■■地獄 20
夜の闇に、浅い息遣いだけが聞こえてくる。
今宵の対決は黄昏愛の勝利で決着した。アナスタシアもそれを認め、愛自身その確信があった。だと言うのに、地面に倒れ天を仰ぐシスター・アナスタシアの姿を、愛は暫し視界から外すことが出来ないでいた。
この吸血鬼は、もし視界を外せばその瞬間、再び襲い掛かってくるのではないか――そんな懸念が彼女の頭から離れない。それ程までにシスター・アナスタシアは、愛達にとって強敵だったのだ。
しかし愛の懸念は杞憂である。今のアナスタシアには身動ぎする余力すら残っていない。彼女に出来ることはただ、死を待つのみであった。
◆
薄れゆく意識の中、シスター・アナスタシアは回顧する。
厄災に狂わされて以来か。鬼に酔い潰されて以来か。神格に灼かれて以来か。天使に射抜かれて以来か。
どれがいつの記憶だったのかも定かに思い出せないほど、シスター・アナスタシアにとって死はあまりに遠い過去のこと。この先訪れるかも解らないほど、遥か彼方にあるものだった。
それはきっと、数千年ぶりの走馬灯――だと言うのに。思い出せるのはどれもこれも、戦いの記憶。誰に勝って誰に負けたのか。相手は何の怪異でどんな異能を持っていたのか。そんなことばかり。
いつの頃からだったろう。戦いのこと以外、何も思い出せなくなっていったのは。永久を生きる怪異は、やがて『本物』に成っていく。記憶を失い、自我を失い、地獄の一部に成り果てる。
そう成ってしまった自分は果たして『アナスタシア』だと呼べるのか。そもそも自分はいつから『アナスタシア』だったのか――
――そんなことは『アナスタシア』にとって、どうでもよかった。自分が何者に成り果てようと、どうでもいい。ただ戦えればそれでいい。最期のその時まで、拳を振るうことさえ出来れば何でもよかった。
……そんな自分自身の現状に、気掛かりがあるとするのなら。ひとつだけ、戦い以外で思い出せる記憶がある。それは記憶と呼ぶのが大袈裟に聞こえるほど、些細な断片。
その記憶の中で、フィデスさま――愛しいあのヒトが、泣いていた。
泣きながら、その手で余の首を絞めていた。
どうして泣いているのだろう。どういう状況だったのだろう。何も解らない。思い出せるのは切り抜かれたその光景だけ。それすら殆ど朧げで、次の瞬間にも忘れてしまいそうなほどに、儚く脆い塵のようなもの。
でもきっと、原因は余にあるのだろう。それだけは解るのだ。ただ、その理由が思い出せない。あのヒトを泣かせてしまった理由を思い出せない自分自身に腹が立つ。
このまま何も思い出せず、宝物のようなこの記憶さえいつか忘れてしまうのだ。それだけがずっと気掛かりで――
――ああ、だからなのかもしれない。もう二度と、余なんかのために、あのヒトには泣いてほしくないから。だからきっと、余は強くなれたのだ。そのおかげで、余は今日まで生き延びることが出来たのだ。
余は今の『アナスタシア』が好きだ。強い自分が好きだ。だって強ければ、フィデスさまを守れる。フィデスさまのお役に立てる。もう二度と泣かせることはない。
いつか、どうして余があのヒトを愛していたのか。いつか、どうしてあのヒトが余を愛してくれていたのか。いつかそれさえ、解らなくなったとしても――
わたしが、強ければ。その強さに、利用価値があれば。
あなたはきっと、わたしを傍に置いてくれるから。
◆
「…………ああ、まったく…………」
これ以上、シスター・アナスタシアが口を開く必要は無い。黄昏愛に、何かを語りかける必要は無い。彼女の役割はたった今、充分に果たされたのだから。
それでも口を動かすその心は、自身を見事討ち果たしてみせた黄昏愛に対する、彼女達に対する、せめてもの讃美が込められていたのだろう。
今宵の戦いは間違いなく、アナスタシアがこの先も永く記憶していられる、数少ない思い出のひとつとなる。
失うばかりだった彼女にとってそれは、余計な世話を焼くには充分すぎる体験であった。
「余に気を取られ過ぎだ…………貴様たちを守っていた糸の結界は今、どうなっている…………?」
風に攫われてしまいそうな程に微かな、吸血皇女の最期の言葉は――
「……………………ッ!?」
黄昏愛の耳に、確かに届いていた。
――しかし、もう遅い。
今更になって、気が付いたところで――
もう何もかも、手遅れだった。
大量の硝子細工が、一斉に砕け散ったような。そんなけたたましい騒音が、そこら中から鳴り響く。
砕けたそれは、糸だった。愛が周囲に張り巡らせていた、糸の結界。
