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怪物少女の無双奇譚《フォークロア》  作者: あかなす
第四章 ■■地獄篇
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■■地獄 8

「――――げほッ! っ……あ……?」


 古民家の一室。窓から挿し込む淡い月光に照らされて――文字通り息を吹き返した自分自身の呻き声で、一ノ瀬ちりは目を覚ました。

 あちこちが黒い滲みで汚れた木造の天井が、ちりの眼の前に広がる。歪んだ木目が人の顔のようにも見えるそこから、くすんだ白熱電球がぶら下がっている。電気は点いていない。

 ふと、ひんやりとした感触が背中、スカジャン越しに伝わってくる。途端に感じる湿気た臭い。自分がどうやら敷布団の上に仰向けになっていることをちりは理解する。


 依然ぼんやりとした思考のまま、それでも反射的にちりは周囲へ警戒の視線を配っていた。此処はどこなのか、今はどういう状況なのか、目に見える範囲で可能な限り情報を拾い集めようと――


「ちり……ッ!」


 ――した矢先。不意に飛び込んできたその一声と、続く温かな感触によって、少女は思考を中断せざるを得なかった。


「うっ、お……!?」


 仰向けの上半身目掛けて、しがみつくように覆い被さってきたのは芥川九十九。彼女の低い体温を薄い布切れ越しに感じた瞬間、頭に血流が巡っていくのをちりは自覚する。


「なッ……あ……? どういう……状況だ……?」


 狼狽えるちり、その眼前に――黒いカーテンが降りてくる。否、それは黒い長髪。まるで這い寄るように現れたその黒い影――黄昏愛が、仰向けのちりを覗き込むようにして見下ろしていた。


「あなたにお話があります。いいですか? どうか落ち着いて」


 ちりの様子を暫し黙って眺めていた黄昏愛、やがてゆっくりと口を開く。


「私は神。ここは天国です。そしてあなたは死にました。これから私の言うことには全て絶対服従すると誓うなら、あなたを現世に転生させてあげましょう。わかりましたか?」


 それは表情の読めぬ涼し気な面持ちのまま、平坦な口調で、一言一句嘯くのであった。


「……何言ってんだオマエ。頭大丈夫か? いや元から大丈夫ではないか……おい九十九、どうやらこいつはもう駄目だ。ここに置いていこう」


 数秒の間を置いて、眉間に皺をたっぷり寄せたちりが吐き捨てるように言い放つ。それを受けた愛は尚も何食わぬ顔のまま、「ふむふむ」などと興味深そうに頷いて見せるのだった。


「なるほど、口の悪さも健在。これを機にそっちも直ってくれればと思っていたのですが、どうやら意識も記憶もはっきりしているようですね。後遺症も無さそうですし、どうやら修復は上手くいったようです」


「よかった……!」


 平坦な口調で告げる愛の言葉に、胸を撫で下ろす九十九。その様子を見て、ちりは自分の身に何が起きたのかを理解する。


「……オレ、死んでたのか?」


「ええ。どうやら即死だったようですね。あなたの死体は全身跡形もなく、ぐちゃぐちゃのミンチになっていましたよ」


「マジか……」


 浅く長い溜息を吐きながら、ちりは記憶を辿り目覚める直前の景色を思い起こす。あの時、ちりは土御門と共に廃屋を調査していた。そこで土御門から山頂で見た怪しげな箱の話を聞き、その最中に突然何かに押し潰されたのだ――ちゃんと覚えている。


「……あ? ちょっと待て……!」


 思い出して、状況を把握して――ちりは途端に慌て始めていた。


「オレが死んでからどれくらい経った!?」


 怪異は不死の存在だという認識は地獄において一般的だが、それが正確でない事は今更語るまでもないだろう。怪異はその実、不死でも何でもない。ただ、死んだ後に生き返っているだけだ。

 そして怪異は生き返るまでに相応の時間を要する。死後の肉体の状態にも依るが、肉体が修復され意識が回復するまで――無論、その間再生の邪魔をされなければという前提付きで――数ヶ月、状態によっては数年以上掛かることもあり、例えば全身が原型を留めていない場合などがこの例に当てはまってしまうわけなのだが――


