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怪物少女の無双奇譚《フォークロア》  作者: あかなす
第四章 ■■地獄篇
123/188

■■地獄 19

 吸血鬼の怪異、シスター・アナスタシアの異能は『自らの血で囲んだ座標を領土と定め、領土内に有る全ての血を自在に操る』というものである。


 ただし座標を領土化させる為には、ただ闇雲に対象を血で囲めばいいという訳ではない。その座標内に存在する操りたい血の量に対し、()()()()()()()()アナスタシア本人の血を用意する必要がある。


 今回に限っては愛と九十九とちり、3人分の血をアナスタシアは自らまかない、彼女達の周囲を囲むように撒き散らす必要があったわけである。吸血鬼の再生力があってこそ出来る荒業と言ってもいい。

 ちなみに酩帝街東区に在る『死ねぬ(デス)子供のための(ティニー)遊園地(ランド)』もまた、アナスタシアが何千年にも渡って血を継ぎ足し続けることにより、その膨大な量の血によって領土化を維持し続けていた。


 人間は血液を全体のたった3分の1失うだけで簡単に死ぬ。怪異も所詮はヒトと同じ構造をした血の通った動物であるからして、この宿命からは逃れられない。

 相手がヒトである以上、吸血鬼たるシスター・アナスタシアの敵ではない。異能が発動した時点で彼女の勝利は確定する――


「なんだこれは……?」


 ――そう。だから、シスター・アナスタシアには解らない。

 異能は確かに発動した。敵は血を失い、もう一歩も動けない。そのはずなのに――


「詰んだのはテメェの方だぜ。シスター・アナスタシア」


 一ノ瀬ちりが平然とその場から立ち上がり、あまつさえ口を開くことが出来ている理由を。

 そんな彼女の傍に寄り添って黄昏愛もまた立ち上がり、余裕そうに薄ら笑いを浮かべている理由を。

 そして――気が付けば既に放たれていた芥川九十九の拳が、血の礼装ドレスを貫通して、シスター・アナスタシアの腹にめり込んでいた理由を。

 目の前で起きた事象の全てが、シスター・アナスタシアには意味が解らなかった。


 ◆


「…………もう詰んでませんか? これ」


 鮮血に彩られた領土、シスター・アナスタシアの『帝国』は、彼女達の目の前で完成した。もはや彼女達の周りにはどこにも赤以外の色は見当たらない。


 次の瞬間、全身から力が抜けていくのを黄昏愛は実感していた。体内を巡っていた血液が見る見るうちに気化していき、肉体が文字通りしぼんでいく。


 血液を失った脳細胞は瞬く間に酸欠状態に陥り、そのまま放っておけばものの数分で脳全体が壊死する。そうなるのを待つ必要すらなく、貧血の諸症状によってまず意識を失うことに耐えられないだろう。


 この時の彼女達に残された猶予は、ほんの数秒程度と言ってよかった。


「まだだッ!!」


 血圧の急激な低下によって全身が痙攣、顔面は蒼白になり、強烈な目眩によって立てなくなって、今にも意識が飛びそうになる刹那。

 一ノ瀬ちり、彼女は暗闇の中に居て尚、強く叫ぶ。


「ッ……時間がねェ……黄昏愛!」


 彼女は蹲ったまま、地面に向かって声を荒げる。血の通っていない眼球は光を失い、既に何も見えていない。

 それでも、叫ぶ。今もまだ自分の傍に居るはずの、共に戦う仲間の名を。


()()()()()()()()()()()()()()! ()()()()()()()()()!」


 血の行き届いていない脳は思考する余力すら残っていない。それでも彼女は今伝えられる精一杯を声にする。その掠れた叫び声は思考回路を通さず、殆ど反射的に口を衝いて出ていた。


「なんですか……その無茶苦茶な注文は……」


 そんな彼女のメッセージを黄昏愛は確かに受け取った。愛もまた血を失い朦朧とした意識の中、気付けば一ノ瀬ちりの背にもたれ掛かるようにして、彼女と共に地面に倒れている。


 一ノ瀬ちりの、ともすれば荒唐無稽なその要求に、愛は気怠げな反応を示す。

 そんな愛の文句に、しかし一ノ瀬ちりがそれ以上言い返すことはなかった。既にちりの呼吸は止まっている。もはや一刻の猶予も無い――


「…………やれやれですね」


 一ノ瀬ちりの要求を叶えるため、この場で黄昏愛がやるべき事は2つ。


 まずは当然の話、人間は血が無ければ生きていけない。だから今の状況、最優先で確保すべきは血である。それは間違いない。だから一ノ瀬ちりは血を欲している。それも理解出来る。


 黄昏愛が引っ掛かったのは「オマエの血を全部オレに寄越せ」というその言い方だった。血が欲しいなら欲しいと言えばいい。だがちりはわざわざ「オマエの血を」寄越せと言ったのだ。

 愛も人間なのだから、血を失えば死ぬ。それを寄越せという事は、ちりは愛に死ねと言っているのだろうか?


