■■地獄 11
その瞬間。鮫島には何が起きたのか、さっぱり解らなかった。
自分が突然、腹に前蹴りを受け、運転席のドアを背中でブチ破って外に放り出された――なんて。そんな一瞬の出来事を、常人が咄嗟に理解出来るはずもない。
そして――そんな自分を蹴り飛ばしたのが、他でもない葉山によるものだということも。彼女の身に何が起きたのか、鮫島には理解出来ることが何ひとつ無かった。
「はいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれた」
何ひとつ理解出来ないまま鮫島は、地面に転がっている自分の上へ馬乗りになる葉山の姿を――その両手で自分の首を締め付けてくる葉山の姿を、呆然と見上げることしか出来なかった。
「九十九さんッ! 敵ですッ! 今、そっちに――!」
上空からの報せと、芥川九十九が動き出したのは、殆ど同時だった。荷台から飛び降り、着地した瞬間に駆け出す。敵の気配を辿って一直線、間合いを詰めるのは一瞬だったが――
「……なんで」
その敵が葉山純子の姿をしていることに、九十九は思わず動きを止める。
「はいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれた」
鮫島に馬乗りになり、その首を両手で締め付ける葉山。両目は白くひん剥いて、錯乱したように同じ単語を連呼している。その声質はしゃがれた老人のような低く不気味な音色で、明らかに平時の葉山のそれではない。そんなものを目の当たりにして、九十九は伸ばした手を、握られた拳を、咄嗟に振りかざすことが出来なかった。
「が……ぁ……」
しかし鮫島の苦しみ藻掻く声で九十九は慌てて我に返る。まずは今の状況をどうにかしなければ、鮫島を助けなければ――
「くッ……!」
引っ込みかけた手を再び伸ばす。九十九の手が葉山の肩を掴み、鮫島から引き剥がしに掛かる――が、離れない。葉山の体幹は微動だにせず、首を締める両手の力が緩むことは無かった。
「(並の力じゃない……!)」
相手が葉山ということで九十九は咄嗟に力を加減していた。とは言え、それでも肩を掴む九十九の力は普通の人間に抗えるものではない。今の葉山のそれは、平均的な成人女性と比較して明らかに異常な膂力だった。それを手応えから直感した九十九は同時に、鮫島に残された時間が短いこともまた悟る。
「……――ッ!!」
なので、加減することを止めた。今度は肩ではなく葉山の両手首を掴みに掛かる。怪異を相手取る時と同等の膂力を以て、鮫島の首から両手を強引に引き剥がす。
それまで鮫島にのみ注がれていた葉山の視線がゆっくりと、九十九の方へ向けられていった。白目を剥かせたその両目は、やはり正気を失っているようにしか見えない――
「九十九さん! 入っていますっ! 敵は、彼女の中に!」
その時、上空から降ってきた黄昏愛の、叫ぶようなその一言で――九十九はようやく事態を把握する。
黄昏愛は目撃していた。ヤマノケが葉山純子の前で立ち止まった瞬間、忽然と姿を消した――ように見える程の速さで、その身体を回転させ、紐のように捻じり、収縮して――葉山純子の口の中に入り込んだ瞬間を。まさに伝承の通り――『ヤマノケ』の怪異は今、彼女の身体に憑依しているのだ。
「そういうことか……」
敵がどういった手合いの者なのか、九十九は理解する。理解して、しかし――その表情を忌々しそうに歪ませていた。
ただの怪異が相手ならば、芥川九十九の敵ではない。それはヤマノケが相手でも同様だ。ただ倒すだけならば、何の問題も無い。しかし、肉体はあくまでも葉山純子――守るべき人間のそれであるということ。それが九十九にとって、あまりにもネックだった。
まさか悪魔の膂力を以てして、全力で殴るわけにもいかない。人間の身体は簡単に壊れてしまう。そこを考慮しなければ簡単な話なのだが――
「(……このままじゃ、ダメだ。まずはどうにかして、引きずり出さないと……!)」
弱者を厭わない戦いなんて、芥川九十九に出来るはずもなかった。
「九十九ッ!!」
