■■地獄 13
「しかしライザよ。貴様、逢う度に強くなっておるな! 流石は殺しの天才、まさしく麒麟児よな!」
試合が終わって。ライザとアナスタシアは荒れ果てた舞台の中央、互いに地べたで胡座をかいて顔を突き合わせ、いつものように事後の歓談を興じていた。
「フフッ……買い被り過ぎですよ、殿下」
一息ついて穏やかな表情を浮かべるライザ。彼女がその身に受けた数多の傷は既にカサブタが出来つつあり止血されている。
「だが、満足は出来ておらんようだな?」
血だらけの闘技場、真紅の円に囲まれて会話の最中、アナスタシアはそう言って悪戯な笑みを浮かべてみせた。
「やはり余では、かの幻葬王――芥川九十九の代わりにはなれんか?」
その何もかも見透かしたような紅い瞳に射抜かれて、ライザは咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。胸を締め付けられるような微かな痛みに、唇密かに噛み締めて。
「……参ったな」
一瞬の間の後、やがて観念したようにライザは辛そうに息を漏らした。
「どうかお許しください、皇女殿下。貴女との時間を独り占めしておいて、他の女性のことを考えてしまうなんて……私は最低ですね」
「くくっ。よいよい。貴様の気持ちはよく解る。あれには強さだけではない、誰もが目を奪われるような、底知れぬ魅力がある。まさに悪魔的よな」
ライザとアナスタシア、この両者がプライベートで殺し合う機会は、実はそれほど多くない。
そのきっかけとなる要素は、早い話が「殺しを我慢出来なくなったら」であり、その際にはどちらからともなく声が掛かって、両者の間だけで決闘は慎ましく執り行われる。
つまり今回、両者は揃って殺しが我慢出来なくなったわけだが――その原因こそ、芥川九十九の存在だった。
「そして悍ましくもある。いくら『悪魔』の怪異と言えど、あれほどの異常性は前例が無い。善くも悪くも、あれはいずれ地獄の大きな歴史に名を刻むであろうな」
怪異の完全な死。地獄の常識を根本から覆す程の、存在そのものが不具合としか言いようの無い規格外の概念。ヒトが死を本能的に恐れるように、あのアナスタシアでさえ潜在的な恐怖を覚える程の異常性が、芥川九十九には備わっている。
どこまでも異質なその存在は、しかし同時に抗いようのない魅力もあった。その強さ、その恐ろしさは、人類にとってあまりにも未知で。手を伸ばさずにはいられない浪漫があった。
まさに悪魔に魅了されてしまったかのように、ライザとアナスタシアはもはや居ても立っても居られず、今宵殺し合いと相成ったのである。
「だがそんな異常性より、余はあれの武勇に惚れたっ!」
片や頬を紅潮させ、瞳を輝かせる者。
「あの桁違いの強さ! 余もいずれ手合わせ願いたいものだ! くっはっはーっ!」
アナスタシアは純粋に、九十九の強さに惚れ込んでいた。ファンがアイドルを応援するような、敬愛にも似た好意。ロアから噂を聞いた時から、フィデスから噺を聴いた時から、彼女はすっかり悪魔の虜となっていた。
「ええ……ですが」
片や人知れず、その表情に暗い影を落とす者。
「あれほどの変数が、羅刹王の下に辿り着いてしまったら……今の地獄はどうなってしまうのでしょうね」
直接拳を交えたあの日から、ライザは一抹の不安を覚えていた。その懸念は今も膨らみ続けている。
「……嗚呼、そういえば」
まるで舵を強引に取りに行くように、ライザは唐突に話題を切り出す。元より今宵、彼女がアナスタシアとの時間を設けたのはそれを問い質す為でもあった。
「皇女殿下。実は予てより不思議に思っていた事があるのです。お伺いしてもよろしいでしょうか」
「む? どうした改まって」
些か不自然なその運びに、アナスタシアは不思議そうに首を傾げていた。
「シスター・アナスタシア。貴女ほどの実力者が、なぜ拷问教會の第五席に収まっているのか。私には不思議でならないのです」
「……んん? どういう意味だ?」
ライザの繰り出した質問の意図が解らず、アナスタシアの首の角度は更に曲がっていく。