 そんなわけがない。つまり一ノ瀬ちりは黄昏愛に対して「血が無くても生きていける生物に変身しろ」と端的に告げたわけである。

 そもそもそんな生物が存在するかどうかも、一ノ瀬ちりには知り得ない。そんな知識は彼女に無い。

 ただ、黄昏愛ならばそれを知っているだろうと。信じたが故の無茶振りなのだった。


 そして「血が無くても生きていける生物」の存在を、黄昏愛は()()()()()()()。そんなあまりにも歳不相応な専門的知識を彼女は有している。


 これまでもそうだった。そもそもどうして黄昏愛はそれ程までに、生物の種類について詳しいのか――そこに至った生前の経緯を彼女自身まるで覚えていない。だが事実として、彼女は知識を有している。

 愛は記憶喪失であるが故か、他人に指摘されて初めて自覚する事が多い。これまでもそういう事が何度かあった。今回もまた同様に、自分にその知識があることを、一ノ瀬ちりの指摘によって黄昏愛は気付いたのだ。


 その上で、曰く。黄昏愛が一ノ瀬ちりに「血を与える」と、今の状況が何とかなるらしい。

 血を与える為には血を作る必要がある。そして血を作るには骨髄――造血幹細胞が必要。それを愛は異能で複製出来る。

 つまり複製した骨髄によって血液を過剰に産生し、それを一ノ瀬ちりの肉体に輸血する。それがちりの求める答えであり、愛はそこに到達したのだった。


 愛たちにとって幸運だったのは、アナスタシアの異能の発動条件。その些細ともいえる制約にこそあった。

 アナスタシアの異能は、その座標内に存在する操りたい血の量と同じ分だけアナスタシア本人の血を用意する必要がある。

 裏を返せばそれは、アナスタシアが用意した血の量を座標内の血が上回れば、その溢れた分の血をアナスタシアはすぐに操ることが出来ないということである。

 酩帝街の帝国テーマパークでは入場制限を設けることで領土内の血の量がアナスタシアの血の量を上回ることの無いよう調節しているが、今この場においてそんな事が出来るはずもない。


 流石の一ノ瀬ちりもそこまで計算に入れていたわけではない。そんな制約があることをちりは知らないわけで、咄嗟の閃きとは言えこの作戦はリスクの高い賭けでもあった。


 だが結果的に、全てが噛み合った。

 黄昏愛の触手が点滴のように、一ノ瀬ちりの肉体と繋がって。妨害を受けることもなく輸血は恙無く執り行われ、新鮮な血が全身へと駆け巡り――


「…………………………………………ッ!!」


 一ノ瀬ちりの意識は、完全に回復したのだった。


 しかし、さて。この場で一ノ瀬ちりを蘇生させる事にどれほどの意味があるだろう。

 アナスタシアとの戦いにおいて一ノ瀬ちりは、誰がどう見ても足手まといだった。戦いに参加することすら出来ていないと言っていい。

 ならば一ノ瀬ちりは、我が身可愛さで自らの蘇生を望んだと言うのだろうか。


 そんなわけがない。何故なら彼女は「それでなんとかなる」と言った。

 だから黄昏愛もまた、そんな彼女の言うことを信じてみることにしたのである。


「――――塗り潰せ、『赤いクレヨン』ッッッ!!!!」


 そうして彼女は、目覚めた直後。即座に自らの異能――赤いクレヨンを起動した。


 赤いクレヨンの異能は座標に対して発動する。その効果は、念じた場所に血文字を浮かび上がらせるというもの。

 この血文字に使われるのは、ちり本人の血である。体内の血を消費することで、消費した分と同じ量の血を血糊インクとして、その場所に具現化させる。


 ちりはその異能を、自らの足元――この戦いの舞台となっている山頂の地面全土に対して発動したのだった。

 本来の一ノ瀬ちりの総血液量は精々が3リットル程度。だが今は、黄昏愛に輸血をされている状態。赤いクレヨンのインクは無限に供給され続けている――


 だから、こんな事も可能だった。

 吸血鬼の領土と化していた山頂の全土を、過剰産生された赤いクレヨンによって()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なんて事も。