そこへ駆けつけた、赤い影。否、駆けつけたというよりは、上空から地上へ落下してきたのだが――その正体は勿論、一ノ瀬ちりである。愛の背中から飛び降り軽トラの屋根に目掛けて着地した彼女は、そのまま九十九の後方へ控えるように飛び移っていた。
「大丈夫かッ!?」
「ちり……!」
ヤマノケと掴み合っている状況で、九十九は咄嗟にその名を呼びながら振り返る。両者の赤い視線が混じり合った刹那。
「私は、どうすればいい!?」
間も置かず、開口一番。芥川九十九は当たり前のように一ノ瀬ちりを頼って、真っ先に問いかける。
「まずは無力化だ! 拘束して、動けなくしろッ!」
そして彼女もまた、芥川九十九が何をどうしたいのか、その問いの真意を即座に理解し、瞬時に指示を出す。
「わかった!」
それに何故を問うことも無く、何の疑いも無く頷いてみせる芥川九十九。これがいつもの彼女達。屑籠の時代からそうだった、二百年積み重ねてきた二人の連携。
ちりの助言通り、これから九十九がやろうしている事はヤマノケの打倒ではなく拘束。その後ちりがどうするつもりなのか、九十九はまったく考えていない。ただ、ちりの言う通りにすればそれが最善なのだと。そんな刷り込みが、今の九十九を動かす全てだった。
地面に倒れ咳き込んでいる鮫島の頭上、九十九はヤマノケの両手首を掴んだまま、その場でヤマノケの動きを押し留める。
対象を無力化するのに最も手っ取り早い方法は肉体の破壊だ。しかし肉体への負担を考慮した上での拘束となると具体的な手段は限られてくる。例えば、寝技。このままヤマノケの身体を引き寄せて足元を払いバランスを崩し、倒れ込みながら腕の関節を取って寝技に持ち込めば――
「テン……ソウ……メツ……」
行動に移そうとする九十九の気配を察知したのか、先に動き出したのはヤマノケの方からだった。九十九の胴体目掛けて放たれた、ヤマノケの前蹴り。バネのように弾ける、まるで人間離れした脚力が、九十九の無防備を晒していた腹部に直撃する。
当然その程度の攻撃では九十九に微々たるダメージも与えられないが、しかしヤマノケの狙いもまたダメージの有無ではない。
前蹴りを放った瞬間、ヤマノケは両手の親指の関節を自力で外し、手の形を無理矢理に変化させていた。葉山の手首を壊さないよう握力を抑えていたのも災いしていたか、前蹴りを放った振動と手の形を変えたことで出来た隙間、そこを縫うようにしてヤマノケは手首を掴む九十九の握力からすり抜け、拘束から逃れたのである。
前蹴りを放った体勢からそのまま身体を後ろに倒し、バク転をしながら後退するヤマノケ。充分に距離を取り、獣のように四つん這いになったそれが白い目を再び九十九へと向けていた。
「テン……ソウ……メツ……」
ぶつぶつと呪いの音を吐きながら今にも飛び掛かってきそうなそれを前にして、九十九の表情は無い。それは九十九の中で所謂戦闘モードに移行したことを意味する、冷徹な悪魔の貌。今の一瞬でヤマノケの身体能力の高さを理解した九十九は、目の前の一挙手一投足に全神経を集中させていた。
「死ねっ」
その時、横槍を入れるようなタイミングで上空から降ってきた針の雨。ヤマノケ目掛け降り注ぐそれは、黄昏愛の援護射撃。クラゲを模した銃口から放たれる音速の毒針――だがしかし、ヤマノケには掠りもしない。
「ああ、もうっ……全然当たりませんねぇ……!」
針の雨は九十九やちり達を避けるようにして周辺に降り注ぐ。しかしその隙間を掻い潜るようにして、ヤマノケは九十九の周りをぐるぐると回るように走って逃れている。その凄まじい脚力で無軌道に跳ね回るヤマノケの姿を、愛の動体視力では捉えきれずにいた。
「こうなったら……避けられないほど大きくなって、踏み潰してしまいましょうか……」
「おいバカッ! なに撃ってんだッ、殺す気か!?」
そんな愛に向かって、地上から抗議の声を上げる一ノ瀬ちり。
「死にたくないなら動かないでくださいよ!」
「違げェよッ、オレの事じゃねェ! 葉山純子だ! 勝手に殺そうとすンなッ!」
「……え!? 殺さないんですか!? もう手遅れでは!?」
「殺さねェよ! 助けるんだ! 九十九がそれをご所望だからな!」
「はぁ~……!?」
たった一言で九十九の言わんとする意図の全てを察したちりに対し、愛はちりと言い争う中でようやく九十九がやろうとしている事を理解した。理解した上で、愛は困惑の表情を浮かべている。
