■■地獄 18
山の天気は移ろいやすい。先刻より上空を覆っていた暗雲はいつ頃からか、嘶くような雷鳴を轟かせている。嵐を予感させるその悪天は、まるでこの戦いの行末を暗に示すようでもあった。
「(嗚呼――驚いたな)」
付き従うように、彼女の周囲を揺蕩う朱い鎧――血の礼装。それを身に纏うは拷问教會第五席、吸血皇女アナスタシア。本気を出した彼女は、その圧倒的とも言える気配を全身から滲ませている。
そんな彼女が今、その心の内では意外にも感嘆の息を漏らしていた。
「(今の一撃……血の化粧では防ぎ切れなかった。咄嗟に血の礼装を展開したのは我ながら善い判断だったな。なんという膂力、これが芥川九十九……悪魔の如き幻葬王か……)」
アナスタシアは自身の左手に視線を注ぐ。芥川九十九の拳を、その規格外の一撃を受け止めた際、礼装越しに伝わってきた衝撃を噛み締めながら。
「(……いかんな。余の悪癖だ。それどころでは無いと言うのに……抑えねば……)」
ぎちぎちと音を立て、握り締められる小さな拳――その周りには血の礼装の一部、籠手のような形状へと変化した血の装甲が宙に浮かんでいる。
「くくっ……」
これは殺し合いだ。遊んでいる場合ではない。
それが解っていて尚、闘いを好む怪異としての性が、アナスタシアの血を否応なしに滾らせてしまう。
もはや抑えられない昂りに、噛み殺し切れなかった笑みが微かに漏れ出して――
「…………………………………………」
――その直後、刺すような視線を遠くから感じて。彼女はすぐさま我に返る。
アナスタシアが咄嗟に視線を向けた先、そこには静かに佇むシスター・カタリナの姿があった。彼女は柔和な微笑を崩さぬまま――その細い目の隙間から、黒く濁った瞳を覗かせている。
まるで温度を感じさせない、深淵の如き眼差しが、アナスタシアを咎めるように見据えていた。
「(……ふん。そのような目で見ずとも解っておるわ。貴様の用事などさっさと済ませて……)」
その視線に気が付いたアナスタシア、心底面白く無さそうに鼻を鳴らす。つんとした表情のまま、アナスタシアは自身の背後へゆっくりと振り返った。
そこにはつい先程、血槍によって腹部を貫かれた一ノ瀬ちりが地面に蹲って――いない。
「…………あれっ!?」
そこには新鮮な血溜まりだけを残して、一ノ瀬ちりの姿はどこにも見当たらなかった。
思わず間抜けな声を上げてしまうアナスタシアだったが――すぐ何か思い至ったように、愛達の方へと視線を戻す。
「おっ……と……!」
見るとそこには、一ノ瀬ちりが愛達の頭上、空から降ってきていた。落下してくる彼女を黄昏愛が、所謂お姫様抱っこのような形でキャッチしてみせる。
どうやらアナスタシアが目を離した一瞬の隙を突いて、愛はちりの全身に括り付けていた糸を手繰り寄せ、マリオネットのように引っ張り上げることで彼女を空から回収したようだった。
「ちり、大丈夫……!?」
「ッ……あァ、これくらい大したこたねェ……」
不安を顕にして駆け寄ってくる九十九に、ちりは軽く手を挙げて応じてみせる。
槍で貫かれたちりの腹部は風穴を空ける程の傷を負っているものの、赤いクレヨンの機能で体内の血流を操作し、既に止血は施されていた。
愛に打ち込まれた麻酔の効果も体内にまだ残留していた為か、どうやら見た目以上の苦痛では無さそうである。
とは言え、決して無視してもよい軽傷というわけでも無い。もともと净罪の後遺症で激しい運動が出来なくなった今のちりにとって、その一撃は命に別状は無くとも継戦能力を奪うには充分過ぎる痛手となっていた。
「それより聞け……奴は『吸血鬼』の怪異だ。他人の血を自由に出し入れしたり、結晶化させることが出来る……血を操る異能を持っている」
それでも、彼女の目は死んでいない。今自分に出来る事を確実に遂行しようと、ちりの口は懸命に動く。