 座標が赤いクレヨンの血糊インクによって浸水し――吸血鬼の異能、領土化を強制解除させるなんて事も。

 その結果、アナスタシアに無自覚の隙を作らせる事も。


「――――――――ォ、オ」


 そして、その一瞬の隙があれば。


「ォ――――ォォォォオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!!」


 芥川九十九にとってはその一瞬で、充分だった。


 ◆


「なんだこれは……?」


 アナスタシアがその異変に気付いた時には何もかもが遅かった。


 異能が解除されたことで血を取り戻した芥川九十九は一瞬で復活。その上、左腕だけを悪魔化させた状態で即座に立ち上がり、彼女は反射的に拳を放っていた。


 その瞬間、自分の異能がどういうわけか強制解除されたという異変にアナスタシアの思考は真っ白になっていた。

 そんな状態で芥川九十九の拳を躱せるはずも無く、その無自覚な隙を突く形となって――悪魔の拳は見事に血の礼装ドレスを貫き、吸血鬼の腹部を抉ったのである。


「詰んだのはテメェの方だぜ。シスター・アナスタシア」


 後方から聞こえてきたその声の正体が一ノ瀬ちりのものであると、遅れて気が付いて。それと同時に、自身の足元を浸すこの赤い血の正体が『赤いクレヨン』の異能によるものであると、遅れて察して――


「赤いクレヨン……よもや貴様……ッ!?」


 侮っていた。一ノ瀬ちりの異能は戦闘向きではないし、当の本人の身体能力も警戒する程のものではないと。芥川九十九と黄昏愛、この二人さえ無力化してしまえばいつでも簡単に殺すことが出来ると。まるで歯牙にも掛けないでいた。

 だからこそ、一ノ瀬ちりが挑発的に投げかけたその言葉にさえ、アナスタシアは思わず気を取られてしまっていた。咄嗟に声を上げ、後ろを振り向こうとしてしまった。

 目の前にはまだ芥川九十九が居て、次の拳を放つため身構えていたというのに。


「しまッ……――!!」


 その隙が致命的だった。

 続けざまに放たれた九十九の右の拳は血の障壁を砕き、アナスタシアの胸部を深く抉る。その一撃で彼女の肋骨は粉砕し、その破片が幾つも肺に深く突き刺さった。


「か…………はッ…………!」


 逆流した胃液と共に、傷付いた内臓の血が喉の奥から吐き出される。そのダメージが深刻であることを示すように、彼女の周囲を揺蕩っていた血の礼装ドレスは強く明滅し、その端から粒子となって崩れていった。


「っ、ぉ……ォォォォオオオオオオッ!!」


 そして、九十九の追撃はまだ終わらない。更に踏み込み、掬い上げるように放たれた左拳のアッパーが、アナスタシアの顎を狙う。

 咄嗟にアナスタシアは自らの両腕を顔の前に掲げ、防御の体勢を取るも――悪魔の拳はそんな彼女の両腕を圧し折りながら、そのまま彼女の体を天高く殴り飛ばすのだった。


 打ち上げられたその小さな身体は夜の空に赤く散り、弧を描くように放り出される。


「ま……まだ、だ……ッ!」


 その自由落下の最中、アナスタシアの視線は忙しなく地上を彷徨っていた。


 相当に深い痛手を負いながらも、アナスタシアは未だ勝負を諦めてなどいなかった。虚を突かれたとは言え、彼女もまた歴戦の怪異。どのような状況に陥ろうとそこから挽回出来る策を、彼女は戦いの中で常に張り巡らせている。


 例えば、アナスタシアは血を操るその能力の応用で、血の中に自らの分身を潜伏ストックさせることが出来る。

 その分身と立ち位置を入れ替えることで、それ以上のダメージを分身に肩代わりさせつつ、本体は血の中で回復に専念することも彼女の能力ならば可能だった。


 だから彼女はまだ諦めない。その視線は地上のどこかにあるはずの、自分の血痕を探して――


「(血の中に潜伏ストックしてある分身と……入れ替われない……!?)」


 ――しかしもはや地上のどこにも、彼女の血痕は見当たらなかった。


「(いやこれは、まさか……余の領土は最早余すこと無く、塗り潰されていると言うのか……!? もう、視界のどこにも……余の痕跡は……残っていない……!?)」


 赤いクレヨンによって上から塗り潰された大地に、吸血鬼の領土はその痕跡すら残っていない。赤いクレヨンは吸血鬼の異能を強制解除すると共に、潜伏させていた分身すらも無かったことにしてしまった。


