後編
「ごちそうさまでした。」
外の冷気が肺に冷たく刺さる。3月とはいえ、まだ寒い。外の空気はまだ冷たかった。
「あ、あの、途中まで送りましょうか?」
「え、えぇ、いいわ。私は大阪市内のホテルだから、タクシーで帰るわ」
「そ、そうですか」
俺は少し残念に思った。
「あなたは?」
「ぼ、僕は阪神電車なんで…それでしたらここで」
「そう、気をつけてね。また、連絡するわ」
「は、はい」
千鶴子さんはタクシーを拾うと、運転手に目的地を告げるのが見えた。タクシーのドアが閉められると、そのまま大阪の大通りに消えていった。俺は彼女が乗ったタクシーが見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
それからの一週間はそれまでが嘘のように順調で、退屈なだけだったはずの仕事すら楽しく感じられるほどだった。毎日、仕事が終わる頃には千鶴子さんからメールが届く。
>お疲れさま。
また絞られたの?
俺は携帯電話のキーを親指で叩く。
>いや、今日は大丈夫でしたよ。
と。生活にこんなに張り合いを感じるのはいつ以来だろうか。もしかしたら初めてのことかもしれない。俺は幾分軽い足取りで会議室から自分のデスクに戻っていった。一歩気を抜けばそのままスキップをしてしまいそうなくらい、俺のテンションも最高潮に達していた、そんなある日、
「おい、遠藤」
「どうしました、高津課長?」
「どないしたんや?最近、やけに機嫌がよさそうやないか。いつも仏頂面のくせに」
「え、そうっスか?」
「そうっスかって…お前、熱でもあんのか?」
「そんなわけないじゃないですか!じゃなきゃ、会社なんて来てませんよ♪」
軽く高津に言い返したら、高津は怪訝な顔をしたまま何も言い返さなかった。嫌味なM字禿げをやりこめたこともあり、俺はますます天にでも舞い上がったような気分だった。今日は週末、1週間ぶりに彼女に会える。仕事が終わる午後6時頃、この1週間と同じように携帯電話のバイブが震えた。名刺サイズのディスプレイに俺の心臓が思わず跳ね上がった。
>福島とかいうところで面白そうなダンスフロアを見つけたの?
一緒に踊らない?
ダンスなんて…俺、踊ったことないぞ?大学では平凡なテニスサークルで、ダンスを踊ったことなどただの一度もない。千鶴子さんからの誘いだとはいえ、俺は戸惑いを隠せないまま、携帯電話のキーを叩いた。
>お誘いありがとうございます。
でも、僕はダンスなんて踊ったことがないのですが…
ピッ、と、送信。しばらくしたらもう返事が返ってきた。マメな人だ。
>大丈夫よ。
私がフォローするから。
阪神電車の福島駅で待ってるわ。
福島までなら俺の定期券の途中の駅だ。どうなることやら、と、思いながらも、俺は阪神電車でその時間最初に出る急行で福島駅まで向かった。俺が梅田駅のホームに到着した頃には急行電車が発車するところだった。俺はダッシュで急行に駆け込んだ。ギリギリセーフだった。息を切らしている間に電車が動き出していた。
現地に到着したのは、7時20分頃だった。千鶴子さんは福島駅の改札で、俺の姿を見つけるやいなや、手を振っていた。
「こっちこっち!」
「すみません、お待たせしてしまって」
「気にしないで。私も今来たところだから。ダンスフロアはここから眼と鼻の先よ」
福島駅のロータリーを抜けてから、少し裏道に入ったところにダンスフロアがあった。18世紀フランスのキャバレーをモチーフにしたというこのダンスフロア。クラブも内包しているという、新しいタイプのものだった。まるでムーラン・ルージュ。
中はまさにあの映画のセットのようだった。薄暗い館内は赤を基調としているのが何となくわかる。フィギュア・スケートでもお馴染みとなった、あのタンゴがそこからとなく聞こえてきそうな雰囲気を演出していた。
目の前でスペイン系のダンサーがタンゴに合わせて踊っている。黒のタキシードに紅い衣装。紅と黒の鮮やかなコントラストが映える、動きやポジショニングの一つ一つが決まっていて、料理のオーダーも忘れて、俺は息を呑んだ。
