■■地獄 10
ぐるぐると旋回するように、その山道はとぐろを巻いたような曲がり角が何度も続いていた。道そのものは意外と広く、曲がり角で急カーブでもしない限り、道を外れることはなさそうだ。
しかし道を外れるとそのまま崖に一直線なので、軽トラに乗る鮫島は努めて慎重に、速度を落として運転していた。時間は掛かるが、この調子なら山頂までは問題なく辿り着きそうである――
「うおォっ!?」
――そう思っていた矢先。がくんと大きく車体が揺れ、後輪が一瞬宙を浮く。その衝撃で身体が前のめりに倒れ、そのままフロントガラスに頭から突っ込みそうになっていた鮫島と葉山だったが、シートベルトをしていたおかげで辛うじて踏み止まっていた。
「どっ、どうしたの!?」
「いや、なんか急に……は? 嘘だろ、ガス欠!? メーターが……さっきまでそんなこと……なんで……!?」
山頂まで充分過ぎるほどあったはずのガソリンのメーターは、鮫島が今見るとどういう訳かすっかり空になってしまっていた。
突然のことに半ばパニックになりながら何度もアクセルを踏みつけるが、軽トラはうんともすんとも言わない。
「ちょっ……どないした~ん……!? 葉山ちゃん、だいじょうぶ~……!?」
荷台の方から片岡の驚いたような声が上がってくる。それに気付いた葉山はドア内側に付いている手動式ハンドルを回し、急いでウインドウガラスを下に降ろした。
「ごめんなさい、ガス欠みたい! そっちは大丈夫!?」
ウインドウガラスから顔を出し、荷台の方へ向かって声を張り上げる――
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおい。危ないから線路の上歩いちゃ駄目だよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
――これは、その直後に起きた出来事。
「……………………え」
葉山純子は咄嗟に『声』のする方へ振り返っていた。その『声』は軽トラの前方から聞こえてきていたが、しかしヘッドライトが照らす道の上には、誰の姿も見当たらない。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおい。危ないから線路の上歩いちゃ駄目だよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
だがよくよく耳を澄ましてみると、その『声』は道の先、左手の曲がり角の奥から聞こえてきているようだった。そのあたりまではヘッドライトの光も届き切っておらず、薄ぼんやりとした暗闇だけが広がっている。
「おおおおお縺翫♀おおおおおおおおおおおおおおおおおおおい。危ないか縺ヲ繝ウら線路の上歩いちゃ駄目だよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお縺翫♀おおおおおおおおおおお」
それは、老いた男性のような、しゃがれた低い音だった。しかしこの場に居る誰も、その『声』に聞き覚えは無い。山の中に響き渡る、その不気味な『声』は――
「お縺翫♀おおおおおお縺翫♀おおおおお縺翫>。蜊アないか縺ヲ繝ウら線霍ッ縺ョ荳頑ュゥいちゃ駄逶ョだよ縺翫♀おおおおお繧ス繧ヲおおおお翫♀縺翫♀縺顔ケァ竏壺命縺翫おおお翫♀縺翫♀縺おおおおお」
――次第に、狂っていく。
まるで急に電波が悪くなってノイズが混じったように、音が歪んでいく。
言葉が意味を成さなくなり、酷く不愉快な雑音へと変わっていく。
「縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺ヲ繝ウ縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫>縲ょ些縺ェ縺?°繧臥キ夊キッ縺ョ荳頑ュゥ縺?■繧?ァ?岼縺?繧医♀縺翫♀繧ス繧ヲ縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺翫♀縺繝。縺、」
音はどんどん大きくなり、やがて――曲がり角から、それは覗き込んできた。
どんなに目を凝らしてみても、暗闇の中に溶け込んだようなそのシルエットはハッキリとしない。ただやはり、それは老人のようだった。
腰が酷く曲がっている為か、正面からのシルエットではまるで首が無いようにも見えてしまう、そんな老人が杖を付いて、こちらへ近付いてきているような。少なくとも葉山純子にはそんな人影に見えた。
