■■地獄 12
衆合地獄、夢界。
選ばれし強者のみが立ち入ることを許された裏賭博の会場、遊園地の地下闘技場。夢の中というある種の無法地帯を活かし、此処では酒に酔う事の出来ない者達、血の味でしか酔う事の出来ない者達による泡沫の狂宴が行なわれている。
さて。今宵も其処では異色のカードによる舞闘会が繰り広げられていた。観客は居ない。静まり返った其処に、二対の笑い声だけが木霊している。
「フフッ……ハハハッ……!」
頬に返り血を浴びながら華のように咲う彼女の名は、ライザ・スターリナ・クロヴォプスコフ。金髪碧眼、純白のタキシード纏う貴公子は、その手を真紅に濡らしている。
「くっはは! やるではないかっ! そうでなくてはなぁ!」
対するは――金髪紅眼、漆黒の修道服の上から身の丈以上のマントコートを羽織った少女、シスター・アナスタシア。小柄な体躯で可憐に跳ね、呵々大笑する彼女の平らな胸には――ライザの右手による刺突が、深々と突き刺さっていた。
心臓を貫かれ、自身の血で全身を真紅に染め上げるアナスタシアは、しかしその表情に汗の一つ、皺も一つも無い。
それもそのはずで――ライザが右手を引き抜いた瞬間、アナスタシアだと思っていたそれは液状に瓦解、ただの血溜まりへと成り果てていた。
「――こっちだっ!」
直後、まるで瞬間移動したかのように、アナスタシアは上空から飛び掛かるようにしてその姿を現した。両手に携えた赤い大鎌を、自身の真下に居るライザへ目掛けてまさに今、振り下ろさんと迫っている。
「フフッ……――」
ライザは迫りくる凶刃を紙一重、右の裏拳で弾き返した。そのままの勢いでライザは左足を軸に体を右に大きく回転させて――攻撃を弾かれ中空で無防備となっているアナスタシアの腹に目掛け容赦なく、回し蹴りを炸裂させる。
しかし回し蹴りが直撃した瞬間、そのアナスタシアもまた先程と同様、液状に瓦解した。まるで最初から実体など存在しなかったかのように、ただの血溜まりだけが床に散乱している。
「――くっくっくっ! そうら、まだまだ往くぞ!」
その声は舞台の外、観客席から聞こえてきた。均等に並べられた無数の白いベンチ、その中の一つに、胡座をかいて座るシスター・アナスタシアの姿があった。
まるで野次を飛ばす観客のようにアナスタシアが声を張り上げると――ライザの周囲に散らばる血痕が、蠢き始める。
その血痕は次第に立体的な塊となり、ヒトの形を成して――やがてアナスタシアと瓜二つの分身へと変貌を遂げたのだった。そうして血で作られた分身が、4体。ライザを取り囲むようにして、次々と形を成していく。
「フフッ……嗚呼……素晴らしいね……」
分身に囲まれた状況で、ライザは恍惚そうな微笑を浮かべていた。アナスタシアの血痕で濡れている親指を、舌で舐め取りながら――しかしその碧眼は、獰猛な獣のそれである。
彼女達はこのような組手形式での試合を不定期に執り行っていた。賭博目的ではなく、純粋な腕試し。今日も此処で試合を始めてから、既に数分が経過している。
闘技場然とした舞台の上には夥しい量の血痕と、大地を穿ったような爪痕ならぬ足跡が既に幾つか刻まれており、ここまでの闘いの激しさを彷彿とさせるようだった。
「――では、いよいよもって死ぬがよいっ!」
アナスタシアの分身達が声を揃えて突撃する。分身それぞれの左手は半ば液状化しており、血が湧いているようだった。
そんな液状化した左手は瞬く間に形を変えていく。分身達は自分自身を形作っている血液の一部を利用し、その形状を変化、硬質化させ、武器を作ろうとしていたのだった。
剣、鎌、槌、弓。それぞれリーチの異なる得物を携えて、分身達が一斉に駆け出す――
「アハ……ッ!!」
――が。それらは悉く、ライザに届く事は無く。次の瞬間、分身達は4体とも一斉に地に伏し、瓦解していたのである。
文字通りの一瞬だった。前方に居た分身が剣を振りかぶろうと踏み込んだ、それよりも速く踏み込んで、瞬時に間合いを詰めて腹に拳の一突き。
そこから更に一歩、右手側に踏み込めば、鎌を携える分身の間合いに入り込む。分身は間合いに入られたことすら気付けぬまま、ハイキックで顎を撃ち抜かれた。背後から槌で殴りかかろうと迫っていた分身は振り向きざまの回し蹴りで胴を吹き飛ばされる。
