界だった。これ以上は手詰まりである。
愛も九十九も、思わず揃って天井を仰いでいた。不意に微かな明滅を繰り返す薄汚れた蛍光灯が、鎌首をもたげるように彼女達を見下ろしている。
ここまで状況を整理してみて、彼女達が確信を以て理解したと言えることは、一つだけ。
「私たちはいったい、何に巻き込まれてしまったんだろう……」
そう、自分達は巻き込まれた。間違いなく、何か大きな流れの中に、意図せず首を突っ込んでしまったのだ。
じゃあ、一体何に。虚空へ問い掛ける芥川九十九に答えを返す者はいない。全てを覆い隠すような闇の中、猿夢列車はひたすらに走り続ける。
再び訪れた静寂の時間。答えの見えない迷宮に放り込まれてしまったようなその静けさ、その静謐を、もしも打ち破る者がいるとするのなら――
「何に巻き込まれたのかだって? そんなの決まっているだろう? 世界を救う戦いさ!」
――それはきっと、こんな風に。
戯けた口調で嘯く、道化の姿をしていることだろう。
ただひたすらに黒かった窓の外が、まるで長いトンネルから抜けたように、不意にその景色を様変わりさせる。
赤い空に、黒い太陽。灼熱のような昏い陽射しが、列車の中に挿し込んで――床の上に座り込む少女達の頭上、ヒトの形をした影を落とす。
その人影は、気付けば其処に立っていた。七色の布が幾重にも重ねられた分厚い虹色のフレアスカート。幾何学のまだら模様浮かぶパーティースーツ。白塗りの顔を左半分覆い隠す黒仮面。束感のある白髪。頭上には先が黒と白の二又に分かれた道化の帽子――
そんなあからさまに怪しい彼、もしくは彼女。性別不詳、正体不明、中性的な顔立ちをしたその道化師は、くつくつと嗤って――少女達を見下ろしていたのである。
「やあやあ、キミ達! なんだか随分久し振りな気がするね? 地獄の水先案内人、ロアだよっ!」
噂。そう名乗る彼もしくは彼女、くるくるり宙を舞いながら。宝石飾るネイルで彩られた両手、ひらひらり上下へ漂わせながら。
笑い疲れて罅の割れた道化の白い頬、余計にぐしゃりと歪ませながら――その金色の瞳で少女を見下ろしながら、歌うように言葉を紡ぐ。
「もうっ、キミ達さあ! 今までいったいどこに隠れていたんだい? 探したんだよ?」
窓の外で蒸気を吹かしたような汽笛が鳴り響く。これまで黒一色だった景色はすっかりいつもの地獄の様相で。そこへ唐突に現れたロアの狂言も相俟って、途端に騒がしくなったように愛達は感じていた。
「そ……れは、こっちのセリフです。アナタこそ、どうして急に現れなくなったんですか」
暫し面を食らっていた愛達だったが、この騒がしさ、この唐突さこそがいつもの地獄の日常である。むしろどこか安心した様子で、愛も九十九もその内心では胸を撫で下ろしていた――
「いやいや! それこそこっちのセリフだよ! 急に反応が消えたかと思えば、キミ達はどうして第四階層第五階層を丸ごとすっ飛ばして、いきなり焦熱地獄に向かっているんだい? どんな裏技を使ったのさ?」
――が、しかし。その一言で、彼女達を取り巻く空気は再び凍り付くことになった。
そもそも愛達が閉じ込められていたあの世界は、現世のようだったあの風景は、一体何だったのか。
確かにその問題について、愛達は明確な答えを得られてはいなかった。
恐らくはカタリナが転送の異能で現世から物を持ち込み、叫喚地獄内で現世のような風景を再現したのだろう――ひとまずはそう納得して、積極的に裏を取ることはなかった。
事実それどころではなかったし、脱出した今となっては気にする必要も無い――そう考えていた。
「……私達は、叫喚地獄に居ました。白い満月の下、私達は『きさらぎ駅』で列車を降りて……」
「いやいや、そんなわけないじゃん! 叫喚地獄に『きさらぎ駅』なんて物は無いし、そもそも地獄の月が白いはずないでしょ?」