「いえ……私はてっきり、拷问教會の幹部序列は、その者の怪異としての強さで決まっているものだと思っていたのですが」
努めて穏やかな表情を浮かべてみせ、ライザは言葉を続ける。
「どう見積もっても貴女の強さは、五番目程度に収まるものでは無いでしょう?」
「おぉ、そういうことか!」
ようやくライザの言わんとしていることを理解したのか、アナスタシアは合点がいったように声を上げていた。
「なんだなんだ、貴様こそ余を買い被り過ぎではないか? 余は所詮、井の中の蛙よ。余程度の怪異、そう珍しくもあるまい。探せばその辺にゴロゴロおるだろう」
「フフッ……それは流石に謙遜が過ぎますよ」
王位種族と呼ばれる怪異の原典は、現世では誰もが知っている程の有名な物語であることが多い。
しかし地獄においてはその存在が疑われるほど、極めて数が少なく珍しい怪異である。そんな王位種族である吸血鬼がゴロゴロいる状況を想像して、ライザは思わず苦笑いを浮かべていた。
「だがまあ、うむ! 結論から言えば、幹部の序列に強さは関係無いな! それならば、あのマルガリタが第四席の時点でおかしな話であろう!」
アナスタシアが度々口にする、マルガリタという人物の名前。ライザもまたその名を何度か耳にしたことはあるが、実際にその姿を見たことは無い。その正体が気にならないと言えば嘘になるが、ひとまずライザは聞き流すことにした。
「そもそも幹部の序列なんぞ、三獄同盟が成立したばかりの当初は存在すらしていなかった。当時は単に開闢王の側近という位置付けで、三人しかいなかったらしい。その最初の三人というのが、現在の上位三席。開闢王と共に当時の三獄同盟の方針に直接関与していた重鎮達だ。故に幹部の中でも上位三席は『大幹部』として今でも特別に扱われておる」
得意げな顔で語り始めるアナスタシア。手持ち無沙汰なのか、自身の手のひらの上に少量の血の塊を作って宙に浮かべ遊んでいる。
「その後、組織内でヒトの流動が増え、幹部が増えると共に序列が定められることとなった。今でこそ余を含め『上位六席』などと呼ばれておるが、黎明期より拷问教會を支えてきたのは上位三席の大幹部なのだ」
彼女の手の上に浮かぶ血塊は、話の最中にヒトのようなカタチへと徐々に変化していって――
「つまり! 第二席のフィデス様はすごい! ということなのだな! ふっはっは!」
そうして笑う彼女の手の上には、血で形作った髪の長い人形が出来上がっていた。話の流れから察するに、恐らくフィデスを模しているのだろう。ふわふわと宙に浮かぶ血人形は、くねくねと踊るように揺らめいている。
「そういう意味で拷问教會の幹部序列とは即ち、組織への貢献度を表しているといっても過言ではないな」
「……フフッ。成る程、貢献度ですか。なら……」
どこまでも無邪気なアナスタシアの笑顔とは対照的に、この時のライザの微笑は穏やかでありながら、どこか冷たさを伴っているようだった。
「第一席ともなれば、さぞ多大な貢献を齎したのでしょうね」
そんな彼女の碧い眼差しは粛々と、目の前の少女を見据えている。
「ん……まあ、そうだな? それは間違いないだろう」
宙に浮かぶ血人形はアナスタシアの心境を現すように、その形をハテナマークに変えていった。
「しかし、第一席。あれが当時何をしていたのか、今もどこで何をしているのか……詳しいことは余にも解らんがな」
「なるほど」
「……ふむ。珍しいな? 貴様が我々に興味を示すとは」
「フフッ……第一席がどれほどの実力者なのか、純粋な好奇心ですよ。貴女もご存知の通り、私は殺人飢ですからね」
ライザの言動から微かな違和感を感じていたアナスタシアだったが、しかしその違和感をはっきりと言語化することも出来ず、釈然としないながらも気の所為とする他無かった。
「拷问教會の第一席……噂にすら聞かない、ともすれば開闢王以上に正体不明な『秘密の首領』……しかし殿下、上位六席の貴女ならば会ったことがお有りですよね?」
「うむ、当然だ! とは言え、数える程度しか無いがな」
