■■地獄 2
きさらぎ駅。
2000年代に流行したネットロアの代表格。この都市伝説はインターネット掲示板に投稿された、とある書き込みが発祥となっている。
投稿者は「はすみ」と名乗る女性で、2004年1月8日、23時14分、新浜松駅から遠州鉄道に乗車した彼女は「きさらぎ駅」という見知らぬ無人駅に到着した。
彼女はそこで体験した様々な怪奇現象を、掲示板の住人達に向け実況していたのだが――
9日の3時44分に投稿された書き込みを最後に「はすみ」の実況は途絶え、以後彼女が掲示板に現れることはなかった。
一夜限りの伝説となったその浪漫は、インターネットを中心に爆発的に広まった。その真偽を巡っては様々な憶測が飛び交い、その神秘性に魅了された者達によって語り継がれ、後に多様な二次創作へと発展させた。所謂「異界駅」と呼ばれるジャンルを確立させるまでに至ったのである。
そんな伝説が、今。
「…………まさか」
この物語の登場人物達の前にも、その姿を現したのだ。
改札傍で愛の見つけた鳥居状の看板、その駅名標には確かに「きさらぎ」と書かれていた。「きさらぎ」の文字を中心に、列車の進行方向を示すように描かれた矢印の先には「かたす」、その反対側には「やみ」と小さく記載されている。
黄昏愛は記憶を一部欠損している。そうでなくとも、彼女の浮世離れした性格からして、そういったミームに疎いであろうことは想像に難くない。酩帝街においては図書館にて、足りない知識を書籍によって一部補完することが出来たのは彼女にとって行幸であったと言えよう。
そんな彼女でさえ、図書館で知識を仕入れるより以前から、名前だけは聞いたことがあった程度には――「きさらぎ駅」という存在はインターネットが当たり前のように普及している時代の生まれにとって、有名にも程がありすぎる怪談の一つである。
それを前にして、しかしこの状況。この場においてどういう反応を示すのが正しいのかまるで解らず、愛はその場に立ち尽くすばかりであった。
「……愛? 大丈夫?」
愛の後ろから九十九が心配そうに声を掛ける。再三投げかけられていたそれに、愛はようやく振り返ることが出来た。
「何か気付いたの?」
「気付いた……というか……これ……」
愛が指差す方向に九十九は視線を向け、きさらぎの文字を視界に捉える。けれど九十九はいまいちピンときていない様子で首を傾げている。
「なにこれ?」
「……知らないですか? きさらぎ駅」
「うん……」
九十九の反応に、それもそうか、と愛は一人納得する。九十九はその特殊な出自の関係で現世の知識は殆ど持ち合わせていない。生存に不可欠な情報ならともかく、この手のミームにはやはり疎いようである。
「なるほど……きさらぎ駅、ときたか」
しかし九十九の傍へ歩み寄ってくる一ノ瀬ちりは、その単語に反応を示していた。その首筋には冷えた汗がじわりと滲んでいる。
「あなたは知ってるんですね」
「世代じゃねーけどな。地獄で二百年も過ごしてりゃあ、嫌でもその手の話には詳しくなる」
都市伝説を依代としている怪異にとって、その出典元の情報は重要だ。怪異同士の戦闘では何が決め手となるか解らない。ともすれば相手の出典元を知っているというだけで、そのまま打開策に繋がる場合だってある。
「でもな……正直それどころじゃねえって感じだぜ。なあ、九十九」
「……ああ」
しかし「きさらぎ駅」を前にして、ちりと九十九に限っては言葉通りそれどころではないといった様子だった。二人はおもむろに周囲を見渡し始める。愛もそれに釣られて辺りを見渡し――彼女達の言わんとしていることをすぐに理解する。
「私達が今いるここは、地獄じゃないかもしれない」
表情に乏しい九十九が、珍しくその眉を不安そうに顰めている。その左隣、ちりもまた険しい表情を浮かべていた。
「見ろ――月が白い。木には緑の葉が付いて、地面には草が生い茂っている。そこら中から虫や鳥の鳴き声まで聞こえてくる始末だ」
駅の周辺は月光に照らされてはいるものの、やはり薄暗い。それでも目に入る範囲の全てが、地獄においては異常であった。
白い月も、緑の葉も、草の生い茂る大地も。虫も、鳥も、空に散りばめられた星々さえも、地獄には存在しない。現世の全てが反転したような異世界、それが地獄という場所である。
故に、まるで田舎の風景そのものといった周辺の状況は――これまで出逢った何よりも異常の産物だった。
「目に見えるもの全てが、地獄じゃありえない光景だ。まるで――」