けたけたと心底可笑しそうに嗤う案内人。普段からヒトを欺く悪い冗談ばかりを口にする彼がここにきて、ぐうの音も出ない正論をさも当たり前のように言い放つ。
「キミ達が第三階層から猿夢列車に乗り込んだのはボクも知ってるよ? ボクはキミ達の反応を離れていても感知できる。そういう怪異だからね。なのに突然その反応が列車ごと消えたかと思えば、数ヶ月も経った今になって再び現れたんだ。その時には既に叫喚地獄を通り過ぎた後だったよ」
あの場所で愛達が過ごした時間は、1日分にも満たないはずである。しかしロアの言葉が正しければ、愛達はどうやらそこで気付かない内にかなりの時間を過ごしていたという。
まるで自分達という存在がその瞬間、世界から消えてしまったかのような――神隠しに遭ってしまったような。まるでぞっとしない話に、愛達は密かに身震いする。
「……は? 何を言って……そんなわけが……」
「だったらキミ達は叫喚地獄名物、針の山には登ったかい? 針の一本一本に怪異が串刺しになっていて、そこら中から呻き声が聞こえてきたはずだよ」
しかしそれでも、まだ疑いと困惑の眼差しを続ける黄昏愛に対して、ロアは更にダメ押しとでも言わんばかり口を開いた。
そして当然、彼の言うような針の山なんてものを愛達は見ていない。聞こえてきたのは怪異の呻き声ではなく、野生動物の鳴き声である。
「羅刹王の軍隊を指揮する獄卒四天王とは戦った? 焦熱地獄からの物資を運搬する首切れ馬の大群は見た? 同盟間の物流を管理している拷问教會の第六席、シスター・アポロニアには会ったかな?」
ロアの語るどれもこれもが、愛達にとっては何一つ身に覚えのない話で。しかしこういう時に限って、ロアはまるで冗談を言っているような様子でもなくて。愛と九十九は黙ったまま、互いの顔を見合わせるしかなかった。
「…………ふうん。なるほどね」
唖然とする彼女達の様子を目の当たりにして――いつも無駄に感情豊かな道化師の表情が、不意に陰りを帯び始める。
「キミ達はどうやら、ボクが感知できない場所に迷い込んでいたようだ。こんな真似が出来るのは……やっぱり、『あの子』の仕業かな」
それはいつもの踊るような語調ではなく、まるで最も低い音の鍵盤を押し込んだ時のような、重苦しさを伴う声色。
「あーあ……ボクは楽しみにしていたのになあ、叫喚地獄篇。予定なら其処で、キミ達三人は……あれっ? ひとり足りないじゃないか。あぁなるほど、鍵は一ノ瀬ちりだったのか。それが此処に居ないとなると……うーん。もう手遅れかなぁ……」
これ見よがしに溜息を吐いて――人間離れしたその金色の瞳は、どういうわけか愛達のことをまるで責めるような冷徹を孕んでいた。
「さっきから……何の話をしている」
訳が分からないなりにも、そんな視線を向けられては文句の一つも言いたくなる。九十九はその息に苛立ちを乗せて声を上げる。
「もちろん、キミ達が倒すべき敵の話だよ。会ったんだろう? 『あの子』にさ」
その態度といい、口振りといい、どうやらロアは『あの子』とやらの存在を強く意識しているようである。
とは言えその『あの子』とやらについて、愛達に思い当たる節があるとするのなら――
「…………シスター・カタリナのことですか?」
やはりそのくらいしか候補となりそうな者は思い浮かばない。あるいはフィデスとか、アナスタシアとか、開闢王、羅刹王――彼女達に因縁のある相手と言えば、それくらいのもので。
「まさか! そんな奴の事なんかどうでもいいよ!」
しかしロアはそれを、呆気もなく一蹴してしまう。
そうなると愛達にはもうお手上げで――それを察した道化の口は、再び動き始めていた。狂言を回し始めていた。
「いいかい? キミ達が本当に倒さなきゃいけない相手は、開闢王でもなければ羅刹王でもない」
運命が、回り始めていた。
「それは、世界を創る異能を持つ怪異――『如月真宵』。彼女こそがこの物語における、全ての元凶なのさ」
