■■地獄 6
閑話。
「え? 今、なんて」
「だからあ。愛ちゃんさ、九十九ちゃんのこと好きやろお?」
数分前。片岡の口車に乗せられて、芥川九十九との馴れ初めを語り始めた黄昏愛。
どういう出会い方をして、どういう言葉を交わし合って、どういう風に仲を深めてきたのか。その一部始終を聞き届けた片岡が開口一番、発した感想がそれだった。
片岡の指摘は、第三者の視点からすれば「今更何を」と言ったものだろう。言われるまでもなく、愛は九十九に対して好意を抱いている。今更指摘されずともそれ自体の自覚は愛にもあったし、不自然な感情の動きでもない。芥川九十九は善人だ。善人に好印象を抱くなんて、およそ何もおかしなことはないだろう。
「それも、ライクやなくてラヴのほうで」
問題はその後に続く言葉だった。九十九に対して抱いている好印象は、あくまでも「彼女が善人だから」だと、愛は思っていた。当然それもあるのだろう。だがそれだけではない。それを自覚したからこその、絶句。
他人のことなんてどうでもいい。そんな生き方しか出来なかった自分が、まさかそんな感情を抱くなんて――それも、愛情めいた想いを。
我が事ながら驚きを隠せない黄昏愛。しかしそこには驚き以上に、どこか合点のいく想いもあった。
詰まるところ、そこに対する自覚だけが愛には今日まで確かに足りていなかったのである。
「…………そうですね。私は九十九さんのことが好きなんだと思います」
その一言が、足りていなかった最後のピースだった。言葉にした途端、自分の中でそれが腑に落ちていくのを愛は実感していく。
「あれえ、否定せんの? 意外やねえ。愛ちゃんてっきり、恋人以外はどうでもいいです、ってタイプかと思っとったけど」
「否定しようがありません。私が九十九さんに好意を抱いているのは事実ですから」
「ふうん」
尋ねた片岡もそうだが、応えた愛本人にとってもそれは意外ではあった。だって自覚したのはつい今さっきの事である。
まさか自分が『あの人』以外の他人に対して好意を抱く日が来るとは露ほども思ってはいなかったのだから。
「愛ちゃんは九十九ちゃんと恋人になりたいの?」
恋人が既に居るにも拘わらず他の誰かを好きになってしまうということは、人間ならばままあることではある。そこは矛盾しないし、当人の倫理観に因っては両立だって不可能ではないだろう。
しかしそれは、解釈によっては浮気に該当することもある。それについてはどう考えているのか――片岡は試すような口振りで問題を提起する。
「……好きだからといって、必ずしも恋人にならなければならない、という訳では無いはずです」
「へえ。じゃあ、恋人に対する『好き』と、九十九ちゃんに対する『好き』は、別物? 断言出来る?」
「…………」
意地の悪い質問だ。たった今生まれて初めて自覚した感情に、今直ぐ折り合いを付け、言語化出来るはずもない。それでも懸命に問題と――自分自身と向き合う黄昏愛の顔付きは、より神妙なものへと変わっていく。
「もし、どちらか一方を選ばなきゃいけない時。愛ちゃんは、どっちを選ぶ?」
「……答えられません。答えたくない。どちらも大切なのは、間違いなくて……」
瞼を薄く閉じ、意識を頭の奥へと集中する――黙ってそうしていると、次第に蘇ってくる。
「……ただ、ひとつだけ。今、確実に言えることは……そもそも、この『好き』は……私の九十九さんに対する、この感情は……――」
ふつふつと、脳裏に過ぎる在りし日の記憶。それは輝かしい、『あの人』との思い出――ただ、それだけ。
それ以上のことはやはり、何も思い出せない。
「――……私、生きていた頃はきっと、友人なんて一人もいなかったんだと思うんです。学校でどんな風に生活をしていたのかすら、全く記憶に無いくらいですから」