「奴はその異能で、酩帝街の東区一帯……あの帝国の来場者全員の血を管理していた。今この場で同じ事が出来るなら、オレ達のことなんか今すぐ簡単に無力化出来るはず……それをしないってことは」
「今はまだ、その発動条件を満たしていないということですね」
抱えていたちりの身体をゆっくりと地上へ降ろしながら、その先に続く言葉を愛は代弁する。
「そうだ。奴がオレ達を確実に仕留める気でいるなら、異能を発動しない理由は無い。奴は必ず、その発動条件を満たす為に不自然な動きを見せるはず。些細な変化も見逃すなよ……」
アナスタシアが吸血鬼の怪異で、血を操る異能を持っているという話を、ちりは酩帝街にて当の本人から既に話を伺っていた。まさかその情報がこんな所で役に立つとは思いもしなかった事だろう。
ちりの静かな忠告に、愛と九十九は無言のまま頷き、再び身構える。前方にはアナスタシア、後方にはカタリナ。愛達にとっては不利な状況と言える。
とは言えカタリナに関しては、自ら積極的に交戦するつもりは無さそうだった。虎視眈々と隙を窺っている風ではあるものの――糸の結界を前にして、迂闊に手出し出来ないといった様子でもある。
「ふむ……成る程、糸か……」
そんなカタリナの様子も含めて今の状況が余程興味深いのか、アナスタシアは感心したように一人唸っていた。
「第一席が手をこまねいている原因はこれか? まさかアレの異能にこのような弱点があったとはな……」
口の端から八重歯を覗かせ、猟奇的に微笑む吸血皇女。炎のように揺らめく血の礼装は、まるで彼女の闘争心が形と成って現れているよう。
「ふゥ…………――――」
対する芥川九十九、深く息を吐いて――ぱきぱきと弾けるような音を立て、その白い肌が割れていく。
罅割れたようなその傷は全身に広がっていき、傷の隙間からは悪魔本来の黒い肌が垣間見え、黒い煙のような何かが微かに漏れ出ている。
やがて一際大きな破裂音を響かせ、羊のような巻き角が彼女の頭蓋を貫いて顕れた。蝙蝠のような翅と蜥蜴のような尻尾を伴って、その異形はまさに悪魔のそれである。
半人半魔の形態。それは命の代償を支払う一歩手前、敵を斃す事を目的とした彼女の戦闘態勢である。
「なあ、貴様たち」
そして戦闘態勢と言うのなら、今の彼女の姿こそがまさにそれなのだろう。
「頼むから、この程度で死んでくれるなよ」
礼装纏う吸血皇女、シスター・アナスタシアはその身の内で暴れまわる昂ぶりを懸命に抑え込みながら――それでも漏れ出てしまう挑発的な笑みを溢して。指の関節を鳴らしながら、その手に拳を作るのだった。
一瞬の静寂があった。互いの息遣いが遠くからでも聞こえてくるような、刹那の空白。その空白が埋まるのもまた、一瞬であった。
「ぉ、ォオ――――ッ!!」
「く、はは…………っ!!」
芥川九十九とシスター・アナスタシア、両者は殆ど同時に飛び出した。瞬きの刹那で互いの距離はゼロとなり、拳と拳が打つかり合う。打つかり合った拳の衝撃は周囲に突風を齎し、血の礼装は綻ぶように血飛沫を撒き散らす。
互いの拳は打つかり合ったまま拮抗し、直後弾けるようにノックバックした。後ろによろけた両者は共にどうにかその場で踏み留まり、身体を捻って間髪入れず、再び拳を振り翳す。
再び放たれた拳は、まるで示し合わせたように同じ軌道を描き、またもや衝突した。二度目もやはり互いの膂力は拮抗し、互いの拳を弾き返す。それでも両者一歩も譲らず、拳を振るうこともまた止まらなかった。
「突きの速さ比べか……愉快ッ!!」
吼える吸血鬼、歯を剥き出して。血の手甲纏う拳、夜の闇に紅く閃く。
両者の拳は何度も衝突を繰り返す。打ち合い、鎬を削る、悪魔と吸血鬼。そこに優劣の差は見られず、全くの互角と言ってよかった。
力も、速さも、互角。ならばこの拮抗状態を崩す為に必要なものは――
「ぬ……ッ!? またしても――!」