 吸血鬼は他の怪異よりも再生機能に優れている。アナスタシアが未だ意識を保てているのはこの為である。だが死に体だ。ここから更に追撃をまともに喰らえば、さしもの吸血鬼とは言え耐え切れない。


 詰んでいる。確かにそう言われても仕方のない、絶体絶命の窮地に立たされているのは間違いなかった。


「……………………()()()…………――――ッ!!」


 それでも。苦痛にゆがむ顔の上、彼女は無理矢理にでも笑みを作る。

 それは吸血鬼としてのさがか。はたまたシスター・アナスタシア、彼女という人間性の本質か。こういう時、彼女は花のように咲う。

 真に強き者は、逆境の中でこそ輝きを見せる。強さとは即ち、諦めの悪さ。

 だからこそ、シスター・アナスタシアは強いのだ。


「っ……は……ぁ……げほッ……!」


 アナスタシアを空へ打ち上げた九十九は、その直後に血を吐きながら膝を突く。


 いくら規格外と謳われる悪魔の怪異とは言え、先程まで極度の貧血状態だったわけで。そんな体に鞭打って、今放てる全力の一撃を彼女は繰り出した。

 咄嗟にそこまで動けること自体が規格外で、加えて命の代償による肉体への反動もあり、今の九十九はもはや立つことも覚束ないほど消耗し切っていた。


「九十九……ッ!」


 激しく咳き込む九十九に向かって不安げにその名を呼ぶ一ノ瀬ちり。そんな彼女もまた貧血状態から無理矢理に叩き起こされた上、目覚めてすぐの重労働。愛に肩を貸されなければ歩くこともままならない状態である。

 今すぐにでも駆け寄りたい気持ちを抑えながら、ちりは愛に支えられて一歩ずつ、ゆっくりと彼女の元へ向かう。


「ぁ……嗚呼、ちり……愛も……大丈夫……?」


 遠くから歩いてくるその人影に気付いて、九十九は青ざめた頬を僅かに綻ばせていた。口の端から滲む血をジャージの袖で拭いながら、膝を文字通り奮い立たせる。


「おまえの方こそ大丈夫……じゃないよな。悪い、無茶させた……」


 九十九の傍までようやく追いついた一ノ瀬ちり、立ち眩みふらつく九十九の身体をその手で支える。赤いマニキュアに彩られた手の上に、九十九もまた応えるようにして自分の手を重ねていた。


「敵は殺せましたか?」


 揃って満身創痍の彼女達、その間を取り持つように黄昏愛は二人の背中を後ろから支えつつ、依然冷静に口を開く。持ち前の高い再生能力によって、愛は二人ほど深くダメージは負っていないようであった。


「……どうだろう。手応えはあったけど……」


 九十九の拳には確かにアナスタシアの骨を砕く感触がまだ残っている。加えて一ノ瀬ちりの策略により分身と入れ替われないこの状況。今のアナスタシアは相当のダメージを受けているはずだと、九十九は勿論のこと、愛とちりも同様に確信を持っていた。


 三人が見上げる空の上には、未だ自由落下の最中にあるアナスタシアの肢体が宙を舞っている。悪魔の拳に再三殴り飛ばされた衝撃で血の礼装ドレスは既に剥がれ落ち、彼女を守る装甲はどこにも見当たらない。


「…………」


 一息ついたかに見えるこの状況、この場において、最も冷静だったのはやはり黄昏愛であった。

 黄昏愛に油断は無い。カタリナの異能、落とし穴の出現を常に警戒して、今もまだ自分達の周囲に糸を張り巡らせ続けている。


 そんな愛が警戒の眼差しを、自分達の背後へ密かに移していた。

 視線の先――遠く離れた柵の向こう側、シスター・カタリナはそこに居る。


 愛の、そしてアナスタシアの攻撃で、カタリナは両腕を失った。しかしカタリナはそんな状態でありながらも、未だ微笑を崩すこと無く、愛達の戦いを他人事のように眺めている。


 そんなカタリナの傍で立ち尽くしている、黒いローブの女。一体何者なのか、『マヨイちゃん』と呼ばれるその女は――


「……………………?」


 ()を、差していた。カタリナとふたり肩を並べ、相合い傘をしていたのだ。

 その光景に黄昏愛は、何とも言葉にし難い、直感とでも呼ぶべき強烈な違和感を覚えて――


「……あ? 待て……」


 そんな時に聞こえてきた一ノ瀬ちりの訝しげなその声に。黄昏愛はどうしようもなく、厭な予感がしていた。

 声のする方へ愛が視線を戻すと、一ノ瀬ちりは依然、空を見上げていた。空には九十九に殴り飛ばされたアナスタシアが宙を漂っている。愛が視線を離す前と状況は全く変わっていない。