少し距離を置いたところから弓で狙いを定めていた分身に至っては――何かに頭を撃ち抜かれ、それが何か理解出来ぬまま息絶えていた。
それは、靴。いつの間に脱いでいたのか、ライザは自分の靴を手に持って、野球選手さながら投擲したのだ。ただの投擲ではない、まるでレールガンのように駆動する右腕から発射された靴は、電流迸る火の玉となって、分身の頭を木っ端微塵に吹き飛ばした。
そんな軌跡が、瞬きをするよりも速く、起こっていた。ライザ・スターリナ・クロヴォプスコフ。まがりなりにも千年間、等活地獄の王で在り続けた実績は伊達ではない。彼女もまた、正真正銘の怪物――殺しの天才なのである。
「ふはっ! 分身程度ではもはや歯が立たんか!」
水浸しならぬ血浸しとなった闘技場――その中央に立つライザへ、喝采の声を上げるアナスタシア。両の掌を叩き合わせ、ぺちぺちと子供のような拍手を一頻り送った後――
「――どれ。そろそろ余の出番かな」
吸血皇女がついに、観客席から立ち上がる。ふわりと優雅にマントコートを翻し、舞台に降り立つ吸血鬼。刺繍の施された愛らしい靴の底で、自らの血溜まりを踏み締める。
血の舞台の上、互いに微笑を浮かべる両者。まるで舞踏会でも開くのかと思うほどの、気品に満ちた穏やかな表情で――これから彼女達は殺し合う。
「さて――」
おもむろに、アナスタシアが左手を天に掲げた。すると周囲の血溜まりが、まるで意思を持ったように蠢き始める。そしてそれは、まるでカサブタのように大地から剥がれ、ひとりでに空中へと浮かび上がっていた。
宙に浮かび上がった蠢く血液は、アナスタシアの手中へ吸い込まれるように収束していき――巨大に膨張した血の塊へと変化する。そしてそれは、やがて長い槍のような形状へと成っていった。
「今宵こそは一太刀……貴様に浴びせてみたいものだな!」
血の長槍を片手に、まずはアナスタシアが飛び出した。黒いマントコートをはためかせ、細腕にて振るわれるその血槍は――しかしやはり、ライザには掠りもしない。
ライザはその矛先が届くよりも速くに飛び退き、宙へと逃げていた。麒麟の怪異であるライザの身体能力もまた、並のそれではない。雷霆そのものと成ったようなライザの肉体は、動く度に周囲の空気を焦がし、雷鳴の如き轟音を響かせる。血槍は空振りと成ったが――しかし。
「くっはは……!!」
槍の矛先が大地に触れた瞬間――重力によって無理矢理に押し潰されたような、凄まじい轟音が鳴り響く。槍はライザが立っていた其処を砕き、地盤を抉っていた。
その細腕のどこに、これ程までの膂力が隠されていたのか――闘技場全体を揺らす程の怪力によって、砕けた大地の破片が宙を舞う。
「――こちらですよ、皇女殿下」
だからこそ、この事態を見据えての、空中への跳躍。ライザは砕けた大地の破片に飛び移りながら、一瞬にしてアナスタシアの背後に回る。その無防備な背中へ目掛けて、容赦なく左回し蹴りを繰り出した。
「おっと――!」
しかし、ライザの蹴りもまた虚空を薙ぐ。回し蹴りが直撃するよりも速く、アナスタシアはライザの目の前から忽然と姿を消していた。
正確には――まるで落とし穴に落ちたように、アナスタシアの身体は彼女の足元に在った血溜まりの中へ、吸い込まれていったのである。
「――隙ありっ!」
そして、ライザの背後に落ちていた別の血溜まりから――アナスタシアの身体がずるりと音を立てて這い出てきたのだった。
血をワープホールとした瞬間移動――そこから再び繰り出される、血槍による刺突。ライザはまだ地に足が着いていない。そんな状態で、背後からの奇襲。完全に不意を突いた槍の矛先は、ライザの心臓に届くまであと僅か――
「フ……ハハ……ッ!!」
――それすらも、ライザには届かない。
麒麟の異能による体内電流の操作――電気信号の送受信速度の強化による脳機能の向上によって――ライザの時間感覚は、常に他人より数秒先の世界を生きている。殆ど未来予知と言ってもいい、それ程までの速さを獲得した彼女に不慮の事故は無縁だった。
故に、今回もそうで――アナスタシアが其処に現れるのを事前に直感していたライザは、空中で独楽のように身を捻り、右回し蹴りを既に繰り出していた。鋭く放たれた雷脚が、アナスタシアの顔面を血槍ごと横から薙ぎ払う。