アナスタシアが頷いてみせると、その動きに連動して宙に浮かぶ血がビックリマークに変化する。
「単刀直入にお伺いします。強いですか? 第一席は」
「うむ……ああ、いや……どうであろうな……?」
しかしここまで軽快だったアナスタシアが返答が、ここにきて途端に歯切れが悪くなっていた。
「あれが実際に戦っている姿を余は見たことが無いのでな。というか、最後に会ったのもいつだったか覚えておらんほどだ。顔もよく覚えておらんし、ぶっちゃけ印象もあまり良くないな! ふはっ!」
呵呵と咲うアナスタシアだが、その様子に真実を誤魔化そうとしているような素振りは無い。少なくともライザにはそう見えた。
「だが、あれが何の怪異でどんな異能を持っているのかは知っておる。フィデス様から教えてもらったのだ。その異能を戦闘に利用すれば確かに、強いと言えば強いのだろうが……しかしなあ。あれを強さと表現するのは、些か歪な気もするのだ……」
「貴女がそこを断言出来ないということは――それほどまでに特殊な異能、ということでしょうか」
「うむ。あれの異能は、なんというか……マルガリタとはまた違ったベクトルのチートというか……余の好む強さでは無いというか……」
「……どんな異能なのですか? それは」
歯切れの悪いアナスタシアとは対照的に、ライザは身を乗り出してまで彼女の話に食いついているようだった。それが殺人飢としての性だと言うのなら、そう捉えることも出来なくは無い。
しかし今のライザの表情からは、笑みが消え失せている。強者の前では笑顔を絶やさない殺人飢が、強者の話を聞いて心を躍らせるでもなく――まるでそれどころではなく、何かを危ぶんでいるかのような、そんな危機感さえ滲み出ているような面持ちで。
「ああ、それはだな――」
そんなライザの変化に気付きながら、しかしその真意までは汲み取れず。アナスタシアはいつものように、彼女の問いに答えようと口を開いて――
「よォ、麒麟の怪異」
――そうして、今にも放たれようとしていた彼女の言葉を、横から遮るようにして。突如として差し込まれた、第三者の声。ライザとアナスタシアが揃って咄嗟に振り向いたその先で――彼女は佇んでいた。
「ウチのアナスタシアが世話になったナ。御苦労。それデ? 何の話をしているんダ」
改造されてドレスのような綺羅びやかさとなった修道服、数多の装飾品が散りばめられたその派手な格好に身を包む、銀髪灼眼の魔女。拷问教會第二席の大幹部、シスター・フィデス。その人である。
「フィデスさまっ!?」
フィデスの姿を見た瞬間、まるで兎の如くアナスタシアはその身を勢いよく飛び跳ねさせていた。その宝石のような紅い瞳は、今日見せたどの瞬間よりも輝きを放っていて――
「フィデスさまああああああああああああああああああああああっ!!!!」
まるで親を見つけた子供のように、アナスタシアはフィデスのもとへ駆け出していたのである。そしてアナスタシアは勢いよくフィデスの体に飛びついて、その顔をフィデスの腹部に埋めるのだった。
「わざわざお迎えに来てくださったのですかっ!?」
花が咲いたような満面の笑顔でフィデスを見上げるアナスタシア。幼子のようなその仕草は、先程まで凄まじい戦闘を繰り広げていた怪異とは到底思えない。
「嗚呼、帰りが遅かったからナ。外はもう夜ダ、暗い夜道にオマエをヒトリ出歩かせるわけにはいかないだロ」
そんなアナスタシアの頭を――フィデスの黒いマニキュアに彩られたその手が、優しく撫であげる。その声色には温かさが伴っていて、普段の冷徹さは鳴りを潜めている。いつもの冷たい表情にも、どこか柔らかいものが感じられるようだった。
「フィデスさま…………優しいいいいいいいいいっ!! ありがとうございます大好きですフィデスさまっっ!!」
先程は兎に例えたが、訂正しよう。犬である。飼い主に全力でじゃれつく柴犬のように、アナスタシアはじたばたと身体を揺さぶりながらフィデスを抱き締めていた。
「うグッ……」
当然加減しているとは言え、吸血鬼の腕力でじゃれつかれたフィデスは苦しそうな呻き声を微かに上げる。しかしアナスタシアを引きはがすような真似はせず、その苦痛ごと甘んじて受け入れていた。