ただしその糸は血の雨に晒されて、目に見えるほど紅く染まっていた。
――血の雨は、触れたものの生命力を吸収し、熱を奪う。
熱を奪われ凍った糸は、風に吹かれただけで呆気もなく砕け、塵となったのだ。
そんな塵芥と成り果てた、かつて糸だった残骸を果たして、まだ有機物と呼べるだろうか――
「はあい、おつかれさま」
奈落の底から聞こえてくるような、身の毛もよだつ悪意に満ちた嗤い声。
地獄をその身に体現したような悪辣極まるその女の声が、耳元にまで届いた頃にはもう。
「ふう、ひやひやしたねえ。でもこれで、今度こそ依頼完了。待たせてごめんねえ、マヨイちゃん」
「っと……はぁ。本当ですよ……」
空から落ちてきた一ノ瀬ちりを、黒いローブの『マヨイちゃん』がその両腕でキャッチしていた。
愛が後ろを振り向くまでもなく、既に一ノ瀬ちりは其処には居ない。愛の後ろで倒れているのは芥川九十九、ただひとり。
カタリナの異能が愛達の周囲で発動したのだ。それによって一ノ瀬ちりは、気絶している隙に転送させられて――今、カタリナ達の手に渡ってしまったのだ。
「ッ…………!!!」
愛は思考を介するよりも早く、即座に自身の両脚を変形させる。地上最速の瞬発力を誇るチーター、その能力を模した怪脚は一瞬でカタリナとの距離を――
「はあい、無駄でえす」
――詰めることなど、出来るはずもなく。
愛が最初の一歩を踏み出し、続く二歩目で駆け出そうとした次の瞬間――踏み込もうとしていたはずの足元の地面が消えていた。
「く……ッ!?」
崖だ。山頂を囲う柵の向こう側、しかもカタリナが居る位置とはまるで真逆の方向に――気が付いた時には既に、愛は瞬間移動していたのである。
それは何故と問うまでもなく、カタリナの仕業に違いなかった。愛が真っ直ぐ突っ込んでくるのを見越して、カタリナは異能の穴を愛の目の前に設置していた。愛はその穴の中へ自ら突っ込んでしまったのだ。
夜の闇の中、よく周囲を見渡してみれば、黒いもやのような物がそこら中に漂っている。糸の結界が無くなったのを良いことに、既に愛の周囲は穴だらけになっているようだった。
崖に放り出された愛は、咄嗟に鳥の羽を生やして宙に浮く。慌てて振り返った先では既に、ちりを抱えた『マヨイちゃん』が踵を返して、黒いもや漂う穴の向こう側へ消えようとしていた。
「くそッ……!!」
愛の両腕が何十本という触手に変貌を遂げ、網を放つようにカタリナへ目掛けて一斉に襲いかかる。
しかし悲しいかな、その殆どが途中で穴の中へ吸い込まれ、次々とあらぬ方向から排出されてしまう。
それでもどうにかカタリナの異能を掻い潜り、その目前にまで辿り着いた触手が一本。
「あはっ。残念♪」
しかしそれも、突如としてその上から降ってきた巨頭の怪物に踏み潰され、行く手を阻まれるのだった。
「あぁ゙……もうっ……なんで…………こんな…………!!!」
焦燥に顔を青ざめる。現れた巨頭オの残党は触手によって締め上げられ即座に圧殺されるも、それはあまりにも痛い時間的ロスだった。
「ほなねえ、マヨイちゃん。あとはよろしく」
カタリナに見送られながら、その後ろ姿は闇の中へと消えていく。
「待って……っ」
抱えられた一ノ瀬ちりの横顔、もはや遠く離れてしまったそれに、黄昏愛は手を伸ばし――
「…………ちり、さん…………っ!!!!」
――その名を、叫ぶ。
今の愛にはそれしか出来なかった。虚しく響くその音色は、やはり何の意味も為さない。奇跡なんて起こらない。
愛の伸ばした手は何も掴めないまま、再び静寂が訪れるのだった。
ぽつり、ぽつりと、何かが肌に触れるような微かな重みに、愛は鎌首をもたげる。雷鳴を轟かせる曇天の空からは、雨が降ってきていた。無論、本物の無色透明なそれである。
夜の山頂に取り残されたのは、愛と、九十九と、カタリナだけ。とは言え九十九は未だ気絶して地面に倒れている。気が付けばアナスタシアの姿もない。どさくさに紛れて転送させられたのだろう。
愛は倒れる九十九の傍まで歩み寄ると、自分の右手を不定形に変化させる。それは羽衣のような薄い透明の皮膜へと形を変えた。
愛はそれを自身から切り離し、九十九の身体の上に覆い被せる。それはかっぱのように、九十九を雨から守る役割を果たしていた。
「さてさて。やる事やったし、うちもそろそろお暇するとしましょうかねえ」
感情が怨念に塗り潰されたような無表情の黄昏愛とは対照的、カタリナは満足げに微笑んで、軽やかに口遊む。