その時、不意にアナスタシアの動きが僅かに鈍る。彼女が咄嗟に下げた視線の先は、自身の足元だった。
そんな彼女の足元に群がっていた物はまたしても、愛の操る糸。その糸は幾重にも織り重なった結果、立体的な腕の造形と化している。糸の腕は地面から生え、アナスタシアの足首を掴んでいた。
正確には足首そのものではなく、血の礼装越しだったが――それでも糸の腕に引っ張られたアナスタシアは一瞬、バランスを崩してしまう。
そして芥川九十九にとってはその一瞬で充分だった。
「ォォオ――――ッ!!」
九十九の繰り出した突きは遮られることなく、アナスタシアの懐に飛び込む。その一撃は血の礼装によって防がれアナスタシア本体に触れることは叶わなかったが、衝撃を完全に殺し切るまでには至らない。
礼装はまるで塗装が剥がれるようにその一部を瓦解させ、周囲に血飛沫を撒き散らしていた。
「くくっ……! まったく出鱈目だな……!」
ダメージこそ無いものの、しかし相手はあの芥川九十九。いくらアナスタシアが本気を出した戦闘形態――血の礼装を身に纏っているとは言え、その防御力を過信するにはあまりにも相手が規格外。
すぐさま体勢を立て直そうとするアナスタシア、足元に絡まる糸の腕を、具現化した血の剣で切り払う。
「逃さない……ッ!」
しかし続けざま、その足元に絡み付く――悪魔の尻尾。
愛のサポートのおかげでアナスタシアの足元に隙が生じたことに気が付いた九十九は、自らもまた尻尾を伸ばし、それをアナスタシアの足元に巻き付かせていた。
それはチェーンデスマッチさながら、アナスタシアに後退を許さない。自身もまた退く事が出来なくなる諸刃の剣だが、今の九十九には関係ない。
「ォォォォオオオオオオッ!!」
咆哮と共に繰り出される乱打、乱打、乱打の嵐。その一撃一撃が命を刈り取るには充分過ぎる程の火力で。規格外と言うのなら、それを何度打ち込まれても耐え切っているアナスタシアの礼装の方なのだろう。
血の硬質化はアナスタシアが得意とする能力応用の一つだが、これ程までの耐久性をイメージし実際に具現化出来る技術、その練度は並みのそれではない。
「よもや……このような事が……」
それ程までに自身の異能を理解し、熟知し、制御し、自在に操る事の出来る歴戦の怪異が、吸血鬼が、そんな僅か一瞬の隙を突かれ、無防備を晒した胸元に何発も打撃を受けてしまった。
そんな経験を彼女は、2万年という人生の中で初めて味わったのである。
「だめだな…………これはもはや…………くっ…………ふふっ…………――――!」
そんな彼女がここにきて浮かべる表情は――やはり、満面の笑み以外に無かったのだろう。
口の端が三日月のように弧を描いて吊り上がり、美食を前にした獣のようにその牙の隙間からは涎が溢れ出して――
「ォオオ、お…………ッ!?」
――その直後。吸血鬼の小さな紅い拳が次の瞬間、芥川九十九の胸板を突き穿っていた。
足元を取られ隙を見せていたアナスタシアとは違い、九十九には隙など微塵も無かった。そんな彼女が反応すら出来ず、攻撃を素通りさせてしまったという事実。
その事実を理解するには時間が足りず――アナスタシアに殴られた九十九は為すすべもなく背中から地面に倒れ、地盤を砕きながらその身を沈み込ませるのだった。
衝撃が伝わり、音が遅れてやってくる。折れた肋骨が肺に突き刺さり、その口から血を吐き出す。
「――余は熟、無粋よな」
アナスタシアの攻撃はその一撃で終わらなかった。反射的に起き上がろうとする九十九を抑え込むように。その顔面目掛けてアナスタシアの鉄拳は再び振り下ろされる。
「ぐッ……あ……!?」
その直撃もまた防ぎようがなく、九十九は後頭部から再び地面に激突する。衝撃で呼吸が出来なくなり、視界が点滅する。
「死ぬな、などと。この期に及んで余は、まだ貴様のことを慮っておった。せめて殺さぬようにと、昂りを抑え込んでおった」
