■■地獄 3
「死んでいない? 貴方達、五人共全員……ですか?」
「え、ええ……当たり前でしょう……?」
「怪異としてはまだ一度も死んでいない、とか……そういう話ではなく?」
「……ごめんなさい、本当に何の話……?」
「何って……どういうことですか?」
「だから何が……?」
「……?」
「……??」
考えてみれば確かにそうなのだ。そもそも今居るこの場所が、地獄であるという保証は無い。
「オイ……さっきからその女は何を言ってやがんだ……?」
だったら。そんな場所に居る人間が、必ずしも――
「まさか……自分達は怪異じゃない、生きた人間だとでも言いてェのか……?」
――必ずしも、怪異であるという保証もまた無いのである。
「どうやら……そうみたい、ですね」
「はァ……!?」
しかしその前提は余りにも、愛達にとっては受け入れ難いものだった。
もしも葉山の言葉が本当で――彼らが怪異ではなく、現世の人間なのだとしたら。例えここが地獄だとしても、地獄じゃなかったとしても、どちらにせよこれまでに類を見ない異常事態である。
ならば、まだ騙されていると考えた方がマシなくらいで。少なくとも一ノ瀬ちりは葉山を名乗る女性の言葉を全く信じられないようだった。
「……挑発か? 探りを入れにきてんのか? はたまた狂人の類いか……いずれにせよ、これ以上関わるのは危険だ。怪しすぎるぜ……」
ぼそぼそと愛の傍で囁くちりの声色からは、目の前の異分子に対する明らかな敵意が滲み出ている。
「何を企んでどんな異能を隠し持ってるかも知れねェ。ここは一旦退いて――」
「待って……ここは私に任せてください」
慎重に慎重を期そうとする一ノ瀬ちりだったが――しかしそんな彼女を黄昏愛は咄嗟に制止する。ここにきて愛は冷静かつ大胆だった。ここまでの彼女の旅はイレギュラー続きで、もはやこの手の異常事態には半ば慣れてしまったというのもあるが。
「……葉山さん」
「は、はい……?」
この状況で、黄昏愛が最も優先したもの。それは何よりも――
「私達は地獄の住人です。貴方達とは違って、既に死んでいます」
目の前の相手が自分にとって敵か否か、即ち会話が通じるか否か。それだけである。
「私達は地獄、つまり死後の世界からこの場所にやってきました。けれど貴方達は私達とは違い、生きたままこの場所にやってきた、現世の住人であると。そういう解釈でいいですか?」
黄昏愛は他人を信用しない。それは自他共に認める彼女の性質だ。だからこそ。こういう時の彼女はまず、相手の言葉をとりあえず信じてみることにしている。
矛盾しているようだが、実は意外とそうでもない。信じていないからこそ下手な駆け引き、腹の探り合いなどはしたくない。だから、まずは信じてみる。信じて飛び込んで、相手の嘘を見極める。
実際、黒縄地獄での一件でも。一ノ瀬ちりとシスター・アグネス、どちらの言い分が正しいのか――まずは公平に、両者の裏取りから始めた黄昏愛である。
ともすれば、当たって砕けてもすぐに立ち直れるだけの異能を持つ彼女だからこそ出来るやり方だろう。
「(……敢えてアイツ等の話に乗ってみせるのか。見え透いた罠だからこそ、騙されたフリをして……要するに、メンドクセーからさっさとここでケリつけようってワケだな。コイツらしいっちゃらしいが……)」
愛の場合、裏切られるのが怖いのではなく、むしろ真実を取りこぼす事の方を嫌がる。前に進む為ならば、答えを得る為ならば、見え透いた罠にさえ身を投じる。それが彼女流の猪突猛進だった。
「は……? 地獄って……?」
「地獄は地獄です。この場所がそうなのかはさておいても、本当に貴方達が現世の住人ならどうやってこの場所にやって来れたのか、私はとても気になります。ここまでの経緯を詳しくお伺いしたいのですがよろしいですか?」
「いや……えっと……」
「(なんか開闢王みたいになってんなコイツ……)」
一ノ瀬ちりの場合、永年に渡って地獄という環境に身を置いてきたが故の、獣が如き警戒心が邪魔をして――何よりも裏切られた後のことを真っ先に考えてしまう。
裏切られるくらいなら関わらない。見た目も言葉遣いも好戦的なようでいて、その実意外なほど慎重かつ奥手なのが彼女である。無闇な交戦を避けたがるし、会話すら極力したがらない。