「ここは結構な老舗でね、料理ではスペインやアルゼンチンの料理が多く出されていて、どれも評判よ。もちろん、日本人にもお馴染みの料理もたくさんあるわ。深夜0時を過ぎてからがお楽しみよ」
「あ、はぁ…詳しいんですね」
「昔、よく通ったのよ」
「あ、恋人、とか、ですか?」
千鶴子さんはそこで顔を少し曇らせた。やばい、まずいことを言っただろうか。俺は慌てて、その場を取り繕おうと必死になった。
「す、すみません…僕、変なことを…」
「いいの、気にしないで」
「そ、そうですか…」
とりあえず安心した俺は、深夜0時からのお楽しみと言うのが気になった。このフロアが30年以上営業してこれたのは、そのためなのだろうか。など、俺はわざと頭の中を忙しく回転させた。その間も出された味の良い牛肉料理などに舌鼓を打ちながら、俺はタンゴ、ジャイヴなどのダンス・パフォーマンスに呑まれていった。
午前0時を過ぎた、夜のフロア。このときを待っていたかといわんばかりのハンターのように、常連達が立ち上がった。
「皆さん、お待たせいたしました。どうぞステージまでお越しください!」
ステージの上には黒いドレスを着た、司会進行の女性。彼女もダンサーのようだ。客全員が笑顔でステージの上に立っていく。その様子がどこか不気味だった。
「さ、行きましょ。これがお楽しみ、よ」
「あ、はぁ…」
彼女に手を引かれ、ステージに立った。初めはどこか怖かったのに、今はまるで別世界に立ったかのように足がふわふわと落ち着かない。
「それでは今日の一曲目です!ご自由な振り付けで踊ってください!」
流れてきたのはABBAの"Gimme! Gimme! Gimme!"俺も10年ほど前に聞いたことのある曲だ。周りを見渡せば、みんなめちゃくちゃな振り付けで踊っている。このフロアでは往年のダンスナンバーを流して自由に踊るのが人気を集めている。なるほど、ディスコのようなものか。言われてみれば、若い男女が多い気がする。
「これが、お楽しみ、ですか?」
「そうよ。私たちも行きましょう」
一度彼女の足が動き出せば、俺も止めることができなかった。
だが、そこは楽園だった。
絡み合う腕と腕。
男と女が自由なステップで踊っている。
陽気なリズムにのって、腕を組んだ俺達は一緒にめちゃくちゃなステップでぐるぐると回転して踊って、回る。
「む、無茶しないでくださいよ!」
踊っている千鶴子さんはめちゃくちゃなステップで踊っている。
「この曲はこれぐらいがちょうどいいのよ!」
慣れた様子で、千鶴子さんはめちゃくちゃなステップでただ回っている。それだけなのに、身体の奥底が熱く燃え上がるような、不思議な感覚にとらわれる。言葉では言いあらわせない、夢を見ているようだ。初めは戸惑い半分、立った俺も、彼女の踊りを見よう見まねで手や足を動かして、踊っている内に理性が異次元に飛んでいく。
最後のBメロから
サビにかけて盛り上がっていく瞬間、
俺はおもむろに彼女を抱き上げた。
足で軽くリズムを取って、
それに乗っかって、
ぐるぐると回った。
楽しそうにはしゃぐ、彼女は彼の首に腕を回し、力を込めた。
彼女は嬉しそうに悲鳴の混じった笑い声をあげて、笑った。
「これくらいで目は回らないわよ!」
彼女は満面の笑顔。
一日中働いている俺には、最高のカンフル剤。
俺の身体の奥から、何かが湧き上がってきて、
抑えきれなくなって、
ただ、その身体を抱きしめた。
互いに踊って、気持ちが高ぶっているのか、
甘い蜜が、
俺の体中を
とろり、
染み渡っていった。
だけど、
どこか、
懐かしい味がする。
「もう一回、踊ろうか?」
彼女は桃色に上気させた頬のまま、頷いた。
軽くストレッチして、
流れてくるミュージカル"MAMMA MIA!"。
一時代を支配したABBAの音楽に乗って、
互いにじゃれあって、
身体を絡ませる。
ダンスと言うより、
子どものお遊戯みたいだけど、
熱く、甘美で、だけど不思議とどこか懐かしくて、
このまま時が止まれば、と、俺はひそかに願った。
「はぁ…」
俺達は熱狂も覚めやらないまま、フロアを後にした。息はあがって、身体はまだ熱い。春先の冷たい空気が肺に心地いい。千鶴子さんは後からやってきた。
「はぁ、楽しかったですね、俺、あんな時間は初めてかも…」