割れた大地の上、倒れる芥川九十九を見下ろして――アナスタシアの血の滴るその口からは、もはや冷気すら伴った言葉が紡がれていた。
「だが……もうやめだ。殺してやるぞ、幻葬王。恨むならその強さを恨め」
童のような見た目にはおよそ似つかわしくない、満月のように妖艶で狂気的な微笑を浮かべる吸血皇女。倒れる芥川九十九に再三の追撃、紅く染まった鉄拳を振り翳して――
「させるわけないでしょう。そんなこと」
しかし。谷底から聞こえてくるような、そんな暗い声が目の前にまで迫ってきているのに気が付いて。アナスタシアはその拳の行く先を、足元の九十九ではなく真正面――黄昏愛へと移していた。
多種多様な獣の筋肉を混ぜ合わせた怪腕、巨大化した愛の拳が、吸血鬼のそれと衝突する。しかし九十九の時とは異なり、愛の拳は押し負け、一方的に弾き返されていた。
がら空きになった愛の胸元へ目掛け、アナスタシアの拳はそのまま勢いを殺すことなく飛び込み、貫く。ともすれば呆気もない程、愛の身体は大きな風穴を開けていた。
しかし、その程度が黄昏愛にとって致命傷になるわけも無い。拳によって身体を貫かれ心臓すら潰されているというのに、黄昏愛は死んでいないどころか苦痛すら覚えていない。
愛は傷付いた自身の肉体には目もくれず、その両腕を蛸のような触手へと変化させ、すぐさまアナスタシアへ纏わり付かせた。血の礼装を覆う触手は、そのままアナスタシアを圧し潰そうと蠢く。
「この程度……些事よな」
そしてアナスタシアもまた、この程度で止まるわけも無かった。アナスタシアが身動ぎすると、それに応えるように血の礼装がはためいて――全ての触手を瞬時に切り裂き、灰燼へと帰す。
しかし、触手によって遮られていた視界が晴れたその時、目の前に居たはずの黄昏愛の姿はどこにもない。
「死ねッッ」
愛は後ろに居た。既に傷を高速で再生させ元通りとなった彼女は、アナスタシアの後頭部へ目掛けて左手、蟷螂のような大鎌を振り下ろす――が。
血の礼装に触れた大鎌は一方的に破損、粉々に砕け散ってしまっていた。
「(堅い……!)」
愛が今まで出逢ってきたどの怪異よりも、その防御は堅牢であった。防御力だけならば、あの芥川九十九よりも。
この時、黄昏愛は察していた。自分の攻撃では、『ぬえ』の異能では、血の礼装を突破することは出来ない――
そんな愛が自分の背後に居ると解った瞬間、アナスタシアは身体を捻り後方目掛けて回し蹴りを放っていた。紅い軌跡を描き放たれたその閃光は、愛の胴体を上下に真っ二つ、呆気もなく引き裂いた。
感覚を遮断している黄昏愛にとって、痛みとはおよそ無縁なもの。真っ二つにされながらも、愛の操る異能は解除されることが無い。
地面を這うように蠢く糸が再び立体と成って、アナスタシアの足元に群がっていく。その動きを拘束しようと、糸の腕は幾重にもなって血の礼装に掴み掛かる。
「それはもう見たぞ。意外と芸が無いな、鵺の怪異」
だが同じ攻撃、それも三度目ともなれば、もはや通じるものでは無い。ここまでの戦いで散らばっていた足元の血痕がアナスタシアの呼吸と共に蠢動し、直後それは血の槍柱となって飛び出した。
剣山のように乱立する血槍が、彼女の周囲に纏わり付く糸の群れを一気に切断していく。
「「なら、これはどうですか?」」
二重に聞こえてきたその声。上半身と下半身に分かれた黄昏愛はそれぞれが再生し、別々の個体となっていた。筋肉の増築を重ねた魔腕を二つに分身した愛がそれぞれ振り翳し、アナスタシアを挟撃する。
前後から迫りくる魔腕の攻撃、それをアナスタシアは瞬時に展開した血の盾を以てして、その場で楽々受け止めたが――
「むゥ……ッ」
愛の魔腕は血の盾に触れた瞬間、突如として――何の比喩でもなく、文字通りに爆発したのだった。
ジバクアリ。この生き物はその名の通り、自分の体を自発的に爆発させることが出来る。