逡巡ののち、再び紡ぎ始めた愛。それに片岡は黙って耳を傾ける。
「きっと私は、産まれてきてから一度も……他人と衝突したことが無かったんです。九十九さんと出逢うまでは。他人と殺し合ったのも、他人に説教されたのも、他人を信じてみようと思ったのも……全部が初めてで、滅茶苦茶で……わけがわからなくて」
少女にとって過去を喪ったということは、全てを喪ったということと同義であった。彼女の全ては過去に取り残されていて、それを取り戻さなければ、自分は空っぽのまま。現在に意味は無く、未来に価値は無く、生きる理由は無いのだと、少女はそう考えていた。
「でも、そういう初めてを……滅茶苦茶を、理不尽を……正面から対等にぶつけ合える存在に、その関係に敢えて名前を付けるとするなら……私はそれを、友と呼びたい」
それは生前、終ぞ手に入らなかったもの。意味も、価値も、理由も――全てを覆してしまった、未知との邂逅。ある意味で恋人よりも特別な、親愛なる隣人。
「こんな事を言っても今更仕方がありませんが……もしも九十九さんと生前に出逢えていたら……友人になれていたのなら……学校での思い出も、もう少し憶えていたかもしれませんね」
その出逢いは、黄昏愛という少女の人生にとって――前のめりに倒れるしかなかった孤独な運命を変える、劇薬となったのである。
「……でも、やっぱり不誠実ですよね。そもそも、友という呼び方が適確なのか、それすら解らないのに。私……『あの人』のことも、九十九さんのことも、どちらも大切で……選べなくて。だから恋人だの友達だの、無理矢理に呼び方を区別して……『好き』を両立しようとしているんです。ずるいですよね……」
「あは! ごめんねえ、いじわるな質問しちゃったねえ」
遅れてやってきた青い春に頭を悩ませる少女の前で、片岡はあっけらかんと笑ってみせる。彼女にとってはほんの少し揶揄うだけのつもりだったのだろう。
「仕方ないよねえ、『好き』になっちゃったものはさ。そもそも『好き』を比べて優劣の差を付ける必要なんか無いし。そんなの関係無く、単純に、好きな相手との関係を大切にしたいと想うのは自然なことだと思うよお? だから、ずるいだなんてことは無いよ。きっとね」
「片岡さん……」
「うちもいっぱい友達いるし。あ、でも気を付けないといけないこともあるよ? 実際、うちは友達だと思ってたけど、相手はうちのことを恋人やと思ってて……うちが他の友達と一緒に居るところと鉢合わせて、修羅場になって……殺されかけたことあったから。懐かしいわあ……」
「それは貴女の日頃の振る舞いに問題があったのでは……?」
片岡の場合、友達と書いて別の読み方をしそうではあるが。それはさておき。
「九十九さんも、私のことを……友達だって、思ってくれていたら……嬉しいのですが……」
「それ、本人に伝えたほうがええんとちゃう? きっと喜ぶと思うよお?」
「そう……でしょうか。こういうのって、伝えるべき……なんですかね」
「人間て生き物は存外察しが悪いからねえ。ちゃんと言葉にせな何も伝わらんよ。それが好意なら尚更ねえ」
どこか含蓄のある言葉を、タバコの煙と共に吐き出す片岡。その佇まいからもなんとなく人生経験の豊富さが滲み出ている彼女の言葉には不思議と説得力があり、愛は素直に頷いていた。
「でもさあ、そういう事なら、うちとも仲良くしてくれたってええんやない? うちは複数交際、ぜんぜんオッケーよお?」
しかし。良い事を言ったと思った矢先に、これである。もはやそういう性質なのだろう。
「……誰でも良いわけではないので。九十九さんが例外なんです。諦めてください」
「ええ~?」
ヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべる片岡に、愛は今度こそ呆れたように溜息を吐くのであった。