愛とちり、他人を信用出来ないという意味では似ている二人だが、その性質は真逆と言ってよかった。
「(……でもコイツのことだ、相手が嘘をついていると確信したその瞬間にこの場で即殺り合うつもりでいるんだろ。相手の目的も解ってねェのに……大丈夫かよ……)」
内心ハラハラしつつも、ちりはひとまずその成り行きを黙って見守ることにしたのだった。
「もちろんタダで教えてほしいだなんて言いません。情報を交換しましょう。お互い住む世界は違っても、この異常な場所に迷い込んでしまったという境遇は同じ。協力し合えるはずです。ですからまずは落ち着いて、お話をしませんか? ああ申し遅れました、私の名前は――」
「ちょッ……待てよ! 待て待て待てッ!」
しかし愛が話を進めようとしたその矢先、金髪の男性が慌てた様子で運転席から飛び出してくる。トラックのエンジンをかけたまま、ライトの前へその姿を露わにした。
「さっきから何言ってんだお前!? 頭おかしいんか!?」
作業服のようなオレンジ色のつなぎを着たその男は、鋭い目付きを愛に向け――ある意味当然とも言える、抗議の声を荒げるのだった。
「いくらこの場所が異常だからって、それにかこつけて俺らのことを騙そうとしてやがるだろ!? その手には乗らねえぞ! 何が目的なんだお前らッ!?」
「むっ……騙そうとなんかしてません。どうして私の言うことが信じられないんですか? この場所が異常だということは解っているのに」
「当たり前だろ!? そりゃ確かに、この場所は異常だけどよ……でも、全くありえないって話でもない! 例えば……この空間自体が仮想現実で、俺らは変な実験に巻き込まれてこの場所に拉致監禁されたとかさ……! その程度の異常なら、ギリ現実でも起こり得る範疇だ。一応の納得は出来る!」
時代によっては仮想現実なんて珍しくも何とも無いのが現世という世界である。
むしろ地獄を知らない現世の人間からしてみれば、今のこの状況は正しく『事実は小説よりも奇なり』という事なのだろう。
あるいはその考え方自体、現実逃避のそれなのかもしれないが――少なくとも彼らにとってこの場所は異世界ではなく、未だ現実の延長線上にあるらしい。
「だがお前らは違う! 死後の世界? 地獄の住人だと? 流石にありえねえだろ! そんなもん異常ですらねえ、ただの空想だろうが! 納得出来るか!」
だからこの場合、彼らにとって異分子は世界の方ではなく、愛達の方だったのである。
「そもそもッ、お前らどっからどう見てもただの子供じゃねえか! 大人を馬鹿にすんのも大概にしろ! いや……それともやっぱり此処はバーチャルで、その姿はアバターってことか!?」
「……落ち着いてください。私達は――」
「あァそうか……わかったッ、お前らだろ! 俺らをここに閉じ込めた誘拐犯……! 何なんだよッ! 俺らに何させようってんだッ!!」
愛の言い分に耳を傾ける余裕もなく、男は恐怖を振り払うように怒りの感情を前面に押し出してくる。
「誘拐犯……? まじ……ヤバくない? 逃げた方がいいんじゃー……」
「せ、せやねえ……鮫島くん? 葉山ちゃん? そない刺激せんと、一旦離れた方がええんとちゃう……?」
彼のそんな様子に周囲も感化され始めたのか、愛達への警戒が一層高まっていくのを雰囲気からも伝わってくるようだった。
このような状況下で一人でも取り乱せば、恐怖は次々と伝染していく。現実問題としてこれ以上に厄介な事はない。
恐怖は何物にも勝る。全てを台無しにしてしまう力が恐怖にはある。そしてそんな恐怖を必要以上に煽るのはいつだって人間の感情なのだ。
「……………………はぁ」
そんな中、これ見よがしに溜息を漏らす黄昏愛。これだから人間は――とでも言いたげに、鎌首をもたげて。彼女はおもむろに、自身の右手を漆黒の空へと掲げ――
「だったら、これで信じてもらえますか」
瞬間、その右手は巨大な蛸の触手へと変貌を遂げるのだった。
「――――――――……………………えっ」
蛸の触手が少女の右肩から直接生えているという、まさにこの世ならざる光景。上空にうねる冒涜的なその異形を目の当たりにした彼らは絶句し、目を皿のように丸くしていた。