筋肉を収縮させることで自身を破裂させ、更にその衝撃に伴って毒性の粘着液を撒き散らし、外敵を確実に道連れにするのだという。
その特性を『ぬえ』によって再現した自爆攻撃――撒き散らされた毒煙によって視界を遮られたアナスタシアは顔を顰める。
しかしその毒煙をアナスタシアが吸い込むことは無い。撒き散った毒が血の礼装の内側に居る彼女のもとにまで届くことはなく、爆発もまたダメージは皆無で、煙による目隠しにしかならない――だからこその、違和感。
「……何か、狙っているな?」
アナスタシアの礼装を綻ばせるには、『ぬえ』の異能では威力が足りない。それは愛自身、何度か攻撃を繰り出したことで察するところがあっただろう。
そんな愛は先程から、拘束技や煙による目隠しなど――アナスタシアをその場に留まらせ、ともすれば隙を作ることに注力している。
自分の攻撃ではアナスタシアに致命傷を与えられない――それが解った上での行動なのだとすれば。
『――――――――ォォォォォォオオオオオオオオッッッッ!!!!』
その答えにアナスタシアが辿り着くよりも早く訪れたのは、耳を劈く悪魔の咆哮。
質量を伴った音の衝撃が毒煙を晴らし、顕れたのは悪魔の怪物。その全身を黒い獣の肉と化した、芥川九十九の真たる姿である。
愛の作り出した隙はその一瞬一瞬は僅かな時間なれど、九十九にとっては充分なアドバンテージと成り得る。
アナスタシアが視界を遮られたその隙で九十九は怪物形態への変身を済ませた上、次の攻撃を繰り出す準備を整えていた。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!』
隕石の如く降り注いだ悪魔の巨拳がアナスタシアを、その難攻不落であった礼装ごと殴り飛ばす。アナスタシアが地面に突っ込んだ衝撃で山の頂上はその一部が抉られ、麓では揺れによる土砂崩れを引き起こしていた。
「がはッ……!?」
土煙の向こう側、崩れた地面の中で仰向けに倒れているアナスタシア。その背中には岩の破片が突き刺さり、その細い腰を貫いて腹から飛び出している。
命の代償を支払った、悪魔の全力の一撃。それを防御の姿勢も取らぬまま受けてしまった血の礼装は完全に瓦解し、その返り血は山の頂上を覆い尽くす程の範囲にまで飛び散っていた。
九十九は勿論、愛も、ちりも、カタリナ達に至るまで、その場に居る全員がアナスタシアの返り血を浴びている。その光景が、芥川九十九の齎した衝撃の凄まじさを物語っているようだった。
『フゥゥゥゥ…………――――』
全身から黒い煙を吐き出して、九十九の姿は次第にヒトのそれへと戻っていく。反動によるものか、その口の端からは絶え間なく血が流れ落ちている。
長時間に及ぶ怪物形態への変身、その状態で全力を出し尽くしてしまった場合、それが九十九にとっては致命的となる。たとえアナスタシアを退けたとしても、この後にはまだカタリナとの戦いが控えている。余力は残しておきたい。
だからこそ九十九はヒトの姿へと戻った。倒れ傷付いたアナスタシアの姿を見て、半ば勝ちを確信したというのもあるが――
「甘いなあ、幻葬王」
結果として、その判断は誤りだった。
その煽るような口調は、遥か後方から聞こえてきて――九十九が咄嗟に振り向いた時にはもう既に。
アナスタシアは血の剣を、一ノ瀬ちりの頭上へ目掛けて、振り下ろしている最中だった。
「やれやれですね」
滑らかな軌道を描いた血の凶刃は――次の瞬間、その身を挺して一ノ瀬ちりのことを庇った、黄昏愛の肉体を袈裟斬りにしていた。
心底面倒臭そうに溜息を吐きながら、左肩から股の下まで真っ二つに切り裂かれる黄昏愛。彼女の返り血を一ノ瀬ちりは背中越しに浴びて、ようやく自分が狙われていた事に気が付く。
「危ねッ……!?」
