■■地獄 17
「此処は一体、どこなのだぁ~~~~~~~~っ!?」
吸血皇女、シスター・アナスタシア。彼女は酩帝街東区、『死ねぬ子供のための遊園地』の地下で眠っていた。
彼女が夢界の中でフィデスと言葉を交わしていた、まさにその最中のこと。突如として夢界との接続が切れ――目を覚ますと彼女は此処にいた。そして反射的に、黄昏愛の体を投げ飛ばしていたわけである。
しかしどうやら今の状況は、アナスタシアにとっても予想外の事態らしい。混乱し切ったその様子が演技でも無い限り、恐らく事前に打ち合わせすらなく突然に転送させられたのだろうと、愛達にも推測は出来た。
「チッ……増援か……!」
誰もが呆気に取られる中で、一ノ瀬ちりは忌々しそうに舌を打つ。そんな彼女の一言で愛と九十九は我に返ったように、解きかけていた拳を再び握り直していた。
増援。言われてみれば確かにそうなのだろう。アナスタシアは間違いなく拷问教會の一員、それも第五席の幹部である。そんな彼女が同じ幹部であるカタリナに呼び出されたこの状況が、増援でなくて何だと言うのか。
「やっほお~。ナーシャちゃん。久しぶりい~」
戸惑うアナスタシアに向かって気さくに、愛称のようなもので呼び掛けるカタリナ。へらへらと微笑を浮かべて、血に濡れた右手を振ってみせる。
その声に反応して後ろを振り返り、左腕を欠損したカタリナの姿を視界に収めたアナスタシアは――
「…………は? 馴れ馴れしいな、誰だ貴様」
これ以上無いというほど訝しげに、余所余所しく、眉を顰めていたのだった。
「あらら……相変わらず忘れっぽいねえ、ナーシャちゃんは。ほら、うちうち。同じ職場の同僚の。美人で優しい、みんなの頼れるお姉さんの~?」
「は?」
「……拷问教會の第一席ぃ~!」
全くピンと来ていない様子のアナスタシアに、カタリナは不満げに頬を膨らませてみせる。
「ん……ああ。なんだ、貴様か……」
そんなやり取りの末にようやく思い出したのか、アナスタシアは合点がいったように声を上げた。かと言ってその態度が大きく変わるわけでもなく。アナスタシアは依然訝しげな視線をカタリナに向けている。
「思い出してくれたあ? 会いたかったよお、ナーシャちゃん。相変わらずカワイイねえ」
「そういう貴様も相変わらずのようだな。そういえばこんな顔をしておったか……いや、と言うか……ナーシャちゃんだと? なんだその呼び方は。貴様には余を愛称で呼ぶ許可は出しておらんぞ。図々しい奴め」
「えぇ……愛称って許可制やったん……? いやそれ言うたらナーシャちゃんこそ、どないしたん? その一人称。余て。可愛いけど。昔はそんなんじゃなかったよねえ?」
「……? 余は昔からずっと余だが」
「あ~……そこからなんやねえ。了解了解。あはは。今のは気にせんとってえ」
真意の読めないカタリナの言葉に首を傾げるも、いつもの適当な言葉遊びなのだろうと早々を見切りをつけたようにアナスタシアは鼻を鳴らす。
「……そんなことより……」
先程までの慌てふためく様から一転、見定めるような冷たい視線で周囲を見渡し始めるアナスタシア。
「此処はどこだ。なぜ余を連れてきた。何を企んでいる」
どうやら自分が第一席の異能で無理矢理に転送させられた事を悟ったらしい彼女は、愛達が聞いたこともないような低い声で唸る。その態度はまるで、愛達のことよりもカタリナの方を強く警戒しているようだった。
「うん。ナーシャちゃんには、うちが今請け負ってる『依頼』のお手伝いをしてほしくてねえ」
カタリナが指差す方向には拳を構える愛達三人の姿がある。それを一瞥して、アナスタシアは眉を一層怪訝に動かしていた。
「ほら、あそこに居る、あの子達――うちらの敵を、ナーシャちゃんに殺してほしいのよお」