『ほなねえ、マヨイちゃん。あとはよろしく』
窓の外から聞こえてくる、鉄を打ち鳴らすような踏切の音。三途の川に沈んだレールの上、濁流を搔き分け猿夢列車は滑走する。
「キミ達が迷い込んだという場所も、恐らくはあの子の創り出した異世界だったんだろう。あの子の異能なら地獄のルールを逸脱した『部屋』を造り出すどころか、地獄に新しい階層を増築することだって不可能じゃない」
遠くには幾つも連なった山岳が見えた。まるで集合住宅のように立ち並ぶ山々の頂からは、どれもこれも黒い煙を絶え間なく吐き出して、その全てが活火山なのだということが窺える。
「いつか言ったことがあるだろう? この停滞した地獄にとって、キミ達の存在は劇薬なんだって。キミ達はこの世界にとって、如月真宵という癌を滅ぼす特効薬になり得る存在だったのさ。そうでなくちゃあ困る」
噴火したマグマの色は狂ったようなコバルトブルーで、地獄の黒い大地を侵すそれはまるで海のようだった。あるいは地獄の空は赤いから、まるで天地が逆転したようにも見えるだろうか。
「ボクは案内人だ。キミ達が案内を求めない限り、ボクの方から直接干渉することは出来ない。だから間接的に誘導する必要があった。そのためにボクは今日に至るまで、キミ達の噂を地獄中に広めてきたんだよ? キミ達と如月真宵がいずれ接触せざるを得ない状況を作り出すためにね」
悉くが悪い夢のような、そんな地獄の景色が次から次へと流れていく、車窓の前。立ち塞がるように揺蕩うその道化の言葉は――
「そういうわけで、ボクからのお願いだ。このままだと、如月真宵のせいで地獄が終わる。もう間に合わないかもしれないけれど……今からでも頑張って、如月真宵を倒してさ。この世界を救ってくれないかい?」
――突拍子も無く紡がれたその物語は、彼女達にとってはやはり、悪い冗談にしか聞こえなかった。
しかし、あのロアが。いつも明確な答えをはぐらかして、誤魔化して、意味もなく嘯くあの道化師が、である。
愛達にも伝わる言語を介し、面と向かって『お願い』をするなんてことは、これまで一度だって無かった。
事実それは、地獄史上でも類を見ない異常事態。それ程までの危機が、この地獄に差し迫っている――つまりはそういう事なのだろう。
「…………はぁ」
徐々に揺れが激しさを増していく車内。意趣返しのように、わざとらしく溜息を吐いて――
黄昏愛。彼女はその場からゆらり、陽炎のように立ち上がる。
「突然、何の話かと思えば……地獄が終わるとか、世界を救うだとか、そういうお前らの事情なんかどうでもいいんですよ。私達」
黒い眼差しは気怠げに、殺意を籠めて。
彼女はその高い身長で、ロアのことを更に上から見下ろすのだった。
「ただ、そのどうでもいいことに私達の親友が巻き込まれた。だから助けに行く。それだけなんで。指図しないでもらえますか?」
黒いローブの『マヨイちゃん』――『如月真宵』が何者であろうと。ロアが何を企んでいようと。彼女達が為すべきことは、結局何も変わらない。
愛に続いて九十九もまた立ち上がる。そうしてどちらからともなく、二人は指を絡め合い――その手を繋ぎ合わせていた。
「くふふ。そうだね。それでいい。どうせキミ達は先に進まなきゃいけないんだ。願いを叶えるため、大切な『あの人』を取り戻すためにね」
黒板を。爪で思い切り引っ掻いたような金属音が、地獄中に響き渡る。列車の走る速度は緩やかに衰えていき、車内の揺れも次第に落ち着いてきて。その現象は即ち、終着を意味していた。
「さあさあ、焦熱地獄に到着だ。世界を救う旅路の果てへ、行っておいで。旅人諸君――」
其処は地獄の第六階層、焦熱地獄。様々な思惑が交錯する地の獄――その最も昏き深淵に、彼女達は斯くしてその足を踏み入れる。
そして、其処もまた。同じ地獄なればこそ――
どこまでも続く線路の上、等しく赤い空が広がっていた。