「私達が生きていた頃の世界……現世そのもの、ですか……」
地獄に堕ちてまだ日の浅い愛にはすぐにピンとは来なかったが――その異常性を理解し、密かに身震いする。
「じゃあここは……現世ってこと?」
そして浮かび上がる、当然の疑問。その最たる例を、九十九は思わず口にしていた。
「第四階層ですらない……そんな可能性が……?」
「いや……でもそうか、確かに……別の異世界に迷い込んだって線はある、か……? あるいは……」
「先に出会ったあの『禁后』のように、きさらぎ駅そのものを依代とした怪異が、異能によってこの現象を再現している……?」
「それとも夢か幻か……いずれにせよ、ろくな状況じゃねえのは確かだ」
怪異は都市伝説の擬人化というわけではない。異能の発動条件等、何らかの必要性が生じない限り、自分がどういった出典元を依代にしているかは周囲に悟られないよう隠すのが定石である。
ある種このように解りやすい状況は、意図的に再現しなければ成立し得ない。だからこそ、解りやすいからこその不可解。この状況をどう判断するのが正しいのか、彼女達は頭を悩ませていた。
「……けど、ここがどこで相手が何だろうと、やること自体は変わりません」
そんな状況で、黄昏愛は意を決したように顔を上げる。
「私達はこれまで通り、次の階層へ向かう駅を探しましょう」
黄昏愛の目的は常に明確だ。最優先事項は『あの人』を見つけること。どんな状況下においても、その根底が揺らぐ事だけは決して無い。
ただし留意すべきなのは、ここまでの階層で『あの人』らしき人物の行方は、その手掛かりすらも見つかってはいないということだろう。
あの第三階層、酩帝街にすら居なかったというのが問題だった。であれば、既に出会っているけれど気付けなかった程に変わり果てた姿と化していたのか、そもそもまだ地獄に落ちてきてすらいないのか、いずれにせよ。
愛は無論、余裕があればこの階層でも道中に『あの人』を探してみるつもりではあったが――ここまでくると正直、見つかる可能性は低いだろうとも考えていた。そうなるともう、無間地獄の噂に頼った方が手っ取り早いまである。故に前進あるのみ。その一歩目を躊躇うことはあっても、踏み込まないという選択肢自体は無い。
駅の中、鈴虫の美しい音色に負けないくらい凛と響くその声に、ちりはやれやれと肩を竦めてみせる。
「まあ、ここでうだうだ悩んでても仕方ねえのは確かだな。結局出たとこ勝負……いや、考えてみりゃいつもの事か」
「うん。三人一緒なら大丈夫だよ」
これまでそう言っては何度も酷い目に遭ってきているわけなのだが――それでも「大丈夫」だと未だに強く口にすることの出来る九十九に、思わず愛とちりは顔を見合わせ、その口角を持ち上げていた。
「さて……このまま線路に沿って歩いて行けば、いずれ次の駅には着くかもだが」
ちりの赤い瞳は線路の遥か先、入口を微かな外灯に照らされたトンネルを見据える。現世では見慣れた構造物だが、地獄という状況で見るそれはやはり不気味極まりない。
「元ネタ的には……どうなんだろうなぁ……」
「そもそもあのトンネルを抜けること自体が罠だった説とかありますからね……」
二人して腕を組み唸る愛とちり。
「とりあえず、駅の外に出てみない?」
「……そうですね」
そんな二人に向けた九十九の提案に、愛は逡巡してから頷いてみせた。
「改札を出て、駅の外を探索してみましょうか。何か発見があるかもしれませんし……」
その黒い瞳で、駅から見える景色をフェンス越しに一望する。日本の田舎を彷彿とさせるその風景は、実際に見慣れているものではないにも拘わらずどこか郷愁に駆られるようである。
「……それに正直、この世界がどうなってるのか……純粋な好奇心もあります」
「そう、それ! 私も気になる!」
そうぽつりと呟いた愛の言葉に、九十九の同意はまるで口を衝いて出たようだった。その凪いだような赤い瞳は上空の星々にも似た輝きを放っている。
「ここが現世にそっくりだって聞いて、実はずっとそわそわしてて……こんな状況なのにごめんね」
未知の探求――他人の為に自身を犠牲にしてきた九十九が、初めて他人を顧みず自身の願いに素直になった最初の動機。
そんな彼女が今の状況に戸惑い以上の興奮を覚えるのも無理はなく、他の二人もそれを理解しているからこそ、それ以上の言葉は要らなかった。
「黄昏愛、解ってるとは思うが――」
「もちろんです。常に視覚と聴覚を強化して警戒は怠りませんよ」
「オーケー。んじゃ行くか」