「落ち着いてください。まだ一日しか経っていません」


 しかし一ノ瀬ちりの場合はその例に漏れ、たった一日相当の時間経過で異例の復活を遂げていた。それが愛の手柄であることは今更言うまでもなく。


「怪異元来の自然治癒のみでは、ちぎれた手首の修復にすら一ヶ月も掛かっていましたからね。そんなものに頼った全身の修復なんて当然待てるわけがないので、私の異能でぱぱっと直してあげたんですよ。ありがたく思ってください」


 愛の異能『ぬえ』による複製能力。原型の細胞が1ミリでも残っていれば、それをベースとして肉体を複製出来る。他の怪異には保ち得ない高速再生――これもまた、今更驚く程の事でもないのだろう。


「とはいえ、何度も試して解ったことですが……他人の修復は、私自身に施すそれとやはり勝手が異なりますね。肉体はともかく、意識の再生に関しては私の意思でどうこう出来る領域では無いようです」


「……つくづく何でもアリだな、おまえの異能……」


 愛の説明にひとまず安心したのか、ちりは苦笑いを浮かべつつ胸を撫で下ろしていた。が、対する愛の表情は未だ希薄――否、どこか気を落としている風にすら見える。そんな愛の心境を、ちりはすぐに察していた。


 愛の異能による修復は完璧だ。ちりの身体には傷ひとつ見当たらない――外見は。

 しかしちりの肉体には文字通りの不治の病――净罪という名の呪いによる内臓の欠損がある。やはりそれだけは、どうしても直せなかったらしい。

 見えずとも解る、麻酔によって誤魔化された感覚。体の中の空洞をちりは感じ取って――困ったように微笑みながら溜息ひとつ。


「おう、とりあえず礼は言っとくぜ。いつも悪ィな、迷惑掛けて」


「いえ……」


 素直に感謝を述べながら、ちりは上体を布団からゆっくり起こす。その背中を九十九がすぐさま右手で支え、ちりの補助に努めていた。


「それで、一体何が起きた? オレは何に殺されたんだ?」


 安心したら、次に気になる点はやはりそこだろう。単刀直入、ちりは疑問をぶつける。


「巨頭オ」


 その回答は、文字にしてたったの三つ。端的にも程があるけれど、それを識っている者ならばある程度の推測が適うには充分すぎる情報量である。


「恐らくはそれを原典とした怪異――巨頭の怪物が、降ってきたんです。あなたはそれに踏み潰された」


「……降ってきた? まさか、空から?」


「ええ。目撃者がいました。ほら、あの……金髪の……」


「あー……鮫島だっけか」


「ええ。彼曰く――『空が突然暗くなったかと思ったら、雲の中から雨のように巨頭の怪物が降ってきた』と」


 他の者達が廃屋で各々調査をしていたあの時、鮫島だけが外に居た。村中央の井戸から水を汲んでいた彼は一人だけ、それが現れる瞬間を目撃していたのである。


「私達はその巨頭の群れと戦闘になりました」


「結構いっぱいいたよね。千匹くらい?」


「ええ。まあ、私と九十九さんとで皆殺しにしましたが」


「(さらっととんでもないこと言ってやがんなこいつら……)」


 愛と九十九の状況説明を聞きつつ神妙な表情を浮かべながら、ちりは先程から視界の端に捉えていた窓の方へ視線を移した。巨頭が降ってきたという空は現在、愛達が此処に訪れた時と変わった様子は無い。白い月、無数の星々、揺蕩う雲。それらが浮かび上がる、何の変哲もない夜の空である。


「空から降ってきた……ッてえより、別の空間から転送トバされてきたんだろうな。千体近い怪物を上空で、しかも一瞬にして作り出せるとは思えねェ。つまり敵は、別の場所に予め用意していた怪物を瞬間的に移動、転送させられるような、なにかそういった類いの異能を持っている」


「うん。それに、そもそも怪物を製造ないし操作する異能も関わっている。となると……」


「敵は複数いる可能性が高いってことだな。異能単体で両立させられる系統的な関連性が空間転送と怪物製造にあるとは考え難い。それに未だ姿を表さず奇襲なんざ仕掛けてくるあたり、敵の数自体はそう多くないな。二人か、多くても三人……」


 それは先刻に愛と九十九も辿り着いた仮説だったが、一ノ瀬ちりはそこから更に一歩踏み込んだ結論に達していた。


「ここが地獄の第四階層、羅刹王の領土だと仮定するなら……十中八九、敵はその一味だろう。ともあれ、敵の能力に繋がる情報が手に入ったのはデカいな。死んでやった甲斐があったってもんだぜ」