振り返った先で血飛沫を上げる黄昏愛の姿が目に飛び込み、思わず声を上げるちり。どうやら自分が狙われたという事よりも、黄昏愛が自分を庇ってくれたという事実の方を驚いているようだった。
「あまり赤いひとをイジメないであげてくださいよ。弱いんですから、このひと」
しかしやはりと言うべきか、黄昏愛にとってその程度は致命傷にすらならない。それどころか余裕の表情で、こんな憎まれ口を叩く始末。
「……そうもいかん。これが余に与えられた役割であるが故な」
刹那の交錯。アナスタシアはどこか思い悩んでいるような、複雑な表情を垣間見せて――
「なら死ねッッッ」
当然そんな彼女の心境など知ったことではなく、黄昏愛は容赦なく反撃を開始した。
真っ二つに裂かれた腹部から溢れ出す大腸小腸――それら全てを無数の蛇へと変化させ、雪崩の如き圧倒的な物量を以てして、アナスタシア目掛け一斉に放つ。
しかしそんな、まるでジャンプスケアのような奇襲攻撃に対しても、アナスタシアは瞬時に対応出来る。
再び彼女の周囲に展開された血の礼装によって、愛の放った蛇の大群は簡単に防がれてしまった。それどころか礼装に触れた端から蛇は焼け焦げ、次々と死んでいく。
それでもどうにかアナスタシアを一ノ瀬ちりから引き離すことは出来た。腹部から溢れる蛇を自分自身から切り離して、ちりを抱き抱えながら九十九の傍まで後退する。
「あいつ……またちりを狙ったな……!!」
そして芥川九十九はと言うと、怒りに震えるその額に大きな青筋を立てながら、白い牙を剥き出していた。その傷だらけの身体から黒い煙を絶え間なく吐き出して。
「……あなた、なにか狙われるような事でもしたんですか?」
溜息混じりに尋ねる愛。彼女の手を借りて地面に下ろされながら、ちりもまた溜息を漏らしていた。
「オレは何もしてねェ――」
『アタシは羅刹王の配下ダ。この街にスパイとして潜入シ、使えそうな人材を見繕っては羅刹王の下に送り出ス――『獄卒』の役目を任されていル』
『使えそうな人材――その前提条件としテ、酒のニオイがしない者、酔う資格の無い者――即ち盛者必衰の理に耐性の有る『適合者』を探していたわけダ』
「……とは、言えねェか」
酩帝街における『净罪』を巡った一件で、シスター・フィデスに告げられた真実がある。それを思い出し、一ノ瀬ちりは気難しそうに奥歯を噛み締めていた。
見たところ、アナスタシアはフィデスに相当入れ込んでいる。そんな彼女がフィデスの為に、ちりを狙っているのだとするなら――ちりが所謂『適合者』であることと関係があると思っていいだろう。
そしてその真実を、この場においては芥川九十九だけが何も知らない。
「……いや、今はそんなことより……」
自分が優先的に狙われているかもしれない――そんな懸念すら「どうでもよい」とでも言わんばかりに、一ノ瀬ちりは頭を振るい不要な思考を追い出す。
事実、今はそれどころでは無い。
「あれは……まさかアイツ……血の中に潜伏させていた分身と、いつでも入れ替われるのか……? さっきからわざと大袈裟に血を撒き散らしてやがったのはそういう事か……! これは……戦いが長引けば長引くほどこっちが不利になるぞ……!」
シスター・アナスタシアの繰り出すあまりに変幻自在が過ぎる能力の数々に、一ノ瀬ちりは戦慄していた。
血を操る能力を持った怪異は意外と多い。ちりがまさにそうだし、血に関係する都市伝説の数自体がそもそもかなり多い。
そんな血を司る怪異の中でも、『吸血鬼』――シスター・アナスタシアは間違いなく最高峰と呼んで良かった。
「甘いなあ、幻葬王」
再び血の礼装を纏い現れたシスター・アナスタシアには傷一つ見当たらなかった。どうやら九十九に殴り飛ばされ倒れ伏していたのは、またもや分身だったようで。そこには大量の血溜まりだけを残して、分身は既に消えていた。
「大事なことだから二回言ったぞ。そんな調子では自分自身はおろか、大切なものすら守れんな」