「……九十九、オレ達も……」
「あ、うん。それじゃあ、えっと……」
愛に追随して、ちりもまたその左手から刃の如き赤い爪を瞬時に鋭く伸ばしてみせる。
九十九は少し悩んだ素振りを見せた後、尾骶骨から悪魔の尻尾を生やし、蛇のようにその身に纏わせた。
「……私の名前は黄昏愛。ご覧の通りの怪物ですが、これでも一応は元人間なので、対話が出来るだけの理性は持ち合わせているつもりです。貴方達に危害を加えるつもりはありません」
彼女達が露わにしたその異形の数々は、自分達が死後の世界の怪物であることを証明する為のパフォーマンスとしては、些か過激だった。一周回って悲鳴の一つも上がらない。金髪の男性に至っては先程までの威勢はどこへやら、その場で腰を抜かして尻餅をついている。
「いえ……もうこの際、バーチャルだと思ってくださっても結構ですよ。逆に貴方達が仮想だとしても関係ない。とにかく私達は情報が欲しいだけなんです。もちろん無理にとは言いません、そちらが望まないのなら私達はすぐにこの場から立ち去ります」
まだヒトの名残を遺した左手を、葉山に向かって差し出す愛。握手を求めるように突き出されたそれを、葉山は青ざめた顔のまま見つめている。
「私達もそこまで暇ではないので。……だから、これ以上こちらから譲歩するのは、これが最後です。――お話、しませんか?」
それは愛にとって最後通告でもあった。話の通じない相手にかける情けを、彼女は持ち合わせていない。
別にどっちでも良いのだ。会話を拒むというのなら、お互いにそれ以上の干渉は控えるだけでいい。今更味方なんて必要ない。ただし、敵になるのなら殺す。それだけである。
とは言え、情報が欲しいのもまた事実。故にこれは賭けだった。愛は自身の能力を晒し、目的を伝えた。それ以上出来ることは何も無い。後は彼ら次第である。
「……………………」
しかしその後は誰も、口を開くことすら出来なかった。息を潜めるような静寂が続く。聞こえてくるのは周囲に凛と響く鈴虫の音色だけ。彼らの視線は愛の変化した怪腕に釘付けとなっている。
幸運だったのは、異形と化した愛達の姿を見て、咄嗟に叫び声を上げるようなパニックに陥る者がこの場に居なかったことだ。
否この場合、それどころでは無いと言った方が正しいだろうか。咄嗟に何も出来ないほど、五人の男女は揃ってその場に固まり、絶句していた。
まさに蛇に睨まれた蛙、だが結果として、それが彼らの命を取り留めることに繋がった。
「……皆、待ってくれ。その子の言う通り……一旦落ち着こう」
そしてもうひとつの幸運は、この場において冷静な判断を下せる者に発言権があったという事だろう。
静寂を破るように、軽トラの荷台から一人の男が立ち上がる。つるつるの坊主頭で紺色の浴衣を着た、精悍な面構えのその男は、騒ぎの間も荷台からずっと黙って様子を窺っていた。そんな彼が満を持して、おもむろに声を上げる。
「皆も解っているはずだ。どのみちこのままだと生きて帰れる保証は無い。我々に必要なのもまた、新しい情報……停滞した今の状況を変えられる、劇的な何かだった。それがこうして向こうからやってきたんだ。しかも話し合いが出来るというのなら、こちらとしても望むべくじゃないか」
言いながら、男は荷台から軽やかに飛び降りた。草履で地面を踏み締めながら、男はゆっくりと愛達の方へ近付いていく。
「待ッ……てくれよ、土御門の兄さん……! 信じるのか……!? あんな……わけのわかんねぇ奴らの言う事を……!?」
「落ち着くんだ鮫島くん。確かに彼女の話は突拍子も無いようだが、よくよく聴けば存外筋は通っていたよ。信じる信じないは別としても、彼女自身は理性的だ。言葉を交わす価値はある」
「で、でも……それ……! その女の、手……! 怪物、って……!」
「……我々から何かを一方的に奪うつもりなら、最初から力づくで襲いかかってきているはずだ。怪物だというのなら尚更ね。それをしないで、むしろ彼女達は手の内を曝け出してくれた。これから情報交換をしようという交渉相手としてはむしろ理想的だ」