「……でも、やっぱり目的が解らないね。襲われる理由も、邪魔をされる謂れも。こっちから何かしたわけでもないのにさ……」


「ええ……ええ! 本当に……! まったくですよ!」


 そんな折、素朴な疑問を漏らした九十九に対し、愛は力強く頷き同意を示す。思い出して急に腹が立ってきたのか、愛はむすっとした表情を浮かべていた。


「ちょっとウンザリしてきました! 羅刹王の領土は治安最悪、みたいな話をあきらっきーさんから予め伺ってはいましたが……これもうそういう次元の話じゃないですよね!? 本当に意味が解りません! いっそひと思いに暴れてやろうかしら……」


「愛。どうどう」


 ぷりぷりと意義を唱える愛、その頭上を嗜めるように撫でる九十九。そんなふたりのやり取りを目の端で捉えつつ、ちりは冷えた頭で思考を回す。


「(……確かにな。『巨頭オ』を使った襲撃も、こちら側に大した被害は出ていない。奇襲としては下策。むしろ手の内を晒して、こちら側の警戒心を煽るだけに終わった失策だ。戦略的な意味があったとは思えねェ……)」


 そんな彼女の脳裏に過るものはやはり、あの悪辣な銀の魔女の面影。


「(……手のひらの上って感じで気色悪ィが、現状どうすることも出来ねェか)」


 気怠げに、溜息ひとつ。ともかく情報が得られただけでも良しとし、ちりは仰ぐように愛と九十九のふたりを見た。


「……今は気にするだけ無駄だろうな。理由わけも無く突然殺されかけるなんざ地獄じゃ珍しくもないしよ。オレ達はただ、先に進むことだけ考えていればいい」


「むう……まあ……そうですね……」


 窘めるようなちりの口調に、愛は唇尖らせ不承不承ながらも納得した様子。それに内心ほっとしつつ、ちりは新たな切り口で再び端を発した。


「ところで、怪物の死体はまだ残ってるか?」


「あぁ、それが……時間が経ったら消滅してしまったんですよ。草原に散った血痕すら、跡形もなく」


 まあそもそも消滅する以前に死体の大半は愛が食べちゃってたんだけどね、と内心苦笑する九十九。


「なるほどな。別の可能性も考えたが……だったらその怪物は人造怪異で確定か」


「……今更ですけど。その人造怪異とやらは、普通の怪異とは違う存在なんですか?」


 ちりが当たり前のように口にしたその単語に、愛は首を傾げてみせる。胡座をかいて座るちりに視線を合わせるように、長身の愛は膝を曲げて顔を覗き込んでいた。


「そうだな。分霊、式神、ホムンクルス……呼び名は様々だが、コイツは純粋な怪異ではなく異能によって人工的に造られた、怪異の模倣……贋作だ。自我や知能の有無は諸説あるが、異能に近い能力、機能を有している場合もある」


「結構珍しいよね。人造怪異。私あんまり見たことないな」


「ああ。そんな人造怪異だが、コイツは基本的に不死性を持たない。殺せば普通に死ぬし、異能が解除されたり本体の怪異が死んだりしても、それと連動して消滅する。所詮は異能の延長線上の存在だからな。そこが怪異との明確な違いだ」


 例えば『アジ・ダハーカ』竜胆りんどうたけるの蛇龍、『くねくね』歪神楽ゆらぎの白鯨など、これまで戦ってきた怪異の中にも人造怪異を使役する者は登場している。ともすれば黄昏愛の分身も、ある種の人造怪異と呼べなくもないだろう。


「…………なるほど、それは…………」


 しかしその説明を受けた愛は、納得するどころか一人考え込んでしまう。逡巡の後、やがておもむろに顔を上げた愛の表情は、どこか困惑している様子で。


「ちょっと……付いてきてもらっていいですか?」


 生き返って早々、厄介事の気配に一ノ瀬ちりは眉をひそめるのだった。


 ◆


 思い立ったかのように、黄昏愛は動き出した。その後を追って、布団を敷いていた居間から木造の床が剥がれ落ち穴だらけの廊下を抜け、古民家を出る九十九とちり。

 外の様子は一ノ瀬ちりが意識を失う直前の記憶と比べ然程変わった様子は見られない。柔らかな月光の下、草木の臭いと鈴虫の鳴き声が風に乗って微かに漂ってくる夜の世界は静謐そのものだった。