血の礼装が陽炎のように立ち昇る。灼熱を纏っているかのようなその異形とは裏腹に、アナスタシアの口から漏れる吐息は氷のように冷え切っていて。
「出し惜しみは止めろよ。これは殺し合いだぜ」
その挑発的な視線に射抜かれた芥川九十九は、その全身を再び悪魔の如き怪物の姿へと変貌させていった。
「待て九十九ッ、挑発に乗るな――」
『――ォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!!!』
ちりの制止も咆哮によって掻き消され、その耳に届くことはなく。巨大な悪魔の翅を羽撃かせ、怪物と化した九十九は無我夢中に飛び出した。
「くくっ……ははは……!!」
迎え撃つは、嗤う吸血鬼。九十九の進行方向に散らばった血痕を媒介とし、血の槍柱を何百本と具現化、射出する。
しかし怪物と化した肉体の強度に血槍は呆気もなく跳ね返され、ダメージはおろか進行を妨げる役割すら果たせていない。
悪魔は一瞬で距離を詰め、そのまま轢き潰さん勢いで吸血鬼に迫る。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』
「くっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!!」
そんな悪魔の突進を、アナスタシアは礼装を纏った両腕を突き出し、真正面から受け止めた。弾けるような満面の笑みで、可憐な少女は悪魔の怪物と取っ組み合う。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!!!』
規格外という表現すら生易しく感じるほどの圧倒的な暴力――悪魔の怪腕は振るわれる度に空間を振動させ、周囲に衝撃波を迸らせる。
「ははッ!! そうだッ、もっと打ってこい!! 最期まで足掻いてみせよッ!!」
まるで勝利を確信したような言い草で、依然挑発的に吼える吸血鬼。吹き荒れる突風が綻んだ血の礼装の一部を撒き散らし、地面を更に血で濡らして。
もはや生物の域を逸脱した疾さを誇った悪魔の拳打を、アナスタシアもまた規格外と言っていい血の礼装による絶対防御によって受け流す。
礼装は悪魔の拳に砕かれる度、その構造を絶え間なく変化させ、綻んだ端から修復していった。
片や最強の矛。片や最強の盾。両者は一歩も譲らない。果たしてこの戦いに決着はつくのだろうか。永遠に続いてしまうのではないか――そう思わずにはいられない程、その光景は異常を極めていた。
だがどんな時間にも、終わりは必ず訪れる。
そして終わりというものは決まって、唐突に訪れるものなのだ。
◆
悪魔の肉片が、吸血鬼の血飛沫が、四方八方へと撒き散らされる。その惨状はまるで災害や戦争のようだった。
いくら地獄が異常に満ち溢れた世界だと言っても、これ程までの異常な光景は滅多に見られるものではない。
そしてそんなものの真っ只中に放り込まれた、一ノ瀬ちりはと言うと――
「クソッ……滅茶苦茶だ……!」
せめてその暴風に吹き飛ばされないよう、黄昏愛の背中にしがみつくので精一杯であった。
「…………」
一方で黄昏愛は、自分の体重を異能で重くしているのか、吹き荒ぶ暴風の中でその体幹は微動だにもしていない。
目の前で繰り広げられる悪魔と吸血鬼の攻防を、彼女はハイライトの無いその黒い瞳で黙々と見つめていた。
ともすればそれは、観察するような眼差しで。
「……ねえ、赤いひと」
そんな黄昏愛が、不意に口を開く。
「アナスタシアはさっきから、血をわざと大袈裟に撒き散らしているんですか?」
「あァ!? どっからどう見てもそうだろ!」
愛の質問に応えるべく、ちりは暴風に掻き消されないよう声を張り上げる。
「アイツは九十九との攻防を利用して、わざと周りに血が撒き散るよう立ち回ってやがる! 九十九を挑発して、攻撃を誘発させて……そうやって自分の周りに血溜まりを作って、分身や武器を大量に潜伏させることがアイツの狙いだ!」