「助けるったって、どうするつもりですか! 捕まえようにも、速すぎますよアレ!」
獣の如く駆け回るヤマノケの動きは、愛でさえ残像を追うので精一杯。加えて、今は場所が悪すぎる。狭い山道で、しかも無力な人間達を庇いながらとなると、『ぬえ』が得意とする広範囲に渡った無差別攻撃も出来ない。
そんな状況でヤマノケを、しかも傷付けずに捕獲。それが極めて困難であることは誰の目に見ても明らかだった。
「……あァ、確かにな。恐ろしく速い動き……」
しかし一ノ瀬ちりには勝算がある。それは――芥川九十九。彼女の貌に浮かび上がる、罅割れた黒い亀裂。その隙間からは黒い瘴気が僅かに漏れ出している。凪いだような赤い瞳が、暗闇の中で陽炎のように揺らめいて――
「九十九でなきゃ見逃してるぜ」
――次の瞬間、九十九はその場から姿を消していた。
「テン…………――――ぎ、ッ!?」
不意に聴こえてきた、醜い呻き声。ちりが声のした方、自身の頭上へ咄嗟に視線を上げると、そこにはヤマノケがいた。
どうやらヤマノケは狙いをちりに変え、奇襲を仕掛けようとしていたらしい。手刀がちりの脳天目掛け振り下ろされようとしていたその寸前のところで、ヤマノケの動きは上空で停止していたのだ。
何故ならば――手刀を繰り出そうとしていたヤマノケの左腕は、それよりも更に速く動いた九十九によって掴まれ、それ以上の動きを封じられていたからである。
かつて地下闘技場で戦った、あの霆王の速さすら上回る疾さで。ヤマノケの動きを完全に見切った上で、もはや瞬間移動したとしか思えない、速さと呼ぶにはあまりにも速すぎる跳躍で――九十九はヤマノケを上空で捕らえたのだ。
「ッ、オオオ――――!」
ヤマノケの左腕を掴んだ九十九は、そのまま自身の両足を大きく上に持ち上げた。太腿でヤマノケの左腕を挟み込み、体重をかけ倒れ込むようにしてヤマノケを地上に叩きつける。背中に与えられた衝撃で肺から全ての酸素が強制的に吐き出され、ヤマノケの全身が大きく跳ねる。
そこへ追い打ちをかけるように、ヤマノケの左腕を九十九は更に自身の両腕でホールド、引っ張り上げ――関節を極める。飛びつき腕ひしぎ十字固め。それが柔道の技だと九十九は知らないまま、直感でやってのける。
身動きを封じられたヤマノケは、その場で足をじたばたとさせるだけ。むしろ藻掻くほどに締め上げられた左腕の靭帯が悲鳴を上げる。関節は既に外され、それ以上の力も入らない。
「ギッ…………ギッ…………」
呻き声を上げ続けるヤマノケだったが、抵抗そのものは次第に小さくなっていく。いくら物の怪とは言え、この状況を自力で脱出することは不可能であると悟るには充分過ぎるほど、芥川九十九の強さを身に沁みて理解したようだった。
「……おい。ヤマノケ、だったか」
身動きが取れないヤマノケを見下ろすように、そこへ声を投げ掛けたのは一ノ瀬ちりだった。その濁った赫い眼差しが、白目を剥いた葉山純子の身体を一瞥する。
「その身体を捨てない限り、もう動けねえッてことくらいは理解出来るよな」
ちりはその場にしゃがみ込み、ヤマノケと目と鼻の先まで顔を近付ける。
「どうする? このまま此処でくたばるか――」
一ノ瀬ちりは悪辣に嗤い、ヤマノケを挑発する。剥き出した牙の隙間、漏れる獣のような息遣いを肌で感じながら。
その行為に何の意味があるのか、九十九には正直解らなかった。しかし、ちりの言う通りに葉山純子の肉体は拘束した。だから自分の役割はここまでなのだと、口出しは控えていたが――
「――それとも、オレの身体に乗り移るか」
「えっ……?」
いよいよとんでもない事を口走り始めた彼女の姿に九十九、思わず声を漏らす。
「…………テン…………ソウ…………メツ…………――――!」
九十九が、その真意を問い質す暇も無く――果たしてちりの挑発を受けての行動か、それとも本能的にそれしか残された手段は無いと悟ったのか――ヤマノケはおもむろに、その口を大きく開けてみせた。
そしてその直後、ヤマノケの口の中から飛び出してきた白い影。葉山純子の肉体に潜んでいたヤマノケの本体が瞬く間、今度は一ノ瀬ちりの口の中へと這入っていったのだ。