 愛の証言通り『巨頭オ』らしき残骸は既に周囲のどこにも見当たらない。草原に敷き詰められていたあの鮮血の絨毯は、今やその痕跡すらも残っていない。

 ただし村を囲むようにしてそびえ立っていた東西の樹海は、まるで暴風によって薙ぎ倒されたかのような有様で。殆ど荒野と化したその光景は、『巨頭オ』との遭遇が夢ではなかったことの証左と共にその戦闘の激しさを想起させるようだった。


 愛を先頭に誘導される道中、ちりは自分達が出た古民家の向こう側に、見るも無惨に倒壊した一軒の残骸を確認する。その残骸が巨人によって踏み潰された場所、つまり自分の死に場所であると、ちりは遠目に理解した。


 他の建築物が無事な様子を見る限り、敵に何らかの狙いがあったのか、はたまた運が悪かっただけなのか――あるいは、意図せず攻撃の条件を踏んでしまっていたのだろうか。いずれにせよ、またもや損な役回りを自分だけが押し付けられたらしい事実に、一ノ瀬ちりはひとり自嘲気味に鼻を鳴らしていた。


「こっちです」


 愛に案内されたのは、ちりが眠らされていた古民家の隣に位置する、また別の廃屋だった。木造の小さな一軒家であるそこに開け放たれた玄関から三人は侵入し、土足のまま床を踏みしめる。

 玄関を上がるとすぐ台所のある広い間取り、ダイニングキッチンに続いていた。洗面台の上部に備えられた白濁色の照明が、点滅しつつも周囲を懸命に照らしている。

 点滅を繰り返すその明かりは、中央に鎮座した大きなテーブルと――その上に乗せられるようにして横たわっている、男の死体を映し出す。


「コイツは……」


 その男の死体に、一ノ瀬ちりは当然見覚えがある。


「彼もあなたと同じ、巨頭の下敷きになっていました」


 此処に来て知り合い、同盟を結んだ『人間組』――土御門という姓を名乗った、坊主の男性。彼もまた一ノ瀬ちりと同様に、あの廃屋で『巨頭オ』によって踏み潰され、殺されていたのである。

 しかし今彼女達の目の前で横たわっている男は、衣服も含めその全身は傷ひとつなく原型を留めている。どうやらちりに対して行なったものと同じ治療を、愛は土御門にも実施したようだった。


「肉体はご覧の通り、修復を施しましたが……意識が戻りません」


 テーブルの上に乗せられた土御門は、まるで深く眠っているかのように微動だにもしない。そんな彼の様子と、愛の言葉に、ちりの両目は徐々に見開かれていく。


「心臓が動きません。脳波が止まっています。腐敗も止まらない。肉体は完全に修復されているはずなのに。あなたと同じ条件で、同じ治療を施したというのに。怪異ならば起きて然るべき、自然治癒による蘇生の兆候が全く視られない」


「……どういうことだ」


 察しはついている。けれど、問わずにはいられなかった。


「完全に死んでいます。つまり彼は、不死の存在ではない」


 愛の口振りは淡々としたものだったが、その表情を僅かに強張らせている。そしてちりもまた、思わず言葉を詰まらせていた。口元を右手で覆い、眉間に皺を寄せ集め、視線は虚空を漂う。


「……人造怪異なら、その残骸は時間経過で自然消滅する。だが、その現象すら起こらない……」


 逡巡の最中、自分自身に言い聞かせるように口を開く。その事実の一つ一つが、彼女にとって最悪の可能性を裏付けるものに他ならない。


「……本物の人間、ってこと?」


 そんな最悪な可能性――ここにきて尚誰もが言い淀むその結論を、九十九が代弁する。その答えに、愛もちりも返す言葉を見つけられずにいるのだった。


「あっ、愛ちゃあん。こんなとこおった」


 その時、土御門の死体に釘付けとなっていた彼女達の背中へ不意に掛けられる声。それに心臓を跳ね上げさせた一ノ瀬ちりは、咄嗟に爪を伸ばしながら振り返る。


「……片岡さん」


 玄関に佇んでいたその声の主は、茶髪のウルフカットと関西訛りが特徴的な女性、片岡であった。彼女の姿を横目で確認した愛がその名を呼び、ちりの爪はその警戒心と共に収まっていく。