鮫島と呼ばれた金髪男性は尻餅をついたまま、依然訝しげな表情を浮かべている。
「……それに、我々には時間が無い。もはや手段を選んでいられる状況でもないだろう。確かに博打だが、そう分の悪い賭けではないと私は思う」
狼狽える鮫島に対し、坊主頭の男――土御門は依然、周囲を窘めるように穏やかな口調を続けるのだった。
「……黄昏愛くん、だったかな。情報交換と君は言ったが、我々から提供できる情報はそう多くない。君の期待には応えられないかもしれないが、それでも構わないかい?」
「構いません。貴方達が何者なのか、つまるところ知りたいのはそれだけなので。貴方達だって、私達に聞きたいことがあるでしょう。とは言え、恐らく話し合ったところでお互いにその話を鵜呑みには出来ないと思いますが……ここで対立するより遥かに有意義な時間になるはずです」
「うん……それに関しては私も同意見だ」
愛の言葉に土御門は頷き、背後の軽トラ近くに控えた仲間達の方へゆっくりと振り返る。
「皆、どうだろう。ひとまず腰を落ち着けて話をしてみないか。協力出来るかどうかはその後に検討しよう」
そして、再び訪れる静寂。軽トラ近くに控えている鮫島と葉山、そして荷台に乗っている女性二人、彼らは土御門の言葉に何とも言えない困惑しきった表情で、各々がその顔を見合わせている。
この段階で愛やちりは薄々勘づき始めていたが、どうやらこの異常事態に彼らは愛達以上に混乱し、また疲弊しているようだった。言葉の端々からもそれが伝わってくる。
土御門の口から「博打」という言葉が出たように、リスクを冒してでも怪物を自称するイレギュラーを受け入れる必要が出てきている程に、どうやら彼らの状況は逼迫している様子だった。
「……そう、ね。正直、まだちょっと信じられないけれど……」
やがて意を決したように、葉山がまず沈黙を破る。
「土御門さんの言う通り、私達このままじゃジリ貧だった。今は猫の手も借りたいくらいだし……協力出来るのならそれに越したことはない……のかも」
不安げでありながらも、どこか芯の強さを感じさせられる眼差しが、黄昏愛のそれと交差する。
「……あぁクソ……ここまできたらもう、腹くくるしかねぇかぁ……?」
「せやねえ……少なくとも言葉は通じとるみたいやし……話くらいならええんとちゃう?」
「まぁ……みんながそれでいいならー……」
葉山の一言を皮切りに、彼らは次々と口を開いていった。土御門の呼びかけによって落ち着きを取り戻した彼らは、未だ恐る恐るといった様子ではあるものの、どうやら話し合いは出来そうである。
「やれやれだな……」
「……もう、大丈夫そうだね」
「あァ……もういいだろ」
事の一部始終を見守っていた一ノ瀬ちり、張っていた肩肘をようやく解せた様子で、いつもの如く溜息ひとつ。鋭く伸ばした赤い爪を仕舞い込むように元の長さへと戻していく。それに倣って九十九もまた元の姿へと戻っていった。
「ていうかー……それ、本物ー……?」
しかし落ち着きを取り戻したら取り戻したで、ふとそんな声が上がる。
恐る恐るといった様子で口を開いたブレザーの少女は、軽トラの荷台から依然微動だにせず、黄昏愛の触手を訝しげに見つめていた。
「……触ってみますか?」
「う、いやー……それはちょっと……」
うねうねと触手を動かしてみせる愛に、少女のみならず彼らは露骨に距離を置いているようだった。土御門でさえ愛達に対し意識的に一定の距離を保っている。会話が通じるとはいえ、その異形はやはりすぐには受け入れられない様子である。
「あの……」
そんな中、葉山が小さく挙手をしてみせた。
「私……触ってみても、いいかしら……?」
そうして彼女は、覚悟を決めたようにそんなことを口にしたのだった。背後からはどよめきの声が上がる。
まさに勇気を振り絞ったのだろう、彼女の声は微かに震えていたが――その視線は逸らすことなく、真っ直ぐに愛を捉えていた。
「構いませんよ」
葉山の勇気を汲み取り、愛は努めてゆっくりと触手を葉山の方へと伸ばしてみせる。触手には毒などの余計な機能は追加していない、純粋な蛸のそれである。
蛸の触手はすぐ目の前まで迫ってくると、しかし葉山には触れることなく空中でその動きを停止させた。