「……敵? あの者達が?」
吸血鬼のマントコートが夜風に靡く。暗闇の中で煌めく彼女の、宝石のようなその赤い瞳に、愛達に対する敵意は――まるで感じられない。
これがただの増援なら、愛達は今すぐ目の前の新たな敵――アナスタシアに攻撃を開始すべき状況だろう。しかし、どうも要領を得ない。同じ組織の仲間、それも互いに幹部格のはずなのに――カタリナとアナスタシア、事情の解らない愛達から見ても、彼女達の間に信頼関係のようなものはまるで見受けられない。
「様子が変ですね」
「仲間じゃないのかな……?」
「……わざわざ連れてきたってことは、何か狙いがあるはずだ。油断するなよ……」
九十九の言葉に小声で返しつつ、一ノ瀬ちりは愛に目配せする。それを受けた愛は、その体内で糸を次々と精製していき、周囲へ静かに放出。結界を張り巡らせていった。
愛達もただ攻めあぐねているわけではない。こうしている間にも地面を這う糸が、音を立てずじわじわと、カタリナ達の居る方向へ伸びていく。カタリナを捕らえる為、水面下でその準備は進んでいた。
「拷问教會はあの者達から手を引くのではなかったか? フィデス様からはそう伝え聞いておるが」
愛達に背を向け、腕を組むアナスタシア。そんな彼女の態度に、カタリナは無い肩を落としてこれ見よがしに天を仰いでみせる。
「ああ、そうねえ。せやからうちは、拷问教會としてではなく――うちの今の雇い主、マヨイちゃんからの『依頼』で動いてるのよお」
カタリナは小馬鹿にしたような半笑いを浮かべながら、その片腕で傍に佇む『マヨイちゃん』の腰を抱いてみせた。
そんなカタリナの冗談めかした所作に対して、恐らくいつもの調子なら苦言の一つでも呈するはずであろう『マヨイちゃん』は、しかし今の混沌たる状況にすっかり呑まれてしまったらしい。彼女はなすがまま、すっかり怯えた様子でその肩を微かに跳ね上げさせていた。
「……つまり今の貴様は、開闢王の命令で動いているわけではないのだな」
「その通りい! せやからナーシャちゃんも安心して、あの子達のこと、殺してくれてええよお?」
「……そうか」
アナスタシアの周囲を取り巻く雰囲気が変わる。ざわりと、全身が粟立つような冷たい気配が、彼女の小さな身躯から溢れ出す。
そうして彼女がおもむろに右手を掲げてみせると――風も吹いていないのに、彼女を包むマントコートが独りでにはためいて――直後、周囲に煌めく赤い粒子。
それがどこからともなく現れたかと思うと、アナスタシアの右手の中へ吸い込まれるように集まっていき、やがてそれは立体的な深紅の長槍へと変化していく。
「安心したよ、第一席。ならば余が、貴様の依頼とやらを手伝う道理は無いわけだ」
自らの血を操り具現化した血槍、それを片手で軽やかに振るってみせたアナスタシアは――その穂先を躊躇いなく、カタリナへ向けたのだった。
「あらら……酷いわあ、ショックやわあ。同じ職場のよしみやんかあ。道理は無くとも人情くらいはあるでしょお?」
「あるわけがなかろう。そういう台詞はまともな関係値を築いてから言え。余の前に姿を現したのだって何千年ぶりだ?」
「なに言うてるのよおナーシャちゃん、百年前に一回会ってるでしょお? そんなことまで忘れちゃったのお?」
「……忘れたな。今はそんなこと、どうでもよいわ」
「あらあら。困ったねえ」
槍の穂先を突き付けられるこの状況に、流石のカタリナも苦笑いを浮かべるものの――しかしどうやら、本気で焦っているわけでもなさそうで。作ったようなその困り顔に動揺の気配は微塵も感じられない。そんなどこまでいってもわざとらしいカタリナの態度に、アナスタシアは苛立ちの乗った息を漏らす。