「ちり……!?」
ヤマノケから解放された葉山は全身から力が抜け意識を失っている。そんな彼女の拘束を解いた九十九は慌てた様子でその場から立ち上がった。ヤマノケの侵入を許したちりの身体は、その全身を大きく跳ねるように震わせる。そして――
「はいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれた」
ちりの口から溢れ出る、呪いの洪水。身を封じられていた鬱憤を晴らすような高笑い。白目を剥いて叫び出したその姿に正気だった頃の面影は無く、間違いなくヤマノケに取り憑かれた事実を意味していた。
「そんな……」
それを目の当たりにして九十九は、こともあろうか呆然と立ち尽くしていた。頭の中が真っ白になる。自分がどうすればいいのか、途端に解らなくなって――
「はいれたはいれたはいれたはいれたはい――――ッ!?」
その時。狼狽える九十九に、まるで「心配するな」と語り掛けるように――突然、ヤマノケが呻き声を上げていた。
ヤマノケは自身の喉を両手で引っ掻くように藻掻き、苦悶の表情を浮かべている。まるで喉の奥に何かがつっかえているような、その何かによって塞き止められているかのように、突如として呪詛が鳴り止んだのである。
全身を震わせていたヤマノケの動きが、次第に鈍くなっていって――やがてその動きが完全に止まった、直後。
「ぎッ……ギッ……!? ぎ…………――――げほッ!!」
再び喉の奥から吐き出されたのは、呪いではなく――大量の血の洪水。正しくは、全身が血塗れになったヤマノケの本体が、ちりの口から飛び出してきたのだった。まるで打ち上げられた魚のように、地面に転がる白くのっぺりとした塊――ヤマノケの本体は、その場で藻掻き苦しんでいる。
そしてヤマノケの全身を覆い包むようにへばり付いたその血は、当然ヤマノケのものではない。その色を、その臭いを、九十九はよく知っていた。
「かはッ……! げほッ、ごほッ……! ッ……は……ククッ……!」
ヤマノケが出ていったことで正気を取り戻した一ノ瀬ちりは、苦しげに咳込みながらも――その表情は、嗤っていた。
「そうだよなァ……! オマエに残された手はもうそれしかねェ……解ってンじゃねェか……!」
文字通りに血の気の引いた、すっかり青ざめた顔。口の端から垂れる自らの血を手で拭いながら、一ノ瀬ちりは牙を剥く。
「だがな、悪手だぜそれは。わざわざ『赤いクレヨン』の源泉に飛び込んでくるなんてよ」
赤いクレヨンの怪異である一ノ瀬ちりには、異能以外にも2つの機能が備わっている。爪を鋭利な刃物のように鋭く伸ばす機能。そして、体内の血流を自在に操作する機能。後者の機能を活用すれば、血流を促進させて身体能力を向上させたり、傷口からの出血を止めたり、逆に放出させるといった芸当が可能になる。
ヤマノケは他人の肉体に憑依する際、口の中から侵入する。愛の指摘でそれに気付いたちりは、そこに付け入る隙があると思い至った。即ち――咽頭内に赤いクレヨンのインクを貯め、ヤマノケがそこへ飛び込んできた瞬間に放出するという作戦。
一ノ瀬ちりの肉体から直接溢れ出した赤いクレヨンのインクは、遠隔での発動時とは違って対象となる座標が動いても消えない。一ノ瀬ちりが自ら異能を解除しない限り、どんなに暴れても血のインクは纏わり付いて離れない――
「詰みだ、マヌケ」
目も口も塞がれて、血溜まりに沈み溺れるヤマノケ。その藻掻き苦しむ様に、吐き捨てるような死刑宣告。それに応じるように、上空から降ってきた黄昏愛の毒針が――今度こそ、ヤマノケの眉間を貫いていた。
◆
「……ちり」
ぼろぼろと崩れていくヤマノケの死体を冷たく見下ろすちりの下に、九十九が駆け寄ってくる。
「よお。葉山純子は無事そうか?」
「あ……うん」
九十九が振り返った後方では、地上に降りてきた愛が気を失っている葉山に治療を施している最中だった。外れた関節を元に戻し、痛みを紛らわせる為の麻酔を触針で注入している。
「そうか。とりあえず、一件落着だな。やれやれだぜ……」