「あれえ? そういえば……九十九ちゃんのことは分かったけど、あの赤い子はどうなん? ちりちゃん、やっけ? あの子のことはどう思ってるの?」
「嫌いですね」
「え、急に辛辣……」
九十九のことを話題にしている時とは一転、急に語気が強くなった愛に対し片岡は思わず苦笑を浮かべる。
「向こうだってそう思ってるに違いないです。お互い反りが合わないというかなんというか……何百年生きてるか知りませんけど、なんか偉そうだし、言葉遣いも乱暴だし、頑固だし、面倒臭いし……普段から黙って大人しくしておけば、少しはまだ可愛げもあるというのに……」
けれどそれを語る愛の表情は、ただ不機嫌というだけではなく、どこか戸惑っているような、憂いているような、呆れ返っているような――そんな複雑な感情が入り混じった形をしていて。思う所は色々あるようだが、少なくともそこに悪意は感じられないようだった。
「……ふふん?」
片岡はそんな微妙な感情の機微にも目敏く反応し、再び意地の悪い笑みを浮かべるわけである。
「な、なんですか……?」
「実はうち、心理カウンセラーの資格持っててえ。せやからってわけやないけど、ヒトを見る目は結構あるっていうかあ」
「はあ……?」
「だからほら、話聞いてたらさあ……なんや仲悪そうにしとったけど、ちりちゃんのことかて何だかんだ好きなんやなあと思ってねえ。素直になれへんの? かわいいねえ」
「……本当に話、ちゃんと聞いてましたか? ていうか、ヒトを見る目無くないですか?」
これ以上無いというくらい訝しげな表情を浮かべる愛。今にも腕が熊のそれへと変化しそうな雰囲気だが、構わず片岡は言葉を紡ぎ続ける。
「愛情の反対は無関心であ~る。興味の無いものには触れようとすら思わないものよお。好きとか嫌いとかは、そもそも相手に興味が無いと出てこない言葉やからねえ」
黄昏愛はそもそも他人のことを好きや嫌いで判断しない。九十九との出逢いによる心境の変化で多少丸くはなったのかもしれないが、それでも他人との関わり方において、利害が一致するか否かという判断基準そのものは変わっていない。
あるいは堕天王やべあ子のように、性格的な相性の良さから友好的な関係を築きやすい相手は存在するものの、それ以上の特別な感情までは抱かない。
だからこそ九十九は例外だという話なのだが、そういう意味では確かに一ノ瀬ちりもまた例外だった。
「九十九ちゃんが例外だっていうなら、ちりちゃんに至っては例外中の例外やない? 愛ちゃん、きっと好きじゃない相手とはそもそも関わろうとすらしないタイプやろお? 嫌いって解ってるのに、一緒に居る意味ってなあに?」
邪魔な物は徹底的に排除するという自他共に認める自身の性質から考えても、一ノ瀬ちりとの関係は明らかに他と一線を画している。九十九とはまた違った意味で間違いなく例外である。
「うーん……まあ……そう、ですね……」
しかし尋ねられたからといって答える義理は無いというのに、根が生真面目な愛はそこでもまた考え込んでしまう。
試しに一ノ瀬ちりとの思い出を振り返ってみようと、瞼を薄く閉じ、印象に残っている情景を思い浮かべようとする――
そうして最初に思い浮かんだ光景、ちりとの思い出は、あのラブホテルでの一幕だった。
「……いや、でもあれは……利害の一致というか……ただの練習というか……仕方なくというか……」
好きなヒト以外と体を重ねるなんて言語道断だという考え自体は今でも変わっていない。
もしもあの部屋に、全く知らない赤の他人と閉じ込められたとしたら――二度と外に出られないとしても、絶対に性交渉には及ばなかっただろう。