「……それになにより、フィデス様からは常日頃『第一席のことは信用するな』『仕事以外で関わるな』と耳に蛸が出来るほど言われておるからな。貴様に逆らう道理ならばそれだけで充分だろう」
「うふふ。束縛が激しいねえフィデスちゃんは。うちならナーシャちゃんにそんな窮屈な想いさせへんのになあ――」
カタリナが軽々しく口を開いた直後。アナスタシアの槍を持つ手が一瞬ぶれて、空気の裂けるような鋭い音が聞こえてきて――その一瞬でカタリナの残っていた右腕は、その肩から先が木っ端微塵に消し飛ばされていた。
アナスタシアが血槍を振るった――その場に居た誰もがそう理解するよりも疾く、血槍は鞭のようにしなり、赤い衝撃波となってカタリナの右肩を切り裂いていたのである。
「えっ」
遠くから様子を窺っていた九十九も思わず驚愕の声を上げていた。アナスタシアがカタリナに対し槍を振るったこともそうだが――その瞬間の動作を、九十九の動体視力を以てしても捉えることが出来なかった。それが何より九十九を驚かせていた。
「今、フィデス様を愚弄したか?」
氷のように冷たい貌が、焔のように燃え盛る紅い瞳が、聴く者の心臓を鷲掴む感情の無い声色が、それら全てが彼女の怒りをカタチにしているようで――その気迫を前にして、咄嗟にカタリナの傍から離れていた『マヨイちゃん』は身の竦む思いのまま、その場に愕然と立ち尽くすばかりだった。
「ちょお、落ち着いてやあ。冗談やってえ。というかあ――」
斯くして両腕を失ったカタリナ。千切れた両方の肩から血を止めどなく溢れさせている。そこまでの手傷を負ったにも拘らず、しかし依然としてカタリナに苦悶の表情は浮かばない。まるで、自分がこうなる事さえ見越していたかのような。あまりにも不気味な余裕――
「これが、フィデスちゃんの願いを叶える助けになるとしても……ナーシャちゃんは手伝ってくれないのかなあ?」
「…………何だと?」
そんな彼女の口から放たれた、その言葉――『フィデスちゃんの願いを叶える助けになる』というその一文によって――鋼鉄のようだったアナスタシアの表情はとうとう歪んでしまうのだった。
「ナーシャちゃんも薄々気が付いてるよねえ? フィデスちゃんの隠しごと。……うちが教えてあげる。ほら、こっちおいで」
カタリナは貼り付いたような乾いた笑みを浮かべたまま、細く閉ざされた瞼の隙間から黒く濁った瞳を覗かせる。
「…………――――」
そんな彼女と相対して一瞬の沈黙があった後、アナスタシアはゆっくりと彼女のもとへ近付いていった。槍は携えたまま、警戒を怠らず――カタリナの目の前まで、その歩を進める。
睨み付けるように見上げるアナスタシアの強張った表情を暫し堪能するように眺めたカタリナは、ゆっくりと膝を折りその身を掲げ、アナスタシアに視線を合わせる。
妖艶に煌めくその唇が、アナスタシアの耳元に近付いて――
「(今……ッ!!)」
――その時。既に地面を這っていた愛の糸は、カタリナの足元にまで迫っていた。
愛の合図と同時、蠢動する糸が網のように織り成して、カタリナの足元から飛び出す。悠長に耳打ちなどしている獲物に向かって容赦なく飛び掛かり、絡み付く。そんな愛の奇襲は――
「……………………よかろう」
――しかし。やはりそう上手くはいかない。
カタリナの言葉を、悪魔の囁きを、アナスタシアが聞き届けた直後。カタリナを覆い尽くそうとしていた糸は、その直後に全て、瞬く間に切り裂かれていた。アナスタシアの血槍はカタチを変え、鞭のようにしなり、一瞬にして周囲の糸を切り払ったのである。
「……ッ!?」
しかし、糸は不可視のはず。なぜ糸の奇襲を察知出来たのか――驚愕で目を見開かせる愛だったが、その疑問も次の瞬間には晴れていた。