いつものように溜息を吐きながら愚痴を漏らすちりに対し、しかし九十九の表情にはいつもの微笑が無い。神妙な面持ちで此方を見据えてくる九十九の様子に気が付いて――九十九の言わんとしていることを察して――ちりはもう一度、浅く溜息を吐いていた。
「ちりの作戦には、いつも助けられてる。けど……」
「……あァ、悪かったよ。でも今回はこれしか打つ手が無かったんだ。解るだろ?」
九十九の要望に、ちりは必ず応えてみせる。そうして積み重ねてきた、二百年の信頼関係。ちりが九十九の期待を裏切ったことは、これまで一度たりとも無い。
だが、そんなちりに対してこれまでも、九十九に思うところが全く無かったというわけでもない。その最たる例が、まさに今回のような作戦。
「うん……でも……いくら勝算があったとしても……心配だよ。心臓に悪い……私から頼っておいて、なんだけどさ……」
自分が犠牲になることを前提とした、まさに一ノ瀬ちりの悪癖とでも呼ぶべきその傾向。結果はどうあれ、九十九はこれを嫌う。昔からそうだった。ちりにもそれは、よく解っていた。
「――ははッ。九十九は優しいな」
だって、芥川九十九が他人の自己犠牲を嫌うのは――優しいからだ。
芥川九十九は優しいから、オレの心配をしてくれるのだ――と。
一ノ瀬ちりは、わかっている。
「とにかく、オレは大丈夫だ。次はもっと上手くやるから、安心しろよ」
ひらひらと手を振りながら、ちりは軽トラの方へと一人歩いていく。その傍で腰を抜かしたように座り込んでいる鮫島に「おい無事か」などとぶっきらぼうに声を掛けながら。そんな彼女の小さな背中に、九十九は黙ったまま視線を送り続けていた。
確かにあの状況では、葉山を助ける方法は限られていた。むしろ九十九の無茶な願いにちりはよく答えてみせたと褒めてやるべきだろう。だけど、一ノ瀬ちりの悪癖は――芥川九十九をどうしようもなく不安にさせる。
胸騒ぎがする。理由は解らない。信用していない訳でもない。けどいつか、取り返しのつかない事になるんじゃないか。そんな形容し難い不安感が、九十九の胸の内で渦巻いて――
「見直しました」
――その時、不意に後ろから掛かった声に、九十九はようやく我に返った。
九十九が振り返ると、そこに佇んでいたのは黄昏愛。治療を終えた葉山を背負っている。
「結構すごいんですね。あのひと」
そんな愛の黒い視線もまた、遠くにいる一ノ瀬ちりの背中へと向けられていた。視線の先では「おしっこ漏らしチャッタ……」「あァ!? 大のオトナが何やってんだ、しっかりしろオラッ!」「ゴメン……」などと言い合っているちりと鮫島の姿が見える。
「あの一瞬で九十九さんのやりたいことを察して、その上で作戦まで立てるなんて」
「あっ……うん! そう、ちりはすごいんだ……!」
あの愛の口から素直な称賛が飛び出してきたことで、九十九は先程までの暗い表情はどこへやら、興奮した様子で頬を綻ばせていた。
「ちりは、賢いから――私が何も言わなくても、私の気持ちを全部わかってくれるんだよ」
――けれど。九十九のその言葉で、今度は愛の方がその表情を強張らせることになる。
「まぁ、でもたまに……こうやって無茶な作戦を立てることもあるんだけど。びっくりするよね……」
「…………そう、ですか」
言葉にしないと伝わらないこともありますよ――とは、言えなかった。黄昏愛は一ノ瀬ちりの想いを知っている。彼女が芥川九十九のために、取り返しのつかない犠牲を払ってしまっていることを、知っている。
だからこそ、言えない。言えるわけがない。そもそもこれは当人間の問題であって、他人の自分が出る幕では無いのだから――
「(…………?)」
その時だった。黄昏愛がその胸に、微かな痛みを覚えたのは。
「(何故でしょう、なんだか……モヤッと、しますね……?)」
その疼きの正体に、彼女は未だ無自覚で。
各々が、言葉にできない感情を抱えたまま――山の中で繰り広げられた怪騒動は、こうして一先ずの幕を下ろすのだった。
◆
葉山が目を覚ますまでの間、愛達は暫くその場に留まることを選んだ。再び怪異に襲われてしまった人間組が落ち着きを取り戻す為の時間稼ぎという名目もある。その間、ちりは急にガス欠を起こしたという軽トラックの調査をしていた。
「……ガソリンが抜かれてるな。異能で丸ごと転送させやがったのか」