『あの人』を探す旅は外に居る分身に託し、自分という個体は部屋の中で永遠に閉じこもって貞操を守り続けていただろうと、愛には断言出来るだけの自負があった。
そういう手があったのにも拘わらず、一ノ瀬ちりとは最終的に及んでしまったわけである。
しかも、あの日だけではないのだ。あの後も実は、練習などという口実でこっそりと、何度か及んでいたりして――
「むむ? 今、うちのセンサーにビビッときたよお? 愛ちゃん、やっぱりあの子と何かあったやろ?」
「…………いや、特に何も…………」
「めっちゃ目ぇ泳いでるやん。なになに~? お姉さんに隠し事は通用せんよお~?」
「う……っ」
それについて「何故」を問われた愛は、まるで九十九の時とは真逆の反応で――はっきりと答えることが出来なかった。
否、答えは解っているはずなのだ。それを認められないというわけでもなく、後ろめたさとも些か異なるが――詰まる所、意地のようなものなのだろう。
片岡の言う通り、あんな奴のことを――恋愛的な感情は差し置いても、隣人として、何だかんだ結構好きになっていただなんて、今更気恥ずかしくてとてもじゃないが言い難いというだけの話である。
「わ、私の話はもういいでしょうっ。次は片岡さんの番です……!」
「理奈でええよお。うちと愛ちゃんの仲やし、いつまでも他人行儀なのもねえ。あと話題を逸らそうとしても無駄よお? ほれほれえ、観念しなさいってえ」
「ですからっ、本当に何も――――……………………」
◆
閑話休題。
愛と片岡が雑談に興じていた頃――それは既に起こっていた。
からかってくる片岡に対して抗議の声を上げていた愛だったが――その動きが不意にぴたりと止まる。突然口を閉ざした愛に、その傍らで片岡は不思議そうに首を傾げていた。
「……あれれ、愛ちゃん? もしかして怒っちゃった? ごめんてえ、冗談やから――」
「静かに」
片岡と雑談に興じていた間も、愛は周囲への警戒を決して怠ってはいなかった。愛の識る限り最も高い聴力を持つハチノスツヅリガの鼓膜器官を模倣し、集落を中心とした半径数km内、僅かな異音も聞き逃さないよう気を張り巡らせていた。
「…………何だ、この音」
だというのに、その音は突然降って湧いたように現れたのである。それも、音はこの集落の内側から聞こえてきていたのだ。そこまでの接近を許してようやく聞こえ始めたその音に、愛は困惑を極めたように眉を顰めていた。
「え? なに愛ちゃん、音って……んん……?」
そして愛の耳がその異音を拾った直後、それに合わせて地面が微かに震動し始める。その揺れによって片岡もまた、その異変にようやく気付き始めていた。
「あ~……? 確かに、なんや聞こえるけど……なんやろこれ……太鼓の音、みたいな……?」
どん、どん、どん。まるで太鼓の音のような震動音は、徐々に大きくなっていく。
大きくなるにつれて地面の揺れもまた強くなっていって――次第に、その異変の全容が明らかになっていく。
「……違う。太鼓の音じゃない。まるで……ドアを激しくノックしているような、これは…………」
疑惑が確信へと変わっていく。愛の右腕は熊のような怪物のそれへと徐々に変貌を遂げていき、黒い瞳を獣のように縦に鋭く伸ばしていって――臨戦態勢。
「足音だ」
◆
「――――逃げろおおおおおおオオオオオオオッ!!」
突然上がった男の絶叫。直後、凄まじい破壊音が夜の闇に轟く。それを聞き届けるよりも速く、振り翳された愛の怪腕はリビングの壁をブチ破り、片岡の手を取りながら外へ飛び出していた。
「あ……ああ……ああああっ…………!」
愛と片岡が家の外に飛び出すと、集落の中央の井戸には狼狽し切った鮫島が情けない声を上げていた。腰を抜かしその場に尻餅をついて、その顔は恐怖に塗り潰されている。
愛と片岡は急いで鮫島の傍に駆け寄る。そうすると必然的に、鮫島の見ている景色を愛達もまた見ることになって――