愛の視覚は『ぬえ』の異能によって強化改造が施され、人間には見えない物が見えている。そんな彼女の視覚だからこそ、アナスタシアの周囲に漂う異様を捉えることが出来ていた。
アナスタシアの周囲には極小の、チャフのような赤い結晶が散りばめられたように宙を漂っていた。それの役割は、まさに愛の糸と同じ。つまりアナスタシアは糸を視認したわけではなく、自らの周囲に散りばめた血結晶によって愛の糸を探知していたのである。
「その話が本当なら……余に拒否権は無い」
空中でバラバラになり分解していく糸くずは、アナスタシアの血糊に染められ紅く煌めき舞い落ちる。その中心でくつくつと、心底愉快げに嗤うカタリナ。
「あの者達を、倒せばよいのだな」
苦虫を噛み潰したような、釈然としない表情を浮かべながらも――アナスタシアはその槍の穂先を、今度は愛達へと向けていた。
「ハッ……結局こうなンじゃねェか。無駄に期待持たせやがって……」
挑発的に吐き捨てる一ノ瀬ちりだが、その脳内ではあらゆる回路が慌ただしく駆動を始めていた。カタリナとアナスタシアの間でどのような駆け引きが行われたのか。ちり達には知る由もないし、それどころではない。シスター・アナスタシアが愛達に敵対することがどうやら確定したらしい現状に対し、ちりは直ぐに戦略を立て始める。
「……すまぬな、貴様たち。このような場で無ければ……語らいを愉しむ余裕もあっただろうに。残念だ」
そんなちりの赤い視線が見据える先――そこにいつもの天真爛漫、破天荒な彼女の姿はもはや見る影もない。
「余にとってフィデス様は絶対なのだ。フィデス様は全てにおいて優先される。故に、許せ。そして安心せよ、貴様たちを必要以上に苦しませるつもりは無い――」
乾いた声で呟くアナスタシアの周囲は、まるでそこだけが切り取られたような別次元の気配が揺らめいて――
「大人しく、倒されてくれ」
――次の瞬間、アナスタシアの姿が愛達の目の前から消える。次に現れた時、彼女は既に一ノ瀬ちりの後ろに立っていた。その鋭利な爪が、ちりの首元にまで既に迫っている。
「(は? オレ?)」
思わず心の内でそんな声が漏れてしまう程、ちりにとっては想定外。真っ先に自分が狙われたという事態。そしてそれに反応すら出来ず今まさに首を掴まれそうになっている現実。それらが一瞬で起きたことで、ちりの頭の中は真っ白になっていた。
「させない――――!」
そんな刹那の瀬戸際、間一髪のところで――アナスタシアの突き出された左手首を掴み掛かり、その場で押し留めたのは芥川九十九だった。
九十九とアナスタシア、二人の紅い視線が間近で交錯する。アナスタシアの表情にいつもの笑みは無い。それは獲物を前にした狩人のような、殺しを決意した者の貌。アナスタシアの本気を察し、九十九もまたその表情を強張らせる――
瞬間、悍ましい殺気を感じた九十九は、咄嗟にちりを突き飛ばしていた。よろめき尻餅をつく一ノ瀬ちり。その足元へ直後振り下ろされたものは――血の長槍。
アナスタシアは右手に握り締めていたそれを、叩き付けるように振り翳して――ちりが先程まで立っていた大地に突き刺し、深く抉る。
「う、おっ……!?」
その衝撃で更に後方へと吹き飛ばされるちり。アナスタシアの怪力で以て大地を砕いた長槍の一撃は山全体を大きく揺らし、地盤に罅を入れていた。
それほどまでの衝撃波に至近距離で巻き込まれた九十九であったが――その屈強な肉体はやはり傷ひとつ負うことなく、アナスタシアの手首も掴んだまま離していない。
「――――ッ!!」