「ぎゃふんっ!?」
少々間抜けにも聞こえる悲鳴を上げて、碧い火花を散らしながら、アナスタシアは壁まで吹き飛ばされる。その小さな身体が壁に直撃し、その衝撃で闘技場は再び大きく揺れ、砂塵が吹き荒れる。
「――――…………フゥ」
地上に着地したライザは一息つくように、口の端から白い蒸気を吐き出した。彼女の齎す電気と熱は周囲の全てを焦がし、自らを纏う衣装すら焼いてしまう。
白い湯気の中に佇むライザの右足は、よく見ると裸足であった。それは分身を倒す時に靴を脱ぎ捨てた方の足で、ライザはその状態で回し蹴りを放っていたのである。
そんなライザの素足による蹴りが、血槍ごとアナスタシアの頭を吹き飛ばした瞬間。迸る電流が、アナスタシアの全身を駆け巡っていた。
ライザの異能は体外への放電も可能――とは言え、体外に離れてしまった電気の精密操作はライザの苦手とするところである。
この異能を最も効果的に活かすには、対象に直接触れて電流を流し込むのがベスト。即ちライザの素肌に直接触れることは雷に直接触れることと同義であり、即ち死を意味する。
夢界での死は現実には反映されない。だが一度でも死んでしまえば、意識が現実へと引き戻されてしまう。事実上の敗北である。
相違点はそれだけ。『This Man』の怪異によって生成された夢界は、基本的に現実の地獄と全く同じと言っていい。
此処では現実以上の事象は起こらない。夢界実体として再現されている彼女達の肉体も同様に、異能や機能を含めたあらゆる感覚器官は現実通りに動作する。殺されれば痛いし、当然死ぬ。
「――――無粋を許せ」
つまり、この場所が夢の世界だから――というわけではないのだ。
「貴様に生身で触れられたら、流石の余も即死だからな。故に対策済みだ。知っての通り、余の血は変幻自在。今の余は全身を血の化粧で包んでおる。目には見えぬ、薄皮一枚の絶縁体よ」
砂塵の奥から悠々と歩いてきて、ライザの前に再び姿を現すシスター・アナスタシア――彼女の肉体が無傷であることも。そもそも雷槌の直撃を受けておきながら、死んですらいないことも。
「更にこの化粧は緩衝材にも成る故な。これに吸血鬼としての身体能力、再生機能を併せれば、およそ生半可なダメージは通らん。だから貴様も安心して、そろそろ本気で打ち込んでくるがよい」
全てが現実において、起こり得る現象であると――このシスター・アナスタシアという怪物はその気になれば、ライザの雷槌を受けて尚も苦痛すら覚えないと――そういう事実に他ならない。
「フフッ……無粋だなんて……――そもそも本来であれば、私は既に負けている」
それでも、ライザの微笑が消えることはない。むしろ本番はこれからだと言わんばかり、もう片方の靴を脱ぎ捨て、割れて歪んだ大地を裸足にて踏み締める。
「貴女は既に異能の発動条件を満たしている。だというのに、貴女は異能を発動しない」
シスター・アナスタシアの異能は、自らの血で囲んだ場所を『領土』と定め、領土内の血を自由自在に操るというもの。領土内であれば自分だけではなく他者の血すらも操ることが出来るようになる。
既に闘技場内はそこら中、アナスタシアの血痕が付着している。その気になればアナスタシアは闘技場を血痕によって囲まれた領土と解釈し、いつでも異能を発動することが出来た。
「それも含めて、無粋などとは思いません。むしろ貴女は、私の我儘に付き合ってくれている。私との殺し合いを愉しんでくれている。これほど光栄な事は他に無いですよ」
ライザの言う通り、それをしないのは、彼女がそれを望んでいないからである。これはあくまでも試合。その過程を愉しむため、あるいは次に活かすための腕試し。間違っても戦争ではない。手加減などではなく、ある種のルールに則った上での殺し合い。
「くふふっ、女誑しめ」
アナスタシアは愉しそうにはにかんで――その左手を前へ掲げた。まだ試合は終わっていない。彼女は闘技場内に散らばる血痕を再び手中に集め始める。
「嗚呼……本当にお強い。つくづく思い知らされます。流石は『吸血鬼』の怪異――『悪魔』や『神格』と並ぶ王位種族はやはり伊達では無い」