「…………は?」
二人は揃って言葉を失っていた。
「なっ、なんですか今の……!?」
その後も集落中に響き渡った崩壊の音を聞きつけて、九十九と蒼井、そして葉山が遅れて外に出てくる。葉山は困惑の声を上げながら、バタバタと慌ただしく愛達のいる方向へ駆け寄ってきて――
「きゃああああああああああああああああああああっ!!」
不意に立ち止まり、その場で絶叫した。鮫島と同様に腰を抜かし、その場に崩れ落ちる。
「……え、なに……? なに、これ……?」
いつも飄々としているあの片岡も、巨人に囲まれた目の前の光景には呆然として、その声を震わせていた。
「……ぁ……っ」
九十九に手を引かれた蒼井は叫び声こそ上げなかったものの、全身を恐怖で震わせ、その両目からは涙が絶え間なく流れ続けている。
そんな彼らの視線の先は、全員揃って――草原へと向けられていた。愛達がこの集落にやってくる時に通った、『きさらぎ駅』がある方向の草原の道である。そこには人工物などは一つも見当たらない、一面の草原――そのはずだった。
しかしそこは今、奇妙な物体によって埋め尽くされている。奇妙な、人型の、何かによって占拠されている。
人型のそれは、巨大だった。全長にして10メートルはあるだろうか。特にその頭は胴体と同じくらい大きくて、顔より上の部分は引き伸ばされたように長かった。
それの顔には人間のような目と鼻と口があり、しかしひたすらに無表情で、意思のようなものはまるで感じられない。
肌はくすんだ灰色で、毛髪は無く、衣類なども身につけていない。それは両手をぴったりと足につけた状態で直立不動のまま、其処に居た。
そんな巨人のような何かが、集落を取り囲むようにして、草原や樹海の中に佇んでいる。その数、目算にしてざっと数百から数千。
愛すらも直前になるまで気配を感じられなかったほど唐突に、その群れは突如として姿を現したのである。
◆
巨頭オ。
あの『きさらぎ駅』と同様、2000年代に流行したネットロアの代表格。2006年2月22日、インターネット掲示板にて投稿された、とある書き込みが発祥となる。
投稿者は数年前に訪れた、とある山村のことをふと思い出し、急に行きたくなったが為に山奥へ車を走らせた。
しかし村の様子は記憶にあったそれとは一変しており――そこで投稿者を出迎えたものは、『頭がやたら大きい人間のようなもの』だった。
その奇妙な何かは『気持ち悪い動き』で追いかけてきて、投稿者は命からがら逃げ延びたという。
この都市伝説がその名を大きく知らしめた最たる要因にして、怪談としての不気味さをより一層引き立てている大きな鍵となっているものこそ――まさにその『巨頭オ』という文字列そのものにある。
村に近付いた投稿者が見つけた看板、そこに書かれていた『巨頭オ』という謎の文字列。それが果たしてどういう意味を孕んでいるのか、想像の余地を残す不気味さと字面そのもののインパクトが、この都市伝説を有名たらしめていた。
ともすればあまりにも有名過ぎて、その『看板』を見つけてさえしまえばその後の展開も予想出来るため、不用意に近寄ろうとは誰も思わなかっただろう。
しかし今回は、その鍵となる『看板』が見当たらなかった。見落としていたのか、あるいは意図的に隠されていたのか――
いずれにせよ。この物語の登場人物達は意図せず、最悪な形でソレと遭遇してしまったわけである。
◆
「……待って。ちりは?」
誰もがその群れに圧倒される中、九十九だけが真っ先にその姿が見当たらない事に気が付き、慌てて周囲を見渡す。
――が、探すまでもなくそれは見つかった。
九十九の視線の先には、崩壊した空き家の残骸があった。その残骸の中央には、一匹の巨人が佇んでいる。どうやらその巨体で空き家を踏み潰したらしい。先程の轟音はどうやらこの巨人によるものだったようだ。