そんな目を疑うような光景を前に、流石のライザも口を開けて唖然としている。普段の冷徹なフィデスの姿を見慣れている者ほど、その驚きは計り知れないだろう。
「あァ? ナニ見てんダ、殺すゾ」
やがてライザの視線に気付いたフィデスは、すぐにいつもの冷徹な表情に早変わり。殺意の籠もった視線と言葉を放つ。無論、アナスタシアを撫でる手の動きは止めないまま。
「……フフッ。どうやらここまでのようだね」
こうして突如として訪れた、予期せぬ闖入者の来訪に――ライザは肩を落とし、諦めたように息を吐くのだった。ゆっくりとその場から立ち上がり、遠く離れたフィデスと視線を合わせる。
「どうして此処に――なんて、聞くだけ無駄かな。心を読む怪異……解っていても対策のしようが無いというのは、なかなかどうして――」
「厄介だよナァ? イヤなら頭にアルミホイルでも巻いてみるカ? お似合いだろうゼ」
「フフッ……良いアイデアだね。でも、厄介だなんて思っていないよ。読まれて恥ずかしい心なんて、私は持ち合わせていないからね」
このタイミングに彼女が姿を現したのは、無論偶然などではない。フィデスの傍には黒い装丁の本が一冊、宙に浮かんでいた。それはひとりでに頁を捲り、フィデスの視界に収まるように漂っている。
心を読む『さとり』の異能――望んだ対象のあらゆる情報を、文字通り読むことが出来る『閻魔帳』の具現化。
つまるところ、ライザは泳がされていたわけである。ライザにもそれは解っていた。それでも、動かざるを得なかったのだ。
「ただ、口説き甲斐が無いと思ってね。君の前では全てが明け透けになってしまう。君への好意もね。フフッ……今日も美しいね、レディ――」
「無意味な会話はヤメロ。用件だけ話セ。イヤ、別にアタシは聞く必要なんて無いんだがナ。自分の口で直接訊かなきゃ気が済まないんだロ?」
「――……フフッ。そうだね……」
先述の通り、ライザは危惧していた。芥川九十九という変数が、今の地獄を変えてしまう可能性を。そして、地獄が変わるのであれば――それを裏から手を引く存在が、必ず現れるであろうことを。
だからこそ今宵、ライザはアナスタシアと接触した。そしてあわよくば、アナスタシアから聞き出そうとしていたのである。地獄が変わるというのなら、関わってこないはずがない――地獄の深淵、拷问教會の実態を。
「いやなに、私は拷问教會のことを何も知らないと思ってね。例えば……この街で第一席の話題を口に出そうとすると、問答無用で酩酊させられてしまうだろう。君も知っているはずだ。第一席の存在を、拷问教會は三獄同盟の契約に紐付けてまで隠そうとしている」
今のライザに、やはりいつもの微笑は無い。その碧眼はフィデスを鋭く見据えている。
「他にも……芥川九十九。開闢王は彼女の身柄を欲しがっていた。だと言うのに……君は彼女を先へ進ませた。開闢王の下ではなく、羅刹王の下へ送り込んだ。その意図も解らない。拷问教會は……いや、君は何を企んでいるんだい?」
核心に迫るような問いかけに対し、しかしフィデスは相変わらず、ヒトを嘲るような嗤いを浮かべていた。その灼眼はライザを気怠げに眺めている。
「諦めロ。今更探りを入れたところデ、もう何もかも手遅れダ」
かつて開闢王と呼ばれていた銀の魔女は、今の開闢王とはまるで正反対。真実を隠し、言葉を偽り、解答を誤魔化す。この世全ての神秘を貪り尽くした彼女の目には、一体何が映っているのか。
「変わらないモノなんてナイ。どんなモノにも終わりは必ず訪れル。それが自然の摂理ダ。そうだロ?」
「……そうだね。でも、そうだとしても……どんなものにだって、それに相応しい変わり方、終わり方があるはずさ」
もはやこの会話に意味は無い。既に銀の魔女は全てを識っていて、それでいて答えも既に用意されている。それでもなお、ライザは言葉を尽くそうとしていた。
「あの御方が目指す理想郷……戦争の無い地獄。この街はその理念の表れ、平和の象徴。地獄は此処から、これから少しずつ、変わっていくんだ」