そんな彼女の飄々とした態度は、今に始まったことではないとは言え、黄昏愛の逆鱗に触れるものだった。
「このまま帰すわけないだろ……ブチ殺すぞ……」
殺意を剥き出したような昏い声を吐き出しながら――愛の背中で無数の触手が蠢き始める。
触手と表現したが、恐らく的確ではないのだろう。それは何の動物を模しているのか解らない程、支離滅裂な異形であった。
それは軟体動物のようで、骨張った昆虫のようでもあり、羽毛のようでもある、不定形極まる触手のような何か。
どうやら消耗した身体で無理矢理に異能を発動させているからか、変身能力が安定していないようだった。
しかしそれが返って底知れぬ不気味さを演出させており、不気味なその異形は見る者の精神を蝕むような狂気を孕んでいた。
「あはは。うちかて愛ちゃんとは離れたくないねんけどお……」
およそ冒涜的と言っていいその異形を、その殺意を前にして、しかしカタリナは尚も涼しげに微笑んでいる。
「ほら見てえ? 髪、ぼさぼさやろお? お化粧も汗でちょっと落ちちゃったし、服も血で濡れて気持ち悪いし。せやから一旦、着替えたいのよねえ。お風呂にも入りたいしい」
それどころか場違いにも程がある冗談めいたその口振りは、黄昏愛のそれとはまた別種の悍ましい何かを感じさせるようだった。
「…………はァ゛? お前…………」
いよいよ我慢ならないといった様子で、大地を揺さぶるような唸り声を漏らす愛。その怪脚を勢いよく振り下ろし、最初の一歩を踏み込もうとして――
「まあまあ。焦らない焦らない」
――そんな彼女の歩みを遮るものは、汽笛であった。
もはや聞き馴染みのある、けたたましい列車の汽笛――それは空の上から鳴り響く。レールなんてあるはずのない雲の中から、甲高い叫び声のような音と共に、それは姿を現した。
猿夢列車。階層を超越する地獄で唯一の存在。百足の胴体にも似た無限に続くその車体が、あろうことか空を翔けていた。それがまるでホームへ滑り込むように――愛とカタリナ、両者の間に割って入ってきたのである。
「ねえ、愛ちゃん。おともだちを返してほしい?」
愛の目の前を横切る猿夢列車、凄まじく耳障りな風を切る音と共にその速度を次第に衰えさせていった。やがて蒸気を吹かしながら、血で錆び付いた扉が横にスライドして開かれていく。
「だったら、先に進むとええよお。次の階層、焦熱地獄に。そこで待ってるから。うちも。ちりちゃんも」
カタリナの異能は猿夢列車すらも捕捉して、この場に呼び出してしまった。当然自分が呼んだのだから、それに乗り込むことに抵抗などあるはずもなく。猿夢列車の中へ、カタリナは当たり前のように乗り込んだ。愛の目の前で、軽薄な口調を続けながら。
「ああ、大丈夫。次の階層行きの列車なら、さっき『きさらぎ駅』に停めといたから。それに乗れば、この世界から脱出できるよお」
喉の奥からどす黒い叫び声を上げながら、愛は背中に生やした無数の触手を放つ。そしてそれはやはり無駄で――触手の進行方向を妨げるべく、直後その身を投げ出すようにして姿を見せたのは人造怪異、姦姦蛇螺だった。
姦姦蛇螺を拘束していた糸は血の雨によって既に解け切っていた。解放された姦姦蛇螺は、愛の触手攻撃をカタリナの代わりにその身で受け止め、呆気もなく擦り潰されるも――おかげで触手の行く先はカタリナが乗った車両から逸れてしまっていた。
「それじゃあ。またねえ、愛ちゃん」
列車の扉が閉まっていく。薄ら笑いを浮かべるカタリナの顔を、愛はただ眺めることしか出来ず。カタリナを乗せた猿夢列車は無情にも、再び動き出す。
それは周囲へ悪臭漂う蒸気を撒き散らしながら、レールの無い空を昇っていき――夜の闇、虚空の中へと、消えていった。
かくして、一連の騒動は幕を閉じる。
まるで何もかも悪い冗談だったかのように、敵も味方も、目の前からすっかり消え失せて。残されたのは愛と九十九の二人だけ。
嵐のように過ぎ去ったその時間が齎したものは、結局のところ。理由の解らない悪意による、一方的な不幸の押し付けだった。
「……………………は」
黄昏愛にとって、全てはどうでもいいことで。何を失おうが誰と敵対しようが、最終的に自分の望みさえ叶えられればそれでいい――
そのはず、だったのに。
いつしかこの物語は、彼女だけのものではなくなっていた。
「…………なんなんですか、これ…………」
もし独りだったなら、不幸とすら思わなかったことでも。今の彼女にとってそれは――目を覆いたくなる程の、受け入れ難い現実であった。