「そう?」
「えぇ」
酒に酔ったわけでもないのに、感情のままに言葉が口をつき、俺は少し饒舌になっていた。しかし、千鶴子さんの顔は何故だか嬉しそうな、寂しそうな、どことつかない複雑な顔をしていた。
「どうしたんっスか?」
千鶴子さんは少しうつむいて、
「ねぇ、この後、ホテルまで来てくれるかしら?」
と、呟いた。
「何ですか?」
「大事な話があるの」
思いつめたような彼女の顔が、頭に焼きついた。冷たい春風がシャツの中を無言で擦り抜けていった。
新大阪のブライトンホテル21階の一室に、彼女は俺を連れてきた。大きな窓から大阪の縦横無尽に広がる夜景が飛び込んでくる。千鶴子さんは夜景を見つめたまま、石像みたいに動きを止めている。
「何ですか?いったい…」
千鶴子さんは窓から夜景を見たまま動かなかった。
「大きく、なったのね…翔太」
「え?」
それまでの彼女から出るような口とは思えなかった。この1週間ほどの間で彼女はどうしたというのか、まったくわからない。戸惑う俺は、恐る恐る彼女の言葉を待った。固唾を呑みながら。
「…え?」
「…ごめんなさい」
「なっ!?」
「幼いあなたを置いて、私は仕事に身を捧げた。あなたが生まれてまもなく、私は産休も全うしないまま仕事に復帰した。私が勤めていたのは、そんな雰囲気の会社だった上、お父さんの治療費を払うのに必死だったから…。あなたのお父さんが死んだのは、それからまもなくよ。そのまま海外赴任となってずっとロンドンにいたの…私は、あの時あなたのそばにいるべきだった。でも私は、あなたを連れていけなかった…!治療費から来る借金を返すのに精一杯だったから…!」
「まさか…!」
薄々感づいていたのだが、それが確信に変わった瞬間だった。これが10年前とかだったら、怒り狂って、彼女を殴っていただろう。しかし、俺の手は拳を作ったものの、そのまま動くのを拒み、その場でどうすることもないまま震えるだけで、それ以上動こうとしない。喉も震えるのを忘れて、すんでのところで何も出てこなくなる。言いたい。この気持ちを何とかして口に出したい。だけど、適切な言葉が浮かんでこない。そんな俺を前にした千鶴子さん、いや、母は力なく俯いていた。その母がなんともいえない雰囲気を誘う。あの時25年ぶりかそこらぶりに俺と再会したのだろう。会社の営業部でプレゼンをする、俺と。
俺は、何を言えばいいのか、わからなかった。わからなかったが、ただ、声もなく涙を流し続ける母に目線を合わせ、そっと抱き寄せていた。俺には、それしかできなかった。だが、それだけでいいような、そんな気がしていた。
「千鶴子…さ、ん…いや、母さん…?」
かろうじて震えた喉は何とか彼女の名を呼んだ。俺は、それ以上、何も言えず、ただ、むせび泣く彼女を見ているのが、精一杯だった。そのまま重い時間が流れ、まるでそのまま止まってしまったかのように、俺達は動かなかった。
俺は、大きく息をついた。息をついて、むせび泣く母親の肩を軽く抱いた。
「なぁ、ゴールデンウィークかそこらで、どこか行かないか?」
「…え!?」
「父さん、故郷、確か沖縄だろ?墓参りもかねて、一度行ってみないか?」
母はぎこちなくも、嬉しそうに、笑った。あのプレゼンの日から俺の知る限り、最高の笑顔だった。
それから、俺達はメールで時々メールのやり取りをしていた。いつの間にか、4月になり、すっかり寒い日はなくなった。そんな中、今度のゴールデンウィーク、久しぶりに母と会うことが決まった。そこで沖縄に旅行することにした。そこで俺は航空券を、母がホテルを担当することになった。俺は、那覇行き飛行機の航空券のチケットを2枚取った。柔らかい春風が俺の立つ、御堂筋を通り抜けていった。
お読みいただき、ありがとうございました。
"MAMMA MIA!"のサウンドトラックを聴いて思いついた作品です。
どうしたらこんな作品になるのか…?そこはつっこまないでやってください。
1ヶ月くらいに渡って練り直しをかけた割には単調で、文章も粗が見える作品となったような気がします。
まだまだ精進しなければ。
これからも頑張りますので、またよろしくお願いします。
では。
西沢恩でした。