「アイツ……()()()()()()()


 それは切り取られた絵画のように、先程とまるで変化が無かった。時間が止まってしまったかのように、アナスタシアは空に留まったまま。落ちてくる気配が一向に無いのである。


「……というより、()()()()()()()?」


 そう――浮いていた。シスター・アナスタシアは空を飛んでいたのだ。


 確かに吸血鬼という怪異が空を飛行できたとしても然程の違和感は無い。しかし彼女はここまで一度たりともそんな素振りは見せてこなかった。異能の発動条件のことだってある。彼女はあくまでも地上戦に拘っている――少なくとも愛達の目にはそういう風に映っていた。


 だから。天高く殴り飛ばしたところで、当たり前のように落下してくるものだと思い込んでいた。慌てて追いかける必要も無い、そもそも九十九たちにそんな体力はもう残っていない。あと数秒もすれば落下してくる。そこを追撃すれば確実にトドメを刺せるはずだと。


 悠長と呼ぶ程でもない、そんな一瞬の気の緩み。しかし確かにあったその隙を、アナスタシアは見逃さなかった。それだけの話。


「なんだ……あれ」


 宙に浮くシスター・アナスタシア、彼女を守っていた血の礼装ドレスは既に消滅しており、彼女は無防備を晒している。

 その代わり――彼女の周りにはいつしか赤い粒子が、まるで星空のように散りばめられていた。


 その血の粒子は、瞬く間に膨張していく。宇宙のように爆発的に広がっていく不定形のそれは、あっという間に空を覆い尽くしていた。


 そうして出来た、赤い雲。血で作られた茜空。

 愛達にとってその光景はまるで、随分久しく見ていないような気さえする、地獄の赤い空とよく似ていた。


「…………これを…………」


 鼻先に落ちてきた一粒の感触。その正体に気付いた時にはもう遅く――次の瞬間、彼女達の全身は余すところ無く、その赤に侵される。


「よもやこれを、実戦で……使える日が訪れようとはな。分身……礼装ドレス……身を守る術を捨て、ほぼ全ての血を攻撃に回した……余の必殺とっておき…………」


 空から、赤い雨が降り注ぐ。それ即ち、血の天蓋あまぐも。まるで世界そのものが作り変えられたかのように、目に映る全てがその赤に覆い尽くされた。


 大量の血で作られるその夕立ちは、分身や礼装ドレスといった防御手段に利用する為の血をすら雨雲の生成に殆ど全て回すことで実現する。

 しかしこの技を使うという事は、敵の前で礼装ドレスを解除し無防備を晒さなければならないという事でもある。

 更に言えば、この技は敵の上空で使わなければ意味を為さない。それはつまり敵の上空にわざわざ移動する必要があるということで、そんな不自然な動きを敵が素直に見逃してくれるはずもない。

 故にこの大技は、例えば酩帝街の地下闘技場――夢界のような、特殊な環境下で使うことを想定した、いわゆる魅せ技。浪漫に特化した一芸である。発動すれば確かに必殺だが、使い所が難しい。


 だから利用した。九十九の攻撃で空に打ち上げられたその状況を逆手に取り、アナスタシアは自然な形で九十九達の上を取った。

 加えて今の九十九達は満身創痍、空まで追いかけてこれる程の余力は無い。礼装ドレスを解除しても問題無い――


「これで…………本当に…………終わりだ…………――――ッ!!」


 かくして天蓋より降り注ぐ赤い雨脚は、ものの一瞬で地上の全てを血に染めた。

 愛も、九十九も、ちりも、その全身を真っ赤に染め上げたまま、ただ呆然と空を見上げることしか出来なかった。

 そして、地上の全てがアナスタシアの血に染まったということは――当然、異能の発動条件もまた満たされたということで。


「嘘だろ……こんなの……防ぎようが……っ」


 膝から崩れ落ちる一ノ瀬ちり。譫言のように発しながら、彼女は顔から地面に突っ伏した。

 全身から血の気が引いたという表現はこの場合、比喩でも何でも無く言葉通りの意味で。ちりは瞬く間に意識を失い、赤いクレヨンの異能もまた解除される。


「ちり!? くッ……ォ……ォォォオオオオ!!」


 咄嗟に九十九、悪魔の翅を再び広げた。血の雨を回避するにはアナスタシアより上の位置にまで翔ぶしかない。異能が発動し血を奪われた状態で尚、芥川九十九はまだ動くことが出来る。今ならまだ間に合う――