「…………縺ヲ繝ウ…………繧ス繧ヲ…………繝。縺、…………」
その考えが改まったのは、それが近付くにつれ、その全容を明らかにし始めた頃。
真正面から捉えるそれの姿は、腰が酷く曲がって首が無いように見えていたシルエットは――本当に首が無かった。
代わりに、顔は胸元に付いていた。それは服を着ていない。骨と皮だけの身体、その胸元に、大きな目がふたつと、引き攣ったような笑みを作る口が浮かんでいる。
そして杖を付いているように見えたそれは、足だった。一本しか生えていない足で、それは飛び跳ねながら、こちらへ近付いてきていたのだ。
「…………テ繝ウ…………繧スウ…………メ縺、…………」
気付けば不快極まりなかった雑音は消えていた。
代わりに響いてきたのは――音と呼ぶにはあまりにも邪悪な―――呪いのかたち。
「…………テン…………ソウ…………メツ…………」
その呪詛が葉山純子の耳に届いた瞬間、彼女の意識はそこで途絶えていた。
◆
「……あ? なんだ、止まったぞ」
何かが大きく揺れたような騒音が地上から聞こえてきて、上空の愛とちりが視線を落とす。するとそこには、先程まで問題なく走っていたはずの軽トラが何故かその場で急停止していた。
それに合わせて愛もまた異能で翼の種類を変更。新たに生成したハチドリの翅でホバリングを開始する。
「…………敵です」
そして強化された彼女の聴力が、遠くから聞こえてくるその異音を確かに拾っていた。
「人間の声帯では再現不能、かつ人間の可聴域では捉えられないノイズが混じった声。言葉に意味は無く、ただ音としてヒトのそれを再現しているような。少なくともこれの発生源は、ヒトと同じ構造をしていません」
聞こえてきた異音を分析し、そこから導き出される敵の形状を脳内でシミュレートする愛。そうしている間に、その音はちりの耳にも次第に届き始めていた。
「そんなものが突然、あの曲がり角の向こうに現れた。『巨頭オ』が現れた時と同じ現象です」
「……また襲撃か」
愛達が滞空している其処は、上空と言っても地上の軽トラから5メートルも離れていない。それ以上はスタート地点に戻る仕様によって地上に返されてしまうことは、山に入る前に実践済みである。
なので曲がり角の向こう側にいる、その音の主の姿は崖と樹々によって視認出来ない。
「出てきたところを狙撃します」
だからこそ、愛は敵の姿を脳内で想定しつつ――その右腕を前方へ構えた。愛の右腕を覆う皮膚、その色が透明に変化していく。透き通った皮膚から見えるその中身も、まるで深海のように色を失い、夜の闇に溶け込んでいくようだった。
そして右肩が膨張を始める。肩だったそれはまるで風船を膨らませたように肥大化していって、まるでクラゲのようなゼラチン質の薄い袋状の膜が成っていく。
手首から先に至っては、もはやその原型すら崩れていく。透明の手のひらだったそれは、徐々に細く、長く、鋭く、尖っていって――まるでそれは、銃口のようだった。
刺胞動物。今回はそれに分類されるクラゲがモチーフの、この姿。
クラゲは刺胞という袋状の器官を有しており、刺胞は外部からの刺激を感知すると「糸」と「針」を射出する。針が獲物に突き刺さると、そこから糸を伝って毒を流し込むという寸法だ。
そしてこの、クラゲの毒針射出機構。その射出速度は時速130kmを超え、生物界最速とも云われている。前回のハンミョウを悠に超える速度だが、この機構を人間大で再現した上、諸々都合良く改造出来るのが黄昏愛の異能である。
クラゲの頭部を模した肩の銃床と、クラゲの触手を模した腕の銃口。その形状は宛ら、スナイパーライフル。愛は刺胞を引き金に見立て、それを引くことで毒針を弾丸の如く射出する機構を形作ったのだ。
愛が射出する毒針は、かつてあの歪神楽ゆらぎすらも機能停止に追い込んだもの。そうでなくとも、人間の規格に改造した針の射出速度は音速に迫る。直撃すればその衝撃だけでも必殺だろう。
ようするに黄昏愛、彼女はこの状況で紛うことなき銃火器を、即席で作り出してしまったわけである。
「うおっ、気持ち悪」
……そんな偉業ならざる異業をすぐ傍で目の当たりにしていた一ノ瀬ちりはと言うと、迷惑そうに顔を顰めながら愛の左肩へしがみついていた。
「かっこいいでしょうが。振り落としますよ?」
「そんときゃテメェも道連れだ」
愛はやれやれと鼻を鳴らしながら、銃口を左手で支え、その照準を前方に合わせる。音の大きさから敵のカタチを推測、ヒトガタではない可能性も考慮して、狙いを中央胴体付近に絞る――音は着実に近付いてきている、あと少し――