ちりがそう言っている間にも、アナスタシアが纏う血の礼装は破損する度、その周囲へ血飛沫を自然な形で飛び散るように弾けていた。
むしろ礼装を破損させる為に、芥川九十九の膂力を利用していると見ても良いだろう。
「だからこれ以上長引かせるのはヤバい! もうどこから奇襲されてもおかしくねえ!」
それがちりの見解で、それもまた間違いではなかった。
「……なるほど。あなたには、そう見えていたんですね」
しかし黄昏愛。どうやら彼女の見解は、ちりのそれとは若干異なるようで。
「私にはシスター・アナスタシアが先程から、円を描いているように見えました」
「あ……円?」
「ええと……私達の周囲を囲むように移動している、と言うべきでしょうか。戦いの中で然りげ無く、私達の周りをぐるりと一周、円を描くように立ち回っているような気がして――」
「……………………」
愛とちりはそれぞれ別の視点で、別の不自然をアナスタシアから見出していた。そんな愛の見つけた不自然の形、その指摘はちりにとって、まさに鶴の一声。最後のピースがようやく嵌ったように――ちりの思考回路は急速に回転を始める。
「血で、オレ達のことを囲んでいる……? まさかあの街の帝国はそうやって……? なら異能の発動条件は…………対象は座標そのもの…………だとしたら…………」
その傍ら、黄昏愛の視線はおもむろに周囲を見渡す。いつの間にか自分たちの周囲一帯が、血で染まった地面によって、もう殆ど囲まれ切っている事に気が付いて。
「…………もう詰んでませんか? これ」
愛とちり、二人揃って最悪の答えに辿り着いた、その直後。僅かに残っていた乾いた地面が、遠くから飛んできた血潮によって――二人の目の前で赤く塗り潰されたのだった。
◆
『……ォ……ォォォオ…………ッ!』
徐々に。徐々に。拳を振るう速度が、その勢いが衰えていく。
それどころか、全身から黒い煙が抜けていくように上空へと立ち昇っていって――
「……ッ…………く…………!」
芥川九十九の姿は完全に、人間のそれへと戻ってしまっていた。
「やはり貴様は素晴らしいな。幻葬王。芥川九十九よ」
もはや喋る事もままならず、肩で息をする九十九。地に膝を付ける彼女を唯一人、シスター・アナスタシアが勝ち誇ったように見下ろしていた。
「余は既に異能を発動しているというのに、まさかまだ意識を保っていられるとはな。それが『くねくね』の狂気にすら耐え切ったという、噂の痩せ我慢か? 興味深いにも程がある」
終わってみれば圧倒的、その透き通るような白い肌に傷一つ付けることなく。血の礼装を纏う吸血皇女、具現化した血の剣を――その眼下で跪く芥川九十九へと向ける。
「血界は完成した。これで余は異能の発動条件を満たし、貴様たちの血を自由に操ることが可能となった。今の貴様は脳に血が通っておらん状態だ。普通の人間ならとっくに死んでおる。痩せ我慢で耐えられるはずも無いのだがな?」
純真で溌剌な普段の言動からは掛け離れた、猟奇的なその微笑。その悪辣非情な振る舞いはまさしく、永きを生きる老獪たる怪異のそれだった。
「言ったであろう、これは殺し合いだと。貴様ほどの英傑を殺さねばならんのは確かに、些か惜しくもあるがな」
朦朧に歪んだ景色の中、九十九は無意識にその視線を自身の後方――愛とちりの方へと向ける。視線の先で二人は寄り添うように揃って倒れ、九十九と同じく地に倒れ伏していた。
「久し振りに全力が出せて愉しかったぞ。では――さらばだ」
次第に呼吸もまともに出来なくなって、全身の感覚が無くなっていって。もう指の先すらぴくりとも動かせなくなった手を、九十九はそれでも懸命に、倒れる二人に向かって伸ばそうとする。
そんな必死の姿を嘲るように――血の剣は無情にも振り下ろされた。