それを前にして、ライザの舌はよく回っていた。殺し合いの中で言葉数が多くなるのは、彼女の性分である。
「怪力無双、変幻自在、神出鬼没――それぞれが異能として成立していてもおかしくない程の能力を、貴女は機能として持ち合わせている。天に愛されていますね、殿下」
「くくっ。卑怯かな?」
「フフッ……まさか……」
その穏やかな口調と表情からは想像もつかない程、その内側で殺人衝動が悲鳴を上げる。これまで幾度となく手合わせしてきて尚も新鮮な、シスター・アナスタシアという怪異の強さに、ライザは全身を粟立たせていた。それは恐怖によるものか、はたまた武者震いか――いずれにせよ。
「嗚呼、本当に……貴女との死合いは……――心が踊るッ!」
そんなアナスタシアが相手だからこそ、ライザもまた遠慮なく本気を出せるというもので。圧倒的な強者を前に、もはや昂りを抑えられない殺人飢は――裸足のまま駆け出していた。
「それは此方の台詞だよ、殺人飢――ッ!」
その足取りを遮るかのように、大地の亀裂から溢れてきたのは――血の棘。地盤に流れ込んでいたアナスタシアの血が形を変えて、次々と噴出したのである。
「アッハハ……!!」
それら血の棘を、ライザは踏み潰しながら前へと進む。血の棘はライザの足裏を間違いなく串刺している。まさに地雷原と化した舞台上を、それでも強引に前進するライザだが――減速は免れない。
「ふんっ!」
勢いを僅かに落とした、その隙を狙うように――気合いの入った声を漏らしながら、アナスタシアは新たに生成した血槍を投擲した。
放たれた血槍はアナスタシアの手から離れた瞬間、再び液状となり、その矛先が更に長く伸びていく。まさに矢の如き軌跡を辿って、それはライザの眉間へ飛び込んでいった。
無論その程度、ライザならば見てからでも余裕で躱せるが――
「これならどうだっ!!」
――しかし直後、血槍は爆ぜる。血の塊はその質量を爆発的に膨張させ――それは文字通りの津波となり、ライザを飲み込まんと押し寄せるのだった。
「――――――――」
これには流石のライザも目を見張る。天井にまで届く程の大津波が、眼前に広がる景色全てを赫によって塗り潰す。それが既に目前にまで迫っている。避けようが無い。逃げ場なんてどこにも無い。
麒麟の異能は、あくまで体内電流の操作。及び、それに適した肉体の改造。電気と熱への耐性と、音速に耐え得る強度の獲得に至っているが――痛覚は有る。それが致命的だった。
例えば黄昏愛のように感覚そのものを遮断出来れば話は別だが――そんな能力を普通の怪異は持っていない。ライザは物理的な苦痛への耐性を持ち合わせていない。
例えば攻撃を受けた際に相手と物理的な接触が伴えば、触れた瞬間に相手を感電させて最悪道連れにすることもライザなら出来る。しかし今回のように本体とは切り離された遠距離攻撃となると、その戦法も取れない。
あまりにも単純な話である。つまり避けるという選択肢を取ることの出来ない、防御することが前提となる広範囲攻撃はライザの弱点であり、今後の課題でもあった。
実際に芥川九十九との戦いでは、闘技場全体に及ぶ衝撃波――悪魔の咆哮による攻撃を、ライザは避けることが出来ず、それを受けて耐えられる程の耐性も無く、その一撃でライザは致命傷を負い、結果的に敗北を喫している――
「……………………フフッ」
それでも彼女は笑っていた。全身から碧い火花が迸る。電流が目に見える程の形を伴って――ライザの右腕に集まっていく。躊躇いなど微塵も無く、そうして彼女は津波に向かって自ら前に踏み込んで――雷槌と化した右腕を、大きく振り翳す。
「アッ、ハハ……――ッ!!」
碧い電流と白い閃光を纏ったそれが、放たれる。耳をつんざく雷鳴が轟き、周囲一帯に電流が迸る。
それはまさしく、攻撃は最大の防御。雷槌となった右の拳、その一撃の火力を以てして――津波は蒸発し、ライザの前から跡形もなく消え去ったのである。
「うぎゃっ!?」
それで終わるわけがない。ライザはそのまま、走る速度を緩めることさえ無く、踏み込み続け――アナスタシアに左の拳を直撃させていた。
まさに疾風迅雷。そのあまりの疾さに反応が追いつかず、アナスタシアは再び壁際まで吹き飛ばされる。壁に叩きつけられ、その衝撃で周囲に砂塵が巻き起こった。