今の九十九に迷いは無い――掴んだ少女の手首を、その握力で圧し折ることすら、何の躊躇も無くやってのける。悪魔の握撃によって潰されたアナスタシアの手首は破裂し、手首から先が重力に従って力無く崩れ落ちる。千切れた腕から滴り落ちる血液が、アナスタシアの足元で血溜まりを作っていた。
しかしアナスタシアは怯む素振りすら見せず、地面にめり込んでいた槍の穂先を無理矢理に持ち上げて、掬い上げるように九十九目掛けて振るい放つ。槍の軌道が九十九の顎を捉え、その首を吹き飛ばそうと――
「む……ッ」
――吹き飛ばそうとしていた矢先、槍を振るうアナスタシアの右腕は不自然に動きを止め、その槍が最後まで振るわれることは無かった。
「死ねッ」
アナスタシアが咄嗟に視線を落とした先で、槍の柄に纏わりつく無数の糸を確認した次の瞬間。彼女の頭は黄昏愛の繰り出す飛蝗の脚のハイキックによって、サッカーボールのように蹴り抜かれ、その小さな身体ごと宙に吹き飛ばされていた。
首があらぬ方向へ何度も回転しながら、空に血飛沫を撒き散らしながら、アナスタシアの身体は数秒間の自由落下の後――カタリナ達の居る遥か後方の地面に激突。そのままピクリとも動かなくなる。
瞬殺。
「えぇ……マジぃ~……?」
その一瞬の攻防を見届けたカタリナは、今度こそ本物の苦笑いを浮かべていた。
「さっきから、人前でコソコソと……随分と余裕そうですね」
眉間に皺をたっぷり蓄えて。気怠そうに首の骨をバキバキと鳴らす黄昏愛。かつて怪異殺しの悪魔と恐れられた圧倒的な暴力、その片鱗が垣間見えるような雰囲気を纏って。
「拷问教會だか何だか知りませんけど……そんなものが今更何人しゃしゃり出てきたところで……私達の相手になるとでも……?」
心底不愉快そうに唸り声を上げる彼女の隣、芥川九十九は無言のまま前を見据えている。悪魔の紅眼が、カタリナの一挙手一投足を捉えている。もう逃さないぞと言わんばかりの鬼の形相で。
妖怪と悪魔。最強のふたり。彼女達を前にしては、殆どの怪異が相手にすらならないだろう。
実際、拷问教會にとって最強の切り札であった『くねくね』歪神楽ゆらぎすら、彼女達は倒しているのだ。
それは実質的に、拷问教會の戦力では彼女達を止めることは出来ないという事実を意味している――
「ああ……ごめんごめん。なんや勘違いさせてしもうたみたいやねえ」
――その認識を今日、愛達は改めることになる。
「怪異同士の戦いは、異能の単純性能だけでは決まらない。重要なのは、戦う相手との相性。それ次第では、格下が格上に勝つことだってあるのよお」
不意に、肉を鋭利な刃物で穿ったような。そんな鋭く不気味な音が自分達の背後から聞こえてきて――愛と九十九は咄嗟に振り返る。
「例えば、あの『くねくね』ちゃんの異能はその単純性能だけなら、全怪異の中で間違いなく最強やけど……それなのに、怪異としては格下のはずの愛ちゃん達に負けている。そうなった要因は幾つかあるやろうけど、その中でも相性差は間違いなく大きかったやろねえ」
彼女達の視線の先、そこには自らの血溜まりを踏み締めるシスター・アナスタシアの姿があった。愛に蹴り飛ばされたはずの彼女は無傷の状態で、右の手首も千切れていない。
それもそのはずで――愛が蹴り飛ばしたのはアナスタシアの分身、血で形作られた影武者だった。入れ替わっていたことを悟られず、分身の残した血溜まりの中から顕れた本体は、その気配すらも感じさせなかった。
「適材適所って言うたやろお? 『依頼』の内容的にも、愛ちゃん達と戦いになった場合の相性的にも、ゆらぎちゃんよりナーシャちゃんの方が適任やって、うちは思ったのよ」
故にその奇襲は防ぎようが無く、アナスタシアの右手に握り締められた血の長槍の穂先は――愛と九十九が振り返った時にはもう既に、ちりの腹部を貫いていたのである。