「オオ……ォ…………っ!?」


 ――しかしそれは叶わない。

 血の雨を一身に受けずぶ濡れと化した芥川九十九は、その赤に侵された時点で敗北が決定していた。


「なんだ……身体が……」


 広げた翅が、悪魔の肉が、ほろほろと崩れていく。全身から吐き出されていた黒い煙――悪魔の残滓はもう、ほんの少しも出なかった。


「……()()……ッ!?」


 気付けば九十九の肉体は既に、その表面に霜を張り付かせ、体温を著しく低下させていた。


 血の天蓋あまぐもより降り注ぐ血の雨粒は、ただ異能の発動条件を満たす為だけのものではない。

 血の雨は、触れた箇所から熱を奪う。それもただ水温が冷たいという話ではなく、もっと本質的な――熱を産み出す生命力そのものを直接、吸収していた。


 芥川九十九、規格外の耐久力を誇るその悪魔に唯一、明確な弱点があるとするのなら――それはかけがえのない、命の有無。

 血を奪われることよりも、生命としての原動力である熱を奪われることの方が、どうも彼女には堪えるようだった。


「ち……り……っ」


 凍えた身体は堪らず膝を突く。咄嗟に伸ばしたその手が一ノ瀬ちりに届くことは無く、九十九もまた地面に倒れ伏すのだった。


 居るだけで血も熱も奪われる、其処は最早、生命が存在出来る空間ではない。永久凍土は此処に完成した。

 血の通った動物である以上、吸血鬼には敵わない。それは規格外の悪魔でさえ例外ではなかった。

 芥川九十九は、負けたのである。


 ◆


「…………くくっ」


 未だ降り頻る雨の中、天より地の赤を見下ろす吸血鬼。

 余裕すら感じられる、乾き切ったその笑みは――


「薄々、勘付いてはおったのだ」


 ――しかし、決して。勝利を確信したものではない。


「余の天敵は……芥川九十九でも、ましてや一ノ瀬ちりでもない。やはり……貴様だったのだな……」


 むしろ心底勘弁してくれとでも言わんばかり、困ったような表情を浮かべながら。その小さな口から白い息を漏らすシスター・アナスタシア。


 そんな彼女を見上げる、黒い眼差しがあった。


 赤い大地の上、天を見上げるその黒い人影は。赤いパレットの上で唯一、黒い染みとなって存在を主張する。


「…………()()()。鵺の怪異よ」


 そう、黄昏愛。彼女だけは当たり前のように、其処に立っていた。


 ()()()()という生物がいる。

 この生物には「乾眠」という、自ら仮死状態に成ることで環境の変化から身を守る能力が備わっている。

 体内の水分量を極限まで減らすことにより実現可能なこの乾燥状態は、超高温、超低温、超高圧にも耐えられる極めて高い耐久性を誇る。この能力によってクマムシは宇宙空間においてでさえ生存が可能とまで云われている。


 これを『ぬえ』の異能によって再現すれば、血や熱を奪われた程度で死ぬことなど無い。

 そして血の雨で殺し切れなかった時点で、アナスタシアに黄昏愛を殺す手段はもう残っていない。

 アナスタシアの言う通り、黄昏愛の異能は吸血鬼という怪異にとってはまさに天敵と呼べる存在であった――


 ――とは言え、である。それで黄昏愛はシスター・アナスタシアに勝てるのかと言われれば、また別の問題だった。



「…………」


 今の黄昏愛は自ら仮死状態になることでアナスタシアの攻撃に耐えている。逆を返せばそれは、仮死状態にならなければ耐えられないということでもあった。

 肉体の損傷ならば幾らでも再生出来る。物理的なダメージは一時的なものだ。尾を引くことは無い。

 しかし温度、特に気温となると話は全く異なってくる。気温は治すものではなく耐えるものだから。自分のほうからその温度に適応する必要がある。

 ホッキョクグマなど寒さに耐性のある動物の皮毛をただ厚着すればいいという話ではない。先に述べた通り、今回に限っては仮死状態にならなければ耐えられない程の温度変化なのだ。

 そして当然の話、仮死状態はあらゆる生物にとって健全な状態ではない。


「……………………」


 流石の黄昏愛でも、仮死状態のまま動き回るなんて無茶はどうやら出来ないようだった。言葉を発する余裕も無く、肩で息を切らしている。血を失った殆ど死体同然の青白い肌の上、血の雫は何の抵抗も無く滑り落ちていく。