弱点とは克服する為に有る。彼女にはそれが叶うだけの恵まれた才能があり、その上で積み重ねてきた努力があった。
ライザ・スターリナ・クロヴォプスコフに、弱点はあれど死角は無い。経験、センス、判断力、異能の熟達度――戦闘のプロフェッショナルとして、彼女には全てが備わっていた。
そんな彼女を『戦闘』において負かした事のある怪異は――――堕天王、羅刹王、拷问教會第四席といった例外を除けば――――歴史上、たったの二人だけである。
一人は、芥川九十九。実は先の一戦における芥川九十九の勝利は、ある意味で歴史的な結果でもあったのだ。
そして、もう一人は――――
「くっくっくっ! もはや貴様には触れることすら叶わぬか!」
シスター・アナスタシア。
暇を持て余していた彼女達が酩帝街で巡り合い、闘技場で殺し合うようになってから幾星霜。彼女は一度も、ライザに負けたことが無い。
巻き起こる砂塵の中から再び姿を現す、シスター・アナスタシア。彼女を纏う漆黒のマントコートは焼け焦げ、その下に着込んだ修道服は煤に汚れているが――そこから露出した白い肌には、やはり傷ひとつ無い。
「とうっ!」
そんな彼女が、掛け声と共に砂塵の中から飛び出した。殆ど燃えカスとなったマントをはためかせ、天高く跳躍した彼女は――そのまま空中に浮遊したのだった。闘技場の天井付近に漂うアナスタシアは、その宝石のような赤い瞳で地上を一瞥する。
「――本当に強くなったな、ライザ・スターリナ・クロヴォプスコフ。流石は余の認めた強者よ」
アナスタシアは細く短い両腕をめいっぱい大きく広げてみせる――と、彼女の周囲で赤い粒子が煌めいた。その細やかな粒子は目を凝らしてよく見ると血飛沫であることが解る。
「その強さに、余は敬意を払おう」
アナスタシアがそれを宙に撒き散らした瞬間――煌めくそれは液体から気体へ、状態を変化させていく。次第にそれは、闘技場の天井全てを覆い尽くす程の――巨大な暗雲と成ったのである。
「……フフッ。貴女は空も飛べたのですね、皇女殿下。それに……」
かくして夜の帳は下ろされた。光を通さぬ黒雲の天蓋によって漆黒に包まれた世界には、アナスタシアの赤い瞳だけがまるで月のように浮かび上がっている。
その光景にライザが呆気に取られていると――それは、突如として降ってきた。
「……天候まで、操ってしまうとは」
黒い雲から滝のように降り注ぐ、土砂降りの血雨が、地上の全てを赫に塗り潰す。無限に降り注ぐ雨粒は、地上に居る限り躱すことも凌ぐことも出来ない。ライザもまた為す術なく、瞬く間に雨晒しと成っていた。
「貴女とは永い付き合いのはずですが……それは初めて見る技ですね」
「うむ、初めて見せたからな。余は貴様が言うところの王位種族。なればこの程度、造作も無し!」
ライザは戦闘の天才で、麒麟は強力な怪異である。それは間違いない。
だが、王位種族は格が違う。それは文字通り、地獄の王に成る事を定められた種族――『悪魔』『厄災』『鬼』『天使』『神格』――この王位種族に転生した怪異は必ず、地獄の歴史にその名を刻んできた。
「――さて。これがただの雨では無い事くらい、貴様ならば当然見抜いていよう。これを破る次の一手はあるか?」
彼女こそは『鬼』の上位種、吸血鬼のシスター・アナスタシア。豪雨の中で唯一人、その身を血で汚すことなく、空に頂く吸血皇女。ともすれば後光すら見えるその姿が、この戦いの決着を悠然と物語っていた。
「……フフッ。いいえ。私の負けです」
赤いメッシュの入った前髪をかき上げながら――ライザはとうとうその言葉を口にする。
「うむ。では宿題だ、殺人飢。次に相見えるその時までに、これの攻略法を考えておくがよい」
「仰せのままに」
アナスタシアが頷くと、雨足はその瞬間にぴたりと止んだ。地上を濡らしていた血痕は、付着していた全てからひとりでに剥がれ落ち、空に昇っていく。
「ふっはっはっはっはーっ!」
歯を見せて高らかに咲う無邪気なその姿を、ライザはただただ見上げていた。陽の光を仰ぐように、眩しそうにはにかんで。嗚呼、また勝てなかった――と。
心の内で一人ごちるライザの殺人衝動は、ようやく鳴りを潜めるのであった。