プロローグ 4
■■■■年 ■■月
白桃色のカーテンを開け放たれた向こう側、青い空の景色から、桜の花びらが舞い込んでくる。ようやく暖房を点けずとも過ごせるようになりつつあった今日此の頃。その日は私にとって特別な一日だった。
「ふふ。どうですか?」
白い壁と木のフローリングに囲まれたリビングの中央、私はその場でくるりと一回転。黒いセーラー服のスカートがふわりと風に舞う。
「ん、似合ってる!」
浮かれている私の姿に『あの人』はにかっと白い歯を見せ、親指を突き立てて見せる。血を啜ったかのように紅く潤ったリップと、鋭く引かれた紫のアイライン。ウェーブがかった黒髪を肩まで伸ばした、私の恋人――
――うん。ちゃんと覚えてる。その顔も、その声も、夢の中ならはっきりと認識していられる。
「ていうか、もうそんな時期なのね~。早いもんだわ」
そう、これは夢だ。欠けてしまった記憶の断片。自力では思い出せない代わり、こうして夢の中でなら、私は『あの人』との思い出を鮮明に振り返ることが出来る。
「……愛? どした~?」
「あっ……いえ、なんでもありません」
急に無言になった私を気遣ってか、不思議そうな顔でこちらを覗き込んでくる。私は慌てて笑顔を取り繕ってみせた。
さて、私がこうして新品のセーラー服に袖を通しているのは、今日が高校の入学式だからである。その登校前の早朝、どうしても着替えた自分の姿を見せたくて、私は無理を言って『あの人』に起きてもらった。
いつもより早く目覚めることになった『あの人』は、せっかくの美しい黒髪を寝癖でボサボサに乱してしまっている。服装も白いシャツに黒い下着一枚のみを身に着けて、いつもの寝起きの姿のままである。
起こした時は「あぶねーっ、愛の晴れ姿見逃すとこだった! 起こしてくれてありがとね!」と言ってくれたけれど、やはり少し申し訳ない。
とは言え、今日ばかりはそんなわがままも許してほしい。だって、今日は記念すべき日なのだ。成長して大人に近付いた、新しい自分の姿を、恋人に見てほしいと想うのは――きっと許されて然るべきなのだから。
「それじゃあ、行ってきますね」
「うん、いってらっしゃい。気をつけてね~」
自分を正当化して、『あの人』に褒められて満足したのち、私はようやくリビングから廊下に出て玄関へと向かっていった。その後ろを『あの人』が付いてくる。見送ってくれるようだ。きっと眠たいはずなのに、本当に優しくて、嬉しい。
玄関の前に整えられたローファーに足先を差し込んで、コンクリートのタイルを踏みしめる。その感触を確かめながら、もう一度だけ『あの人』のいる方へ振り返った。
同じ黒い瞳同士が視線を混じり合わせる。『あの人』はいつものように微笑んでくれて、私もそれに微笑み返して、後ろ髪を引かれる想いを抱きつつも私は真っ直ぐ前を見た。
玄関の厚い扉、その取っ手を左手に握る。鍵は既に開いていて、それを強く捻り押し込むと、容易く扉は開かれた。
他人を信用していない私のことだから、きっと高校に入学したところで、私に友人なんて作れないだろう。でもそれは問題ではない。学校とは勉学に励む場所なのだ。私は勉強する。私は勉強がしたい。私は勉強をして、将来は良い大学に入って、そして、私は――
「……………………え?」
開け放たれた扉、その先へ。一歩踏み出そうとしたその足を――私は思わず、その場に踏み留まらせていた。
だって扉の向こうには、何も無かったのである。
闇だった。黒だった。無だった。まるで玄関から先の空間が、世界から切り離されているかのような、扉の先の景色はそんな漆黒に染まっていた。夜ではない。夜よりも昏い、闇としか言いようがない、そんな虚無の空間だけが広がっていたのである。
「愛?」
その場に立ち尽くす私を心配するような声色で、『あの人』が私の名前を呼ぶ。背後から聞こえてきたその声に、『あの人』を心配させてはいけないと、私は咄嗟に振り返る。
「……………………え」
再び振り返ったその先で、『あの人』は佇んでいる。その姿に間抜けな声を漏らしたのは、私の口だった。そこに佇む『あの人』の顔は、宙を漂う何かに黒く塗り潰されていたのである。
そのことに『あの人』は気付いていないようで、呆然としている私に「どうしたの? 大丈夫?」と変わらず心配の声を掛けてくれていた。それに応じる余裕は、今の私には無い。
『あの人』の顔を覆う、黒い何か。一瞬、クレヨンのようだとも思った。顔だけを黒く塗り潰すそれは、ただそこに浮かんでいる。そしてそれが現れた途端――私は『あの人』の顔を思い出すことが出来なくなっていた。
「あ……ああ……」
これは夢だ。それは間違いない。けれどこんなのはあんまりだ。夢の中とは言えようやく会うことが出来たというのに、どうして邪魔をされなければならないのか。どうしてよりにもよって顔を隠してしまうのか。私はどうして、『あの人』を思い出すことが出来ないのか――
――ぶんぶんぶん。怒りと遣る瀬無さでどうにかなってしまいそうな私の頭の中で、その音は確かに聞こえてきた。
「あ……」
理解した。その黒の正体を。クレヨンのようだと思っていたが、違う。それは、酸化して黒くなった血痕――でもない。
蠅だ。頭の中に響くような、うるさくてうるさくて、たまらない――蠅の羽音。蠅が密集して、黒い霧のように漂って――『あの人』の顔を、覆い隠している。
「やめろ……」
ぶんぶんぶん。蠅が飛び回っている。ぶんぶんぶん。羽音がうるさい。
ぶんぶんぶん。ぶんぶんぶん。ぶんぶぶぶんぶんぶぶぶんぶんんぶぶぶぶぶんぶんぶぶ。
ぶ。ぶぶんぶんんぶぶぶぶんぶん。ぶんぶぶぶんぶんぶん。ぶんぶんぶんんぶぶぶんぶんんぶぶぶんぶぶぶんぶんぶぶぶんぶんんぶぶ縺溘☆縺代※縺サ縺励>縺イ縺ィ繧翫?縺九↑縺励>縺翫↑縺九′縺吶>縺溘>縺溘□縺阪∪縺吶?
「私の邪魔をするなあああああああああああああああああああああああ!!!!」