「…………くっ…………!」


 その場からは、もう一歩も動けない――それでも辛うじて、右腕だけは動かすことが出来た。


 天に掲げた彼女の右腕は、見る間に変貌を遂げていく。血の通っていない透き通った皮膚の奥から骨格が剥き出し、装甲となって纏わり付く。

 その形状はクラゲの射出機構を模した銃身であった。確かにこれならば、その場から動けなくとも攻撃が可能となる――


「…………死…………ね…………!!」


 引き金をそうするように、喉の奥から声を絞る。骨で出来た触針が銃身の内側、筋肉の駆動と共に射出された。本物の銃には劣るものの、それでも数十メートル程度の距離を詰めるだけならば充分過ぎる速さで。


「…………けほッ」


 胸元にまで飛び込んできたその魔弾を――アナスタシアは無抵抗のまま受け止めた。弾丸に胸を穿たれ、その表情を僅かに歪めている。

 針は確実にアナスタシアの胸に突き刺さっていた。クラゲを模倣した触針は当然、その先端から毒を滲ませる。即効性のある毒は瞬く間に全身を巡り、対象を確実に死へ導く――


「これは……毒か」


 ――そのはずだ。そのはずなのだが、しかし。

 毒針に穿たれたはずのアナスタシアは、自分の胸に刺さった毒針を興味深そうに眺めるばかり。若干息苦しそうに咳込みはするものの――それ以上の異変は見られない。


「……残念だったな。余に毒は効かん」


 やがて飽きてしまったように、アナスタシアは胸に刺さった針を自ら引き抜いてみせた。出血は無い。よく見れば針が貫いたのは彼女の外装のみで、その肌には傷一つ付いてはいなかった。


()()()()……あらゆる毒への耐性を、余は体内に作り出すことが出来る。……いや、それ以前の問題だな……」


 そう。黄昏愛には仮死状態どうこう以前に、もっと根本的な問題がある。

 そしてその問題は、当の本人が一番よく解っていた。


「確かに余は、血の雨を作る為、異能による守りを捨てた……だが『吸血鬼』元来の機能まで失ったわけではない。残念だ、黄昏愛。貴様の攻撃では……この程度の威力では……自前で事足りる。ダメージにすらならんよ」


「…………っ、は…………めんど、くさ…………」


 饒舌に語るアナスタシア、宝石のようなその赤い瞳を黄昏愛は恨めしそうに睨み返す。殆ど動かない唇から辛うじて漏れ出したのは、辿々しい怨み節であった。


『くう』


 そんな愛の腹の底から、不意に轟いた虫の声。空腹を知らせる生理現象だ。ぬえの怪異は異能発動時、カロリーを消費する。仮死状態なら尚更、腹が減る。それはおよそ万能に近い異能を持つ黄昏愛にとって、数少ない弱点と言ってもいいだろう。

 アナスタシアは気が付いていないが、このまま膠着状態が続いて長期戦になれば――先に倒れるのは黄昏愛の方だった。


「死ね…………ッ!!」


 それが解っているからこそ、愛はすかさず二射目を放っていた。


「…………ふむ」


 続けて三射目、四射目――黄昏愛は尚も針弾を撃ち続けるが、しかし。

 放たれた針はアナスタシアに命中し外装を剥がすが、やはりその肌に傷を与えることは出来ない。毒もまるで効果が無いようである。


「まあ、やれることは全てやるべきだ。悔いの無いようにな」


 愛の為すどれもこれも、アナスタシアの目には無駄な抵抗にしか映らない。実際、愛の攻撃はアナスタシアに何の変化も与えられていない。その声色には半ば呆れの感情が見え隠れしていた。


「しかしさて、どうしたものか。余は貴様を殺せんし、貴様も余を殺せん。このままでは引き分けだな……」


 五射目の針に至っては首を傾け、頬に掠めることすら無く避けてみせるアナスタシア。とうとう愛の攻撃を些事だとでも言わんばかり、彼女はこの膠着状態を打開すべく、思考をひとり巡らせ始めるのだった。

 血の天蓋あまぐもは嵐のように、雨脚を強める一方で。ならばそれを従える彼女のことは、さしずめ嵐の王とでも呼ぶべきだろうか。


「…………い…………」


 そんな赤い嵐の只中、雨晒しになっている黄昏愛の姿は、見る者によっては哀れに映ることだろう。

 決して届かないというのに、それでも銃身を、触針を、未だ伸ばし続けている。その抗う姿の、なんと滑稽なことか。


「…………いいえ…………」


 アナスタシアは引き分けだと言っていたが、とてもそうは見えない。今の状況だけを見れば、両者の間には文字通りの、そして見た通りの、天地の差があった――


「…………………………………………私の勝ちです」


 ――その()()が今、ひっくり返る。


 それは、()だった。赤い世界を、更にその上から塗り潰す――否、掻き消す程の白い光。その光が瞬いた刹那。遅れてやってきた音が、耳を劈いて――視界が晴れた直後。


「……………………? ……………………は……………………?」


 気が付けばシスター・アナスタシアは、地上に、叩き落されていたのである。


 自分の身に何が起きたのか、アナスタシアにはやはり解らなかった。何も解らないまま、気が付けば彼女は地面に落下していた。仰向けの状態で見上げる空は暗く、赤はどこにも見当たらない。