「……っ」
息を呑む音が聞こえてくるほど緊張の面持ちで、葉山はそれに恐る恐る手を伸ばしていって――その指先が、触手の先端に一瞬触れる。
「うひゃっ……」
その感触に思わず間抜けな声を上げながら、葉山はすぐに指を離してしまう。
しかしその後、小突くように二度三度と指で触手に触れているうち、ようやく安全であることに確証を持てたのか、今度は掌でさながら握手をするように、触手を握ってみせるのだった。
「……な、なるほど。イリュージョンの類いでは無いわね……確かな生物の感触がある……」
ぐにぐにと触手を握りながら感想を呟く葉山。その光景を仲間達は興味深そうに遠巻きから眺めていたが――
「お、俺も触ってみていいか……!?」
先程まで尻餅をついて怯えていた鮫島が続くように名乗りを上げる。安全だと分かった途端、恐怖よりも好奇心が勝ったのだろう。調子の良いことである。
「まあ、構いませんが……」
愛は左腕を掲げ、それを今度は熊をベースとした毛むくじゃらの怪腕へと変化させる。差し出されたそれを鮫島はおっかなびっくりといった様子で触れ、その筋肉の質感を確かめていく。
「うおっ、本物だ……すげぇ、なんか……まさに異種間交流って感じだな……」
そんな浮かれた鮫島の姿に、ある種緊張が解れたのだろう。荷台でずっと待機していた二人の女性達もようやく地面に足を降ろし始めた。
「え……じゃあ……やっぱり、あたしも触ってみたいんですけど……いいですかー……?」
「あ、ほなうちも~」
「……構いませんが……」
先刻までの一触即発だった雰囲気はどこへやら、あっという間に愛の前に出来た行列。その光景はさながら、握手会のようだった。野次馬根性というやつだろう。人間とはかくも逞しい生き物である。
その一方で好奇の目に晒されている黄昏愛はというと、心底退屈そうな、それでいて不服そうな、気怠げな表情を浮かべていた。それに気付いた一ノ瀬ちり、そっと愛に顔を近付ける。
「……別に、構わないとは言え。赤の他人にべたべたと触られるのはやはり……良い気分にはならないですね。つい毒とか酸とか色々分泌してしまいそう……」
「今更なに言ってんだアホ、我慢しろ……いや、ここまでよく我慢したと褒めてやるべきか。ま、その調子で頼むぜ。親善大使サマ」
「誰がアンバサダーですか……やれやれですね……」
「……ん、ごほん」
囁くようにぼそぼそと言葉を交わす愛とちり。その内容を聞き取れずとも本人達の不満げな表情から諸々察したのか、土御門がわざとらしく咳払いをしてみせた。
「皆、そのくらいにして――」
『くぅ』
土御門が言葉を紡ごうとしていた最中、その間抜けな音は不意に聞こえてきた。音の出処――葉山の腹部に、全員の視線が集まる。
「ご、ごめんなさい……つい……」
腹の虫を抑えきれず、謝る葉山は顔を赤らめていた。その視線の先には蛸の触手――どうやら空腹を刺激されてしまったらしい。
「いや、ちょうどいい。そろそろ昼食の時間だ。情報交換はその後にゆっくりしよう」
「よしきた。俺焚き火の用意するわ」
土御門の提案に待ってましたと言わんばかり、鮫島が真っ先に軽トラの荷台へと向かっていった。そこに飛び乗り、積載していた幾つかの木材を両手に担ぎ始める。
「……昼食?」
そんな土御門の言葉に目敏く違和感を見つけたのは一ノ瀬ちりだった。
「どう見ても夜だろ、今」
それがただの言い間違いなら良かったのだけれど――
「その反応……そうか。やはり君達にとっても、そうなんだね」
土御門は難しそうに唸り声を上げながら、その視線を遙か上空へと移す。
「……私達がこの場所に来てから今日に至るまで、既に四十時間以上が経過している。その間、ずっと……この世界の空は、暗い夜のままなんだよ」
勘弁してくれと項垂れるような土御門の声色に、愛達もまた思わず空を見上げていた。星星の瞬く漆黒の空、雄弁に佇む白い満月が彼女達を照らしている。
「え。つまりここは、夜が明けない世界……ってこと?」
「なるほど、それは……」
「ありえねェ……」
「……これが異常だという認識が君達にも有って、ひとまず安心したよ」
月に見下されながら、彼らは揃って重く溜息を吐くのであった。