「もお、理奈リナでええって言うたのに。いけずやねえ」


「……どうかしましたか」


「いやあ、こっちはようやっと落ち着いたからねえ。せやから、そっちの様子を見に来たんやけど……」


 ため息混じりの愛の態度をものともせず、片岡は糸のように細い目でちりのことを興味深そうに眺めている。


「ほんまに怪異ってのはすごいねえ。死んでも生き返れるなんて」


 顎に手を当て、暫し物珍しそうな視線を送っていた彼女だったが――


「……土御門くんは、だめみたいやね」


 その視線を横たわる土御門に移すと、彼女にしては珍しく暗いトーンで呟くのだった。


「そちらの、皆さんの様子は如何ですか」


「ああ、まあ……怪物に襲われた上に、仲間のひとりが死んだわけやからねえ。うちもカウンセラーとして、出来る限りメンタルケアに徹しはしたけど……どうやろねえ。後はあの子ら次第かなあ」


 どうやら伊達に心理カウンセラーを職としているわけではないようで、片岡は『巨頭オ』襲撃後に『人間組』である彼らのメンタルケアを一任していたらしい。ちりが死んでいるその間に、片岡の尽力もあって彼らの状況はどうにか落ち着きを取り戻すまでに至ったようだった。


「ひとまず、今後の方針について彼らとも少し話をしておきたいですね。これからそちらにお伺いします。……それでいいですよね?」


「あァ……」


 愛の同意を求める視線に、ちりが頷く。


「はあい。ほなうちは先に戻ってるねえ」


 右の手をひらひらと揺らして、片岡は玄関から踵を返した。彼女が去っていくのを見届けてから、残された三人は揃って息を吐く。


「……あの人達が本物の人間なら、今度こそちゃんと、守らないと……」


 そして紡がれる、どんな状況においても真っ直ぐな、芥川九十九のその言葉。死んでしまった、救えなかった命に対する後悔の念を滲ませた、力強いその声色。


「……でも、本当によく解らなくなってきました。彼らが人間なのだとしたら、どうしてこんな所に……そもそもこの場所は一体……」


 対する黄昏愛は、増えてしまった懸念材料に頭を抱える勢いで、不安げに声を落とす。むしろこっちの方が普通の反応と言ってもいいだろう。


 そしてその一方で、一ノ瀬ちりは。


「…………そういう事かよ」


 ひとり、ある結論に達していた。


「何か解ったんですか?」


「……まだ仮説の段階だがな。とりあえず頭の片隅にでも置いといてくれ。向かいながら話すぞ……」


 愛とちりは横並びになり言葉を交わしながら、玄関を潜り抜け、外へ出る。その殿を努めるようにして、九十九は二人の背中を追いかけていった。


「…………」


 その折、ふと九十九は後ろを振り返る。玄関の向こう側から、テーブルの上に横たわる土御門の死体へ、彼女はその赤い視線を注ぎ込む。


「(……これが、死)」


 たった一度の死が命取り。それが人間の常識。そして、芥川九十九の宿命。これまではどこか他人事のようでもあった。何だかんだ言って、芥川九十九は一度も死んだことが無い。死を実感したことがないのは勿論、本当の意味で彼女は死を見たことがなかった。


「(本物の……かけがえのない、終わり……)」


 そんな彼女が今日初めて、本物の死を目の当たりにしたのだ。死というものが何なのか、その末路を、彼女は本当の意味で理解したのである。


「(……何だろう、この気持ち)」


 土御門という男は九十九にとって赤の他人でしかない。まともに言葉を交わしたことは一度も無いし、その声色や仕草も正確に覚えてなどいない。


「(……厭な、感じ……)」


 けれど、そんな彼が今こうして目の前で死んでいる光景を前にして。芥川九十九の心はどうしようもなく、ざらついていた。


『助けて』


 もう聞こえないはずの、助けを求めるその声が、芥川九十九を苛むようにどこかから響いてくる。


「……っ」


 頭が痛い。息苦しい。耳鳴りが止まない。吐き気がする。目の前の現実を自覚すればするほどに、それはまるで、過去が贖罪を求めて追いかけてくるようで――


「…………ごめんね。守れなくて」


 弔いの言葉は、既に死んだ者の耳には届かない。その虚しさに死の本質を思い知りながら、彼女は静かにその場を後にした。

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