そしてその巨人の足元で、月の光に反射する――瓦礫の隙間から流れる赤い血に、九十九は気付いたのである。
「あの家は……まさか」
そう、巨人の足元の残骸は間違いなく――土御門とちり、二人が調査の為に入っていた、あの空き家だったのだ。
「…………――――ッ!!」
瞬間、殺意を絞り出したような唸り声と共に、九十九は空を翔けていた。跳躍は突風を巻き起こし、音は遅れてやってくる。それ程の瞬発力をもってして、九十九は巨人と瞬時に肉迫していた。
そして文字通り目にも止まらぬ疾さで繰り出された九十九の拳は、容赦なく巨人の顔面を砕き穿った。九十九に殴られた巨人はその巨体を宙に浮かせ、東の樹海へ目掛け一直線。木々を薙ぎ倒し、他の巨人の群れすらも巻き込んで、吹き飛ばされたのだった。
「ちり……ッ!!」
殴り飛ばした巨人のことなど既に眼中になく、九十九は瓦礫の上に着地するとそのままそれを素手で掘り起こし始めていた。悪魔の腕力で軽々と瓦礫を持ち上げ――そこに埋もれた二つの肉塊を発見する。
それら肉の塊は言うまでもなく人間の死体であり、それぞれが土御門と一ノ瀬ちりの物であることは状況的に見て間違いなかった。
しかし瓦礫と巨人に踏み潰された衝撃によって死体は見るも無惨な姿となっており、外見だけでの判別はおよそ出来なかっただろう。
そんな血の海の中に九十九は躊躇いなく両手を差し出し、二つある死体の内の一つを迷わず選び抱きかかえていた。
「……くそっ……!」
その死体が一ノ瀬ちりの物であることを九十九はひと目見てすぐに解っていた。理解し、抱きかかえた直後、九十九はその場で膝を折り、悔しそうに声を荒げるのだった。
どん、どん、どん、どん、どん、どん、どん、どん、どん、どん、どん、どん、どん、どん。
再び打ち鳴らされる太鼓の音――否、巨人の足音。その場に佇んでいた巨人の群れが、その時突如として一斉に、全員がその場で飛び跳ね始めた。直立不動は崩さぬまま両足で飛び、地面を激しく打ち付けるように着地する。
巨人が一斉にそんなことをし始めた為に、地面は大きく揺れ、無数の足音が凄まじい轟音となる。そして跳躍の度に巨大な頭もまた左右に大きく揺れ、巨人達は隣の者同士で頭を打ち鳴らし合っている。それが更なる騒音を生み、まるで巨人を殴り飛ばした九十九に対する威嚇のようだった。
「ひいいいっ……!?」
視界に映る全てが揺れる。その震動にもはや立っていられず、葉山や蒼井達はその場に蹲り、ただ悲鳴を上げることしか出来ない。
「皆さん、そこでじっとしていてください!」
愛は彼らに声を掛けつつ、自身もまた九十九の傍へと近寄り、その死体を確認した。一瞬顔を顰める愛だったが、すぐまた無表情となり、改めて周囲を見渡し始める。
巨人の群れは山に面した北側を除いて、東西の樹海と正面南の草原を埋め尽くしている。既に集落に侵入し家を踏み潰していたあの一匹を除けば、巨人の群れと集落の間にはまだ距離があった。その距離、およそ10メートル。
しかし巨人は一斉に飛び跳ねながら徐々に集落に向かって近付いて来ているようで、このまま放っておけばどうなるかは火を見るよりも明らかである。
「……後で私が治します。九十九さん、今は――」
「――ああ、わかってる」
愛の呼びかけに応じ、九十九がその場からゆっくりと立ち上がる。ちりの死体を地面に降ろし、空いた両手で拳を作る。その貌から表情は消え、刺すような赤い眼差しは真っ直ぐ巨人の群れへと向けられていた。
「敵だ。殺そう」
「はい。皆殺し、ですね」
愛は西、九十九は東、それぞれ背中合わせに頷き合う。それ以上の言葉は必要無く――少女ふたり、弾けるように飛び出したのだった。