等活地獄 9
「九十九ーッ!」
その名を呼ばれた当人が顔を上げると。ざくざく砂を蹴り上げて、赤髪の少女――二百年前からの友人、ちりが遠くからこちらへ駆け寄ってきているのに気が付いた。
黄昏愛。そう名乗った少女と別れた三途の河岸にて、芥川九十九は独り。あれからいつまでも其処に居る。気が付いた頃には黄昏愛はもう遥か遠く、どこかへ歩き去った後で。ちりの呼びかけでようやく我に返ったように、九十九はその場から重い腰を持ち上げるのだった。
「ッたく……こんな所にいやがったのか……!」
ちりは河岸で九十九の姿を見つけた瞬間、弾けるように駆け出していた。そんな慌てた様子の彼女を間近で捉え、尚も九十九は不思議そうに首を傾げている。
「……ちり。どうした?」
「どうしたもこうしたもねーよ! 大変なことになってんだぞ……!」
立ち止まり、息を整えて――彼女はどこか慎重に、言葉を選ぶように逡巡する。
「その……十六小地獄の連中と、最近……何か、なかったか?」
九十九の姿を改めて見つめ直し、頭の中で何度も推敲して――ようやく。恐る恐るといった面持ちで、ちりは口を開いた。
「……いや。何かあったのか?」
「怪異殺しの悪魔の噂。聞いたことくらいあるだろ」
「……?」
しかし。ちりの思いとは裏腹に。まるでぴんと来ていない様子の芥川九十九である。その反応に、ちりは面食らったように言葉を詰まらせていた。
「……もしかして本当に知らないのか?」
「うん」
「…………」
ああそうだ、芥川九十九はそういう奴だった――と。でも、それはそれでオレはおまえのことが心配だよ――と。これ以上の言葉は心の中にだけ留め、ちりはこれ見よがしに大きく溜息を吐いてみせる。
しかし呆れながらも、それはどこか安堵しているようだった。
「……まあいいや。小地獄の連中がな、その悪魔とやらに殺られちまったんだよ。それでオレ等に因縁つけてきやがったんだ」
「そうなのか」
「なんでもその悪魔が黒い学生服を着た女だってんで、真っ先にお前が疑われたってわけだ。ッたく、ふざけやがって……」
「そうか。でも、私じゃないな。それは」
九十九に変わった様子は無い。淀みの無い真っ直ぐなその言葉に、その眼差しに、ちりはようやく胸を撫で下ろすことが出来たのだった。
「だよな……! はは……あぁちなみに、九十九はその悪魔になんか心当たりとかないか?」
黒い学生服を着た女。それ自体、特別変わった外見ではない。九十九自身がそうだし、他でも偶に見かける事はある。とは言え、黒い学生服は今となっては『幻葬王』の象徴でもある。それを知っていて、好んで着る者は殆どいない。それが今の地獄の現状である。
「…………」
でも、ゼロじゃない。だから――そう。そうなのだ。あの少女が――黄昏愛が、黒い学生服を着ていたとしても。きっと、何もおかしなことではない――
「…………いや、知らないな」
何故だかは分からない。ただ、それを認めたくないような気がして――この日、この時。芥川九十九は地獄に堕ちてきて初めて――否、産まれて初めて。他人に対し、明確に嘘を吐いたのだった。
「そっかぁ……まぁとにかく、九十九の誤解を解くためにも、そいつを捕まえる必要があるな」
「私のことはいいよ。誤解されるのには慣れてる」
「そういうわけにもいかねェよ。悪魔の野郎、オレらの仲間にまで手ェ出しやがったからな。見つけたらタダじゃおかねェ――」
「…………待て」
しかし。吐いたばかりのその嘘を、彼女はすぐに後悔することとなる。
「誰か、やられたのか」
「ん? あぁ……まぁでも、一応無事に帰ってはきたぜ。五体満足とまではいかないが……知ってるだろ? 普通の怪異は死なない。傷は勝手に治る。ほっときゃそのうち目ェ覚ますさ」
「…………そうか」
九十九はそっと胸を撫で下ろして――後悔した。仲間が傷付けられている。その原因かもしれない違和感を、自分は見過ごそうとしたのだと、気が付いて――途端に、感情がぐちゃぐちゃになっていく。
黄昏愛。彼女のことがやけに気にかかる。恋人の為に自らもまた地獄に堕ちた少女。この地獄で愛を捜し続ける少女。自分が知らない何かを識っている少女。そんな彼女の事が、一目見た時から気になって仕方が無い。
ひょっとすると、これを一目惚れと呼ぶのかもしれなかった。しかし今の九十九には、それを自覚出来る程の情緒を持ち合わせてはいない。
ともかく事実として、無意識にとはいえ、無自覚にとはいえ、芥川九十九は黄昏愛のことを庇おうとした。だが――それはもう、許されない。
何故なら彼女は屑籠を統べる――『幻葬王』、芥川九十九なのだから。
「…………確かめないと」
何が正しくて、何が間違っているのか。誰が敵で、誰が味方か。芥川九十九は、この地獄の王として。裁決を下さなければならない。それが彼女の役割なのだから。
他の何色にも染まらない、純粋であり続けることを願われたその紅い瞳は――自分と同じ赤色の瞳の少女、ちりを真っ直ぐに見据えていた。
「ちり」
九十九に見つめられていることに気が付き、ちりは思わずたじろいだ。心なしかその頬も微かな朱に染まっている。
「お……な、なんだよ」
数秒の沈黙があった。言葉を選ぶように瞬きを二、三した九十九は――しばらくしてようやく、口を開く。
「ちりは、花というものを、知っているか」
「…………え?」
花。そのたった一言、たった一文字を言葉にした直後――ちりの心臓はこれまでになく跳ね上がる。まるで血の流れが無理矢理に塞き止められたかのような、そんな衝撃に息が詰まり、何も考えられない。ただひたすらに、じわりとした悪寒が背筋を走っている。
「……ごめん、ちり。私、嘘吐いてた」
ちりの感じている悪寒、その正体に九十九は気付くこともなく――そもそもそれどころではなく、彼女はその表情を苦々しく歪ませ、そっと目を伏せていた。
「あったんだ。心当たり」
「……は?」
「怪異殺しの悪魔」
端的にそう言って、九十九はおもむろにその場で前屈をし始める。
「……えっ? なッ……ちょ……待てって!」
九十九がその次に取るであろう行動を、長い付き合いから察したちりは、慌てて声を上げていた。
「まだ、遠くには行ってないはず。だから……ちょっと、捜してくる」
「捜すって……犯人をか!? それならオレも――」
「いや。大丈夫」
手を伸ばしかけたちりに対して、九十九の放ったそれは――明確な拒絶。見開かれたその凪いだような赤い瞳は、遥か前方だけを見据えている。
こんな様子の芥川九十九を、ちりは今まで見たことがなかった。その異様の雰囲気に、ちりは伸ばしかけた手を思わず引っ込めてしまう。
「これは、私の責任だから」
九十九がその場で大きく一歩を踏み出した瞬間、川岸の砂利は突風に巻き上げられ、ちりの視界はその衝撃で遮られる。そうして彼女は全てを置き去りにして、瞬く間に駆け出したのだった。
砂煙の中、ちりが再び目を開けた時にはもう既に、遥か前方。遠ざかっていく九十九の背中を、彼女はただ見送ることしか出来なくて――
「……九十九、どうして……どうしてオマエが、花なんて言葉を知ってるんだ?」