こうして腹を決めた三人は、愛を先頭に改札を抜け、駅小屋から外へと出た。
◆
駅から一歩出てすぐ、まるで草原のように生い茂った獣道が目の前に広がる。道はそれぞれ三つに別れ、その中でも真っ直ぐ続く前方は、他に遮蔽物が殆ど無いのもあって遥か遠くに建つ民家をも見渡せる。規模からして村落のようであった。
左の道に行くとトンネルのある方向で、歩道はそのまま森林に囲まれた山の中に入る。右の道は田畑に囲まれた歩道がずっと続いているが、これもまた途中で山の中に入りその先までは見渡せなかった。
「よく考えてみると……ここがもし現世に近い世界だとするなら、ここの原生生物も現世に近いってことですよね?」
「……ん? まあ……そうなんじゃねえの?」
「ということは……野生動物捕り放題、お肉食べ放題では? 少なくとも野鳥はいそうですし……ごくり」
「おぉ~っ……! それは楽しみだね……! じゅるり……」
「こいつら……」
マイペースな二人に咎めるような視線を向けるちり。そんな視線も他所に、森の中から聞こえてくるフクロウの声にしばし耳を傾け邪な笑みを浮かべていた愛だったが――
「…………ふむ」
不意にぴくりと眉を動かしたかと思えば、やがて背筋をすっと伸ばし、その黒い眼差しを右の道、山の方へと向けるのだった。
「失礼、それどころではなかったですね」
「まったくだぜ。ほら、分かれ道。どっち行くか決めるぞ」
「いえ、それどころでもなく――」
しい、と細い息を吐きながら、唇の前で人差し指を立てる愛。静寂を促すようなその仕草に、ちりは訝しげな表情を浮かべながらも口を閉ざす。
そして、逡巡の後――
「何かが近付いてきています」
その一言で、三人を纏う雰囲気が一気に警戒を高めるのだった。
「……本当だ。何か聞こえる」
愛が異変を察知した直後、九十九も遅れてそれに気が付く。
それは音だった。徐々にこちらに向かって近付いてくるように、音は次第に大きくなっていく。
「でも、これ……何の音だろう」
しかしその音に、九十九はどこか釈然としないような表情を浮かべているのだった。
「聞いたことのない音だ」
奇妙だったのは、それが地獄で二百年過ごしてきた九十九が、その人生で一度たりとも聞いた覚えのない音だったことである。
「……いや待て、この音……」
異音は愛の視線の先、右の道の山奥から聞こえてくる。それがやがて目と鼻の先、普通の人間の耳でも聞こえる程度の距離にまで迫ってきて――
その正体がいよいよ、山奥から彼女達の前にその姿を現した瞬間。
「まさか……ッ!?」
その場にいる誰もが、自分の目を疑った。
九十九がそれに聞き覚えが無かったのも当然である。だってそれは、地獄には本来存在しない物なのだから。しかしちりも、そして愛も、その音には覚えがあった。ありすぎるほどに、それはあまりにも身近なもので――
モーターの駆動する音が夜空に響き渡る。草の生い茂る大地の上をタイヤが駆ける。白い月光の下、同じく白い外装のそれが、前方の暗闇をライトで切り拓くように照らしている。
異音の正体は、軽トラックのエンジン音だった。二人乗り用の座席と、その後ろに運搬用の荷台が搭載されたトラック。それが右の山道から走ってやってくる光景に、愛達は思わず言葉を失っていた。
それは排気ガスを吐き出しながら愛達の手前、駅前へとその車体を乗り上げ、やがて停車する。すると今度は間髪入れず、左側の助手席の窓が下に沈むようにして開かれていって――
「――――クソッ! 電車はもう行っちまったか!?」
「でも、ほら! やっぱり! 来てますよ、新しい人達っ!」
そうして窓から顔を出してきたのは、女性だった。齢は目算にして二十代後半、黒いパンツスーツ姿の、黒髪ショートカット。その女性は駅前に佇む愛達を見て、驚いたように声を上げている。その奥の運転席では金髪の強面男性が何やら声を荒らげていた。
「あらら……今回は女の子が二人……いや三人? これはまた……大変やねえ……」
よく見ると荷台にも人が乗っている。最初に荷台から声を上げたのは、関西圏の訛りがある茶髪の女性。そしてその背後には、黒い長髪の少女と坊主頭の男性が黙って控え、顔だけを覗き込ませていた。
以上、軽トラの座席と荷台にそれぞれ搭乗した、計五人の男女。彼等は突如として、愛達の前に姿を現したのである。
「急にごめんなさいね? 混乱してるとは思うけど……安心して?」
突然の展開に言葉を失っていた愛達に、助手席の女は努めて穏やかな口調で語りかけてきた。しかしその額には汗が見られ、内心では緊張しているのが見て取れる。