「とは言っても、愛ちゃん達の実力は折り紙付き。せやから、うちが驚いたのは――」
苦悶の表情浮かべるちりの腹部から、鮮やかな紅い血が延々滴り落ちて、足元の地面を濡らしている。そんなちりの身体から槍を容赦なく引き抜きながら、アナスタシアは二人の居る方へ向き直った。槍は引き抜かれた瞬間に霧散し、朱い粒子となって宙を揺蕩っていた。
ちりの身体が膝から崩れ落ちる。貫かれた腹部より溢れ出る血の洪水を両手で塞ぎながら、彼女はその場に為す術なく蹲っている。
その光景が視界に入った瞬間、九十九は駆け出していた。その全身から黒い瘴気を溢れさせて――その白い肌が罅割れ、悪魔の黒い筋肉を覗かせる。背中を突き破り顕れた悪魔の翼が羽撃いた刹那、九十九は一瞬でアナスタシアとの距離を詰めていた。肥大化した黒い悪魔の腕が、その拳がアナスタシアの顔面に目掛けて放たれる。
その規格外の膂力は、あの黄昏愛が再生を前提として受けるしか無かった程の疾さで。あの歪神楽ゆらぎの造り出した『白鯨』の分厚い肉壁が深く抉られる程の威力で。避けることも防ぐことも叶わない、規格外の一撃。しかしそんな悪魔の拳を、シスター・アナスタシアは片手で受け止めていた。
「あのナーシャちゃんが――本気を出した拷问教會・第五席が、こんなにも強かっただなんて。最悪勝てなくても、今の状況を引っ掻き回して、隙さえ作って貰えればって……その程度の期待だったのにねえ」
否、よく見ると九十九の拳にアナスタシアは触れてすらいなかった。アナスタシアが前に翳した左手、数センチの間に隔たる紅い障壁が、拳の一撃を防いでいたのである。
だがそれで止まる九十九ではない。防御されることは予想外だったが、一撃で終わるとも思ってはいなかった。だから当然、九十九はそこから追撃を加えようと踏み込もうとして――しかしそれよりも疾く。今度はアナスタシアの右の拳が、芥川九十九の顔面を殴り飛ばしていた。
その場で受け止め踏み留まることすら出来ず、九十九の身体は呆気もなく宙を舞う。地面に何度も激突しながら転がって10メートル近く、砂塵を巻き上げながら吹き飛ばされていた。
「ああ……ナーシャちゃん。きみはもう、それほどまでに……」
転がり着いた先で九十九は直ぐに立ち上がる。そんな彼女の鼻からは大量の血が流れ落ちていた。今の一撃で鼻骨を圧し折られたのだ。歪んだ自分の鼻を九十九は指で摘み、無理やり元の形に折り直す。そして再び、直ぐさま駆け出そうとしていた九十九の足が――止まる。
戦いは始まったばかり。この程度の反撃で九十九が戦意を喪失することは無い。立ち止まっている暇などない。それなのに――九十九も、そして愛も、目の前の異形に目を見張り、立ち止まることを余儀なくされていた。
アナスタシアの周囲を漂う紅い障壁――硬質化した血の結晶が、その異形を成していた。それは鎧のようでもあり、盾のようでもあり、城のようでもあった。それは主人を護る意思を示すかのように織り成し、アナスタシアの周囲を死角無く覆う。
平時とは明らかに様子の違う、その異形。光の無いこの場所において、紅く煌めく血の繊維――その綺羅びやかさはまるで、血の礼装。そんな血で満たされた空間の中心、佇む金髪紅眼の怪物少女。その白い柔肌には血管のような朱い紋様が不気味に浮かび上がっている。
けれどその異様は、どこか不思議と気品に満ちていて。成る程これが『吸血皇女』と呼ばれる所以なのだろうと誰もが納得して然るべき威厳を放っている。
これぞ拷问教會第五席、純乎たる血の皇女、シスター・アナスタシアの真骨頂。血の礼装纏うその姿、王冠戴くその異形こそ、正しく――
「本物の怪異に、近付いてたんやねえ」
――怪異の王、『吸血鬼』。その或るべき形と呼ぶのがきっと、相応しい。