彼女をここまで駆り立てているものは、決して殺人衝動などではない。
「君たちの企みが、あの御方にとって望まない結末を齎すのだとしたら……私はそれを阻止したいと考えているよ」
それは偏に堕天王、如月暁星への愛。かの歌姫と初めて出逢ったあの日、ライザはその光にどうしようもなく焦がれてしまった。人間の善性を、未来への希望を、彼女を通じてもう一度信じてみたくなった。
羅刹王を裏切り、追われる身となってまで――それでもライザは、堕天王の齎す未来の景色が見てみたくなったのだ。全ては堕天王の理想を守る為。ライザは秘密裏に動き始めたわけである。
「傲慢だナ。他人に自分の理想を押し付けるのはヤメロ――」
しかしそれも失敗に終わってしまった。秘密も裏工作も、フィデスの前では全て無駄。必ず先回りされてしまう。心を読む怪異を敵に回す、その厄介さをライザは思い知らされていた。
「――と言いたいところだガ、まア、安心しろヨ」
それに何より――
「その傲慢、その理想、アタシが叶えてやル。愛しの堕天王サマに代わっテ――アタシが世界を救ってやル。地獄から戦争を無くしてやル。そうすりゃ文句は無いだロ?」
どこまでが真実でどこまでが嘘なのか解らない、悪辣な銀の魔女の妖言を前にしては、もはやその一歩を踏み込むことすら躊躇せざるを得なかった。
「…………それは、どういう…………」
「さあナ。アタシは開闢王じゃネエ。それくらい自分で考えなヨ」
立ち尽くすライザに向けて、心底蔑んだような冷たい眼差しを浴びせるフィデス。
「――アタシは視ているゾ、麒麟の怪異。もう二度とアナスタシアには近付くナ。次は無イと思エ。……意味は解るナ?」
それは一際低く強い語調で、まるで庇うようにアナスタシアの肩を抱き寄せるのだった。
フィデスが夢界から去ろうとしている。それを気配から察して尚、もはやライザに呼び止めることは出来ない。フィデスの忠告、最後通達といっていいそれは、ライザの動きを止めるには充分だった。
ライザは『净罪』のことは知らないが、フィデスに酩酊の耐性があること自体は知っている。つまりその気になればフィデスは、酩帝街で自由に誰かを攻撃出来る。ライザにとって大切なヒトを、殺すことが出来る。
だから、見送るしかない。無垢なアナスタシアに近付いてまで聞き出そうとしていた拷问教會の秘密は、その足掛かりとなる情報すら手に入ることなく――ライザにはもう、諦めるしか無かった。
「フィデスさま……?」
踵を返そうとしたフィデスが、その声に立ち止まる。
「何のお話を、しておられるのですか……?」
その不安げな声は抱き寄せられたアナスタシアのもので、彼女は困惑の表情でフィデスの顔を見上げている。
「……オマエが気にすることじゃナイ。さア、もう帰ろウ」
「ですがっ――――」
しかしそれは、はぐらかそうとするフィデスにアナスタシアが抗議の声を上げようとした、その直後に起きた。
まるで時間が飛んだように、忽然と――フィデスの目の前から、アナスタシアの姿が消えたのだ。
「…………?」
瞬きの刹那、不意に消えたその重み。抱き寄せていたはずの温もりが無くなっていることに気付いて、フィデスは虚空に対し思わず間の抜けた声を上げていた。
「……え?」
それは遠くで見ていたライザも同様の反応だった。ライザの目で見ても確かに、そこに居たはずのアナスタシアは突然、フィデスの傍から跡形もなく姿を消したのだ。
「…………アナスタシア?」
フィデスの呼び声に応える者はいない。沈黙だけが流れる。どう見ても夢界にはフィデスとライザの2人だけしかいない。闘技場内の至る所に散りばめられていたアナスタシアの形跡、血痕はどこにも見当たらない。あの可憐な少女の笑い声はどこからも聞こえてこない。
「……現実で、目を覚ましたのかな?」
しかしライザはその現象に見覚えがあった。ここは夢の世界。現実の肉体が眠りから覚めれば当然、夢界実体も消える。ライザにとっては見慣れた現象で、だから動揺も少なかった。