給油口を覗き込みながら、伸ばした爪を挿入して。空になった中身を確認した後、彼女は忌々しそうに口を開く。
「ここから先は歩きになるが……まァ、どちらにせよ……」
ちりは生前の土御門から聞いていた話を思い出していた。
『あの頂上付近は周囲を2メートル近い鉄柵に囲まれていてね。出入り口のような扉は無く、柵の網目には部分的に有刺鉄線が張り巡らされていた。我々は車から降り、有刺鉄線に気を付けながら柵をよじ登ることで、どうにか中に侵入することが出来たんだ』
思えばそれなりの時間、それなりの距離を走ってきた。もうそろそろ頂上に辿り着いてもおかしくはないだろう。彼女はおもむろに空を見上げ、憂鬱そうに溜息を漏らしていた。
「あっ……あのさぁ……」
軽トラから少し離れた所で、周囲を警戒するように見渡している芥川九十九。そんな彼女に、今思い出したかのような口振りで、ふと声を上げたのは鮫島だった。九十九が赤い瞳をついと動かすと、鮫島がばつの悪そうな顔を浮かべながら萎縮したように身体を縮こませている。
「さっきは、その……ありがとな……助けてくれて……」
人間と怪異の違いを思い知ってなお、助けられた自分がどうやら情けなく感じてしまったようである。感謝の意を述べる鮫島に元気は無い。橙色のつなぎは汗や泥で汚れ、全身は擦り傷だらけ、肩で息を切らし疲れ切った様子である。
「ああ。無事で良かった」
対する九十九はいつもの調子で、爽やかに言葉を返していた。息も切らしておらず、身体には傷ひとつ見当たらない。
「……すげぇな、あんた……」
ここまで数多の修羅場を潜り抜けてきて、それでいてなお平然とした、あまりにも頼もしいその勇姿に、鮫島は身の引き締まるような思いを抱いていた。
「俺さぁ……まぁ、見て解るとは思うけど……ろくな人間じゃないんだよ。元の世界じゃヤベー金に手ぇ付けちゃって、ヤクザに追われててさ。それで顔も変えたし、鮫島ってのも偽名なんだよな」
自嘲気味に溜息を漏らす鮫島は、口の端から白い息を吐きながら空を見上げる。
「でも、あんた見てたら……自分が情けなくて仕方ねえや……」
思いを馳せるように、その視線の先は遥か彼方の現世にまで向けられているようだった。
「俺もいつか、誰かの役に立てるような人間に……なりてぇなぁ~……」
「がんばれ」
そうぼんやりと漏らした彼に、至ってシンプルな励ましの言葉を送る芥川九十九。彼女の凪いだような赤い瞳は、こんな状況に置かれてもなお、未知への好奇心で輝いている。
◆
「んん……?」
斯くして三十分ほど眠りこけた後、葉山純子は荷台の上で目を覚ました。彼女の両脇には片岡と蒼井が座っていて、心配そうに顔を覗き込んできている。
「あ、葉山ちゃん。よかったあ。だいじょうぶ?」
「……えっ。あれっ、ここは……どうして……?」
「ああ、んっとねえ――」
戸惑う葉山に、片岡が事のあらましを簡潔に説明した。自分が怪異に取り憑かれていたことに葉山はショックを受けていたが、それよりも結果として誰一人欠けず無事であることに、彼女は不幸中の幸いとでも言わんばかりに胸を撫で下ろしていた。
「――あ、起きたのですね。体調、如何ですか?」
軽トラの近くを通りかかった愛が葉山に気付いて立ち止まり、声を掛ける。「ええ大丈夫」と頷いてみせる葉山は実際に愛の施した麻酔が効いており、体調に問題は無さそうである。
「そうですか。動けそうであれば、そろそろ出発しましょう。皆さん、車から降りてください」
そう言って、愛はおもむろに人差し指を伸ばす。その指先の方向――上空へ、皆の視線が引き寄せられる。これまではいくら見上げても果てが見えず、露出した岩肌とそこに根付く樹木、ただそれだけが天蓋のように覆い被さっていた暗闇の向こう側に――
「もうすぐ山頂です」
――大きな大きな、白い満月が覗き込んでいた。
◆
支度を整えた彼女達、今度こそ足並みを揃え、再び山道を登り始める。愛の言う通り、きっと終わりは近いのだろう。それを感じ取っているのか、皆の言葉数は自然と無くなっていく。
ここまで周囲から聞こえていた野生動物と思しき鳴き声も、気付けばその気配すらも無くなって――砂利を踏み締める靴底の足音だけが、夜の闇に響いていた。