「私は、葉山。葉山純子といいます。私達もね、あなた達三人と同じように、電車に乗っていて――気が付いたら、この世界に閉じ込められていたのよ」
葉山と名乗るその女性は言いながらシートベルトを外し、おもむろに助手席の扉を開けた。パンプスで地面を踏みしめながら車から降りてくる葉山に、愛達は無言のまま僅かに後退する。
「そ、そんなに身構えなくても大丈夫よ? 私達は怪しいものじゃないわ……!」
愛達の反応に葉山は心配そうに声を掛けるが、愛達からしてみれば当然の反応だろう。あまりにも怒涛かつ不可解な展開に警戒を解く余裕も無い。
「葉山ちゃあん、落ち着いて。お嬢ちゃん達、怖がっとるみたいよお」
「あっ……そ、そっか。そうよね。ごめんなさい、焦っちゃって……」
荷台から投げかける茶髪女性の言葉に、葉山ははっと我に返ったように、ばつの悪そうな表情を浮かべていた。
「私達もみんな、昨日や一昨日まで普通の暮らしをしていたの。それなのに、気が付いたらこんな場所に居て……あなた達もそうでしょう?」
「……どういうことだ?」
続けざまに紡がれる葉山の不可解な言葉の数々に、とうとう一ノ瀬ちりが声を上げた。葉山との距離を常に一定に保つことを意識して、警戒心を剥き出した赤い瞳で葉山とその後ろの軽トラを睨み付けている。
「私は昨日、この世界にやってきたの。仕事帰りの終電で、ついうたた寝しちゃって……気が付いたら……あの駅に」
葉山の指差す方向、愛達の背後には、あの「きさらぎ駅」がある。口振りからして葉山達もまた、愛達と同じく列車に乗ってこの「きさらぎ駅」に辿り着いたようだが――
そんな説明だけでは到底片付けられない不自然さが言葉の端々から伝わってきて、愛達の表情は見る見る内に険しいものへと変貌していた。
「私達、この世界から脱出する為に協力しているの。良かったらあなた達も……私達と一緒に来ない?」
葉山は努めて穏やかに、声を荒げることもなく、愛達を安心させようと微笑を浮かべている。見るからに敵意は感じられない。しかしだからと言って信用に足るだけの材料もない。
「……オマエら、ここの住人じゃないってことか? どこから来た? 第三階層か、それとも第五階層か?」
意を決して、一ノ瀬ちりは口を開いた。相手が何者だろうと、対話が出来るというのならそれに越したことはない。それに話を聞く限り、彼らの境遇は愛達と大きく差異は無いようでもある。
まずは彼らがどこからどうやってこの第四階層に来ることが出来たのか、ちりにしては珍しく探りを入れることもなく直球に、疑問をぶつけてみることにしたのだった。
だが――
「え……なに? なんて言ったの? 第三……第五……?」
「あ? いやだから……待てよ。テメェ、まさか拷问教會か……それとも羅刹王の手先じゃねェだろうな……」
「ん……んん……?」
ちりの問い掛けに、葉山はまるでピンときていない様子で首を傾げている。
聞き慣れていない単語を突然言われたから脳が咄嗟に認識出来なかったような――いやそれどころか、言葉の意味すらも理解出来ていないような。
「なんか……話、噛み合ってなくない? ……その人達、大丈夫そ?」
荷台に乗っている黒い長髪の少女が、見かねたように口を挟む。ブレザー姿の学生風なその少女は、愛達に向けて訝しげな表情を浮かべていた。
しかしそんな彼女の言う通り、二人の会話は実際全くと言っていいほど噛み合ってはいない。噛み合っていないというのなら目に映る全てがそうではあるのだが。地獄に軽トラなんて存在しない。酩帝街にさえその手の機械的な乗り物は無かったのだ。
いや――そもそもこの場合。きっとそれ以前の問題なのだろう。両者共に、重要な前提を見落としているような。そんな違和感が根底としてあるにも拘わらず、見過ごされているような――
「あの……葉山さん、でしたか」
――その違和感に、黄昏愛は気付く。気付いてしまう
「昨日、列車に乗る前まで……どこで何をしていましたか?」
「えっ……普通に、仕事よ? 静岡県の……まあ、さして大きくもない会社の、事務職だけれど……」
いや、本当はもっと早くに気が付いてはいた。けれどそれこそ、口にするのも憚れるほど不自然な、本来ありえない前提で。
「……葉山さん」
だからこそ、これだけは。聞いておかなければならない。
「貴女の生前の死因を教えてください」
「……何を言っているの? 死因って……私まだ、死んでもいないのに……」