夢界は所謂『明晰夢』のようなもので、夢の中に居るという自覚が強くある為か、その気になって意識を集中させれば夢界から脱出すること自体は容易に可能である。
『This Man』の異能は、言ってしまえばただ同じ内容の夢を複数人で共有するだけの代物であり、夢界そのものには何の強制力も無い。
ただし例外的に、夢界内で死亡する等して意識を失ったり、現実の肉体が外的要因によって強制的に起こされる等すれば、夢界は夢界実体の意識を強制的に現実へ戻してしまう。
あるいは、極端に特殊な例を挙げるとするならば――現実の肉体が『This Man』の怪異の異能範囲内から物理的に離れた場合でも、夢界との接続が切れて現実に戻されてしまう――
「――――…………まさカ」
次の瞬間、フィデスの傍で付き従うように浮いていた閻魔帳が、それまでの沈黙を破るように突如として勢いよく、その頁を自動的に捲っていった。
黒い装丁の中に閉じ込められた無数の紙の束が、まるで銃を乱射しているような騒音を鳴らしながら目にも止まらぬ速さで弾かれていく。無限に続くかと思われたその現象は、しかし思いの外早くに終わった。その頁を開いた瞬間、閻魔帳はぴたりと動きを止めたのだった。
「…………ッ!!」
その頁に視線を向けた瞬間――フィデスは途端にその顔を青ざめさせる。瞳孔は開き、肌は粟立っていた。
「アイツ…………やりやがっタ…………! アタシに許可も無ク…………その場の思い付きなんかデ…………よりにもよってアナスタシアを巻き込みやがったナ…………ッ!! あのクソヤロォ…………ブチ殺ス…………ッッ!!」
それは、腹の底から出た怨嗟の声。ヒトがヒトを憎む時にしか出ない音。全身の至る所に青筋を浮かび上がらせるフィデスは、誰の目に見ても明らかに、憤っていた。
「っ……!?」
あのシスター・フィデスが、悪辣な銀の魔女が、これほどまでの感情を顕にしている光景を、ライザは一度だって見た覚えが無い。今日一番の衝撃に、ライザは言葉を失い呆然と立ち尽くしていた。
フィデスは全身をわなわなと震わせ、歯を剥き出し、拳を握り締めている。自らの閻魔帳を殺意の籠もった視線で睨み続けること、数十秒――
「…………まア、良イ」
やがて彼女は、依然として怒りに震える声のまま――何かを諦めたように、項垂れるのだった。
「イヤ、良くはナイ……良くはナイ、ガ……仕方ナイ……」
心底不本意を顕にした深く長い溜息を吐きながら、フィデスは自らの懐に手を伸ばす。
「悪魔に魂を売るってのハ……そういう事だからナ」
そうして彼女が取り出したるは――拳銃。地獄に在るはずの無い、トカレフTT-33。彼女はその銃口を、自らのこめかみに押し付けると――躊躇いなく、引き金を引いていた。
当然のように弾丸は飛び出し、フィデスの頭を貫通する。それに伴い銃声と、紛うことなき硝煙の臭い。弾かれたフィデスの頭はその反対側から血飛沫を上げ、そのまま力なく床に倒れていた。
その直後にフィデスの身体は霧散していく。夢界内での死亡が確認され、現実へと強制的に戻されていく。
「――――え」
その一部始終を目の当たりにしたライザの口から漏れたのは、そんな単純な音だった。しかしその一音に込められた疑問の数は計り知れない。
トカレフという銃については、ライザも現世で嫌というほど目にしてきた。だから当然知っている。触ったことすらあった。しかしそんな物が地獄に在っていいはずが無い。作ろうにも地獄にそんな資源は無い。
単純な凶器の具現化ならば特定の異能で可能だ。しかし銃ほどの複雑な構造の武器を具現化する異能など存在しない。そもそもフィデスは心を読む怪異であり武器を扱うものではない。夢界が再現するのは地獄の環境。地獄に存在しない物は夢界にも存在しない。そもそも夢界には衣類を含め、実際に身に着けている物しか持ち込めない。
つまりフィデスは現実に、拳銃を所持している、という事になる。
「何が……どうなっている……?」
その疑問に答える者は、もうどこにも居ない。
――斯くして。物語の視点は未知の階層、山頂の彼女達へ戻る。