「…………テ繝ウ…………繧スウ…………メ縺、…………」
そうして、曲がり角の奥からそれが姿を現した瞬間、愛はすぐさま引き金を引くつもりだった。しかし、それの姿を目の当たりにした時――それの吐く音の種類が変わったと感じ取った瞬間――愛は思わず引き金を引くことを躊躇っていた。
それは愛の予想に反して、ヒトガタのシルエットをしていた。腰の酷く曲がった、杖を付く老人のようなシルエット。闇夜に溶け込んでいるのもあり不確実ではあるが、その不確実性が返って判断を鈍らせる。
だが。老人のように見え、聞こえるそれは――近付く程にその全容を明らかにしていく。あれほど耳障りだったはずの雑音が、気付けば鳴りを潜めていて。正面から見ると酷く腰を曲げた、杖を付く老人のように見えていたそれは――――
「…………テン…………ソウ…………メツ…………」
ヤマノケ。
2000年代、インターネット掲示板にて投稿された書き込みを発祥とするネットロア。
山道をドライブしていた親子が遭遇したというその怪異には首が無く、胸部に顔が付いている。全身が白くのっぺりとした一本足のそれは「テン……ソウ……メツ……」という不気味な音を発し、全身を滅茶苦茶に揺らしながら近付いてくる。
それは女性にのみ取り憑くと云われ、憑かれてしまった者は正気を失う上、その近親者にも次々と憑依していくのだという。
その不気味なシルエット、意味不明な音、そして出遭ってしまったら終わりという恐怖――『ヤマノケ』を語るその都市伝説は、端的ながらも読者に強烈な印象を与え、その存在を有名たらしめている。
そして、今。前方にてその姿を顕にしたそれこそが、正しくそうなのだと。黄昏愛は、直感して――
「ッ……――!!」
今度こそ躊躇わず、引き金を引いていた。透明の銃口から毒針が射出される。火薬を破裂させたような轟音は無く、代わりに空気を裂いたような鋭い音が周囲に響く。常人の目では捉えられない高速の弾丸が、ヤマノケの顔へ目掛けて射出された。
弾道の行き着く先は間違いなく、ヤマノケの眉間を捉えている。命中は確実――少なくとも愛はそう確信していた。
「テン……ソウ……メツ……」
しかし、ほんの一瞬。それの全身がブレたように見えた直後。愛の射出した針はヤマノケの遥か後方、聳え立つ林を何本か貫き、薙ぎ倒していた。ヤマノケは無傷のまま、白くのっぺりとした身体を揺らしている。
「……? …………ッ!」
まさか外したのか――と、ひとり首を傾げる愛。しかしすぐに気を取り直し、続けて2発。飛び出した毒針はやはり正確無比に、ヤマノケの顔へ目掛けて放たれる――が。
しかし、ヤマノケの全身がやはり一瞬小刻みに震えたように見えた直後。まるで素通りしたように、針は後方の林の中へと消えていった。
「テン……ソウ……メツ…………――――」
まるで嘲笑うように、にたりと不気味な笑みを浮かべた――そして、次の瞬間。それはその場から、忽然と姿を消したのだった。
「速っ……!?」
否、消えたのではない。まるで消えたように見える程の速さで、ヤマノケは前方目掛けて一直線、駆け出していたのだ。ブレたように全身が震えて見えたのは、狙撃をその場で避けていたからなのだと――気付いた時には、もう遅かった。
愛の強化した視力でもってしても、捉えられたのは残像だけ。そんな滅茶苦茶な速さで動き出したヤマノケは、次の瞬間――
「………………………え」
軽トラのウインドウから顔を出している、葉山純子の目の前に立っていた。
その直後、葉山の意識が途絶え――ヤマノケの姿はその場から、今度こそ完全に消えていた。
◆
「な……何だったんだぁ、今の……?」
呪詛のような不気味な音がようやく止んで、運転席の鮫島は戸惑いながらもどこかほっとしたように口を開く。
鮫島の目には何が起きていたのかまるで解らなかった。一瞬、老人のようなシルエットを闇夜の向こうに見た気がしたが、瞬きをした直後にはそれも消え失せていた。
何故か木々の倒れるような音が遠くから聞こえてきた気もしたが、それっきり不快な音は聞こえなくなっていたのである。
「びっくりしたぜ……なぁ、葉山ちゃん……」
助手席では葉山が窓から顔を出したまま硬直していた。驚いて腰が抜けてしまったようにも見える。
そんな彼女を気遣うように、鮫島は彼女の肩へ手を伸ばして――
「はいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれた」
――直後。気付けば彼は運転席のドアを突き破り、外の地面に転がっていた。