 解らないなりに、彼女は思考を巡らせる。状況を理解しようと努めて、まず真っ先に気が付いたのは――全身を覆っていた血の化粧が、一片も残すことなく剥がれ落ちていたことだった。

 それに、全身に力が入らない。感覚が希薄だ。音が聞こえない。鼓膜が破れている。脈拍も弱くなっている。今解る範囲の情報だけでも、自分が直に死ぬであろうことは明白だった。


 それはいい。死ぬことは問題ではない。問題は、何が起きてそうなったのか。それが解らなければ死んでも死に切れない。

 しかし自分がこうなる直前、思い出せる光景はあの白く瞬いた光だけ。その白によって世界が明滅した直後、自分はこうなっていた。つまりその一瞬で自分は、血の化粧を貫かれ、致命傷を受けたことになる。

 果たして何を以てすれば、そんな事が可能なのか――考える。考える。

 死の間際に立って尚、彼女の頭の中は戦いの事ばかり。もう次の戦いの事を見据えて、彼女は思考を巡らせていた。


「…………く、は、は…………まさ、か…………っ」


 そんな彼女だからこそ、当然気付く。気付いた上で彼女は、諦めたように微笑うことしか出来なかった。

 光の正体は()()だ。アナスタシアの頭上、赤い雲の更に上――本物の雲から、それは落ちてきたのだ。しかも、あろうことかそれはアナスタシアに直撃したわけである。

 どれ程の確率だ? 確かに雷は高い所に落ちるというが、よりにもよってこのタイミング。運が悪いなんてものじゃない。それならば黄昏愛は、運を都合良く味方につけたとでも言うのか――


「くくっ……成る程、()()()()か。最早、言い得て妙よな……黄昏愛……」


 ――否。そんなはずがない。これは起こるべくして起きたこと。黄昏愛は文字通り、それを引き寄せたのだ。


 その黄昏愛はと言うと――最初からずっと、其処に居た。アナスタシアが夜の闇だと思っていたそれは、彼女の落とす影であった。

 血の雨脚が途切れ、再び訪れた漆黒の夜。その中に浮かび上がる、表情の見えない貌で。足元に転がるアナスタシアの姿を、愛は無言のまま見下ろしていたのである。


 黄昏愛の攻撃ではアナスタシアにダメージはおろか、血の化粧を隔てた薄皮一枚、傷付けることすら難しい。問題は偏に火力不足。芥川九十九が戦闘不能となった今、愛はこの問題を自力で解決しなければならなかった。


 では不足した火力を補うにはどうすればいいか――その閃きは空にあった。山の天気は移ろいやすい。実際戦っている最中にも山頂では雨雲が流れてきて天候を荒らす兆候があった。

 愛が触針を撃ち続けていたのは攻撃の為ではなく、つまるところ避雷針。それを電極のようにアナスタシアの身体へ突き立て、落雷を誘導したのである。

 地上から電荷の道筋を伸ばすことで、雷雲が地上に向かって伸ばしている電荷の道筋と繋がり落雷が発生する「先行放電ストリーマ」という現象がある。それをある種、人工的に再現した愛の作戦は、見事成功したのであった。


 そして雷の電力はおよそにして1億ボルト。絶縁体ですら破壊してしまう威力。その直撃はまさに規格外の火力だと言えるだろう。


「余の必殺とっておきに、このような攻略法があったとは……くふっ……ライザにも……教えてやらねばな……」


 アナスタシアの皮膚は黒く焼け焦げ、微かに肉の灼けた臭いを醸している。その臭いを感じることすら出来ないほど、アナスタシアの感覚器官はその一撃で壊れてしまっていた。

 それでも彼女は満足げに微笑む。死の間際で謎が解けたことで、もう思い残すことは無いとでも言わんばかり。抵抗する素振りは無い。

 仮に抵抗しようにも、そもそも周囲の血痕すら雷の熱で蒸発しており、アナスタシアの武器となるものはどこにも無い。


 そんな今の状況は、誰がどう見ても明らかに――


「余の負けだ…………」


 ――黄昏愛の勝利を、如実に物語っていた。

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